あらすじ
その文章、「自分のため」に書いていませんか?
「伝える」ではない、「伝わる」言葉を、文章を生み出すために、小説家はいつも何を考えているのかーー?
『ゲームの王国』『地図と拳』『君のクイズ』『火星の女王』
祝デビュー10周年! 時代を席巻する直木賞作家・小川哲が、「執筆時の思考の過程(=企業秘密)」をおしみなく開陳!
どうやって自分の脳内にあるものを言語化するかを言語化した、目からウロコの思考術!
☆☆☆小説の改稿をめぐる短編「エデンの東」も収録☆☆☆
小説ーーそれは、作者と読者のコミュニケーション。
誰が読むのかを理解すること。相手があなたのことを知らないという前提に立つこと。
抽象化と個別化、情報の順番、「どこに連れていくか」を明らかにする……etc.
小説家が実践する、「技術」ではない、「考え方」の解体新書。
この本を読んだからといって、「小説の書き方」がわかるわけではない。小説家が小説について考えてきたことを人生にどう活かすか、あなた自身で見つけてくれれば言うことはない。ーー小川 哲
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Posted by ブクログ
昔、石原慎太郎が「いまの若い作家連中の作品は実体験に基づいたリアルさがないよね」みたいなニュアンスのコメントをしてるのをニュースでみて、わけもなく苦々しく感じたのが強く印象に残ってるんだけど、こういう新星の作家が堂々と自分の人生経験のなさをあけっぴろげにしてくれるのはある意味マッチョな思考だよなと思う。
要素分解がうますぎて、なんなら逆に小説というものの神秘性が壊れるのではと怖くなってしまった。研究されすぎた対戦ゲーのメタが凝り固まって、同じ戦術しかみなくなる経過を小説という領域で見てるみたいだ。石原慎太郎コメントへのアンチテーゼみたいだな。
ちなみに僕はサイン本に釣られて『君が手にするはずだった〜』を手に取ってハマり、それ以来作家買いしてる人間です。
Posted by ブクログ
小川哲がどういうことを考えて小説を書いているかを知ることができて、とてもおもしろい。
よくある小説の書き方をレクチャーするような本とは、ちょっと趣が違う。
私は小川哲が好きだし、それより前提に文章が上手くなりたいと日頃思っているので、この本は驚いた上に眉唾ものだった。よくある小説の書き方本とは違うが、「小説がどのように成り立っているのか」「どのような小説が評価されて多くの人に読まれるのか」「小説の面白さとは一体何なのか」とか、「小川哲は伏線が嫌いなこと」とか知ることができて、中にはクスッと笑える例文があったりして、小川哲全開でとても良かった!
Posted by ブクログ
しがない二次創作書きがこの感想持つのたいへん僭越ですが、私が二次創作する際にあーだこーだと考えてるけどなかなか実現できないことがだいたいきれいにわかりやすく説明されててたいへん感動しました……
Posted by ブクログ
日頃、小説家がどうやって小説を書いているのか不思議でたまりませんでした。
また、世間で評判となっている小説のはずなのに、途中で挫折し積読になってしまうのも、なぜ??と思っていました。
そういう時は、自分の読解力の無さや、センスの無さが原因ではと自分を責めていました。
でも違いました。
著者と自分の法律が違うだけ。
とても救われました。
Posted by ブクログ
小説に対して、文章を書くことに対して真摯な人だという印象を受けた。作家として売上を意識せざるを得ない中で、小説を通して自分は何ができるのかについて向き合ったからこの本が完成したのかな。
物語に対して警戒心を抱く風潮がある中で、小説の可能性(誤読が生むコミュニケーションからの逸脱と作品の新しい意味や、制作しながら新しい視点や問いを見つけること)を示してくれたのはすごく有益なことだと思う。
小説以外でも人に読んでもらう文章を書くときに参考になる。あと、YouTuberやインフルエンサーがある本の感想を投稿すると、他の人の感想もそれに方向づけされたものが増加する、という指摘にはゾクっとした。他者の意見が無限に見れるからこそ、違う意見を言うのって勇気がいるしどんどん怖くなっていっている。
・見えた世界を抽象化し、別の世界で個別化する
=知らない人や世界、想像できないことを想像するヒント。何が普遍化できて何が普遍化できないのかを意識すべき。
・情報を開示する順番は小説の空間の立ち上げを規定する
・冒頭で行き先を明言し、作品の自己紹介を済ませる
・小説とは内輪であればあるほど面白い。
・小説はコミュニケーションである一方で、読者の誤読によってそこに存在しないはずの意味が呼び起こされることもある
・話の展開を暗示する点で、小説と歴史の教科書は似ている
・アイデアを生むのに必要なのは発想力ではなく視力。書いたものから新しい視点を見つける力。
・小説家の仕事の一つは、偏見から読者を解放すること
↑タワマン文学のズレを感じるのは、逆に読者を偏見に閉じ込めるからではないか?と思った
・小説で得た感動を小説で表現しようとする行為には限界がある
・会話文を実際の会話の劣化にしないやり方は無数にあるはず。小説における景色も内面の描写も、実際の景色や心の動きの劣化版になってはいけない。
・その文は何のために存在しているのか。自分のために存在している文章をすべて消去してみる。
Posted by ブクログ
小川さんの頭の中を垣間見る事ができ、
とても面白かった。抽象化と個別化の考え方や、
情報の圧縮という手段に言語があり、
どういう順番で配置し、どの言葉を選ぶか。
自分の認知を「話」という形式に落とし込む
方法は、小説に限らず、文章を書くこと全般や、プレゼン、営業等、ビジネスのあらゆる場面で
役立つ方法で、それを言語化している小川さんは、流石だなと思った。
Posted by ブクログ
つい先日、時間もあるし小説を書いてみよう!と思い立った。PCを開いて、想像を巡らせて、自分の経験や知識に基づいたシナリオを思いついて、さてどのように書き始めるか。。。で、一行も進まず断念。
小説って難しすぎる。。
と、ど素人ながらに実感した経験もあったところ、本書を見つけ購入。
小説を書くことの難しさを(おこがましくも)体験したうえで、小説家の思考をのぞかせてもらうと、なるほどなぁ〜と(おこがましくも)勉強になる点がたくさんあった。
本書の内容からは書き手の思考を学べるというのはもちろんのこと、一方で読者側が小説に面白みを見出すための思考方法が散りばめられていて、新しい視点をゲットできる点もおすすめポイントだと思う。
著者の意図や工夫を堪能するためにも、小説好きの方にはぜひ読んでいただきたい一冊です。
(また小説チャレンジしようかな〜)
Posted by ブクログ
SNSで流れてきた本書のWeb記事(なのかな)があまりにもよかったので、普段この手の本は読まないにも関わらず読んでみたら、面白くてほんとあっという間に読み終えてしまった。
お気に入りの小説に出会ったとき、ふと、この小説ってどんな風に浮かんで、どうやって生み出したの?なんて考えを巡らせたことは、小説を書きたい人ではなくとも、読書好きならきっと一度や二度はあるはず。そんな疑問に答えてくれる、小説家の頭の中を少しだけ覗き見させてもらえる作品であることはもちろん、小川哲さんの思考プロセス、人間性、物書きとしての姿勢などが伝わってくる一冊でした。
各トピックについて論じるにあたり、決して頭でっかちに小難しく説明したり、こうであるまたはこうあるべきなどと一方的に語ったりされることはなく、一貫して、小説家ならではの表現力や描写力で具体的な話題を振りながら話をされていて、創作論としても非常に読みやすい、示唆に富んだものだと思います。エッセイ感覚でも読めるのでまたしばらくしたら読み返したい。
Posted by ブクログ
芸術創作系の中で、最も知りたかったことが書かれてしまっている名著。
後半で端的に述べられる、表現活動とは何か?と、それに則った小説の技法は、全クリエイター必読かつ即実践すべき内容の嵐(まったくの異分野な私も、今日から早速活用させて頂いている)。
それにしても、著者は何者なのか。小説家の書いた本でありながら、「面白い」の古今東西を専門研究する分析哲学者なんでは?と思えるほど、様々な視点から、小説、いや商業クリエイティブも含むあらゆる表現サービスの所要を解体的に露わにして、その本質を浮かび上がらせてくる。
全くの異分野の人間だが、「ユーザーとは何か?面白いとは何か?」を日々探求しているという意味で同業者な小川さんから、いろいろな教えをこうべく、語らってみたい。それぐらい魅力的な一冊だった。ご馳走様でした。
Posted by ブクログ
全ブクロガーにおすすめしたい!
