小説・文芸の高評価レビュー
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Posted by ブクログ
ネタバレ面白かったです。
物語は、「珊瑚の女王を殺したのは誰なのか」という謎から始まります。
そこから登場する9人を一人ずつ追い、それぞれの視点から同じ出来事や人間関係を見ていく。
この構成がとても良かったです。
単純に犯人を探して終わるミステリーではありません。
一人の人生から別の誰かの人生へ。
そこからさらに別の人物へ。
物語が枝葉のように広がっていき、少しずつ全体像が見えてくる。
その作りがかなり面白かったです。
9人全員に物語がある
特に良かったのが、9人それぞれのキャラクターです。
誰か一人だけが物語を動かすのではなく、それぞれに考えていることがあり、それぞれに隠しているものがあります。
同じ出来事でも、立場が変われば見え方も変わる。
ある人物から見た誰かと、別の人物から見たその人では、まったく印象が違ってくる。
そんな視点の変化を繰り返しながら読み進めていくことで、登場人物たちがどんどん立体的になっていきました。
そして9人とも、それぞれ魅力があります。
人がいなくなっても物語は続く
この作品で印象的だったのが、中心にいた人たちがいなくなったあとまで、きちんと描いているところです。
普通なら、大きな事件が起きて真相が明らかになれば、そこで物語は終わるかもしれません。
でも『王国』では、その出来事によって残された人たちがどう変わっていくのかまで続いていく。
一つの出来事から、人と人との関係が枝分かれしていきます。
誰かの言葉が別の誰かに残る。
誰かの思いを受け取って、また別の人物が生きていく。
そんなふうに、人の思いが循環していくような感覚がありました。
そこがすごく良かったです。
誰かのために生きている
9人を追っていくと、それぞれが自分一人のためだけに生きているわけではないことも見えてきます。
誰かを思っている。
誰かを守ろうとしている。
誰かのために何かを隠している。
その行動が正しいのかどうかとは別に、人間の行動の奥には必ず誰かへの思いがある。
そこがこの作品の温かい部分でした。
事件そのものは決して明るい話ではありません。
辛いこともあるし、嫌な出来事も起こります。
それなのに、読み終わった時に残るのは単純な嫌悪感ではありませんでした。
むしろ、少し切なくて優しい。
そんな不思議な読後感があります。
ミステリーの先が面白い
もちろん、「珊瑚の女王を殺したのは誰なのか」という謎があるので、ミステリーとして先を読みたくなる面白さもあります。
ただ、個人的には犯人探し以上に、人間関係が少しずつつながっていく部分が面白かったです。
最初は少し離れた場所にいた人物たちが、一つの事件をきっかけに関わり始める。
それまで知らなかった誰かの気持ちを知る。
そして、過去に起きた出来事の意味まで少しずつ変わっていく。
読み進めるほど、「この人はここにつながっていたのか」と分かってくる感覚があります。
ワクワクしながら読める一方で、かなり切ない。
この両方があるのが良かったです。
9人で作られる一つの王国
『王国』というタイトルも、読み終わると少し違って見えてきます。
一人の主人公だけで作られた物語ではありません。
9人それぞれの人生があり、それぞれの秘密があり、それぞれの思いがある。
その全部がつながって、一つの大きな物語になっています。
辛い事件を描いたミステリーなのに、最後には人と人とのつながりが残る。
誰かが誰かを思い、その思いがまた別の人へと続いていく。
湊かなえ作品らしいミステリーの面白さがありながら、それだけではない優しさと切なさのある作品でした。
かなり面白かったです。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ相手の気持ちなんて、決められないし、わからない。ふたりの相手への慎重さや丁寧さが尊い。まあ、読者は彼らが充分に思い合っていることを知っているので、ムズムズするけど。
