小説・文芸の高評価レビュー
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「読書と労働」について、読前は、「働き始めたら、読書時間が減ったなぁ」「今までと読む本のジャンルが変わって自己啓発本に偏っているなぁ」と漠然と頭に浮かんでいました。
読後は、「なぜはたらいていると本が読めなくなるのか」その理由が腹落ちした。
現代の自己啓発本は、ノイズ(歴史や他作品の文脈、想定していない展開)を排除して、労働にとって必要な情報を与える本が売れていると筆者は述べている。
→引用(「ファスト教養」はまさに【ノイズを除去した情報】としての教養のこと)P224
しかし筆者は、読書の意義を(自分から遠く離れた文脈に触れること)P234と述べていて、私も強く共感した。
新しい文脈を受け入れる「余白」が働いている自分に無かったのだと気付かされた。
また自己啓発本の源流が,明治〜大正〜昭和と変遷していき、ベストセラーになった訳を筆者が解説する章を読むと、自分も親の影響で大学の通学電車で、司馬遼太郎を手に取っていた一人で、過去の読書体験を回想することもできた。まさにこのような過去の文脈を想起してくれる心地良い読後感の良書でした。 -
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原口統三「二十歳のエチュード」
長沢延子「友よ私が死んだからとて」
自殺というものが、一種の病気だとすれば、この病気は伝染する。言葉が病気を伝える。
ボーイミーツガール
生きようとする15歳
生きることができない15歳
生きる意味を問う15歳
何も手につかない時にフーガを弾きたくなる気持ちはわかる気がする。機械的な繰り返し。
ベートーヴェン ピアノソナタ第15番
第二楽章の二拍子を心臓の鼓動に喩える。
気管切開の選択、目で話せる子。生きようともがく15歳。
故人を想うことができるのは生者だけ。これは生きる意味になりうる。
人生の意味を見いだせず、人はどうせ死ぬという自殺者の言葉が心の支えだった少年。
人は次々死んでいく。夢は一つ一つ消えていく。という父の言葉。 -
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名作。かなり現実的な問題が描かれている。
実在する医師が書いた医療記録のような読ませ方をしてくるので、あれ?これノンフィクションだったっけ?モデルになった事件があるのかな?実際の医療現場で起こってたりするのかな?と、読んでいるうちに混乱させられる。そのドキュメンタリーっぽい書き方がおもしろくて、熱中しました。
私は少数派で物事に取り組み、考え、自分の内面ととことん向き合うことができる人をリスペクトしてしまうので、終始、漆原先生の肩を持つ派で読んでいた。
その処置をすれば本人も家族も楽になるのなら…と思う。でも実際は周囲からの奇異な視線や偏見によるストレスに耐えられるのだろうか、と考えさせられる。自分自身が受けるのならともかく、家族に同じことをする自信はない。
でも、それは壮絶な介護を経験したことのない立場からの、軽い言葉なのだろうなとも心から思う。
結局は「数」なんだろうな。
成功例がたくさん出て、流行のようにメディアやSNSで取り上げられて、カリスマ的なインフルエンサーまで出てきたりして、街でもよく見かけるようになってしまえば、人は慣れていく。見慣れてしまえば、それが当たり前になる。倫理観も国の方針次第だと思う。
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「分かった気になってんじゃねえぞ」
全編通じて、そう言われている気がした。
まとめるとしたらこの一言になるけれど、他人を完璧に理解できる人間など1人もいないように、本作をまとめようとすること自体が既に謙虚さを失っている証左なのだろう。
それを前提としながら、本作の凄みの一端を記したい。
