◾️record memo
最近、なんにも報われない。自分をすり減らして頑張っても、どこからも「ありがとう」の言葉ひとつ返ってこない。必要な人だと思われたくて、東奔西走していたら、いつの間にかそれが当たり前になっちゃった。
残酷なことに、仕事ってこういうことの繰り返しだったりする。頑張りを誰にも理解してもらえず、涙がにじんでくるようなことの。自分が、どこにも配られない役立たずのチラシみたいな気分になってくる。私にも何度も経験がある。
こういうときは、自分のことをいつも以上に大切にしたほうがいい。感情が求めるものを、注意深く観察しよう。カラオケや、友達との弾丸トークで発散したいのか、それとも、傷ついた心にそっと毛布を掛けるように、癒されたいのか。
フルコースだっていい。たとえば金曜の夜は女友達と焼肉で発散し、土曜日にスーパー銭湯やスパで癒されて、日曜日は家で元気になる映画を観る。『ローラーガールズ•ダイアリー』なんかがオススメです。
本当は、元気になるまで誰かに丸ごとなぐさめてもらいたいところだけれど、話を聞いてもらったとしても、私の気持ちを完璧に理解してくれる人はいない。分散しようがなにしようが、どうしたって、受け止めてほしい気持ちは相手のキャパシティからあふれてしまうもの。
だから、自分で自分をなぐさめる方法をいくつか持っていよう。どうやったら自分が癒やされるのか、いろいろ実験してみよう。ベストなやり方が編み出せたら、次はもっとうまく凌げるはずだから。
今日もおつかれさまでした。
「人って、思いもよらない方向に変わるよね」
彼女が笑った。その通りだ。私たちだって、取捨選択を繰り返し、かなり変わったもの。
「変わってからのほうが、楽しいよね」
彼女が続ける。私は深く頷いた。
この二十数年で学んだことは、一歩踏み出せば結果的になんとかなる、ということ。
彼女も私も、踏み出したからこそ「これから先も、なんとかなる」と自分を信じられるようになった。
彼女も彼も、顔の見えない世間が作った規範にがんじがらめになってる。男はこうあるべき、女はこうあるべきってやつだ。だって、そのほうが婚活には有利な気がするもの。好き同士が結ばれることをヨシとしながら、社会的承認を伴わないとバツを付けられる、世間のストライクゾーンに収まろうとする彼女と彼を誰が責められよう。
「今日は、お高めのバスソルトを買いなさいよ」
そう彼女に伝えると、不思議な顔をされた。入浴が問題を洗い流すわけではないことは、私もよくわかっている。でも、「ああ、いい香り」とか「あたたかくて気持ちいい」とか、明るい気持ちになる瞬間を作ることは、暴飲暴食よりずっと自分にやさしいよ。
こうやって自分の浅はかさに幻滅したことは、一度や二度ではない。
ちゃんと正しく、ユーモアを持って寛大に生きたい。不用意に他者を傷つけることのない、思慮深い人になりたい。周りを見渡すと、私以外の大人はみなそれができているように思える。先の先を考え、相手を慮って行動しているように。どうして私はそれができないのだろう。どんどん気分が暗くなる。
周囲が私を好ましく思うかどうかなんて、自分にはまったくコントロールできないってことは、のちに手痛い失敗を繰り返してわかった。だから、私を低く見積もる人たちに囲まれたら、さっさと退散することにした。私のことを「いいね」と言ってくれる人たちのところへ移動するために。
いつからか、「なんのために生きるか?」という壮大な問いへの私の答えは「自分のことを好きでいるため」になった。好きになるために長生きするのではなくて、どうせ明日も明後日も生きちゃうんだから、自分を好きでいるほうが心地よい。
なんでこうなるのか、私はうすうす気づいている。視覚的な変化よりも、行動の変化によって「なりたい自分」を叶えることに価値をおいているからです。自分を好きになる方法なら、私はいくらでも知っている。できなかったことができるようになったり、得意なことで人から褒められたりすればいいだけだから。やみくもに頑張れば、できるようになるんじゃあないのよ。できそうなことを、褒められそうな場所でやる。都合のいいところに自分を移動させるのがコツよ。こうやって、少しの努力と工夫でありのままの自分を適度に受け入れられるようになると、心はたいてい平和でいられる。理想と現実の乖離に傷つくこともなくなる。
