興味深い一冊だった。
僅か135ページだが、その文面にはこの日本という国家の長大な叙事詩が、不器用ながらも緊密に編み込まれている。
同時に独自の滑稽な雰囲気があって、それがこの壮大さに直結している(ように見える)ところが特に面白い。その結びつきは荒削りでありながら力強い。
やはり芥川賞作品はこうでなければと考えさせられた。
大阪府茨木市という地域密着型の小説であったため、近畿在住の僕にはその雰囲気がよく掴めた。
よく阪急京都線で通り過ぎている(が、降りたことはない)あの街をイメージすれば良かったのだから。
平坦な建造物が所狭しと建ち並び、その遥か奥には小高い丘のような山々が聳えている、そんな様子を思い浮かべて頂ければ、たぶん間違いはない。
僕はこの作品の登場人物たちより一ヶ月早く2025年大阪万博を訪れ、大屋根リングを巡った。
照り付ける日差しを受けて煌めく広大な屋上の芝生と、涼しい潮の匂いをはらんだ微風が音を立てて吹き過ぎた、あの清涼感。そしてリング内に整然と建ち並ぶパビリオンたち。
あの景色を見るためだけにでも、万博に行った甲斐はあったと、訪れた誰もが思ったのではないだろうか。
この小説は、その雰囲気をそのまま読者に伝えることに成功している。
この本を閉じた時、独特の恍惚感に包まれたのは、きっとあの頃のお祭りの舞台を、作品が追体験させてくれたからに他ならないだろう。
さてここからはその万博の空気と、この国の歴史と伝統を、ほんのちょっとだけ振り返ってみよう。
ネタバレを含みうるので、読みたい方や読んでいる方は、ぜひ終わりまで読んでからまた訪れてほしい。
主人公・早野ひかるにはその場の思い込みや勢いで行動する、いわば直情径行的な部分が明らかにあって、それが終幕の喜劇的な悲劇を生んでしまう。
読み終えたとき、読者は後の展開を明るく期待していていいのやら、絶望するべきなのやら、どっちつかずの悩ましい感情を抱くことになるだろう。
どちらかというと石橋を叩く種類の人間である僕には、早野の直情径行は共感が難しいところがあった。
だがそれを理解しない限りは、この小説を楽しむことは難しい。そこでこの感想では、彼のこの特性とそこから導き出された作品の結末を、少しだけ紐解いてみたい。
思えば早野の『先生』や、空想の中での川又青年との出会い、そしてしおりさんとの出会い(とおそらく別れ)は、すべて彼のこの性質に由来している。
そしてその性質が産み出す喜びや悲しみは、おそらく石橋を叩く人々のそれらより大きく激しく、文字通り『劇的』なものではないだろうか。
それは慎重派には時に滑稽にも映るが、また時として羨ましくも感じるものである。
ともあれ、その勢いに推し進められるままに、しおりさんから離れ、大屋根リングからも離れ、遠く1940年に計画されていた万博で完成する予定だった『肇国記念館』を訪れ、川又青年に再会した早野。
多くの人はそんな早野の幻たちを一笑に伏すだろう。だけどここは彼の身になってじっくりと考えてみよう。
すると、彼にとってはその幻は真実であったことがわかる。
かつて天皇陛下に戦時の労をねぎらって頂きたかったと切望した(叫んだ)川又青年は、幻のような姿となって早野を媒介に、時代を超えて万博という同じ舞台で、その叫びを叶えたのである。
早野はおそらく無意識に、いわば聖となったのである。彼がその奇蹟に感動を認めたか認めなかったかは分からないが、ともあれ一旦動き出した彼の暴走は止まらない。そして、そこからまた一つの破局的余韻が生まれる。
この鈍色の銅鐸の音のような余韻、限りなく広がっていく余韻が、これから彼や彼を取り巻く人々にどのような影響を与えるのかは、きっと誰にもわからない。
次に早野は叫びを発する側になるかもしれない。そして彼の叫びを受け取る人は、そこのあなたかもしれないのだ。
いずれにしても、個人的には著者の畠山丑雄さんは、今後注目していきたい作家の一人になりそうだ。難解な部分も多々あったが、とても面白い読書だった。