いや、ごめん言い過ぎたかも
小川哲さん好きな人におすすめしたい!
これだと狭くしすぎか
あ、なんか小川哲さんファンなんかそんないねーよみたいな言い方になってしまった
そんな意図はない
ちなみにわいは小川哲さんコンプリーターなのでね
かなりのファンです
本書は小川哲さんが「面白い小説とは何か」という考察のぐるぐるを詳らかにしていく
ファン心理として頭の中を覗けるのは嬉しい
なのでファンの人は必読
ファンでない人の扱いがムズい
ん〜そうね〜
もうあれ、勝手にすればいい(投げた!)
読むも読まぬも勝手にすればいい
いやでもなんか分かった気になれるよ
これ読んでおくといっぱし感出せるよ
この伝わらない感じは、この本の中身が全く活かされていないことこの上ない
Posted by ブクログ
『直木賞作家・小川哲の小説論』
SF・歴史・エンタメと幅広いジャンルの作品を執筆する直木賞作家・小川哲。本書は一般的な「小説の書き方」の本ではない。小川氏が小説を書く上で大切にしている“ポリシー”や“哲学”といった小説論を包み隠さず綴り、一冊の読み物として集約した作品である。
まず、作家が小説を書く上で頭の中で考えていることを作品にして商業出版すること自体が少ない。それは、真似できるかどうかは別にして、作家にとって開示したくないスキルの核となる部分だからだ。小説家を志望する人にとって、このノウハウは垂涎の的である。創作活動のヒントがゴロゴロと転がっている。小説家志望ではない私のような読書家にとっても、稀有な作品としてとても楽しめた。
一般的な小説の書き方ハウツー本ではないとはいえ、本書は小川氏の金言にあふれている。「読みやすさとは視点人物と読者の情報量の差を最小化すること」、「実際の会話の劣化版になってはいけない」、「小説は作者が何を表現したかではなく読者が何を受け取ったかによって価値が決まる」、「書き手のために存在している文章を徹底的に削る」などなど。こういった感覚を言語化できる表現力が凄まじい。
小川氏は他書でも「自分は小説家にしかなれなかった」というような発言をよくしている。『君が手にするはずだった黄金について』は、まさしくこの“謙遜”をエンタメに昇華した作品だ。しかし、この何気ない日常から小説を探し、文章で表現するという作業はとてつもなく労力を必要とするはずだ。
本書の巻末に収録された短編「エデンの東」は、こちらも“読者にとっての読みやすさ”を皮肉たっぷりにエンタメに昇華した作品である。石川能登地震のチャリティ作品「あえのがたり」ですでに読んでいたが、本書を読んだ後では意味合いが変わってくる。資格も入社試験もない小説家という仕事。たしかに自分で名乗ることでしか表現できない特殊な職業だ。でも、言語化という作業を呼吸をするようにできる小説家・小川哲を、私はやはり尊敬している。
Posted by ブクログ
作者の頭の中をのぞいているような感覚と、学生時代に現代文で先生が言っていた内容の答え合わせみたいな感覚になる。
小説家って感覚で書いてると思っていたけど、全員がそういう訳ではないってこと。日々技を自分のものにし、表現方法を模索している。
音楽家と似ている。
読書に慣れていない人にも読みやすい本と思った。だけど、偏見の例として出てきた検見川サンダルの苦学生のくだりはちょっと無理あると思った。
Posted by ブクログ
小説とは何であって、小説家は何を考えているのか。著者の体験や思考を通じながら小説の面白さとは何かの真髄に迫ってゆく。各所での著者の文学談義に表れていた読者として一流の面が存分に出ており、小説を書きたいと思っている人も、小説を読むのが大好きという人も万人におすすめできる一冊。
Posted by ブクログ
小説の書き方を考える本でありながら、それを突き詰め、ついに小説という側面から見たコミュニケーション一般への見つめ直しに(勝手に)波及していく。面白い小説の話が、面白いとは何か?に変わる。だからこの本は創作論であり、それどころではない。
Posted by ブクログ
小説の書き方とかアイディアの生み出し方とか読者に伝わりやすい文章テクニックとかそういう話ではなく、小説とは何なのか、何のために書くのかについて思考を巡らせたエッセイのような本。
この本を読んで小説を書けるようにはならないけど、書いてみようと挑戦したくはなる。
Posted by ブクログ
物を作る際の参考になる。
・知らない話を自分が知っている世界の内容に抽象化し当てはめ具現化すると説得力のある知らない世界を描ける。
・視点人物と読者の情報量を最小化すると分かりやすい話になる。順番の話。
・小説は内輪であればあるほど面白い。
・小説の骨格が展開を暗示・暗示されていない危害な展開に対する違和感を減らすこと、で成立している。暗示等のない文章は不要。
・小説は問いが大切。書いてみたいこと、考えたいことを深堀る→その中で面白い視点を掴み取る。掘り下げまくって主題やアイデアを見つける。
・書いてしまったことをやってしまったと考えずにそれを活かす展開を考える。
・小説の価値は読者が何を受け取ったかが全て。
Posted by ブクログ
小説に限らず、(他者に読まれることを前提として書かれた)あらゆる文章表現に共通しているのは、その文章に価値があるかどうかを決めるのが「他者」という点である。文章は「他者」のため、より正確に言えば「作品のため」に書かれるべきであって、自分を大きく見せるために書かれるべきではない。文章は「自己表現」であると同時に、「その自己表現に他者がどれだけ感心したか」という側面を持つ。
作者の頭の中にどれだけ壮大なテーマやイメージがあっても、あるいは切実な思いや伝えたいことがあっても、「他者」がその文章にお金や時間を捧げるだけの価値があると判断しなければ意味がない――という当たり前の事実が、小説家としてデビューした僕の前に、非常に大きな壁として立ちはだかった。どうしてそんなことが起こったかというと、ぼくは何か伝えたいメッセージがあったわけでも、どうしても表現したい何かがあったわけでもなく、単に本が好きで、満員電車や無能な上司や理不尽なルールやノリの合わない同期みたいなものが嫌いで、つまり会社に就職せず、極力他者と関わらずに、自分だけの責任で仕事がしたいという一心で小説家になったからだ。別の言い方をすれば、小説家以外になれなかったので、小説家になった。そのせいで、「他者」と関わりたくないから小説を書いたのに、小説を書くためには「他者」のことを考えなければならない。
でも、そんな境遇だからこそ、「そもそも小説ってなんなのだろう」と考える時間が長かったのだと思う。
作者は一人の人間で、作者自身の価値観しか持っていないのに、作品の価値を決めるのは他者である――という「どうしようもなさ」が、小説を書くこと(もしかしたら創作という営為そのもの)の難しさであり、同時に面白さでもある。
小説の技術的な側面とは、(誤解を恐れつつ小声で言うならば)「読者の動物的なバグを利用したハッキング技術」みたいなものだ。
人間は、物事に因果関係を作って理解するようにできている。それはたぶん、そうした方が生存に有利だったからだ。一度腹を壊した食べ物は二度と手をつけなかったり、何度か獲物と遭遇した場所は良好な狩場だと認識したり。
多くの創作術についての本で書かれている「技術」は、人間が物事を理解する上で無意識に行なっている処理の仕方をハックして、物語を心地よく受け取ってもらうためのものだと思う。もちろんそれ自体は小説という娯楽を成立させるために必要だし、ぼくも利用している部分もあるのだけれど、小説の面白さはそんなところにはない。
つまり、この本を読んだからといって、「小説の書き方」がわかるわけではない。というか、万人向けの「小説の書き方」などというものが存在しないことがわかるだけだと思う。もしあなたが小説を書いてみたいのであれば、(どうやって技術的な側面を利用するかも含め)あなただけのやり方を見つけるべきである――という身も蓋もない結論をここで述べてしまう。
では、小説の面白さの本質とは、一個人による偉大で崇高な営為にあるのかというと、そういうわけでもないとも思う。「アイデアが天から降ってきた」とか「登場人物が勝手に会話を始めた」とか、創作の過程において、創造主たる作者は「奇跡」を強調しがちである。しかし、一つの作品を作りだすためには無数の「アイデア」や「登場人物の会話」が必要になるので、「奇跡」に頼って創作をすることはできない。本当の「奇跡」は、作者が作者だけのやり方で、再現性のある形で「奇跡(に見える何か)」を連続して引き起こすことだ。そのために何が必要なのか――そういうことを僕は考え続けたい。