「なりたい自分」ってこれだっけ?私らしさの欠片もないこの女が、理想の私とは、どうしても思えなかった。つまり、余分と不足が私らしさってことだ。
矮小化。最近よく耳にする言葉だ。本質とは異なる部分をクローズアップして、取るに足らない些細な問題にすり変えてしまうこと。人の気持ちに対してやると、致命傷になる行為。
たとえば苦しみや悲しみや傷ついた気持ちを打ちあけたとき、「たいしたことじゃない、そんなに心配しなくてもいいよ」と言われたほうが、気が楽になることもある。だけど、その前に一度、こちらの不安を額面通りに受け取ってほしいときだってあるのだ。かかわってくる気があるなら、そんな簡単な言葉で、私の気持ちをなかったことにしないでほしい。
人の動きは、意外と簡単に止まる。心に不調をきたし、仕事を長く休んだことがある友達が、私には何人かいる。そういうときは、再び会える気力体力が相手に戻ってくるのを、待つともなく待つ。三か月だったり半年だったり一年以上だったり、人によってまちまちだ。
会うと決まったはいいが、いつまで経っても相手が待ち合わせ場所に現れず、すっぽかされたこともある。最初は驚いたけれど、いまでは慣れっこだ。腹も立たない。最初にすっぽかしてくれた友達には、感謝している。それくらい疲れることが人にはあるんだって、私に教えてくれたから。会いたいという気持ちに嘘がないのは、相手の人となりからわかっている。ただ、いまは調子が悪いだけ。
私の友達は、みな運がいいのだろう。十分に休んだあと、ほとんどが元の暮らしに戻っていった。まったく同じ場所ではないけれど、働きながら生活をするのに、なんら問題がない場所を見つけ、平和に暮らしている。だから、私はそんなに心配していないのだ、あなたのことを。気掛かりではあるけれど、闇雲に不安になるほどではないの。
愛情を持って「あいつダメだなぁ」と言う人がいる。私は「ダメなところもあるなぁ」と言い直す。それなら誰もがそうだから。あいつの場合、陰で徳を積む生真面目さが、今回は裏目に出ただけだ。
暗いトンネルの真っ只中にいる人に、掛けられる言葉は限られている。そう教えてくれたのも、最初に待ち合わせをすっぽかしてくれた友達だ。いまは元気に暮らしているが、当時、私は励ますつもりで、追い詰めるような言葉を投げかけていたに違いない。本当に申し訳なかった。
いまの私にできることは、トンネルの出口で待つ時間をたまに作ること。ずーっと待っているとうっとうしいから。時折、「お〜い、生きてるか?」なんて声を掛ける。トンネルの出口に誰かがいると、うっすら伝われば私はそれでいい。
ちょっとやりすぎなくらいが、ちょうどいいと思う。頑張り屋さんのスイッチは非常に固いから、思い切って力ずくでオフにするしかない。後ろめたくなる必要もない。非難されても耳を貸さないで。だって、あなたはいま休むことを頑張っているのだから。
自分を責めたくなるときは、休みが必要なとき。十分にチャージしたら、またランニングシューズを履いてトラックに戻ればいい。そのときは、休む前よりずっと楽しく頑張れるはずだから。
本当に、本当に、毎日おつかれさま。
さて、今年の私はいままでとちょっと違う。「完全にやめなければ、それは継続と見做す」と、都合よく考えられるようになったから。つまり、現状はあくまで「小休止」なのです。
残りの人生は、右から黒が、左から白が突進してきたとしても、衝突したあとのグレーやモザイクを楽しめるように努めたい。頑張ることがあるとすれば、それくらい。「残りの人生」は、さすがに大きく出すぎたかな。ひとまず、今年は。来年の目標は曖昧を愛すること。
余計なものが絡みついてはいるけれど、まあそれはそれ。じゅうたんは買い替えられるが、人生はそうはいかないもの。だから私はこれからも付き合っていくのだ、このうっとうしい毛足の長さと。
