斎藤環のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
コロナ禍という非常事態において、「ふだん『日常という幻想』が覆い隠している様々な過程や構造が可視化される場面」を丁寧に描き解説されており、納得できるものも多かった。著者は「コロナ禍がそれほど社会や人間を変えるとは思っていない」と諦めに近いことを書いているが、当初は「パンデミックは忘却されやすい災厄だ。だからこそ適切に外傷化される必要があり、望ましい社会的変化という瘢痕を残す必要がある」とも書かれている。最終章で、優生思想について言及し、鬼滅の刃についての論評もあり、興味深く読ませていただいたが、コロナから離れての社会論評と書かれているが、底ではつながっていると思いながら最後まで読み切った。
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Posted by ブクログ
自分が適応障害なのでタイトルに惹かれて読んでみました、、が処方箋的な内容ではなかったです。
むしろ色んなシーンで起こる心の問題が、なんで起こってしまうのか社会構造や歴史、人間の特性など色んな角度から語られて説明されている、解説書という感じでした。
1年かけた対談をまとめたものらしいのですが、お二人の知識の幅がすごくて圧倒されました。引用が多いのですが、用語解説が丁寧なので理解しながら読むことができました。巻末の参考文献をお二人がそれぞれあげて解説されている部分も良かったです。さらに知見を深められそうです。
この本で印象に残ったのは、
日本は無宗教と言われているけれど実は、日本教とでも言うべき不文律が強くある。空気を読む、他人に迷惑かけない、など「ちゃんと機能する人間」だと証明し続けることが強いられている。
というところです。一冊前に読んだ「健康で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて」で書かれていたことだなぁと思い出しました。
処方箋的な結論としては、同意ではなく共感・対話、が大事ということかなと理解しました。 -
Posted by ブクログ
NHKEテレの放送内容を振り返りたくて読んでみたけど、各著者の論が放送よりも掘り下げられた内容になっていて読んで良かった。手塚治虫が日本のマンガに与えた影響を、物語構造論、表現技術論、ジェンダー論、宗教論の切り口でコンパクトにまとめている。手塚治虫は驚くほどの質を伴った量の作品を残している作家なので、手塚治虫論もまた沢山あるけど、本著はコンパクトに多方面の切り口でそれに触れられるので良いと思う。ここ近年では萌え系ファンの間で、ボクっ娘、ケモナーなどもすでに手塚が何十年も前にやっていたことが発見され話題になったが、新しい読み手の視点があればまだまだ手塚作品の魅力が掘り起こしできるかも知れない。こういう本をきっかけに手塚治虫の新しい若い読み手が増えるといいな、と切に思う。
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Posted by ブクログ
ひきこもりからポストモダン、ラカンを語り、現在はオープンダイアログを実践されている斎藤環氏と歴史学者の與那覇潤氏の対談本。與那覇氏は双極性障害で入院し、その体験を書籍にもしている人。何かの雑誌で対談を続けた物を編集したものかと思ったが、いわゆる語りおろしを加筆修正したもの。両者とも指向性が似ているのか、話が尽きない。これまでの両者の指向性が最終章のオープンダイアログの話に集約するが、ここにコミュニズムを絡めて語るところが味噌であった。ポストモダンやラカンなど難解な思想を絡めて語り合うので、ついていくのに骨が折れた。用語の脚注は豊富であるが、おそらく基礎知識がないと、この脚注だけでは不十分だろう。
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Posted by ブクログ
「語り起こし」というだけあって読みやすい文章でしたね。本人が書いているわけではなく、喋っている言葉をライターさんが編集して?本にしているわけだから…社畜死ね!!
ヽ(・ω・)/ズコー
まあ、川崎の事件でまた注目されつつある「ひきこもり」という現象ですが…中高年のひきこもりは大量に居るそうですよ! なんかテレビでもひきこもり特集とか言って、元ひきこもりの人にインタビューとかしているのを観たことがあるような…社畜死ね!!