本書を意地悪く説明するなら、「小説家」という「神話」と「小説」という「奇跡」を徹底的に解体するものだ。プロスポーツ選手の美しい身体運動を三次元座標の値に移し替える作業や、「風流」や「粋」という言葉で共有されてきた美しい文化を身も蓋もない言語で説明しようとする野暮な試みに近いだろう。もしかしたら、「そんなことないよ」「こいつは偏った話をしている」と感じる同業者も数多く存在するかもしれない――いや、僕としては、むしろ数多く存在して欲しい。そして、それぞれの作家が、小説が生まれる瞬間の思考の動きを、それぞれの視点から言葉で語ってほしい。僕は、本当の「創作術」はそこからしかないと思っている。
(そして、これは僕のたいしたことない人生経験に基づく意見なのだが)この世の多くの原理は抽象化していくと似た構造に突き当たる。その点で、抽象的な話に終始する本書は、きっとあなたの興味と重なるはずである。
本書を読んで「小説家って別にたいしたことないんだな」と思ってもらえたら、この上ない喜びである。
どうして小説家である僕が門外漢であるベンチャー企業について洞察ができるのかというと、抽象化と個別化を行っているからだ。木村の話を聞いた僕は、ベンチャー企業の構造を抽象化している――企業というものは、誰かにお金を出してもらえれば存続する。その「誰か」というのは、かならずしも消費者であるとは限らない。
もっと抽象化する――何かを生み出す存在(企業)があり、その存在は生きていくためにお金を必要としており、お金を出す存在(投資家、消費者)がいる。
この構造は小説家と同じだ。
僕は抽象化したベンチャー企業の構造を、小説家という世界の中で個別化する。「何かを生み出す存在」とは小説家のことで、「お金を出す存在」とは出版社や読者のことだ。本があまり売れていなくても、仕事が途切れることのない小説家の名前を思い浮かべたりする。過去の自分のことを思い出してみる。
抽象化をして、個別化をする――僕が普段、小説を書くときに行っていることだ。
知らない世界に住んでいる、知らない人の話を小説家は書かなければならない。「書かなければならない」というと実はそんなことはないのだが、書けないと作品の幅は狭くなってしまう。小説を書いたことのない人にとって、一番難しそうに見えるのはこの作業だと思う。自分自身という一つしかないサンプルから、いろいろな人間を書き分けないといけないのだ。
当然だが、人間は知らないことについて書くことはできない。想像できないことを想像することはできない。抽象化と個別化は、知らないことを書く上で、あるいは想像できそうもなかったことを想像していく上で、重要な鍵になる。まず、自分の目でしっかりと世界を見る。見えた世界を抽象化し、別の世界に置き換えて個別化する。
新型コロナウイルスが流行したときに、カミュの『ペスト』が多くの人に読まれた。多くの人に読まれたのは、コロナによって生活を奪われた人々が、『ペスト』という小説と自分たちの置かれた状況を重ね合わせたからだろう。『ペスト』が発表されたのは一九四七年なので、七十年以上前の小説が現代の僕たちの社会を予見していた形になるわけだ。だからカミュはすごかった――という単純な話ではない。
ここで重要なのは、『ペスト』が発表されたのが、一九四七年だという点にある。ヨーロッパや北アフリカでペストが流行したのは十四世紀から十五世紀のことで、つまりカミュはペストの流行から五百年以上経って『ペスト』を書いたことになる。ではなぜ、カミュは『ペスト』を書くことができたのか。この話が発表された一九四七年と言えば、第二次世界大戦が終結してから二年後だ。カミュは、第二次世界大戦下で、ナチスドイツによって占領されたヨーロッパの中に、『ペスト』を見たのだ。戦争も感染症も、どちらも不条理なものだ。罪のない人たちが突然生活を奪われて、逃れる術もなく大切な人が命を落としていく。さまざまな流言が飛び交い、疑心暗鬼になっていく。戦時中にレジスタンスとして活動していたカミュは、戦争を抽象化し、『ペスト』という形で個別化した。だから、五百年以上前に流行した感染症について書くことができた。そしてその小説が、七十年以上経ってから日本で多くの読者を得た。
小説家は、抽象化と個別化を通じて、知らない世界について書く。この抽象化と個別化がうまく働くと、『ペスト』や『一九八四年』や『カラマーゾフの兄弟』のように「普遍性」を獲得することができる。読者が「この小説は私について書かれている」と感じるとき、小説家はあなたのことを知っているわけではなくて、小説家自身のことしかわからない――わからないのだが、自分の体験を抽象化し、抽象化した構造を個別化する作業に成功しているのだ。
冒頭で僕は、存在しない友人の存在しない話を書いた。僕は「小説家という職業の人間がどうやって生活しているか」という「自分が知っている世界」を抽象化し、それをベンチャー企業という「自分が知らない世界」に置き換えて、何となくそれっぽいことを書き並べたわけだ。もし「ベンチャー企業と小説家は同じなんだな」と騙された人がいたら、一度冷静になってほしい。単に僕が小説家の世界しか知らずに書いているので、同じになっているだけなのだ。
とはいえ、きっとベンチャー企業と小説家は同じだ――というか、同じところもあるはずだ。
そうでないと、小説家は小説を書けない。ベンチャー企業だけではなく、フードファイターや社会保険労務士や長距離ドライバーも同じなのだ。どれも人間がやっていることなので、かならず重なるところがある。それと同時に、どれも個別の人間がやっていることなので、絶対に重ならないところもある。何が同じで、何が同じではないか。何が普遍的で、何を普遍化してはいけないか。その点に注意しながら、僕たちは知らない世界について書く。
テレビをつける。誰かが誰かを殺した事件が報道されている。芸能人が不倫をしていたり、最近オープンしたばかりの人気クレープ屋を取材していたりする。僕は、そういった知らない世界で起こった知らない出来事の中に小説を探している。クレープは卵と薄力粉でできているが、小説における卵と薄力粉はなんだろうか――そんなことを考えたり考えなかったりする。
文章には文脈というものがある。それぞれの文章は、前後の文章と(あるいは同一の作品と)繋がっており、文脈は文章から読み取れる内容以上の情報を与える。小説とは、いわば文脈をコントロールする技術でもある。だが、僕がここで問題にしたいのはテキスト化された「文脈」よりも根源的な話だ。まったく同じ「文脈」でも、「誰が」「どこで」「どのように」語っているかで、受け取ることのできる情報の質が変わってくるのだ。
新人賞の応募原稿とは、「突然知らない人から話しかけられる」体験に近い。僕が知っているのは、「この人は『自分の作品を誰かに読んでもらいたい』と思っているのだろう」という程度のことで、作品を通じて誰かを笑わせたいのか、怖がらせたいのか、あるいは簡単に言語化することのできない複雑な感情を抱かせたいのか、そもそも感情などではない、理性的な何かを実現したいのか、そういった哲学や狙いのようなものはわからない。わからないので、作品を読むことで作者の考えを理解しようとしなければならない。
新人賞の応募に限らず、初めての作家の作品に触れるとき、僕たちはその作品が自分をどこへ連れていこうとしているのか、わからないまま読むことが多いと思う。これはデビューしてから知ったことなのだが、行き先の分からない電車に乗っていると多くの人は不安に感じるようだ(僕のように、どこへ向かっているのか自分なりに考えながら読み進めるのが好きな人も存在するが、おそらく多数派ではない)。
だからこそ、本の帯には「全米が泣いた」とか「最後にかならず驚く」とか、そこまで下品でなくとも、「文藝賞受賞作。選考委員の小川哲氏絶賛!」とか「直木賞受賞作」とか「ミステリーランキング三冠」とか「大森望推薦!」とか、なんとなく電車の行き先がわかるような文言が書いてあったりする。
それと同様に、これまで読んだことのある作家の作品であれば、帯の文章にかかわらず、何を狙っているのか、どういう体験を保証してくれるのか、作者と読者が暗黙の契約を結んだ状態から読者がスタートする。ジェフリー・ディーヴァーの本を手にとった読者は、最後にどんでん返しが待っていることや、悪が必ず成敗されることを前提として読書を開始する。三島由紀夫を手にとった読者は、繊細な文体を楽しみながら、作品ごとに設定されたテーマが構造的に深掘りされていくことを期待している。町田康を手にとった読者は、独特な語り口からスラップスティックな笑いと、笑いの先にある悲哀を楽しみにしている。