久しぶりに、「恋愛」をだーっと浴びた感!ジェットコースターみたいなドキドキじゃないけど、だからこそ、登場人物の心の動きのひとつひとつに、静かに感情が揺れる。
最終章は、完全にふたりを見守るような視点になって、「藤間さん、なにするの??」と冷や冷やした。壊れてほしくなくて、祈るような気持ちで読んだ。
藤間の過剰すぎる自意識にものすごく共感する。相手を意識しだすと、時に相手が見えなくなるほど関係が自分の中で膨らむことがある。でも、それは相手を傷つけることがあるなぁと思う。鳴宮が、諦めないでいてくれてよかった。出会いから、彼はこういう人だった。すぐに救急箱を持ってきて手当てして話を最後まで同情なしできいてくれる人。
今まで非日常だったふたりが、今後どんな風に日常になっていくのかな、と考えたり。とても好きな小説だった。 -
Posted by ブクログ
▼1973年。2026年現在からは53年前。まだ冷戦、ソ連、だった時代。日本人の小説家がモンゴルに行きました。その旅行&思索記。モンゴルは当時、ソ連寄りの社会主義国でした。
大変に面白かった。国家とはなんだろう、歴史とはなんだろう、というのが一つの主題。
それは、国家や歴史に翻弄されてきたモンゴルだから、という意味合いも深く。そしてこの頃のモンゴルは、ソ連と切っても切り離せない関係です。
(その後、ソ連崩壊とともにモンゴルも一応民主化されているそうで。例えば、チンギスハンはこの1973年当時、タブーだった。なぜか。ソ連の歴史においては、とんでもない侵略者だったから。2026年現在は、解禁むしろ郷土の英雄という扱いだそうです)
■(本文より)
大国(複数)の理屈は、庶民レベルでは子供の遊び仲間でも通用しない。ところが国家間の対立の感情や論理は、近代から現代にくだればくだるほど、ときに子供の遊び仲間以下の内容になる場合がある。
■(本文より)
外国に対する国家行為というものはしばしば子供の思案に似る。このことはこんにち、他の国々でもつづいている。
■(本文より)
私は、敗戦のときにソ連が多数の日本人を捕虜にし、シベリアからウクライナ、あるいはモンゴルにいたるまで、広大な地域で奴隷労働をさせたことについて、言いがたい感情をもっている。そのソ連の国家行為をむしろ正当化する言い方はある。反省すべきは日本帝国主義の罪悪のほうではないか、とたとえ言われたところで、私は大人だから、子供のように言いくるめられるわけにはゆかない。連れてゆかれた人が私と同世代のひとびとだっただけに、国家次元の問題よりも、人情としてやりきれない思いを持たざるをえず、国家論抜きのいわば婦女子の情としてである。 当時のソ連は、旧満州でひっからげた日本人捕虜をモンゴルにも配給した。モンゴルだけでその数は一万三千八百四十七人だったという。二カ年の抑留中、そのうちの一割強(千六百八十四人)が死んだ。
■(本文より)
私は日頃、昼風呂に浸って手足を伸ばすような気分でのアナーキーな衝動というのをのべつ感じていて、この気分が奪われることだけは勘弁して貰いたいと思っているが、権力というのは元来、そういう気分を好まないらしい。「米英撃滅」「欲しがりません勝つまでは」などと、念仏かお題目のように、権力が人民に唱えさせていた時代が日本にもあって、なかなか盛大なポスターばやりの時代だった。そういう国家にあっては、敵である米英よりも、内部のアナーキーな気分(人間は大なり小なり、気分的アナーキストなのだが)のほうがむしろ敵だった。むろん、敵である米英にはとても勝てっこない。しかし人民には勝てるという事情もあり、だからこそかさにかかって「米英撃滅」などと軍国政権が、人民という弱敵に斉唱させていたにちがいない。 極端にいえば、権力が標語ポスターを考えたり作ったりする創作意欲というのは、根を洗っていえば、人民こそ敵だと思うときに──逆説だが──はじめておこる(創作意欲が)のではないか。