ヽ(・ω・)/ズコー
あとがきでの著者の言葉が一番良かったですね! ひきこもりを予防する、まずはそういった考え方から脱却するべきだと…時と場合によっては引きこもってもいいんだよ、そういう社会の方が著者は引きこもりは激減する、とおっしゃっていましたな。確かにそうかもしれません! 引きこもりを異常者扱いするからこそ、ますます当人は委縮して社会に出てこれなくなるみたいな…そういった悪しきサイクルにハマる側面はあるかもしれないですね!
ヽ(・ω・)/ズコー
というわけで…社会が成熟化したからこそ、モラトリアムの期間が長くなって引きこもりが増える…そんな著者の分析には頷ける僕なのでした…。
実際に社会に出ている人だって「本当に大人か?」と言えるような人物いらっしゃいますからね。だから、引きこもりの方もそうビビらなくてもいいかと…思いますよね。そんな人でさえ働いているんだ、という感じで軽く流しておけばいいかと存じます。
さようなら…。
ヽ(・ω・)/ズコー -
Posted by ブクログ
ネタバレまさに、発達障害のある長男が、高校2年冬から急に
不登校 → 引きこもり → 転校...何とか通信制高校を卒業(←いまここ)。
引きこもり関係の教育テレビや新聞記事で、何度もお名前を拝見していたので、大型書店で探して購入。
実際に接している肌感覚からすると、齊藤先生の言葉やアプローチは、わが家の場合、まさに本物です。
具体的には
実践編 p110~
「そこにある」ことを認める
努力と激励の限界
一方的な受容の弊害
外傷の体験と回復
ひきこもりにおける他者との出会いの欠如
なぜ治療が必要か....
に書かれている内容が、身震いするほど共感します。
ひきこもりを「成熟の問題」と言語化し、定義されていることに、強く感動します。
かかりつけ医師や相談室所員の勧めてくる「完全受容」だけでは、家族を自分の手足の様に使うだけで、更に困難になってくる感触があります。
暴力も、下手な対応をすると、エスカレートしていきます。
家族が、いかに対等に、冷静に、本人と向き合い続けて、長期戦を乗り越えていくか...「他者による介入」をいかに有効に使うか...
対応に困っている多くの家族の方、関係機関の方々に、広く理解してもらいたい内容です。 -
Posted by ブクログ
目次
序章 なぜ「母殺し」は難しいのか
第1章 母と娘は戦っている
第2章 母の呪縛の正体をさぐる
第3章 女性ゆえの困難について
第4章 身体の共有から意識の共有へ
終章 関係性の回復のために
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<なぜ「母殺し」は難しいのか>
母と娘の関係は、家庭内に置いて特殊である。
同性であるために、心理的に距離が近くなること、そして、母親の支配が、父親の様なわかりやすい形ではなく、相手の同情と共感を逆手に取った、分かりにくい形をとることにも関係ある。
具体的には、「あなたのためを思って」との大義名分で、自分の幻想に基づいた一方的な奉仕を行い、それを拒むと逆切れしたり、自分が被害者となって、相手に罪悪感を植え付けるといったやりかたをとる(もちろん、悪気はない)。
さらには身体的な同調を基礎に支配が行われるので、支配から逃れにくい。
<母子密着と発達過程>
子どもが発達していく過程で、母親に「よいおっぱい(自分が求めた時に与えてくれる)」と「悪いおっぱい(前者の逆)」という分裂したものを投影する。一方で、自分が怒っているのに「相手が怒っている」と自身の態度を相手に転嫁するものが多い。
成長するとそれらはそれなりに投影されていくが、母子密着した過程ではこのような子どもかえりが起こりやすい。
問題のある過程ではおおむね母子密着が起こっている。
母子密着は娘でも息子でも起こりやすいが現代においておこりやすい「近親相姦」は母と娘である。
<近親相姦>
エリアチェフが提唱した近親相姦は3種類あり、
1・プラトニックなもの
2・父娘、母息子という異性の近親者同士
3・母と娘(父と息子)が同一の恋人を持つ
である。
この中で、抑圧と禁止を免れ得るのは1のみであり、まさにこれが母と娘の間に起こっていることである。
<母性と、マゾヒステッィクコントロール>
日本では長らく、「母は滅私奉公して子どもにつかえるものだ」という献身、受動性、そしてマゾヒズムに彩られた母性神話が語られてきたが、これは幻想である。だが、これが押し付ける役割が「母親」にプレッシャーと葛藤を与え、「子どもはコントロールすべきもの」というコントロール幻想を生む。
引きこもりの子供を持つ母親は、連日殴られながらもその幻想を体現している。
そこから離れるには母親も「自身の人生」をいきることではある。
また父親など「第三者」の介入も重要であるが、往々にして男性は家庭内の問題からは逃げている。
では、いったい母親は何を自身の価値観としているのか?
