アジールとしてのカウンセリング
愛情はぐくみ思いやり温かさと共に語られて来た家族の関係を一切消去し、代わりに、
支配、力、被害加害、戦略、駆け引き、作戦といった言葉を登場させる、いわば、心理学から政治学へのパラダイム転換。家族はこのように政治的に解釈されることで変革の可能性、起動点が見えてくる。
137.138ページ。
世界観が、ガラリと変わるところ。
具体的には、私を主語に、私を語る、他人行儀な話し方を家族にすることで、境界をつくる!
もし大きな問題を抱えて停滞萎縮している方がいたら、まるで福音のようなことばであり実践できる道ではないだろうか。
信田さよこ先生節で、その世代であればこその、
明るいことは単にバカであることの証明でかり、肯定することは表層的で思索しないことの表れだった、とズバズバ書いておられるのも面白いなあ。
今の世の中、中身のない、バカっぽい、ネアカに通じる自己肯定感教が蔓延していてそこからはなにも生まれてこないのに人生観世界観自分の個性や信条なしの外形標準的な自己肯定感への持ち上げ、なぞりあげがあふれている。経済と政治の問題として。搾取の方法論として。
アディクションは心の中の問題ではなく行為の問題である、と明言し、心理学や司法や犯罪やさまざまな垣根棲み分けを、暴力、アルコール依存なもどの行為としてとらえ、こころの問題に還元することを提唱されている。歴史の問題でもあり、政治やイデオロギーの問題の中でやりこめられていることもある。被害者は被害者になるなという加害目線でのキャンペーンなど、社会、国家の側の言い分、誘導である。
被害者が自己認知する時にうまれる被害者の強さ意思の表明や明確性。被害者にならないために、とか、盗撮に気をつけましょうというなめたキャンペーン、プロパガンダをぶっつぶし、家父長的暴力、家庭内暴力、性暴力そして最近は認知度が上がりつつある、暴力を伴わない夫婦や恋人の関係性に基づく暴力に抵抗し告発しレジストしていきたい。
どのページも示唆に富み共感と勇気を呼ぶ。238ページ、後書き前の最後のパラグラフ、DV被害からの回復とは、被害者という自己定義を脱することを意味するのだ。始まりがありそこから脱する長いプロセスの一時期、レジスタンスのために必要なのが正義である。正義に寄りかかることで味わう「正しさ」という力に時として被害者は眩惑される。この危険性を自覚するために、思い出すべきは、城跡をみればそこに残っているのは礎石だけであり、闘いのあの砦はいつか必要なくなるのだ、ということば。圧巻。
知識は連鎖する。つたない知識への欲望からここへ辿りつけたことに感謝しかないし誇りに思う。
たまたまなんてことはない、伝統的なんてこともない、国家権力の意志として明治以降に形成され強固に守られてきた日本の家族観、おかしいと子どもののころから感じていたことが、積み上がるレンガのように、そうだ、構造的だ、たまたまなんかじゃないし伝統やあたりまえでもない、前に進め、認めるな、家、親、子の問題は国家の暴力につながるという自覚を強くしろ、意識しようと改めて思う。たまたまなんかじゃないんだ。