『暁星(あけぼし)』を読み終えて、まず強く残ったのは、これは単なるミステリーでも事件小説でもない、という感覚だった。むしろ、湊かなえが29作目にして「一番好き」と語るこの作品は、宗教二世として生きることのつらさと、人が壊れていくまでの過程そのものを描いた、極めて重い心理劇だと思う。そして同時に、誰かの人生を“物語として読む側”に立ってしまう私たち自身を試す小説でもある。
物語は、現役の文部科学大臣であり文壇の大御所作家・清水義之が、華やかな式典の最中に刺殺されるという衝撃的な事件から始まる。犯人として逮捕された永瀬暁は、獄中で自身の“獄中手記”を書き始める。そこに綴られるのは、新興宗教団体との関わり、母親の入信、家族の崩壊、そして自分の人生がどう壊れていったのかという、淡々としているのに息が詰まるような記録だった。
母親が宗教にのめり込んでいくにつれて、家からお金が消えていく。生活は徐々に痩せ細り、家の空気が変わり、「信じていない」はずの子どもである暁まで、意味の分からない集会や奇妙なコンテンストに連れて行かれる。自分は何も信じていないのに、信じていないことそのものが否定されていく。人格を削られ、選択肢を奪われていく感覚があまりにもリアルで、読んでいて何度も胸が苦しくなった。
この手記は、単なる供述ではない。「なぜ彼は事件を起こしたのか」という問いに対して、声を荒げることも、誰かを断罪することもなく、ただ“積み重なっていった恨みと孤独”を静かに差し出してくる。宗教にハマっていく人の心の動きも、悪としてではなく、弱さや救いへの渇望として描かれている。その描写があまりにも生々しく、だからこそ逃げ場がない。
読んでいるうちに、どうしても現実のある事件を思い出さずにはいられなかった。母親が宗教に入信し、兄は自殺し、自分だけが残され、恨みを積み重ねた末に起きた、あの首相襲撃事件。被告は無期懲役となったが、「どうしてそこまで追い詰められたのか」という問いに向き合うとき、この物語と重なる部分があまりにも多い。『暁星』は、犯行の是非を語るための物語ではない。その手前にある、誰にも見えなかった“過程”を、想像せざるを得ない場所にまで読者を連れていく。
そして、この作品が本当に“やばい”のは、第一部の獄中手記で終わらないところだ。第二部では、この事件を題材にした「ある作家の小説」が提示される。ここで物語は、まるで第一部の“続き”であるかのように進み、読者は自然に「永瀬のその後」を追っているつもりになる。
だが、途中で気づかされる。――これは、フィクションだ。
手記という「事実」と、小説という「物語」が重なり合うことで、真実と解釈の境界は一気に崩れる。誰の語りを、どこまで信じていいのか。理解しようとすることは、救いなのか、それとも暴力になりうるのか。気づけば読者自身が、「永瀬の人生を物語として消費しようとしていた側」に立っていたことに愕然とする。
この二重構造は、ただ巧妙な仕掛けというだけではない。誰かの苦しみを“わかったつもりで読むこと”そのものへの、鋭い問いになっている。読者は安全な場所にはいられない。最後まで、立場を揺さぶられ続ける。
終盤、すべての積み重ねが一つの形になっていく場面は、派手なカタルシスではなく、ただ静かに、しかし確実に心を震わせる。善悪でも、勝ち負けでもなく、「ここまで生きてしまった人生」がそこにある、という重さだけが残る。
結末は、救いとも絶望とも言い切れない。タイトルの「暁星」は、夜明け前、最も暗い時間にだけ見える星だ。それは希望というより、「それでも考え続けること」「物語を、人生を、走り続けさせること」そのものの象徴のように感じられた。答えは用意されていない。その先をどう受け取るかは、読者に託されている。
『暁星』は、派手などんでん返しで驚かせる小説ではない。語られなかった言葉、選べなかった人生、その隙間にある現実が、あとからじわじわと効いてくる。読み終えたあとに残るのは、登場人物の痛みだけではなく、「自分ならどう想像するのか」という、逃げられない問いだ。
重くて、苦しくて、簡単には消化できない。だからこそ、この物語は読み終わったあとも終わらず、読者の中で走り続ける。
本当に、最高の作品だった。