母親は自身の価値観に沿って子どもを育てるが、それは往々にして世間の目を気にする「世間教」となりやすい。そこでは「条件付きの承認(○○をすれば愛してあげる、という行為)」が跋扈し、ダブルバインドが往々にして見られる。
ダブルバインドとは、口では「結婚しなさい」といいながら、実際はまめまめしく世話を焼く、といった行為である。
世間に阿った、自己犠牲的な奉仕は罪悪感を娘に受け付け、非常に強力な楔となりうる。これを「マゾヒステック・コントロール」とよぶ。
息子も同様だが、男性は女性に比べ共感が鈍いので、若干軛が弱い傾向にある。
<ジェンダーと疾患>
男性と女性のジェンダーは厳然としてあり、それらは違った様相で現れる。
男性は社会的な同一性(能力を表し、有用性を表明する)を重視し、多くの女を所有する立派なペニスであれ、というプレッシャーを受け続ける。
一方女性は、他者に不快感を与えないしぐさや美しい容貌を重視する。
<母親の期待と支配、女性の空虚さ>
P189
女性性とはすなわち身体性のことであり、女性らしさは主として外見的な身体性への配慮です。それゆえ女の子へのしつけは、男の子の場合と異なり、他人に気に入られるような身体の獲得を目指してなされます。このため母親による娘のしつけは、ほとんど無意識的に娘の身体を支配することを通じてなされがちです。
身体的な同一化による支配において、母親は時に、娘に自分の人生の生き直しすら期待します。こうした支配は、高圧的な命令によってでなく、表向きは献身的なまでの善意にもとづいてなされるため、支配に反抗する娘たちに罪悪感をもたらします。
しかし、母親による支配が素直に受け入れれば、自分の欲望放棄して他者の欲望をひきつける存在という「女性らしさ」の分裂を引き受けなければなりません。それゆえ母親による支配は、それに抵抗しても従っても、女性に特有の「空虚さ」の感覚をもたらさずにはおかないのです
<ジェンダーとBL>
BL第一人者のよしながふみは以下のようにかかる。BLはジェンダーやフェミニスト運動と相性が良い。
P105
彼女は「ボーイズラブ」は「もてない女の慰め」であるかもしれない、ともいいます。なぜならこのジャンルは「今の男女のあり方に無意識的でも居心地の悪さを感じている人が読むものである」ためで、ただその居心地の悪さには、男女差があると彼女は指摘します。
P106
男の人のです抑圧ポイントは一つなんですよ。「一人前になりなさい、女の人を養って家族を養っていけるちゃんとした立派な男の人になりなさい」っていう。だから男の人たちて皆で固まって共闘できるんです。女の人が一つになれないって言うのは、一人一人がつらい部分がバラバラで違うんでお互い共感できないところがあると思います。生物学的な差では絶対にない。これは差別されている側は皆一緒ですよね。アメリカにおいて、全部合わせれば白人より多いはずのマイノリティーが文化が違うから一緒になれないのと同じです。
社会がジェンダーに基づいた圧迫を行うため、男性と女性では発症する疾患の差異がある。
そのなかで、男性はひきこもりが多く、女性は拒食症が多い。
男性のひきこもりは先に述べた社会的プレッシャーからの逃避である。一方の拒食症は何か。著者はそれを「女性性」からの逃避とみる。
拒食症患者の徹底的にダイエットを目指す体は、ふくよかさなどの「女性性」を拒否した形と解釈できる。
男性は異性との関係を夢見る「恋愛教」を断ち切るのは難しいが、女性はそうでもない。「恋愛教」にはまる人数も多いがそこから決別することが男性よりは比較的容易で徹底したものになりやすい。 -
Posted by ブクログ
第1章 「ジェンダー・センシティブ」とは何か
第2章 男女格差本はなぜトンデモ化するのか
第3章 すべての結婚はなぜ不幸なのか
第4章 食べ過ぎる女、ひきこもる男
第5章 「おたく」のジェンダー格差
第6章 男と女の「愛のかたち」
終章 「ジェンダー」の精神分析