▼当然ながら、思索ばかりではなく(旅行記なので)。司馬さんご一行が、ソ連を経由してモンゴルに行く。ソ連経由以外、行くすべがこの頃はない。旅のトラブルがいろいろ起こる。ウランバートルにつく。モンゴル平原に行く。そこの「パオ」で泊まらせてもらう。そんな体験記が面白おかしく読みやすく。
そして文章がうまい。
ただの描写っていうのは、意外と読む側に入らない。だけど、司馬さんは例えば、モンゴル平原の「夜」について、下記のように描く。
すごい文章力。
■(本文より)
夜は、たとえば夜になった、というようなおだやかな表現で済まされるようなものでなく、夜が物理力のようにひたひたと襲ってきて、この食堂という、心許なげな人間の営みを押しつぶそうというような感じだった。
▼歴史のいろいろな見方。
秦の始皇帝の、「焚書坑儒」がなかったら・・・中国全土が「ひとつの文化」になることはなかったのかも、という論。
なるほどなあ、と。
■(本文より)
秦ノ始皇帝は、かれにとってくだらない儒書をあつめさせて焼き、かれのためには無用有害の存在である儒者を生きたまま穴埋めにした。そのかわり、雑多な漢字を整理し、文字を統一することに努め、その努力のおかげで、中国大陸のどの地方──燕であれ、趙であれ、楚であれ、呉であれ──にいる漢民族でも、たがいに音がちがいつつも文字さえ見れば意味が通ずるようになった。すべての漢民族を一つの文化にはめこんだ功績というのは大きい。 毛沢東が始皇帝を称揚するのは、ともすれば分裂しがちな漢民族世界を強固に統一してゆこうという政治的意図が多分にあるのであろう。しかし秦ノ始皇帝がもし存在しなければ中国大陸の政治習慣のなかに統一ということがなかったかもしれない、という想像は十分正当性をもっている。「この大陸は、統一しうるものだ」 という気分が、人心のなかにおこった。
▼あと、この本は週刊誌連載の「街道をゆく」の一冊なのだけど、この旅に出てきた通訳の「ツベクマさん」(だったと思う)という50代くらい?の女性が大変に魅力的に描かれています。司馬さんが「魅力的だな」と感じたからでしょう。ツベクマさんは、中国、日本、モンゴル、ソ連、という国家間に翻弄された人生の持ち主です。彼女の物語は、「街道」に収まらない熱を司馬さんに与えたようで。後年、「草原の記」という、ツベクマさんについての中編小説を書かれています。そっちの方を実は先に読んでしまっていて、今回順番逆ながら納得した次第。
▼「草原の記」は、、、、、国家と戦争というのものが、大きく黒く、ひたひたとせまってきて、人間・家族の営みというそれこそ心許なげなものを物理的に押しつぶしてしまう。そんな息苦しさと大地の風とが印象に残る読書でした。これも、それも、いずれも名作。 -
Posted by ブクログ
ダイアナと彩子の話。
小さい頃はあまりにも世界が狭くて、色んなことを羨ましく思ったり「人と違う」ということが悪いことに見えるが、大人になったら今よりずっとずっと生きやすくなるんだよと、小さい頃の2人に教えてあげたいと思いながら読み進めた。
自分はどちらかと言うと彩子のような幼少期を辿ってきて、どうしてもダイアナのような子に偏見があったときもあったが、高校の時はダイアナのような容姿になった。
今から思えば、なんだかんだ言って憧れみたいなものもあり、その時に出来なかったことを高校になってやったんだと思った。
ティアラさんの「みんなが正しければ正しいほど、毎日が苦しかった」という気持ちもわかった。
小さい頃は「いい子」でいたら良かったのに、成長するにつれてそれだけだと「つまらない子」になってしまうのが理解出来なかったなと自分自身思っていた。
今もよくわかっていないが、大人になれば何かしら出来ることがあれば人と関わらずに働くこともできて、協調性を強いられる部分が少なくなって楽にはなった。
全体的に、色んなことを言ってくる人はいるけど、自分自身に芯があれば、跳ね返せるというメッセージとして読み終えた。
すごいいい本だったな。
またふたりが本の話をするところを見たかったなと思った。
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