この暗黙の了解こそが、「作者と読者の関係性」であり、この関係性があるからこそ、本を読む前に、読者が漠然と抱く期待感――それこそが、読者視点におけるその作家の「作家性」と言えるかもしれない。とはいえ、この契約には利点とともに欠点もある。作者自身が、この契約に縛られてしまったり、契約を破ってしまったせいでがっかりされてしまったりする。「最後にかならずどんでん返しがある」という前提で読書をすること自体が読書に余計な傾向性を与えてしまい、読書の本来の楽しみを奪ってしまう可能性もある。
つまり、作者は自分が読者とどのような契約を結んでいるか、という点まで把握した上で、その期待を超える作品を書かなければならない。
新人作家のデビュー作や、初めて自分の本を読んでもらう場合は、予め結んだ契約がない以上、作品の中で契約を結ぶ必要がある。この作品がどこへ向かっていて、読者に何を与えるのかを、(可能な限り)作品の序盤で明らかにした方が、読者のストレスが少なくてすむ。
これはいわゆる「純文学」だとか、「エンタメ」だとか、そういったジャンルと関係のない話だと思う。たとえば文藝賞の最終候補作は、どれも作中で「ここへ向かっている」という方針を明らかにしている作品だった。最終候補を選ぶのが(多くの場合)編集者である以上、「どこへ向かっているのか明らかでない作品」が正当に評価される確率は低くなっていると思う。
<中略>
ここまでの話からわかるように、重要になってくるのは「冒頭」だ。作品の「冒頭」は、その作品がどのような世界を舞台にしているのか、どの程度のリアリティレベルなのか、語り手はどのような人物で、作品はどのように展開していくのか(あるいは展開していかないのか)、という様々な情報を読者と共有する場所になっている。だが、それらの「共有」よりももっと重要なのが、「今からあなたをどこへ連れていくのか」を伝えるという作業だ。作者にはどんな能力があって、これからどういう話をしようとしていて、(大まかでいいので)最終的にどこへ着地するのかを教える必要がある。
たとえば論文では、最初に「要旨」を書く。その論文が何を明らかにするのか。そのためにどういう議論をするのか。それらを明示してから、本論に入っていく。もちろん、小説に「要旨」は必要ないし、書きはじめた時点では作者自身もこれから何が書かれるのかわからない場合もある。とはいえ、これから読まされる作品の「面白さ」がどういう質のものなのか、語り手は笑ってほしくて書いているのか、怒ってほしくて書いているのか、自分が天井のある場所にいるかわからなくなってしまっていることを切実に説明しているのかを伝えなければ、読者は感情を硬直させたまま読み進めなければならなくなる。
多くの読者を獲得することが小説のすべてではない、という事実は大前提として、多くの読者を獲得する小説は、「冒頭」で行き先を明言し、作品の「自己紹介」をすませていることが多い。出版社の営業担当者が腕まくりをして「この本は売りやすい」と口にするのは、そういったタイプの小説だ。当然、市場に出回っている小説の多くもそうなるし、新人賞の最終候補に残るのもそういう小説になる(もちろん、そのことが「望ましい」と思っているわけではない。僕個人は「どこへ向かうのかわからない小説」が好きだ。
僕は読者の感想をよく調べる。感想をまとめたサイトを見たり、SNSで調べたりもする。そのときに「面白かった」や「つまらなかった」や「わからなかった」という具体的な感想よりも重視するのが、読者がどういう人で、何を求めて僕の本を手にとったのか、という点だ。「小説を読む」というのは、一度もあったことのない、顔も知らない相手の話を聞くという非日常的な行為だ。作者だって、一度も会ったことのない読者に向けて話をしなければならない。顔がわからないなりに、どういう人が多いのか、どんな契約を結ばされているのか、可能な限り把握をしなければ、何を語るべきかもわからない。もちろん、僕みたいに臆病な真似はせず、「相手がどんな人であろうと、どうしても話したいことがある」というのなら、そのことについて話せばいい。話せばいいのだが、相手があなたのことを知らない、という前提に立たないと、伝えたいことも伝わらなくなってしまう。
小説の「文脈」は、書かれたテクストにのみ内在するわけではない。作者と読者の関係性が、望むと望まざるにかかわらず、作新の方向性を決めてしまうのだ。
小説とは関係のない仕事をしている友人に「小説にできるアイデアがある」という話をされることがある。多くの場合――というか、僕がこれまで経験した限りでは「すべての場合」なのだが――小説には絶対ならない。問題は、その友人の発想力や人生経験が不足しているわけではないことだ。むしろ僕よりも発想力があったり、能力が高かったりする。人生経験という側面で見れば、まともに社会人として働いたことのない僕なんて、同世代の人々より劣っている。
ではなぜ、彼らの自信満々の「アイデア」が小説にならないのか。意地悪く言い直せば、なぜ彼らのアイデアは詰まらないのか。
大まかにふたつのパターンにわけられる。
一つ目は、専門性が高すぎるからだ。アイデアの面白さを理解するために必要な知識や文脈が多ければ多いほど、小説にするのは難しくなっていく。高いハードルを楽しめる読者ばかりではないのだ。海外文学が苦手な人や、時代小説が苦手な人は「専門性の高さ」を理由にしていることも多い。以前、不動産会社で働いている友人が、「面白い土地の話がある」と言って、アイデアを教えてくれたことがあるのだが、十五分ほど聞いてもその土地がなぜ面白いのか、僕はほとんど理解することができなかった。小説を読む人がみな、日常的に土地の売買をしているわけではない。面白さを理解するために知識が必要だとすれば、その知識を与える手段として小説は相応しくない(もちろん、そのハードルを越えなければ味わうことのできない体験が存在するのも間違いない)。
もう一つは、陳腐すぎるからだ。前者とは逆に専門性を排除して、誰でもわかる話をしようとすると、アイデアは途端に陳腐になる。「日本はこれから〇〇すべき」とか「現代の若者は△△だ」とか、「〇〇」と「△△」にどんな言葉を入れても、ほとんど小説のアイデアにはならない。多くの人が興味を持っていそうな分野に対して自分の意見を言おうとすると、どうやっても陳腐な主張しか出てこない。もちろん、陳腐であっても切実な場合もあるし、陳腐に聞こえる意見が実相を映しだしていることもある。小説は切実さや実相を描くものでもあるので、一概に「陳腐だからダメだ」と言うことはできないが、アイデアとして優れているとは言えないだろう。
小説のアイデアは、専門性が高すぎてもいけないし、かといって陳腐でもいけない――このことをかなりラディカルに換言すると、「一人の人間が机の上で頭を抱えて出すことのできるアイデアなど、面白い小説になりようがない」となる。何か小説を書こうと思う。何を主張する小説を書くか。どんな設定にするか。そんなことを机の上で必死に考えてみても、相当の天才でもない限り、最初から面白いアイデアなど思いつかない。僕だって思いついたことは一度もない。つまり、僕に小説のアイデアを話す友人の根本的な問題は、僕の友人が「一人の人間である」という事実そのものにあるのだ。
(ここから先は、かなり僕の主観が大きくなっていく上に、そもそも僕自身が自分の小説のアイデアに満足しているわけではないので、「答え」ではないことを念頭に置いてもらいたい)。
「ではどうすればいいのか」というと、そもそも順番が違うのではないか、と僕は考えている。「主張」や「設定」から発想しようとすると行き詰まる。なぜなら、一人の人間が発想できるアイデアなど、どこかの誰かにも思いつくことができるし、逆に「自分にしか思いつけないアイデア」を追求しすぎると、どんどん専門性が高くなってしまう。
「主張」や「設定」は後から考えるべきで、最初に考えるべきなのは「書いてみたいこと」や「考えてみたいこと」だと思う。自分が小説という手段を通じて「書いてみたいこと」や「考えてみたいこと」は何なのかを考える。言い換えれば、大事なのは「答え」ではなく「問い」だ。それ自体は陳腐で構わない。その時点で自信がなくてもいいと思う。小説の面白さは、執筆の過程でかならず生まれてくる。創作をする上で気をつけなければならないのは、過程で生まれてきたディテールに宿る「面白さ」の種を逃さないことだ。
