なぜ自分を責めてしまうのか、「私のせいだ」「私なんて生まれてこなければ」と感じてしまうのか、を親子(特に母と娘)の共依存的な関係性にスポットを当てて紐解いている。
著者がセミナーで話した内容をベースとしているため、心理学やカウンセリングに知見がなくてもさらさら読みやすかった。
最近話題のAC(アダルトチルドレン)とは、著者の定義では「現在の生きづらさが親との関係に起因すると認めたひと」としている。
そしてACの母親、毒親と言われる母親はDVの加害者と似ているところがある。「自分はこれだけ苦労している」「あなたのためを思って」と相手を非難するところだそう。これにはなるほど!と思わず唸った。
ここからは個人的な話になる。
今思えば、子どもの頃私と母も共依存的だった。
母はとてもしっかり者で、世間をなにも知らない私の指針となる人だった。というこの自己評価も、考えてみると母に小さい頃からよく「あんたは頼りないなぁ」と言われたことによる刷り込みから生まれた気がする。とにかくなにをするにも、母に相談して決めていた。
そして母は父の愚痴を子どもにこぼす人だった。父の不甲斐なさのせいでいかに自分が大変な思いをしているか、ということを私は小学生のときからよく聞かされていた。
私が20歳のとき、母は病気で亡くなった。とても悲しくて直後は心身に不調を来したし、今でももっと長生きしてほしかったと感じる。それでも、亡くなったとき肩の荷が下りた感覚があった。あぁようやく解放されたと。
ずっと、なぜそんなことを感じたのだろうと考えていた。しかし本書を読んで初めて、私たちは共依存的だったからかもしれないと気づいた。
私は母の言葉の影響もあって自己評価が低く、いつも母に頼っていた一方で、父への愚痴を聞くという役割をいつのまにか背負わされていた。それを父に相談できるわけもなく、今思えばとても閉鎖的な環境だった。
きっと私はどこかで母に支配されているような感覚を持っていて、母の死によってそれが解かれたことで自由になったと感じたのかもしれない。
子どもはみな親に多少なりとも支配されている。経済的にも、親に依存しなければ生きていけないし、それは当たり前のことだ。
けれど私は母に支配されていること、そして自分が母をケアする役割になっていることに無自覚だった。その怖さは感じる。母が生きていたら、大人になった今も共依存的な関係だっただろう。
今は私が母の立場になった。娘には夫の愚痴を垂れ流さないように、そして自己犠牲の気持ちで母親業をやって、娘が頼んでもいないことを「あなたのために」と押し付けないように気を付けたい。
これまでの経験を振り返っても、子どもや社会的弱者に向けて「あなたのために」と行動することは確かに気持ちがいい。自分が役に立っている実感があると、胸を張って生きていていいんだと自分を認められるから。
だけど自分の感情や欲望をおざなりにしてまで、「あなたのために」を続けていると自己犠牲になってくる。そして「あなたのためにやっているんだから」と押し付けのような形になって、それに応えること、従うことを相手に求めてしまう。
子育てはその塩梅がむずかしい…
自己犠牲にならないためには子どもに全ての時間を捧げる必要はなくて、親は親のやりたいことをやる、子どもに求められたときにしっかり対応できるようにしておく、ということが肝要かもしれない。
あとは著者も言うように、子どもに見えないところで夫や友人と愚痴を言い合ったりできると精神的に安定しやすいと思う。
なるほどと唸ったところメモ✍(今回も多い!)
・自分の限界は甘く見積もった方がいい。わがままかな、と思えるくらいがちょうどいい。
・年老いたお母さんと、一緒に暮らさざるを得ないという人も多いです。そのときは、自分と親との関係を話せる安全地帯を持つ。
安心して話せる自助グループに行って、週に1回でもいいから、その2時間だけは「いま、とっても苦しい」って語る。誰からも批判されない場を持つだけでも、残りの時間を耐えていけることがあります。
・おとなになるということは、親のせいにしない、ひとのせいにしないことだ、と今でも言われます。なんてヘンなことでしょう。
だって親のせいで生まれたわけですし、親のせいで名前が決められたのです。親のせいであの家族を生きるしかなかったわけでしょう。
・自分のやったことを弁護するときに、必ず「悪気があったわけじゃない」と言うでしょう?でも、悪気がなくてやるのは、最悪なんですから。悪気があるほうが、ずっといい。
この世に生きているかぎり、誰に対しても加害をせずには生きていけません。それを自覚してるかどうか。
・宗教がないと言われているこの日本において、罪悪感はどこから来るのか。
私は、その正体は、世間もしくはいわゆる「普通である」という常識だと思っています。同調圧力の中で私たちを包んで押し潰そうとするものが、実は罪悪感の正体じゃないのか。
・母性愛は、「愛」と「自己犠牲」のふたつを柱にしています。
この親の愛と自己犠牲を「要りません」と言った途端、私たちは人でなしになるんです。母が「あなたのために」とすべてを犠牲にするのを、要らないと言った途端、その子どもはもう、人間じゃないと批判されます。
・妊娠して子供を産んだ途端に、なぜか子どもには無償の愛を提供をしなきゃいけない。
母たちは、どんなにがんばってもゴールはない、表彰されることもありません。そんなふうに、勝手に無償の愛の供給者とされてしまうことへの恨みが、どこかにあると思うんですね。
これは、娘に向かうんです。「私は自分を犠牲にしてるのよ」という思いは、被害者意識に満ちています。
・無償の愛こそ母の愛であると、母親が言うわけです。つまり、「私はすべて、あんたのためにやってきたのよ」と。
そうすると、娘がそれを内面化する。母がああいうふうになったのは、私のためである。裏返すと、私が母をあのようにさせた、母が不幸なのは私のせいである。
これは娘からすると、いつのまにか背負わされている巨大な負債感なんです。負債である自分は、そもそも生まれてはいけなかった。このことが、自責感のひとつの大きな源になっているように思います。
・娘もしくは息子から母への罪悪感の背後には、父がまったく機能しないということも、私は付け加えなければいけないんじゃないかと思う。
「娘には娘の人生がある。言いたいことがあれば、夫である僕が聞くよ」と正面から妻と向かい合っていれば、娘から母への、もしくは息子から母への罪悪感は、すこしは軽減されたはずです。
・子どもをケアするとき、そのなかに必ずパターナリズムが忍び込んでいる。
パターナリズムというのは、「相手と自分の意志は一緒だという思い込み」と、「自分は善意と良識に従った行為をしている」のふたつからできています。
・子どもは何ひとつ選んでない。性別も、名前も、顔も、身長も。生命すら選んでいない。この根源的受動性というのは、子どもとともに語られないといけない。
こういう世の中だけど、私はあなたを産みました。あなたに責任はありません。産んでしまったことを、私はちゃんと認めてますよ。
だけど親は「産んでやった、ありがたいと思え」「お金をはたいて大学まで出した。だれのお金だ」と言う。だけど、根源的受動性を考えたら、そういうことは言えない。言ってはいけない。
・もうひとつ言っておきたいのは、自責感はしばしば反転するということです。
この人たちは、ずっと自分を責めてきた人だから、正義というものにすごく敏感なんですね。だから間違ったことを許せない。あなたを責めるのは正義からであるというように、外から見ると、ものすごい攻撃的になったりする。