口に放り込んだそばからとろけていくリンドールの甘いチョコレート、ビヨンセのライブ映像、夜眠れなくなることなんかお構いなしの昼寝。転んでは立ち上がりを繰り返すなかで、不足エネルギーをチャージする処方箋をいくつか手に入れることができた。けれど、しんどさど真ん中での急速エネチャージは、私をもっとしんどくさせることも知った。充電のまえには、ワンクッションが必要なのだ。言うなれば、しんどさの放電。それを省くと、心がパンクしてしまう。
さまざまな感情を呼び起こす多層的なエンターテイメントは、心が健やかなとき、もしくは立ち直る準備ができたときにしか効かない。だから、そういうものに心が動かされないときはかえって注意が必要なのだ。自分でも気づかないうちに、心が疲れているかもしれないのだから。
最後に注意。「なんのために生きているか?」を「誰かから必要とされたい」に翻訳するのは、ちょっと危険だとも思う。誰かから必要とされながら苦しみに耐えることなんて、ザラにあるでしょう。そういうのからは、できるだけ早く逃げ出したほうがいい。生きる使命は誰かのためではなく自分のためにあったほうが、徹頭徹尾健やかでいられることも、私は過去の経験から知っている。
それにしても、さすが私の女友達だ。ねちねちやられた挙げ句に大きな声を出されても冷静だったなんて、惚れ惚れする。五年前なら相手が恥を掻く嫌味を言っただろうし、十年前なら怒鳴り返したに違いない。二十年前なら、慌てふためき泣いてしまったろう。どれも、相手の思うつぼ。こういうときは、絶対に同じ土俵に上がってはいけない。
失敗を繰り返しながら歳を重ね、私たちは嫌と言うほど組織という歪な生き物のことを学んだ。会社なんて、みんなとお互いを理解し合うための場所ではないのだよね。
記憶を記号化していくためのコツ、あるにはある。嫌な出来事があったら、物理的にそこからできるだけ遠くに離れるのだ。悪感情を更新し続けないのがポイント。嫌な人って、必ず二度三度と嫌なことをしてくるものだから。ダメージを受けているときに、それを克服しようなんて考えなくていい。まず、逃げる。
そりゃあ、すぐには逃げられないこともたくさんある。忘れたいのに忘れられないと悩む夜だってある。けれど、「いつかはここから逃げよう」と決めておく。それだけで、心は少し軽くなる。
雑然とした子ども部屋に置かれていた鼻がもげたクマのぬいぐるみ、実はまだ持っている。近いうちに、専門の修理屋さんに出すつもりだ。たぶん、ぬいぐるみ本体よりずっと値が張るだろう。それでいいと思う。たくさんのモノと記憶を捨てて、私はモノの価値を自分で決められるようになったのだから。
これからも私は他人の言葉を鵜呑みにし、外されたはしごの前で呆然とするだろう。過去の私と未来の私に「おつかれさん」と言ってあげたい、まぁ、仕方ないよ。そういう性分なんだから。
自分の人生を他者に明け渡さず生きていくなら、意見を持つのは大切なこと。と同時に、他者と意見が異なることそれ自体は悪ではない。これは大•大•大前提の話。ただ、そこに暑さや感情やアレコレが重なると、私はどっと疲れてしまう。赤の他人同士の意見が異なっているのを見るだけで、うまく距離が保てず気持ちがもたれてしまうのだ。フラフラと諍いに吸い寄せられることもある。同じように声を上げないのは大罪なのでは?と不安になることすらある。健やかな自信を保って暮らしていたはずだったのに、自分が正しいのかどうかわからなくなってくる。気づけば、私のなかに「私」がいなくなっている。
弱っているときは、世の中のいろんなことと自分の境界線がにじんでしまう。どこまでが私で、どこからが他者か、曖昧になるのだ。だから、無関係な出来事にグラグラ揺らされる。
気持ちを持ち直すことさえできれば、なにをしても許される人なんて、独裁者でもない限りそうそういないことが自然にわかる。単に、「なにをしても許される」ように私からは見えたというだけの話。なぜそう見えたかと言えば、わがままや失敗は、やってはいけないことだと私が私に固く禁じているからだ。