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まえがき
第1章 「ジェンダー・センシティブ」とは何か
第2章 男女格差本はなぜトンデモ化するのか
男と女の最大の違いは「所有」と「関係」の違いである。
著者が述べる「男女差」は脳器質的な違いではなく、あくまでも、「ジェンダー(社会文化的性差)」に基づく。つまり男女差というのは、あくまでも関係性の問題である。
その「ジェンダー」の源は、ヘテロセクシシズム(異性愛主義)である。
これは「繁殖」を可能にし、なによりも欲望の根源である。
欲望に傷つけられまいとして規定を重ねていくと、人は簡単にシニシズム「冷笑主義」に陥ってしまう。これは間違った悟りのような境地を作り出してしまう。
この種のシニシズムの問題は、「自分は━否定することで完全に幻想免れている」という別の幻想を (ナルシシズム)に依存し過ぎてしまうことだ。極端なジェンダーしての果てにはこうしたシニシズムのは仲間っている。
しかし、ならば性こそがすべてというベタな極端化も困る。これではだれとでもセックスをしなければならないというカルトにおちいってしまう。
シニシズムとカルトの中間を目指すほどよい葛藤を可能にすることを著者は目指す。
第3章 すべての結婚はなぜ不幸なのか
少なくとも「個人」の側から見た場合、「結婚」ほど理不尽な行為はそう多くない。「ロマンティック・ラブ」という、非合理的でしばしば拒否してすらある感情中心に、生活のすべてが制度的に構築される。そもそも赤の他人である異性と生活を共にするというストレスフルな経験が、「愛」の名において合意に肯定される過程自体の不条理なのだ。
いわゆる「勝ち組」の成立には「結婚」は欠かせない。
そして、人は、自らのナルシシズムにかかわる「理想」については決して学習しない。
結婚生活における根源的な擦れ違い
女性は結婚を「新しい関係の始まり」と考える。
男性は結婚を「性愛関係の一つの帰結」と考える。
「釣った魚に餌をやらない」は典型的な男性の発想、つまり「所有」の発想である。彼らは、時間がたてば次第に夫婦関係のメンテナンス怠るようになってしまい、それどころか懸命にメンテナンスをしようとする妻の努力を無視したり、冷笑したりして相手にしなくなる。実はここには、男性の側の甘えかかる。それは「いったん所有されてしまった女性は、所有者のことを決して裏切らないだろう」という、およそ根拠のない確信だ。
伊藤整は、浮気をしない夫は、抑えがたい性の力と自責の念を必死にこらえているのだから、もっと感謝すべきだというのだ。
男性が女性以上に複数の異性との関係を求める傾向は、社会文化的な違いを超えて普遍的なものといってよいだろう(ex イスラム圏の一夫多妻制)。
男にとって最初の所有物だ。自分の領地に囲い込んで、思い通りになっているうちは何も言うことはない。しかし、ひとたび斎市が所有される立場に甘んじることなく自己主張を始めると、男たちの行動は決まっている。キレるか逃げるかあるいはその両方か。
結婚した女にとって、結婚したての男は、まだ「未熟な夫」でしかない。その夫が自分との関係の中で「最高の夫」へと変化していくプロセスこそが、女の希望である。しかし、男は逆だ。男にとっては結婚したばかりの妻こそが「最高の妻」なのである。性格的にも外見的にも。また、だからこそ男は結婚による所有欲の満足にしばし酔いしれる。それゆえ妻がいつまでも新婚当時のままであることを願う。しかし妻変わっていくだろう。外見も性格も、そして「夫に対する忠誠度」までも。それを夫にとって、所有する株の価値がどんどん下落していくに等しい恐怖である。
男にとって「異性の所有」は、彼が抱える所有欲のごく一部でしかない(ex トロフィーワイフ)。
一方なにとって「玉の輿」、すなわち「成功した男性との結婚」は、彼自身の成功と同等かそれ以上の価値を持つ。それは女性個人の評価は、「彼女が所有しているもの」よりも「彼女が関係する相手」によってなされる傾向があるためである。