という話をしたところで、あまりにも抽象的なので、僕自身の経験を具体的に話してみたい。「七十人の翻訳者たち」という短篇が書かれた詳細な経緯だ。この作品は、「七十人訳聖書」という、現存する最古のギリシア語訳聖書であり、キリストにおける旧約聖書にあたるテキストをめぐる古代ギリシアでの話を、物語を解析する技術が進んだ近未来の話が交差する内容だ(この作品のアイデアが優れているかどうか、という点に目を瞑って読んでください)。
僕はデビューして間もないころ(まだどうやって小説を書けばいいのかわからなかったころ)に、河出書房新社から『NOVA』というアンソロジーの執筆依頼を受けた。以来の内容は「広義のSF」という程度で、厳密な枚数などの制限もなかったと思う。まだほとんど執筆の依頼などなかった時期で、僕は気合を入れて作品を提出したのだが、「まあこの作品でもいいけど、もっと面白いもの書けませんか?」みたいな返事が来た。締切までそれほど時間がないというのに、「ボツ」に近い感想を受け取ったのだった。
やる気満々の新人作家としては、「もっと面白いもの」を再提出したい。でも時間がない。困った。追い込まれた僕は、古代ギリシアの作品を書こうと思った。どうしてそう思ったのかというと、依頼とは別に「プラトンの話を書きたいなあ」と思って資料を取り寄せたことがあり、目の前にそれなりの資料があったことと、いざ書こうとしたときに古代ギリシアのことがわからなすぎたからだ(彼らがどんな服を着てどんな生活をしてどんなものを食べているのか、専門家でもない僕は当然知らなかった)。僕が「わからない」ということは、おそらく大勢の日本人作家もわからないので、少なくとも舞台設定として珍しいものにはなるだろう。とはいえ、それだけでは小説にならない。肝心のアイデアがないからだ。当時、小説の書き方がわからなかった僕は、(実を言うと今でもあまりわかっていないのだが、当時はもっとわかっていなかった)、机の上でアイデアを出そうとして、陳腐なものしか出てこなくて失敗した。とはいえ、締切まで時間がないので、何か書くしかない。その状況が、当時の僕にとってはよかった。僕は「七十人訳聖書って、『七十人訳』の部分の意味がわかんなくて面白いよな」という素朴な感想を頼りに、聖書をめぐる王と学者の問答を書き進めていった。この時点ではまだ、どうやってこの作品をSFにすればいいのかもわかっていなかった。
作品を書いていく中で、「聖書は世界で最も多く発行されている本だ」という知識と「サラブレッドには三代始祖と呼ばれる種牡馬がいて、どんなサラブレッドも父を辿っていくとこの三頭にかならず行き着く」という知識が結びついて、「どんな小説も影響関係を辿っていくと聖書に行き着くのではないか」というアイデアが生まれた。このアイデアを軸に近未来のパートを考え、締切ギリギリで「七十人の翻訳者たち」という作品を提出した。
この作品を書いたことで、「書いてみたいこと」や「考えてみたいこと」が無数に生まれた。「人間には、さまざまな出来事を『物語』として理解しようとする欲求があるのではないか」とか「『物語』とは、偶然の出来事に耐えられなくなった人間が、『神』という超越的な存在を仮定し、すべてを『必然』だと考えようとした結果生まれたのではないか」とか「陰謀論とは、『必然』を求める人間の欲望そのもので、小説家という職業もその欲望を糧に生活しているのではないか」とか、そういったさまざまな小説の種のようなものだ。
小説のアイデアに必要なのは、いわゆる発想力などではなく、偶然目の前に転がってきたアイデアをしっかりと摘みあげる能力なのではないか、と僕は考えている。一人の人間が机の上で考えることには限界があるけれど、執筆の過程にはさまざまな偶然が待ち受けていて、その偶然をきちんと拾いあげれば「一人の人間の脳内」という限界を超えることができる。「七十人の翻訳者たち」の例で言えば、「七十人訳聖書の『七十人』って面白いよな」とか、「聖書って物語界のサンデーサイレンスみたいだよね」といった、執筆中に素朴に考えたことがアイデアの基礎になっていたりするわけだ。
僕が考える「アイデア」は、通常の思考の枠組みからは決して出てこない。世の中にはアイデアを出すためのいろんな方法論が存在しているが、要は「どうやって通常の思考の枠組みの外に出るか」ということについて書かれているのだと思う。
前半で例に出した不動産会社に勤める友人の話を聞いていくと、「面白い土地」の話よりも、彼が無自覚に内面化している「不動産会社の常識」の話の方がずっと面白かった。アイデアの話を終えてから、雑談の中で僕が「不動産投資ってどうなの?」と聞くと、友人は「素人には絶対にオススメしないし、俺自身が絶対にやらない」と言った。彼曰く、投資するだけの価値がある土地や物件は専門家である彼の同僚や同業者が買い占めているので、市場に出回ることはないのだそうだ。個人のアイデアより業界の常識の方が面白かったりするのは、その常識が長い歴史の中で多数の人間によって作りだされたものだからだろう。
小説に限らず、あらゆる創作物は同じ性質を持っている。商業的に成功する人はたぶん二つのパターンしかなくて、「もともと読者(他者)の物差しを内面化している人」か、「なるべく読者(他者)の物差しに合うように、自分の物差しを調整した人」のどちらかだ(実を言うと例外的なパターンとして「業界の特殊な構造とマッチングした人」というものも存在するし、「圧倒的な才能で他者の物差しそのものを変えてしまう」という人も存在するだろう)。
自分の物差しを調整するために必要なのは「分析」だ。今、どういう作品が流行しているか。その作品の何がウケているのか。どういった年代のどういった性質を持つ人に刺さっているのか。市場の大きさはどれくらいで、流行はどれくらい続くのか。そういった要素を抽出していき、自分が真似できるところを探していく――という二流広告マンのマーケティングみたいなことをしてもまったく意味がないので、ぜひやらないでほしい。
「分析」に意味がないのではない。「分析」は非常に難しいのだ。意味(効果)のある「分析」をするのは、面白い小説を書くことよりも難しかったりする。「異世界転生」の設定だけ作って小説を書いたところで、面白い小説にはならない。そんな「分析」なんて誰にでもできるから、他の作者と差がつかない。「なぜ異世界転生が流行っているのか」「異世界転生物の読者は何を求めているのか」という問いから始まり、「そもそも本当に異世界転生ものが流行しているのか」「異世界転生という設定が流行しているのではなく、じつは紋切型化した設定に対するアンチテーゼが流行しているのかもしれない」などと様々な仮説を立てつつ、最終的に「まだ誰も立てたことのない問いを検証する」地点まで到達しなければ、意味のある「分析」にはならない。聞きかじりの知識や情報で「分析」をしても、それは凡庸なアイデアにしかならず、凡庸なアイデアを頼りに小説を書いても誰にも読まれない(ここで言う「分析」は「批評」と読み換えてもいい)。
では「分析」の質を上げるためにどうすればいいのかというと、じつは「作品を発表する」ことが一番の近道なのではないかと思っている。自分で試行錯誤した作品がどのように読まれているか、どういうふうに誤読されて、どういう部分が評価されたか、そういったフィードバックの繰り返しによって、読者(他者)が何を求めているのか、何を煩わしいと感じているのか――が少しずつ見えてくる。小説を書くために必要なのは、価値のある「問い」なのだが、その「問い」を見つけるためにはまず作品を発表する必要がある。
自分という物差ししか持っていないのに、読者(他者)が持っている物差しで価値を決められてしまう。読者の物差しを分析して自分の物差しを調整しようとしても、分析(批評)そのものが難しい。ああ、一体どうすればいいというのだ。
僕が最初に小説を書こうと思ったとき、頼りにしたのは「修士論文を書いた経験」だった。どうして修論の経験を頼りにしたのかと言えば、単にそれまで僕が書いた文章の中で一番分量が多く、かつ一度も会ったことのない人(審査をする教員)に文章を読まれたほとんど唯一の経験だったからだ。
