小説・文芸の高評価レビュー
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Posted by ブクログ
盛り上げ過ぎやろ!
モーリーハゲ過ぎやろ!(ルッキズムダメ!)
というわけで、モーリー・ロバートソンさんです
惜しい人を亡くしました
わい好きだったんよねって違うわ!惜しい人を亡くしたのはほんとだけど、モーリーさんの話違うわ!ケッペーちゃんの話だわ
ラス前で当たり前のように盛り上げてきました
やるな了(急に名前呼びしてくるおっさんいるよね)
何がすごいって長野に里帰りしていたケッペーちゃんのお土産がすごい
長野の知られざる名品をこれでもかと推してくる
観光大使か!( ゚д゚ )クワッ!!
いやなんかこのもうちょっとで色々繋がりそうな感じね
このラインがくやしいくらいお上手で、もう一刻も早く最終巻読む気にさせる
なので読む! -
Posted by ブクログ
ネタバレ起業する人のやるべきことや
リアルな心境の変化を読めたと思う。
(私は起業をしたことがないので分からない…。)
元々自分でビジネスをすることに興味があり、
最近士業の資格に合格したので、
1つ土台が出来たのでは?と思い、
この小説を読んでみた。
創業期には今までFPなどで勉強した内容が
たくさん出ていた。
雇用保険は代表取締役は対象外、
役員給与のルール、
確かにこのタイミングで社会保険は必要だな、
資金集めには銀行からの借入以外にも
手段があるんだな、
など、実務面でもとても勉強になった。
自分が勉強した内容が
ストーリーに組み込まれていると
とても面白いし、生きた知識になる気がする。
士業の勉強をしているときの
夢中になっている感覚に似ていて
とても共感できる内容だった。 -
Posted by ブクログ
ウェルテルの何が面白かったのか。
ウェルテルは基本太宰のような人間で、非常に弱く、躁鬱である。
しかし単純に日本文学的にはこの小説は捉えられず、日本には見出し難い、ある独特な、ドイツの古典主義的雰囲気とでもいうべきものを感じる。また同年齢の若い女性をある聖母として、ある神聖化されたものとして見出すのもそうした雰囲気に与しているのだろう。(これはどの国でも青春小説の中では普遍的かもしれない。)
日本文学の話をなぜか出してしまったので、逆に共通するところを考えてみると、男女の三角関係というテーマはやはり普遍的なもののように思われる。漱石の『こころ』を代表として、他にも僕の好きな作品では実篤の『友情』など、「三角関係」というのは数百年経っても色褪せないテーマであると思われる。ウェルテルやK、また野島のように、そうした三角関係に入り込んだ者たちは確実に一人消え去るしかないのである。
ウェルテルはその三角関係の中で、去らなければならない者として、彼が(この世から!)去るまでが描かれる。結末に向かうまでの心理描写は書簡形式で、ある友人に宛てられたもので、ウェルテルの手紙の中だけにぶちまけられる赤裸々の心情が人々の心を打つのだろう。(ウェルテルは不安定な人物なので、結末に向かうにつれて、手紙以外でもかなり露出していくのだが。そういうところもなかなか巧みで面白くはある。)ゲーテの実体験である部分も多いらしく、ゲーテ自身、『ウェルテル』は何度も読み返すには耐えられない作品であったらしい。個人的趣味としては、人間の弱々しさばかり出される作品は好きではない。穴にはまり込んでしまった人間がもがき、決して抜け出せないままの話は、そうした作品だけに現れるある種の感動があるのは認めるが、どうももどかしくなる。
だが、結末の方での、ウェルテルに鬼気迫ってくる焦燥感は惹きつけられる。読んでいる時、それはほどんど彼の発狂の兆しに感じ、完全に『ウェルテル』の世界に入っていた。こうした人間の限界状況を描く悲劇はドイツの、ゲーテの古典主義をも思わせる。それは現代にも同じく色褪せない普遍的な「悲劇」であると感じた。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ群像で読んでいるから、単行本における何ページか分からない。そのため、群像版のページを記すと、134,135ページの見開き。この箇所には読む手を止められた。かといって何か言葉にしなければならないような熱烈な感想を抱いたわけではなく、飛び込んできた言葉の重さというか鋭さを受け入れるのに時間がかかったような、そんな感じがした。それは私にとって強い読書体験であって、結果的にこうして文字にまとめているしそうしたいと思ったのだから、一つ前の文の前半が誤りだったのかも知れない。以下は該当箇所。僕がねえさんの魂に触れられないと思った瞬間。僕がほかの誰か、自分以外の誰かに成り代わりたかったのだと思った瞬間。僕が初めて僕という一篇を知った瞬間。僕がこれまで失われてきた僕の切片が無数にあることに気付き、自分が今どこに居るのか分からなくなった瞬間。僕がねえさんの絶対になれないと思った瞬間。そこに書かれた文字にある感情がやけに直接的に飛び込んできた。目を背けたかった事象を思わず見てしまったような、美しいと形容したいが何故か躊躇ってしまうような。凄い。