女性にとって、子供に関しては、単なる所有を超えた、まるで自分の一部のような存在になりやすい。
第4章 食べ過ぎる女、ひきこもる男
<ひきこもり>
(男性が多いのは、男子に対する社会的プレッシャーが強いから)。
ほとんどの男子は、自らの広い意味での社会的立場を、自身とアイデンティティーのよりどころにするようになるのだ。
さて、「社会的立場」をごく広く考えるなら、家庭や学歴、職種や役職はもちろんのこと、知識の多さや趣味嗜好の良さは、人脈の広さなどまでが含まれることになるだろう。これらはいずれも、「関係」よりは「獲得・所有」されるべき達成課題だ。特筆すべきは異性関係で、これがかなり優先順位の高い獲得目標であることは異論は少ないだろう。ここにまず男性の「所有元気」がはっきり反映させられている。
僕はよく、男性は「立場」の生き物であり、女性は「関係」の生き物である、と言い方で説明する。男性は自分の立ち位置、つまり「立場」を所有していないと、決して安心できない。これもまた所有元気の一つの帰結だ。しかし女性は、男性ほど「立場」にこだわらない。女性は「関係」によって規模の支えを釣る傾向が強いからだ。
<摂食障害>
「女性特有」の疾患には次の二つの共通点がある。
・何らかの方法で身体にダメージを与えようとすること
・その行為が多かれ少なかれ他者へのアピールをはらむという意味で、関係性を志向していること
男子の場合は、自己評価を決めるのは一般的に「社会的スペック」である。すなわち知的身体的な能力やコミュニケーションスキルといった、能力的な側面である。外見的な側面よりは本質的機能的な側面にこだわりが強いともいえる。
しかし、女子の自己評価は、容貌のみならず髪型から衣服まで含めた外見的身体的要因によって大きく影響される。
女子の視線を意識し始めた男子は、会見以上に自分の能力にこだわり始める。
一方女子には外見よりも能力といった発想はあまりない。どちらかといえば外見重視に傾くことが多い。
そう、思春期の時点ですでに、男子は所有の思想に取り込まれている。地位や名誉やカネ、それらを最も多く所有しえた高性能のオスだけが、お気に入りのメスを所有する権利を手に入れる。こうした所有の思想は、思春期において徹底的に刷り込まれるのだ。
この時期は、男女ともに平等に学校的価値観をいこまれるが、これはかなり控えめに見ても「所有の思想」、すなわち男性的発想に近い。男子はそれを素直に受け入れるが、女子はすでに世界のダブルスタンダードARCOと理解している。すなわち、女子にとっては「所有」よりも「関係」の方がはるかに重要であること。関係において勝者たるには、しぐさや容姿なども含む「身体性」が何よりも重要であること。
このように思春期を境として、女子の身体へのこだわりは、男子よりもはるかに強いものに変わっていく。こうしたこだわりが、女性の美しさと女性の病の両方をもたらすのだ。
ヒステリーが問うのは「自分は男なのか女なのか」「女とは何か」という問いである。
第5章 「おたく」のジェンダー格差
おたくとは
虚構コンテクストに親和性が高い人
二重見当識ならぬ多重見当識起きると
愛の対象を「所有」するために、虚構化という手段に訴える人
虚構それ自体に性的対象びだすことができる人
おたくとはセクシュアリティーの問題でもある。彼らは自らの性欲をも、虚構によって満たそうと試みる。これは一種の特殊技能とみるべきだろう。
しかし彼らの大半は、実生活においてはごくごくまっとうである。
彼らの欲望の対象は、基本的にフェティシズムと同じである。戦闘美少女が典型だ。¢美少女という欲望の対象は、ほぼ完ぺきな虚構内存在にほかならない。現実には存在しないということが重要なのだ。
精神分析によれば、これぞまさしく理想的な欲望の対象ということになる。強烈に引き付ける外見と、実態がないがゆえに、その対象によって最終的な満足は決してられないということ。そこには、理想的なフェティッシュの条件が完ぺきに備わっている。