自己、他者との関係における自己、社会の中の一員としての自己、他者理解、文化…現代に通ずるあらゆる要素が深く描かれた物語である。全ての大人に読んでもらいたい。
「殴り方を教えてやる」の真意とは。
「自分を完璧に理解する他人が一人でもいるか」。相手にとっての自分も同じだろう。
かと言って、他者に無関心であることを本作は提示しない。社会に生きる一員としてのありようも描かれる。完全なる他者理解はできない。だが、私とあなたはつながっている。がゆえに、できることもあるのだと。
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ネタバレ久々に入ってしまった。戻ってこれなくてバッドに夜更かしした。リアルで残酷で文字だけで吐きそうやった、描写がリアルすぎる。西さんの「小説で書きたいことは、人間は変われるということ」という文章をみて納得した。何点か西さんの小説を読んだことがあるけど、そういったところに私はいつも惹かれる。
巻末対談がいい。景色が今までと違って見えたという美しいシーンを切り取って、違ったものに見えるということはこれから二度と同じように見られないという怖さでもあるという。寂しさと孤独は違うというのも分かる。孤独は自分との対話。自分と向き合うために孤独である時間は大切でそこから哲学的な考察が生まれる。寂しさは孤独をきちんと受け入れていない状態。 -
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ネタバレアルヌー夫人に冷たくされてはロザネット(高級娼婦マレシャル)の方へ、ロザネットに愛想をつかしてはダンブルーズ夫人の方へと、フレデリックはまるで「1848年のピンボール」のようだ。
八方美人の高等遊民=フレデリックは二人の女を手玉に取って、いっぱしのドンファン気取りだ。/
【ある日、たまたまフレデリックが自宅にいると、女ふたりがほとんど同時に訪ねてきた。母親が来ることになっているからと言って、マレシャルを外にだし、ダンブルーズ夫人には隠れてもらった。
やがて、そうした嘘が愉しく思えてきた。いっぽうの女に誓ったばかりのことを、もういっぽうの女にくりかえす。双方におなじような花束を贈る。ふたりに同時に手紙を書く。で、ふたりの女をあれこれ比較してみる。─そうしたときでも、もうひとりの女性が脳裡から離れなかった。その女性を自分のものにできないことが、こうした不実な行為を正当化した。しかも、ふたりの女を交互にあざむいていることがいっそう快楽をかきたてる。どちらの女も、騙せば騙すほど、ますます自分を愛してくれる。あたかも、ふたりの女はたがいに愛を煽りたててはげしく張りあい、もういっぽうの女を恋人に忘れさせようとしているかのようだった。】(本書。【】内、以下同様。)/
あくまでも、フレデリックにとってはマレシャルやダンブルーズ夫人はふたりの「女」であり、「女性」と呼べるのは風に靡かぬ花、アルヌー夫人だけなのである。/
◯繰り返される「頭髪」と「塵埃」のモチーフ:
蓮實重彦が『『ボヴァリー夫人』論』で指摘していた「頭髪」と「塵埃」のモチーフが、なんと『感情教育』でも描かれていてびっくり!凄いな蓮實先生!
ひるがえって、映画ではこの「頭髪」と「塵埃」のモチーフがどのように描かれているのかを、がぜん確認してみたくなって来た。/
《ここでの「塵埃」と「頭髪」という主題が初期の習作から後期の傑作にいたるまで一貫して特権的な意味作用の磁場をかたちづくっており、作者も充分すぎるほど意識的にその語彙を選択しているという事態が存在するからである。さらにいうなら、(略)砂漠の隠者アントワーヌや『感情教育』の主人公にとどまらぬフローベールの多くの作中人物が、「塵埃」と「頭髪」という語彙とそれらが喚起するイメージに憑かれており、エンマやシャルルもそうした一人にほかならないからでもある。》(蓮實重彦『『ボヴァリー夫人』論』上 Ⅵ 「塵埃と頭髪」 /ちくま学芸文庫/2026年)/