わがままや失敗は自分の価値を下げると信じ込み、それをやっている(ように見える)人たちをうらやみ、もし自分がああだったら大変なことになると、再び自分にそれを禁じる。なんて忙しないの。ひとり相撲にもほどがある。ホントにホントに、おつかれさんです。
愛される価値があるかどうかなんて相対的な話でしかないのだけれど、生きていると忘れてしまう瞬間が結構頻繁にやってくる。私がうらやむ人たちは、骨の髄までわかっているだけなのかもしれない。失敗してもわがままを言っても、それを拒絶されたとしても、自分の価値は揺らがないということを。
大人になってからわかったことはたくさんあるが、「なにを考えているかわからない相手はたいていなにも考えていない」もそのうちのひとつ。当時の男も、特別な考えがあって言ったわけではなかったのだろう。メランコリックな状況と酒に飲まれ、思わず口をついて出ただけ。それがわからなかった私は、ずいぶん長いあいだこのセリフを引きずってしまった。どうしてあんなことを言ったの?と。当時の私の肩を抱きかかえて言ってあげたい。「なにも考えていないからよ」。
ひとりで頑張れる自分を褒めてあげたい気持ちはあるが、ゆっくり少しずつやることも、自分の力ではどうにもならないこともあると知るのも大切だとたしなめたくもなる。硬いおでこ以上に、人間関係はそうだ。
大人になったいまでも、私はなにを考えているかわからない人に振り回されがちだ。一刻も早く答えを知りたくなってしまう。そういう人を無闇に触ったり強く押したりしても、望むアンサーは出てこない。いらぬ傷を負って、疲れてしまうことのほうが多い。
自分の比較対象になるすべてを遮断することもポイントだ。内側も外側も自分ひとりになって、SNS画面のスクロールや友達とのLINEもしばし休止する。
他人はアテにならないから、自分を慈しむことでボトムアップを測るしかない。言うは易く、行うは難しの典型だよね。でも、究極的にはそれしか手がないのよ。
友人は他者の期待を察知するのがとても上手な人だ。自分がどう振る舞えば仕事がうまく回るか、周りのことが恐ろしいほどよく見えている。特筆すべき能力ながら、会社というのは恐ろしいところで、自分を引っ込めてでも他人の期待に応えようとする人の元へ無理難題が集まってくるようにできている。まるで中州に落ち葉が溜まるかの如く。だから彼女は疲れてしまったのだ。
「彼女は善人すぎる」と人は言う。確かに、性善説が服を着て歩いているようなところがある。自分が頑張ればなんとかなるときは、必ず頑張ってしまう癖もある。そこは多少、矯正したほうが働きやすいだろうな。でも、他人の期待に応えたいという気持ちや、人一倍頑張れる性質って、本来ならありがたがられて然るべきものだ。処世のために失くしてしまうのは、あまりにも惜しい。
恋愛でも、「好意は示すが好かれようとはしない」スタンスって、天賦の才能に近い。そういうことができる人は、たいてい周囲から無条件に好かれるのだから、平身低頭の不器用組にとってはたまったもんじゃない。仕事でも恋愛でも、自分が相手の眼鏡に適うことを証明し続けなければ存在価値なんかないと、無意識に思ってしまう不器用組のみなさん、お元気ですか。
ちゃんとした場に化粧を施して行くと少し不安が紛れるならば、メイクは心の鎧ということ。よって、きちんと化粧をしている日ほど、落とすのが苦役に感じられる。メイク落としが面倒でソファに二時間も横になったままのあなた、今日も本当におつかれさま。最後の力を振り絞って、鎧を脱いでから寝ましょう。私もそうするわ。
私たちといると、数時間でパッと明るい顔になる。けれど、家に帰った途端、なんとも言えない表情が貼り付いたままになってしまうあの子のことが心配だ。心配したところで、私があの子の人生を変えることはできないのだけれど。
「必要とされていることを実感したい」と、あの子は言っていた。たいていの人にとって、異論はないだろう。人の役に立つのは楽しい。しかし、これには「本当に必要とされているのならば」という前提条件が付帯する。あの子は自信がないことに加えて人が良すぎるところがあって、「必要とされている」と「利用されている」の区別がつかないんじゃないかと思うときがある。そのふたつは完全に別物だ。