フェティッシュへの愛は所有によってしか表現されない。だからお宅は、しばしばコレクターとしての顔を持つ。フィギュアやDVDの収集は最も分かりやすい所有欲の表現だ。彼らはマニアほどコレクションに執着しない。むしろ彼らが執着するのは「視る」という行為そのものだ。そして言うまでもなく、「視る」ことは所有の第一歩なのである。
腐女子との比較でいえば、男性おたくの前にとっては、関係性のプライオリティーはそれほど高くない。単体の美少女イラストによっても十分に燃えは喚起されるもっと端的にえば男性おたく向けのポルノに「触手モノ」というジャンルがある。いうまでもなくそこにはいかなる「関係」もない。
腐女子とは「位相萌え」すなわち「関係性」に萌える。
男性おたくの欲望が「所有」へと向かい、腐女子の欲望は「関係」へと向かう。
男性は大正欲望する際、自らのポジションを定めることがどうしても必要となる。
ホモフォビアとミソジニーにに基づく男性同士と連帯。男性にとってこうした欲望の閉鎖系が、いかに心安らぐ場所であることか!そこではだれもが異性愛者としての欲望の額を名乗り、愛の対象の「所有」を試みることができる。
一方女性にとって、「立場を失う」というおそれは、さほど切実なものではない。
女性が何かを欲望する際には、自らの主体のポジションなどどうでもよくなってしまうからだ。ひたすら対象に没頭し、自らを空虚にしてのめり込む。「立ち位置」などといった観念的な要素がない方がはるかにその快楽を増すだろう。
やおい作品の作りて読み手のいずれも、ホモセクシュアルの性行為において、攻める側、受ける側の以西にも容易に同一化できるのだという。
フロイトによれば、関係性の最も基本的なありようはSM(性的だけに限らない)である。
「恋愛関係は”同性間”においてしか成立しない」
腐女子はカップリングに異様なこだわりを見せる。
第6章 男と女の「愛のかたち」
女性の恋愛は上書き保存。 反復の要素が含まれる(似たタイプばかり好きになる)が基本的に「一人」。
男性はフォルダ保存。同時並行が可能。
男性の浮気に世間は寛容、女性はそうでもない。
お父さんは若き日の「泣かせた数(=所有の量)」を誇り、お母さんは「大恋愛(=関係の質)」を誇る。
男女の関係の究極を「性行為」ととらえるのは、本当は所有原理(=男性原理)である。女性に性欲がないわけではなく、ただ彼女たちの欲望は必ずしも性交=所有を目指すものではなく、スキンシップを含む非定型なものだ。こちらは基本的に関係原理である。所有欲は単純でわかりやすいが、関係欲は多様で複雑なのである。
日本や韓国では、結婚後にジェンダー間の欲望格差があっさり露呈してしまいやすい。その結果、夫は家庭の外(仕事、不倫、その他)に所有原理を追求し、妻はわが子との密着関係において関係原理の再現を夢想することになる。日本と韓国ではセックスレスの問題が突出して多い。
「男性向けポルノコミックで、物語の頂点がセックスシーン、それも男性の写生シーンにあったことに比べ、レディコミでの、延々と続く性的快楽に女性が身をゆだねる様子が描かれているエンディングは、非常に特徴的である」
by 堀あきこ
さらに男性向けのポルノコミックでは、しばしば性行為の場面において男性の身体の透明化したり、顔や表情が描かれなかったりする傾向についてである。
読者が同一化するために女性の身体が描かれる女性向けのポルノコミックとは、この点が異なっている。男性は、性行為の現場ではかけた空白の位置を占めることになる。女性が身体イメージに対して同一化を行うのに対して、男性は女性身体と対峙する空白の「位置そのもの」に同一化する。
もし男女間に「完全な平等」が実現したら、それはセクシュアリティーの、いやそれどころか、欲望の消滅意味するだろう。
男は顔、女は声
「男は目で恋をし、女は耳で恋に落ちる」(ウッドローワイアット)
BL CD
視覚は常に全体のイメージ→ 所有欲につながりやすい