◯「塵埃」のモチーフ:
【たいてい、ふたりは屋外の階段のうえで語りあった。眼前には、秋のおとずれで黄色く色づいた木々の梢が、不揃いな突起となって蒼白い空のへりまでつづいている。並木道のはずれに離れ家があって、そこへいっしょに行くこともある。家具といえば灰色の布張りの長椅子が一脚あるばかり。鏡には点々と黒い斑点がつき、壁は黴くさかった。─ここで、ふたりは自分たちのことや他人のことを、そして、思いつくままにありとあらゆることを、時の経つのも忘れて語りあった。ときおり、鎧戸のすきまからさしこむ陽ざしが、さながら竪琴の弦のように天井から床の敷石にかけていく筋もの線をえがき、そうした光の縞のなかを埃がゆるやかに舞っている。夫人は手をのばし、その光の縞を切っておもしろがった。】/
このくだりから、「後光」を想起した。
・「後光」:
暗い環境、たとえば厩や納屋、森などで、木漏れ陽や戸の隙間から漏れ入る光などを背にした対象人物を、その人物と光の来る方向に向かって仰ぎ見れば、空気中に散乱する埃によるチンダル現象で、その人物に後光が出現するだろう。/
これに対して、『ボヴァリー夫人』の「塵埃」のモチーフを描いた文章は次のとおりである。
《エンマはまた腰をおろして縫い物をつづけた。白木綿の長靴下をつくろっているのだった。彼女はうつむいて針を運んだ。黙っていた。シャルルも黙っていた。ドアの下から吹き込む風が石畳の上にかすかなほこりを立てた。シャルルはそのほこりが床を走るのを見ていた。彼の耳には、こめかみが脈を打つ音と、遠くの庭先で卵を産む雌鶏の鳴き声しか聞こえなかった。エンマはときどき両方のてのひらを当てて頬を冷やし、それからこんどはそのてのひらを大きな薪掛けの鉄の頭で冷やすのだった。》(前出の蓮實『『ボヴァリー夫人』論』より。/フローベール『ボヴァリー夫人』(山田? 訳/河出文庫/2009年))/
◯「頭髪」のモチーフ:
【夫人は母親のようにフレデリックの額に接吻した。
それから、夫人はなにかを探しているようなそぶりを見せ、鋏を貸してほしいと言った。
櫛をはずすと、白い髪がばさりと垂れた。
夫人は荒あらしく鋏をいれ、長い髪のひと房を根もとから切りとった。】/
次に『ボヴァリー夫人』の「頭髪」のモチーフを描いた部分を引用しよう。
《翌日、シャルルは青葉棚の下のベンチへ行って腰をかけた。日の光が格子のあいだからふりそそぐ。ぶどうの葉は砂利の上に影を描き、素馨の花はかおり、空は青く、咲き乱れた百合のまわりに芫菁(はんみょう)が羽音をたてている。そしてシャルルは、そこはかとない恋の香に切ない胸をふくらませ、まるで青年のようにあえいだ。
七時にベルトが夕飯に呼びに来た。昼過ぎから父親の顔を見ていない。
父親はあおむけに頭を塀にもたせ、目を閉じ、口をあけて、長い黒髪のひと房を両手に持っていた。
「おとうさま、いらっしゃいな!」
そして父親がわざと聞こえないふりをしているのだと思って、ベルトはそっと突いた。
彼は地面に倒れた。死んでいた。》(同前)/
フレデリックはやっとのことでアルヌー夫人との逢引きの約束に漕ぎつけるも、
アルヌー夫人は訪れず、なんと革命が勃発してしまう。/
【突撃の太鼓が打ち鳴らされた。するどい叫びがあがり、勝利の歓声がわきおこる。群衆は波うつようにたえまなく揺れうごいている。びっしりとおし寄せる人の波にはさまれ、フレデリックは身動きできずにいたが、こうした光景にすっかり魅了され、われを忘れてうち興じていた。負傷して倒れる者がいても、死者がそこかしこに横たわっていても、ほんものの負傷者、ほんものの死者とは思えなかった。まるで芝居でも観ているような気がしていた。
─中略─
歩兵部隊は姿を消していて、衛兵隊だけで詰所をまもっている。向こうみずな連中が玄関まえの石段にどっとおし寄せた。これらの人びとが倒れると、たちまちべつの一団がやってくる。
─中略─