博士課程の先輩の話を聞いて僕なりにまとめたところ、僕がいたコースで修士論文が審査をするために必要なのは、論文内で「まだ誰も知らない情報を提供する」か「まだ誰もやったことのない切り口を提供する」のどちらか(あるいは両方)である。厳密には提出期限や体裁を守っていることや、参考文献や引用の処理を正しく行うこと、読みやすい文章で書くことなど、別の要素も存在しているのだが、要は論文の基本的なルールを守った上で「新しい情報」ないしは「新しい視点」を発見することが、論文としての価値となる。
僕が学んでいた人文学における「新しい情報」とは、未発見の原稿や書簡、全集に入っていない作品などを見つけることだ。「新しい情報」には言うまでもなく非常に価値がある一方で、そもそも研究対象に未発見の原稿が存在するかどうかもわからないし、存在したとしても見つけられるかもわからない。ゆえに、最初から「未発見原稿を見つけるぞ!」という意気込みで研究を始める人はあまりいなくて、多くの場合は後者の「新しい視点」を探したり、検証したりしていく過程で、偶然見つけてしまうことが多い。
「新しい視点」とは何かというと、「〇〇という思想家は一般的に△△という主張をしたとされているが、実は××ということが言いたかったのではないか」とか、「◎◎という作家は●●の影響を受けたと言われているが、□□の影響を大きく受けていたのではないか」とか、そういった「一般的に言われていることを覆す主張」のことだ。この「新しい視点」に面白さや独自性があるか、その上で説得力があるか、そういった点が問われることになる。
僕は初めて小説を書くときに、自身の修論の経験を当てはめた。面白い小説に必要なのは「新しい情報」か「新しい視点」だ。丁寧に言い換えれば、「新しいギミックや新しい形式、文体を見つける」か、「まだ誰もやったことのない視点を見つける」か、そのどちらかということになる。「新しい情報」が難しいとしても、論文と同様に「新しい視点」があれば、ギミックや形式や文体が既存のものでも構わないはずだ。
修論も小説も同じで、最初から「新しい情報(ギミック、形式、文体)を見つけにいこうとすると上手くいかないことが多い。かといって、「新しい視点」も同じで、どちらにせよ発想力やオリジナリティが必要になる――と思うだろう。実はここが落とし穴なのだ。そして、ここが落とし穴であるという直観を、僕は論文執筆の過程で得ていた。「アイデアとは発想力やオリジナリティである」という考えが、そもそも間違っているのだ。
アイデアは生み出すものではなく、見つけるもの――すなわち「視力」である、と僕は考えている。修論を書いていたときも、最初から「新しい視点」などなかった。凡庸な論文をとりあえず書きはじめ、執筆中に自分が「書いてしまったこと」から「新しい視点」を見つけていったというのが正しい。修論を通じて、僕は「書いてしまったこと」の重要さを知っていた。新しさとは「書いてしまったこと」から逆算的に見つける方が簡単だし、理にかなっている。
前回は構想の話をしたので、今回は執筆における具体例を考えてみる。
たとえば小説を書いていて、その中でAという登場人物が「もう出発しんといかん」というセリフを口にしたとする。方言が含まれているのは、Aが愛媛出身であるという設定があるからだ。
小説を何かの媒体で発表したあとに、原稿を読んだ愛媛出身の友人から「俺は『もう出発せんといけん』って言うかなあ。『しんといかん』は言わないかなあ」みたいな指摘を受けたとする。
ああ、ヤバい。方言を間違えるという、非常に失礼なことをしてしまった。どうしよう、と焦りで心がいっぱいになり、続きを書いていてもそのことが気になってしまい、夜も眠れなくなる。どうにかしてその表現を修正できないかを考える――こういったときにかならず必要なのは、まず自分の視野が狭くなっていると自覚することだ。アイデアは「視力」なので、視野狭窄は小説をもっともつまらなく、凡庸にする要因となる。では自分の思考力の邪魔をしているのはなんだろうか、と考える。「愛媛の人に失礼なことをしてしまった」という焦りと、「方言を間違えてはいけない」という常識が原因だ。その二つの要素を外してしまえば問題は解決するはず。
ではどうやってこれらの要素を外すか。ここで、「Aが実は愛媛出身ではなかった」という展開を今後に用意することにする。つまりAは出身地を騙っていたわけだ。そうすれば問題は解決する。では、Aはどうして出身地を騙っていたのだろうか。どういう事情があったのだろうか。そういった話を今後書かなくてはいけないだろう――最初は想定していなかった展開だが、悪くない、そういった「書いてしまったこと」から小説は広がっていくのだ。
じゃあ結局、Aの実際の出身地はどこなのだろうか、と考える上で、自分が書いてしまった「もう出発しんといかん」という方言がどの地方のものなのかを調べる。その結果、損な方言を使う人は「そもそも存在しない」とわかる。ああ、ヤバい。せっかく方言の間違いに理由をつける、という方針が見つかったのに、方言自体が存在しなかったら台無しだ。やっぱり夜も眠れない――となってしまってはいけない。僕の経験上、「ヤバい」ときほどアイデアが誕生するチャンスだ。
冷静になって考えてみれば、Aが「存在しない方言を話している」という事実は非常に面白い。そもそもAは「愛媛出身じゃなかった」だけでなく、「どの地方でも使われていない、存在しない方言を話していた」ことにすればいいのだ。
Aの方言に違和感が発生し、本当の出身地を探すのだが、実はどこの地方の方言でもなかった。いったいAはどこ出身で、何者なのか――という展開が誕生する。こうして、自分の「書いてしまったこと」から、小説のアイデアが生まれるわけだ。この過程で発想力やオリジナリティなどは必要なく、ただ単に面白くなる瞬間を見逃さない「視力」だけが必要となる。
ちなみに「しんといかん」や「せんといけん」などの方言についての記述はこの文章を書くために適当に拵えたものなので、何もかも事実と異なると思います。愛媛の方が実際にどういう表現を使うかはご自身でお調べください。
先日、ある漫画家と話していたとき、その漫画家が「最近自分の作品が、とある人気の考察系YouTubeチャンネルで紹介されて急に売れたんですけど、それ以降の作品の感想が全部そのYouTubeチャンネルで紹介されたままのものになったんですよね」という話をしていた。
この話を「恋愛リアリティーショー」は似ている。ある作品(VTR)があって、その作品を紹介する人物(スタジオのタレント)がいる。人々は、紹介(コメント)の中身を知った上で、作品を楽しんでいる。「考察系YouTubeチャンネル」も「恋愛リアリティーショー」も、一次作品があって、その作品を講評する二次作品がある、という同一の構造を持っているのだ。
なぜそういう構造に需要があるのか、と考えてみる。そこで「そもそも多くの人は『誰かに感想を導いて欲しい』と願っているのではないか」という仮説が立つ。だからこそ、スタジオのタレントが「これは男が悪いよね」と口にしたり、誰かの何気ない言葉に涙を流したり、そういった「方向づけ」が意味を持つのだ。ワイドショーも同様で、ただニュースを報じられても、それをどう受け止めればいいのかわからない。有識者やタレントがニュースに対する「見解」を提示する。視聴者はその見解のどれかを採用しつつ、感想とセットでニュースを楽しむ。バラエティ番組で人工的に笑いを足すのも、結果的に「ここが面白い」という「方向づけ」を与えていることになっている。僕は読み筋や作品の見方を一から考えるのが好きだが、実はその価値観は一般的ではないのかもしれず、多くの人にとって自分なりの感想を持つことは難しかったり退屈だったりハードルが高かったりするのかもしれない。
この構造を小説に置き換えると、「作品(一次作品)」に対する「批評(二次作品)」になるだろう。「批評」は「作品」の読み筋を与えるものだ。その作品をどうやって楽しめばいいのか、ある種の方向づけをしてくれる。とはいえ、現在はほとんど「批評」が機能していない。少なくとも「恋愛リアリティーショー」が実現しているような形で、「作品」とともに「批評」を楽しむ場は見当たらない。見当たらないならどうするか――僕が挑戦してみよう、と思う。
そもそも他人に感想の方向づけを委ねるなんてけしからん」という意見もわかる。わかるけれど、「けしからん」と怒ったところで、「じゃあ明日から全部自分で感想を考えるようにします」と考えを変える人なんていない。小説ゾンビにとって重要なのは、自分の考える「小説」の「総合的なもの」を拡張し、「誰かに感想を導いて欲しい」と考えている読者の立場に立ってみることだ。彼らに別の様相を持った「小説」を見せることができれば、世界全体の小説が拡張する。