声=聴覚イメージに身を任せるとき、しばしば主体は声によって支配される。つまり、自分の体を明け渡す。
おとこソファ
仕事で疲れ切った帰宅した独身女性を優しく包み込み、いやしてくれる素敵な家具。ただしイケメン。
性の主体としての男性の位置は、欠如ないし空白である方がはるかに同一が起こりやすい(村上春樹)
ハーレム物の中心は「凡庸な男性」である。
一方女性はヒロインは恋愛に対して積極的にえがかれようと受け身的にえがかれようと、自由に同一化できる。
仕事やストレスに疲れた女性は、ときどき関係性の一方の局、すなわち受動態の極みに身を置いて癒されたいと考えている。能動的でしかありえない所有欲とは異なり、関係欲は受動性にもつながりやすい。
「おとこソファー」にいだかれる女性は、多くの美しい男性からサーブされる、すなわち欲望される主体として、自らは主体の位置をおりることができる。自分自身を空っぽにして、美しい男性たちの腕に空洞の体をゆだねること。
「おとこソファー」として描き出されるのは、ひたすら欲望のまなざしを集めるだけの、空っぽな女性身体である。これこそが究極の受動態なのだ。
終章 「ジェンダー」の精神分析
失ったペニス
男:それを「所有」する(持ちたいと思うペニスの象徴=ファルス)
女:それと「関係」する
哲学とは、言葉だけで閉じた世界を構築しようという試みだ。これはきわめて男性的な言葉の使い方である。なぜなら男が使う言葉は、それによって世界を構築する =所有するための道具にほかならないからだ。
これは女の言葉の対極にある。なぜなら、女は事の世界と関係するためだけに使用するからだ。男の言葉はしばしば独り言に近いけれど、女の児供は常に相手を必要とする。男は言葉からできるだけ情緒的なものをとりのぞこうとするか、女は言葉を情緒の伝達のために使う。この違いはきわめて多きい。
ファルスの享楽、他社の競落
享楽というのは、快感原則をも超えた強烈な体験のことだ。
苦痛と快楽が一体となったような、ずっと強度の高い体験。
ファルス的享楽というのは、無意識に蓄えられた緊張を、部分的に鎮静化するために放出されるエネルギーにあたる。このときファルスは、エネルギー放出の水門という役割を担う。まさに射精のイメージだ。
女性的な快楽は他者の享楽に近い。主体性を完全に放棄して、対象をまるごと深く受け入れる(=関係する)ことから生ずる享楽だ。
セックスにおける女性のオーガズムは男性よりはるかに深くて長いといわれる。これは限られたファルス的享楽と究極の他社の享楽との違いであり、そのまま所有原理と関係原理の違いに重ねられる。
どうしても立場を捨てられない男性は、ファルス的享楽にとどまらざるを得ない。これは所有原理の宿命でもある。
立場を捨てようとしない男性の主体は、自分自身が変えられてしまうことはひどく嫌う。そういう主体には、本当の意味で対象と関係することができない。できるのは自分を変えずに対象を所有しようと試みることだけだ。しかしどれほど頑張ってもすべてを所有することはできない。しかし男の欲望は常にすべてを求めてしまうがゆえに、部分的にしかかなえられない。その意味で所有原理はファルス的享楽を超えられないのだ。
これに対して、女性は容易に立場 (=主体)をなげうって、他社の享楽に身をゆだねることができる。女はすべてを求めない。自分が変えられてしまうことを恐れない。だからこそ、自らの主体を「無」にすることができる。
このような決定的がすれ違いがあるために、ラカンは性関係は存在しないと言い表した。
愛し合う男女が求めあって結ばれたとしても、その結合は「本当の結合」ではない。それぞれが互いに抱きしめているのは、現実の相手そのものではなく、相手に投影された欲望がもたらした幻想に過ぎない。つまり、男と女は、本当の意味で「関係」を持つことができないのだ。
女性の方が自らの身体コンディションにずっと敏感だ。
彼女たちが過敏ではなく、男性の方がずっと鈍感
身体を容れものと感じること、それを操縦しているかのような自覚。「擬体」感覚にも通じる。