建物のいたるところから煙が噴きだした。(略)欄干の小柱のあいだから、するどい音をたてて大きな炎がたちのぼる。パレ=ロワイヤルの二階にはいまや国民衛兵があふれていた。広場に面した窓という窓から、銃が火を吹く。弾丸が空を切ってとびかい、壊れた噴水からながれだした水が血と入りまじって、地面に水たまりをつくっている。】/
なにせフランス革命という圧倒的なスペクタクルがあるので、たしかに面白さでは断然『感情教育』の方かもしれないが、僕の心にいつまでも刺さって抜けないのはシャルル・ボヴァリーの「痛み」の方なのだ。 -
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偶々出くわした落雷から始まる二人の恋。彩夏のあまりに突然過ぎる告白に当惑しつつも、最後には本能で受け容れる逢衣の姿が印象的でした。
異性愛を前提とした旧態依然な社会の常識や世間体から解放され、自ら快楽の海に堕ちることを選択した二人。これは正に、18世紀を代表する哲学者ルソーが唱えた『自然に帰れ』の考えを端的に示しているのではないでしょうか。社会化によって失われた人間本来の感性・直感・本能を回復することを目指す。同性愛、マイノリティという枠組みを越え、生の欲求を人間本能の回復にまで昇華させた描写はどれも美しく、綿矢りさの圧倒的な筆力にただただ感動した一冊です。 -
Posted by ブクログ
昨年の逆輸入型ベストセラーを1年遅れで読んだ。
うーん、面白い! 変態宇多川の拷問関連の描写は文字だけでも十二分に身の毛がよだつ。終盤の依子による天誅が途中で終わってしまったのは残念なような、手を汚すのも穢らわしいような。
途中に何度か挟まれる、「芳子」と「正さん」の駆け落ち逃避行を巡る仕掛けには、皆さんコメントされている通り、終盤になって、「一体何が起きた??」と大混乱。漸く事態を飲み込めた時には、やられた〜、と爽快だ。
英国でダガー賞(ミステリーの賞)受賞とあり、英語版では正さんと尚子は何と訳されているのか気になって調べてみたら、それぞれ「MASA」と「SHOKO」で、MASAは徹底して固有名詞を使い、heとかsheとかの人称代名詞は一度も使ってないそうだ。なるほど
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Posted by ブクログ
高校の授業ぶりに再読した。授業でこの小説を取り扱う前に、夏休みを使って「こころ」を全部読んできなさい、という宿題が出て、半ばいやいや全部読んだのを覚えている。フロリダにむかう飛行機の中で読んだ。国語の宿題はそれだけだった。
当時は高校2年生でこの作品のすごさがよく分からなかったけど、あれから10年近く経ったいま再読してみると、やっと、こんなすごい小説だったのか!と気づくことができた。序盤で先生が亡くなっていることが示唆されているので、分かりきった結末に向かっている最中の緊張感が心地よかった。当時は「中」のパートいるか?とも思っていたけど、親元を離れて暮らし始めてしばらく経ってから読むと味わい深い。自分は、親の死ぬときをいまかいまかと待っている間、どんな気持ちになるんだろう、そのとき、尊敬する人からただならぬ手紙を受け取ったら?と、暗い気持ちにはなったけど、不思議と嫌な気持ちにはならず、上中は一気読みした。
下は言わずもがなだけど、「精神的に~」のセリフが出てきたあたりから文章に前に引っ張られる感じがしてどんどん読んだ(三島の「憂国」とか、久米正雄の「父の死」を読んでるときも同じ気持ちになった)。日本人の当時の死生観とか、いまの私たちにも共通する普遍的な心理とか、すべての要素がうまく混ざっているまさに名作だと思う。また10年後に読んだら感想が変わるのかもしれない。当時は「こんなドロドロした思い恋愛小説(?)がなんで高校の教科書に載ってるねん」と思ってたけど、文学の入り口としても国語の勉強としてもこれ以上適切な小説はないな、と今ならわかる気がする。
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