数年ぶりに行った飲食店が、以前ほど美味しいと感じられない。そんなときに、「この店も味が落ちたな」と考えるのは自然だろう。でも一歩下がって「自分の味覚が変わっただけかもしれない」とか、「自分が味の変化に追いついていないのかもしれない」とか、「店主が想定する客層に合わなくなったのかもしれない」とか考えることもできるだろう。
僕は小説を書くのが楽しい。なぜ楽しいかというと、小説を書くことで自分の知らない「小説」に出会うことができるかもしれないからだ。もちろん、すべてがうまくいくわけではない。僕の実力が不足していて仮説を検証できる強度の作品が書けていないこともあるし、そもそも仮説が間違っていることもある。とはいえ、まだ誰も立てたことのない仮説の下で書く小説は、作品の出来にかかわらず楽しいものだ――というのが「昔の小川哲のほうがよかった」と語る読者に対する反論だ。
あなたは昔の小川哲が立てた仮説を楽しんでいる――ああ、まだそこなんだね。まあ、君も年を重ねればいずれわかると思うよ。
文学とは、ある人間の認知を言語に圧縮したものである――と雑にまとめてみる。
自らが体験した世界、脳内に生じたイメージ、切実な悩み、突飛な発想やアイデア。そういったものを言語で表現する。もちろん「ある人間の認知」は視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の五感と、五感でも表せない何かを含む。そういったさまざまな情報を取捨選択し、順番を整理し、必要に応じて脚色し、一つの連なったリニアな文章に圧縮する。
小説の面白さは、もともと表現しようと思っていた「ある人間の認知」の質と、それを圧縮する技術の掛け算によって決まる。
「何を描くべきか」というのは「認知」の話で、「どう書くべきか」というのは「技術」の話だ。どれだけ面白い題材と構想が頭の中にあったとしても、それを(赤の他人である)読者に伝える技術がなければ意味がない。逆に、どれだけ技術があったとしても、もともとの題材と構想が凡庸であれば、読み終わったあとに何も残らない。
とある出版社の編集者は「何を書くべきか」は教えることができるが、「どう書くべきか」を教えるのは難しいと言っていて、別の出版社の編集者は逆の主張をしていた。新人賞とは「教えられないもの」を持った作者を見つける場だ。彼等の主張を裏付けるように、前者の出版社からデビューする新人は文章が上手く、後者の出版社からデビューする新人はアイデアやテーマが面白い。
僕はどちらも(同程度に)成長する余地があると思っている。大事なのは、自分に何が足りないかを自覚し、適切な課題を設定することだ(本書も、すべて「何を書くべきか」か「どう書くべきか」のどちらかの話をしているはずだ)。
これは文学に限った話ではないと思う。あらゆる表現活動は、「ある人間の認知」を、なんらかの手段で圧縮したものだ。何を圧縮したか。そしてどう圧縮したか。その二つの質によって、表現の質が決まる。
人間が芸術に感動するのは、圧縮された作品を解凍して、根本に存在したはずの「ある人の認知」を受容するからだと思っている(もちろん例外もあるだろう)。僕がAIによる表現活動にそこまで悲観しないのは、AIには解凍した先の「ある人の認知」、加えてその先に広がっている「世界」が存在していないからだ。出力された作品の質でAIが人間と肩を並べ、あるいは先行していく未来は遠くない将来に生じると感じているが、作品から世界に接続していく過程には、現実世界を生きてきた人間の持つ強さが残っている。ゴッホの絵を飾りたい人はいても、AIが描いたゴッホ風の絵を飾りたい人はあまりいないだろう。
「コミュニケーション」の手段として、ほとんどの人は「会話」に多くの時間を費やしてきたと思う。情報の圧縮に言語という手段を用いるという点で、以前にも述べたように、「文章を書くこと」と「誰かに向かって話をすること」は似ている。あらゆる認知の中から「伝えたい内容」を見つけ、どの情報をどういう順番で配置するか、どういう言葉を選ぶかを考える。相手は何を知っていて何を知らないか、何に興味があって何に興味がないかを考える。そうして、自分の認知を「話」という形式に落とし込んでいく。
作品を届けたい相手に対して、「過不足なく伝わるように(なるべく正確に)」、「無駄な時間を取らせないように(なるべく端的に)」、そして可能であれば「相手が自分に対して一切興味がないという前提で(なるべく相手のことを考えて)」、自分の話をする――というのが、「自分の言葉」と「自分のやり方」を見つけるための一つの手段になると思う。知識をひけらかしたり、(明確な意図なく)難しい表現を使ったり、他人にとって無価値なこだわりを貫いたり、必要以上に時系列を操作したり、メタ構造を多用したり、自らの主張を前面に出したり――つまり「この人の話は難解だな、退屈だな、不愉快だな」という不快感を他者が抱く要因になり得ることには、十分に気をつけなければならない。
「十分に気をつけなければならない」と書いたのは、決して「ダメだ」というわけではないからだ。ダメな小説とは、「つまらない」小説のことで、難解さや退屈さや不愉快さを「つまらない」と結びつける読者は僕が思っていた以上に多いけれど、とはいえそう考えない人もいて、そういった人々に作品を届けたいという意図があるのならば、難解さや退屈さや不愉快さを恐れる必要はない。大事なのは「誰に届けたいか」、つまり「誰に話を聞いてほしいのか」を意識して、その「誰か」に正確に届くためのやり方を模索することだと思う。
小説をある種の言語芸術であると見なすと、その価値はどのように判断されているのだろうか。
僕たち小説家が客観的に手にしている指標はたった一つ――「部数」だけだ。
では、すべての小説家やすべての編集者が、「部数」を増やすことだけを考えて出版事業をしているかというと、そういうわけでもないと思う。
僕はそこに、「芸術」として小説を見たときに生まれる矛盾が隠されているような気がしている。僕たちは、平凡な日常に飽き飽きした人を感動させたり、世界に絶望した人にメッセージを届けたり、傷ついている人に「君だけじゃない」と声をかけたり、言葉にすることができなかったモヤモヤに形を与えたり、今から飛行機に乗る人にその時間を楽しく過ごしてもらったり、つまり本を手にした人に何かを与えたいと思って小説を書いている。届けたい人もバラバラだし、届いた人が何を感じるかもバラバラなのに、「本」という規格に収まった瞬間、バラバラだったものが画一化された商品として処理されてしまう――驚くべきことに、本の値段は製作コストによって、つまり紙の値段や製本費用などによって決まるのだ。そして、その値段に部数と印税の比率を掛け合わせたものが、著者の印税収入となる。あなたの人生を劇的に変えた本も、途中で飽きて本棚に眠っている本も、製作コストに応じたお金が著者の手元に入ってくるという点では平等に扱われてしまっている。
そのせいで小説家は、芸術家としての振る舞いと、商売人としての振る舞いの両方を求められている。僕が本書で「小説はコミュニケーションだ」と繰り返していたのは、小説を書くときに「この話はどれだけの数の人に伝わるか」ということを常に意識せざるを得ないからだ。自分にとってどれだけ価値のある話であったとしても、そしてそれが自分の信じる芸術の本質であったとしても、小説を商品として見た場合に、一定の需要がなければ出版することができない。
芸術作品は、その中身によって値段が決まるべきだと思う。絵画や彫刻はそうやって値段が決まっているはずで、使った絵の具の価格や石材のコストは値段とあまり関係がない。製作コストによって自動的に定価が決定する小説は、本来の意味で「芸術作品」であることが許されていない気がしている。世界にたった一人でも、その作品に深く感動した人が値付けをする仕組みがあれば、人間の動物的欲求を利用した様々な技術を駆使した「とにかく先が気になる」とか「ストレスなく読み進めることができる」タイプの作品ばかりがお金を生む状況にはならなかったかもしれない。
しかし現実として、そんな仕組みはないし、そういった技術を用いずに小説家として生計を立てるのはきわめて困難だ。
一般的な「創作術」についての本に書かれているような、その技術を適切に用いて読者の欲望を満たす作品にも価値はあると思うけれど、市場がそればかりになってしまうのは残念だ。読者の欲望そのものを変質させ、読む前と読んだ後で世界が違って見えるような、読者の価値観そのものに関与するだけのコミュニケーションに成功する本がたくさん生まれてほしいと思っている。だからこそせめて、あなたの頭の中にあるイメージを求めている人が一万人いるなら、その一万人に正確に伝わる文章を書いてほしい、と思う。