いろいろな理由があって、「自分の人生の主人公は自分だ」と気づくまでに時間がかかる人がいる。あの子もそのタイプだった。右に行くのも左に行くのも、前に進むのも立ち止まるのも、自分の自由にできるとは知らなかった。無意識に、誰かをいちばん怒らせないのはどんな行動か探っていた。常に、揉めないで済むやり方を模索していた。本来はそんな必要はないし、誰かが怒っても、不当な罪悪感を押し付けてきても、知らんぷりでいいんだよと言ったらびっくりしていた。「知らんぷり」を知らない子。無知の知ならぬ、無知の無知だ。
究極的には、実体験で学ぶしかないのかもしれない。偉そうに説いた私だって、背中から切りつけられるような痛みを人間関係で何度も味わった末に、暫定的な答えとしてここにたどり着いたんだもの。
それでも唯一確信して言えることは、一緒にいても自分が増えていかない相手といても、良いことなんて起こらないってことだ。それだけは、たぶん間違いがない。
神崎さんにも私にも、顔を覆いたくなるような数々の大失敗が自分を作ってきたという自負がある。そのせいで、いまでも癒えぬ傷もある。なんの因果か、同じ失敗を何度も繰り返したりもしている。それでも、やっぱり自分を作ってきたのは成功ではなくて失敗なのだと強く思う。
失敗は私にたくさんの果実を授けてくれたけど、それらが実るまで、どれほどしんどいかもよくわかっている。禍々しい大きな渦のなかにもう一度自分を放り込むわけにはいかない。一からやり直したところで、次は手痛い失敗を回避できるとも思えない。だって、私は私だもの。ぜったいに、同じことをやるに違いない。
次はうまくやれるという自信よりも、次も同じ失敗をする自信の方が100倍ある。私はそんな自分が大好きだ。
怒濤の三十代を経たあと、歩いてきた道を振り返って私が思うのは「私なんかが」と思って良い結果につながったことなど一度もなかったってことだ。人生にほとんど悔いはないものの、もう少し早く自分を信じてあげればよかったなとは、ちょっとだけ思う。
「私なんかが」のマジックワードは、処世術としては有効かもしれない。けれど、鏡を見ながら言うのはオススメしない。「私なんかが」はまるで呪文のように、自分からやる気も可能性も奪っていくから。己の傲慢さを制御したいのなら、シンプルに「おごるなかれ」のひとことでいい。鏡の中の自分を指さして言ってやれ。
誰もが常に正しく生きられるわけではないし、心の欠損を埋めるようなかたちの、「癖」に近い欲望が存在することは、ある程度仕方のないことだ。でも、嗜癖の道を極めたとしても、欠損は永遠に埋まらないことは覚えておかなきゃ。
あなたにいつも不満げだったり、条件をクリアしないと愛情を与えてくれなかったり、あなたにだけつらく当たってきたりしたのは、彼ら彼女らがあなたのしあわせを真剣に願ってくれなかったからだ。「おまえのせいで不幸になった」なんてとんでもない。あなたのせいでもなんでもない。向こうの問題だ。
ホッとするのと同時に、お互いのしあわせをまっすぐ願える、愛する相手を見つけるなんて桁外れの奇跡じゃないかと絶望的な気持ちにもなった。
ネオ真理への道は険しい。それでもやっていくしかない。
私には似合わないと決めつけていたものをひとつずつ試し、気分が良ければとり入れ、やはりダメだと感じたら手放した。そうやって、自分で自分に余計な負荷を掛けることを少しずつ止めていった。すると、これでもいいのだ、ひとまず上出来だと、自分を受容することができた。
社会にも、自分のなかにも、モヤモヤを解き放つ窓が足りない。
すぐのぼせるクセに銭湯で長風呂してみたり、いまだに美味しいのかどうかよくわかっていないビールを「やっぱ唐揚げにはこれっしょ!」とかいってグビグビ飲んで、それで酔っ払って、ひっくり返って、寝る。そうして薄れゆく意識の中で私はいつも思うのだ。「ほんとに、これで合ってる?」って。私のご褒美って、ほんとうにここにあるのだろうか。