隣のヤオイちゃん
「かわいい女の子」の身体が実は擬体で、興奮するとそのチャックが開いて、なかから性別不明の賀茂ナスに手足が生えたような生物が飛び出してくる。この漫画は婦女子の日常描くかに見せてついうっかり、女性性の一つの本質に触れてしまっている。
・女性の身体は「擬体」であること
・擬体に包まれた女性の「本体」は性別を超えた非定形の存在である
女性の身体は「擬体」であることには、複数の意味がある。
身体がみられるために存在すること、それが常に違和感をもたらし、時に「脱ぎ捨てたい」とすら感ずるようなものであること、にもかかわらず身体こそが女性性の本質であること、などだ。
何より一番重要なのは最初の見られるための身体である。
女性のナルシシズムは複雑な要素である。それには「他人の目から見た自分の身体」というイメージを媒介としなければならない。そう、彼女たちの自己愛には、新体制と関係性という二つの要素が、あらかじめ織り込み済みなのである。
それは母親と娘の関係が深くかかわっている。
身体を通した母親による娘の支配である。
娘を支配する理由の一つは「母性神話」である。
母親は妊娠の経験を通して「子供をコントロールすべきだという強い信念にとらわれ、過剰の責任感をもたらす。その子供はたまたま女性であれば、身体的な同一が加わることでさらにコントロールの欲望をする。しばしば「プラトニックな近親相姦」は父親の疎外が必要である。
アイデンティティーの混同を招きやすい関係でもあり、これが進むと、思考や感情のすべてをお互いに打ち明け、洋服を貸し借りし合うような親密さが生まれてくる。母と娘の体は共通であるがゆえに、二人の間のあらゆる境界と差異は、あっさりと消えてしまう。こうした関係は母と娘にのみ成立する。
そもそも「女性性」にはいかなる本質もない。それは徹底して表層的なものであり、それゆえに女性性は身体性に等しいものとなる。精神分析的には、身体とは想像的なものである。
女らしさは、外見=身体において他社の欲望より引き付ける存在であれ、という命令。内面においては自分の欲望を放棄せよという命令。この分裂を受け入れたのは、「貞淑な美女」である。とのイメージは矛盾をはらんでおり、統一化による支配によってしか伝えようがない。
こうしたしつけの過程で娘の新体制を作り上げるのは、母親の言葉である。
すべての娘たちの身体には、母親の言葉がインストールされ埋め込まれている。だからどんなに母親を否定し、反発しようとも、娘たちは与えられた母親の言葉を生きるほかはない。これが母殺しが不可能な理由である。
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Posted by ブクログ
最近受験生の我が息子は、少し遠くの塾に
日曜日の夜間に通っています。(そんなに必死に
受験勉強しているわけではないのですが)
そこで、夫婦も揃って息子を送り届けて
塾が終わるまで二人でスタバに行って2時間
くらい待っています。私はじっくり本を読める時間
なので割と気に入っています。そこで読み終わった
今回のこの本。
川崎の桐光学園高校に様々な
論客(日本のトップクラス)が特別の授業をする
らしいのですがその授業の内容が本になっている内容。
こんな高校生はとても幸せだと思いますが
多分自分が高校生だったときはあまり興味を
覚えなかっただろうなあと思います。
でも、それでもそういうことを言っていた人が
いたなあとかすかに覚えていたり、そのうちの誰かの
話す内容に衝撃を受けたりすることが少ない確立でも
あったら、それって素晴らしいことなのではないかと
思います。
内容的には、とても知的な好奇心や問題提起がなされて
いてとても面白い内容です。おっさんがよんでも
とても勉強になり、感動し、納得し、面白いと
思える本です。
ぜひともいろいろな人に読んでほしいと思います。
やっぱりとりわけ若い人に読んでほしいと思います。
高校生でなくても、大学生や社会人でも。