Posted by ブクログ
小説というものについてのエッセイ集。
自分は小説、そして執筆にも興味があったのでとても面白かったが、これが刺さる層はどれだけいるのだろうとも思った。
そんな読者層の話も書かれている。
情報の順番、という考え方は全く意識したことがなかったので目から鱗だった。
巻末に収録されている小説が、それまでの内容を踏まえた話になっていてすごい。
Posted by ブクログ
小川哲さんの思考が言語化されていて面白かった〜。面白い小説って何なのだろうか、と改めて考えさせられるけど、やっぱりその答えは出ないし、永遠の問いなんだな〜ともやはり改めて思わせてくれる一冊です。設定だけが奇抜で中身はペラペラな読みやすくてバズる小説はおそらくすぐ書けるだろうけど、そうはしないであれやこれやと試行錯誤して小説を書くのを楽しんでるところが小川さんの頭の良さをまた改めて感じました。
Posted by ブクログ
小説のみならず、その読書論も面白かった!の本作。そんな数を読んだ訳じゃないからイメージだけど、”誰でもコツさえわかれば”みたいな論旨で書かれることが多い気がするんだけど、本書はひとまず、その思想からは距離が置かれている。”小説が書けない友人”っていう風に近場の出来事として書かれてはいるけど、これすなわち、その他大勢と置き換えは可能。執筆時の思考回路を言語化することで、作家自身のヴィジョンもクリアになったと推察するけど、読者としても、読み方指南というより、読むときの思考過程を探るような、得難い体験が出来る。
Posted by ブクログ
地味に、面白かった。
小説法、、、評価関数、、、なるほど!とうなる場面が複数。
カラオケボックス以来の幼馴染みとの再会や、マッチングアプリで口説いている最中の女の子と会社の面接で鉢合わせ、、、など、臨場感のある文章をいとも簡単に書き、解説する小川さんは、天才だなぁと思った。
伏線についての解説も秀逸!小川さんは伏線という言葉が嫌いだからこそ、「伏線学」として定義を明確にしている。本当に賢い人だ。
Posted by ブクログ
なるほどあの小説たちはこのように生まれるのですね。
センスだけにあらず、読み手を考慮した緻密な計算がある。
昔、ビートたけしがお笑いについてまじめな話をしていたのを思い出します。
巻末に、それまで論じたことわかりやすく説明するかのごとくの小説も掲載されているのがいいですね。
Posted by ブクログ
君のクイズを読んでずっと気になってた小川哲さんの本。著者の言うとおり、「小説の書き方」ではないけど、ものすごく鮮明に小説家頭の中を見せてもらってる感覚になって、驚きと感動と尊敬とが入り混じる本でした。
本を書く時にそこまで考えてるのかという発見はもちろんたくさんあったけど、今後私が本を読む上でもっと楽しめるわ〜と思える考え方をたくさん手に入れた気がする。
小川さんが好きな人も、小説家を目指す人も、小説が好きな人も、誰が読んでも面白い一冊でした!!!
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非常に世評が高いけれど、どうも自分には合わない小説があるー読書を続けていれば、誰しも一度ならず経験したことがあると思う。そういうときは、自分の小説法と著者の(加えて、その著者のことが好きな読者の)小説法が違っていることが多い。
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Posted by ブクログ
直木賞受賞以降であるが、近年、著者作品は比較的読んでいるほうだ。
なので、本書の主張は、わりとストンと腹落ちする。とにかく、よく考え、試行錯誤をして作品を生み出している作家さんだということはよくわかる。作品を読んでいてもそう思うが、それを「言語化」して述べてくれているので尚のこと。
(この「言語化」という表現は、昨今の流行なので、売らんが為の策略が透けてみえて、どうかと思うが)
本書は、世にあまた存在する小説の書き方指南書とは一線を画す。お作法、文章術ではなく、タイトルにあるように、いかに思考し、小説のタネを見つけ、それを作品として昇華させるかの端緒が語られている。
いわゆるお作法的なことは、「法律」と称し、なかば揶揄しているところも面白い。
「全体の傾向として「わかりやすい物語を書く」ことを重視する人はやはり多くて、ストーリーと設定に関する法律が数多く定められている。」
曰く、「ご都合主義」関連法、クリシェ使用罪といった書き方で、それを以って、作品の批評、読後感を語るのは本質ではない、ということだ。
作る側もそれに囚われることもないというか、法律に触れないようにすること、つまり、作者都合の展開の回避、常套句の濫用などを戒めて書くのは基本中の基本ということの裏返しでもあろうか。
出版社の営業担当が腕まくりをして売りたい、と思う本はいかなるものか、「答え」ではなく「問い」が重要と、大切な教えが並ぶ。読み手を意識し「情報の順番」を考えるという教えには、大いに目を開かされた気分だ。
「「作者が何を表現したか」ではなく「読者が何を受け取ったか」によって価値が決まる。」
御意!!
Posted by ブクログ
読んでみて序盤から驚きの連続でした。
本当に1番最初ですが、「小説法」。
だから自分と他者が面白いという本は違うのか……!と心底驚きました。
私の小説法を考えてみると
・共感できる登場人物がいる
・オチがある
・世界観が作り込まれている
・救いがあること
・生理的に嫌悪感を抱くシーンがないこと
・やたらめったら登場人物を増やさない
(これはいわゆるモブキャラなのに名前がついている状態のこと。人物相関図にも載らないような関係性で作中数度でるかでないかなのに、名前がついててややこしい。人物相関図を見ても載っていなくて誰だっけ?な人がいないこと)
でした。
何度も賞を受賞されるような作家で、
この作品いいよ!とおすすめされて読んでも自分の心に響かない理由が言語化されてこういうことか……と心底納得しているところです。
小説を書く人も読む人も、1度読むの自分の小説法に気づいて今後の読書ライフが快適になるなと思いました。
他にも「言語化するための小説思考」を読み、それを踏まえて最後、「エデンの東」を読む。
すると、ああそういうことか…!わかりやすさ、読者のため、はこういうことか、と心の底から理解できました。
改めて、読者をもてなすために試行錯誤して小説を書いてくださっている作家の皆様に感謝したいです。
Posted by ブクログ
やっぱり小川さんは面白いです。小川さんの頭の中をのぞいている感じで、こういうことを考えて日々創作しているんだと興味深かったです。9.アイデアの見つけ方の美容院と便所スリッパのくだりは思わず笑いました。ご本人も、東大卒、とにかく頭のいい人なんだなという感じで、話も面白いし、若干こじらせてもいるし、これからも小川さんの作品には注目したいと思います。楽しかった!
Posted by ブクログ
読みやすく、面白かった。
でもやっぱりこういうビジネス書チックな本は苦手だということもわかった。
48 僕たちが世界を認知するとき、それらすべての情報が一度にやってくる。僕の脳には一度にやってくるのに、文章で表現するときは順番に描いていかなければならない。
視覚、聴覚、嗅覚などの五感、それに加えて頭の中で考えたことや、過去の思い出などを、すべて同じ次元でリニアに、一次元的に表現しなければならないのが小説という表現技法だ。
Posted by ブクログ
推理小説などを読む時、どこから考えてるんだろうと不思議でしたが人によるとはいえ作家さんたちがこんな風に考えて作品を作っているんだということがわかり、面白かった。
そして相当頭がいいんだということも。
商業作家として作品を生み出し続ける為には小川さんのように読者と作家の距離感を考えながら描かなきゃいけないのかと。
大変なお仕事ですね…。
と同時に、私たちの感想も作者の意図しない捉え方をされているかもしれない…という誤読の答え合わせをするためにも大事なんだと気付かされました。
これからはありきたりな感想じゃなく、私が感じた、作者に届ける感想、次の読者に向けた感想を書くことを頑張ってみようと思う。