「わたしね、死について考えなくていい時間が増えるのなら、たとえそれが人為的にもたらされたものであっても、幸福と呼んで差し支えないと思うの」
そう語るねえさんは「痛み」を必要としている。「痛み」はいつだって泣きそうな、どうにかなってしまいそうな思考を、「瞬間そのものに縫い付けてくれる」から。だからこそねえさんは紫蘭のことを嫌う。劇的で悶えるような痛みを感じるため。対する紫蘭はそれを求めている。自身がねえさんの何かになることを。互いに依存している関係であるが、その架け橋が暴力という行為であるのが何よりも儚いというか、苦しみを想起させる。暴力に伴う痛みと屈辱が二人の仲介者となり、二人を助けるのだろう。それを旗から眺める立場にある私達読者は、その行動だけを見るしかない。暴力によって現れる仲介者を実際に感じることなどできやしないし、たとえ感じられたとしても二人と同じ感情を得ることはない。共依存の関係の作品はそこがどうしても魅力に思えてしまう。自信の懐の奥底にある、はっきりと存在を認めたくない嗜好に、刺さってしまうのだろうな。
テクストが持つ熱と迸る力強さは、二人の間にある見えない何かと見える行為がそうさせているのだけど、ここ最近読んだ作品の中では最も大きいように思う。蚕と椿を重ね合わせる描写というのがやはり印象深く、それが効果的であるのは当然であるが、そう思ってしまう語り手の心情というものが、俯瞰した視点を持つ私では完璧に掴みきることができないというのもまた、魅力。(自分だけの蚕であるはずなのに、自分以外の蚕であろうとしているのでは無いか。そもそも蚕では無かったのか、そんなはずはない)
「他人を許せへんちゅうのは緩やかな自殺と一緒や。周りを損なうゆう点では、ただの自殺よりよっぽどたちが悪い」
この台詞には全面的に賛成であり、特に前半部に関しては同様のことを思う。他人を許す権利というのは誰しもが持つべきものであり、その前提が間違っているならば自身の存在もまた許させることがないのだ。他人を許せない人間は、いずれ自身がその他人側へと移行して仕舞うことに気付いていない。他人を許せない人間は他人の姿形を徐々に削り取っていることに気付いていない。しかしながら後半に関しては少し疑問を覚えてしまったのだ。他人を許せない事が周りを損なうという点は大いに理解できるが、ただの自殺が損なわないかというと少し納得がいかない。実際本文中で、ねえさんが自殺未遂に至ったときのことを考えると、決してそういうわけではないと思う。ほかの場合でもそうだろうし、と思ってしまうのはしかし、自分のことしか考えていないのだろうか。
この物語は、奇しくもなのか運命だったのか、共依存となっている姉弟の話。私が思うに、共依存の関係というのは永続的なものではなく、いつか解消される運命にある。共依存関係を危険であり、両者互いに滅ぼしかねないものとして扱うのは間違っていないと思う。しかしながら、本当に危険なのはその解消間際あるいはその後だろう。完全に依存を立ち切れない。断ち切っても尚、立ちはだかるいくつもの困難への対処方法が分からない。苦しみや慈しみを自身の背骨として暮らしてきた人にとっては、非常にむつかしいものになると思う。
非常に美しかった。最近、私が小説を読むことから離れてしまっていた事が大きな原因ではあるが、久々に心に響く作品に出会えた。引き裂かれてしまいそうな心理描写と、情景。あるいは仰々しい比喩や子供らしからぬ難しい言動。どの要素においても私好みで、とてもいい読書になった。本作品を読もうとしたきっかけが、群像2026年10月号に掲載されていた作者自身のエッセイで、読んだ後すぐ、この方の作品を読んでみたいと心から思った。私に寄り添ってくれる作品を提供してくれるだろう、とそんな予感がしたのです。
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