斎藤環のレビュー一覧
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読んでいておもしろい本ではないと思う。その理由は、本書の大半がいじめに対する実践的な対応法が書かれており、その内容も、いじめは発生する前提で(根絶は不可能という前提で)被害者中心の対応をすべき、という、「それはそうだろうな」とうなずける、いわば普通の内容である。
しかし、現状のいじめへの対応として、そのような現実的かつ常識的に思える対応さえなされていないのだろう。それは本書内で紙幅を割かれる旭川市いじめ自殺の経緯を読んでもよくわかる。
ちなみにラストは著者お得意のオープンダイアローグで終わる。内容的にはほかの著書とおなじくオープンダイアローグの説明なので、読んだことある人は飛ばしていい。 -
Posted by ブクログ
私も今般猫飼いの仲間入りをしたわけだが、この世には熱狂的猫好きが多いのだなと改めて思わされた。
猫の魅力などは、別に社会学的分析をしないでも分かりきったものであるため特に知的興奮は感じられなかったし、猫カフェや猫島の分析にも特に新しい発見はない。
面白かったのは、最後の「猫とどのようにしてコミュニケーションが取れているといえるのか」という論考だった。
「文明と自然の関係を問う理論社会学」と言われてもピンとこないしあまり関心も持てそうにないが、自然=猫として読み解けば分かりやすくなる、という筆者の指摘はその通りだ。
「コミュニケーションとは何か(何をもってコミュニケーションが成立しているとみなすのか)」や「コミュニケーションの主体とは何か(何をもってコミュニケーションの担い手と認めるのか)」という哲学的問いも、猫で考えると途端に面白かった。
夜11時の、筆者の「新橋の時間(晩酌タイム)」と猫たちの「おやつの時間」が「何か楽しいことがある時間」として共有されているというのはとても微笑ましく、しかもたしかにコミュニケーションが成立しているなと思わされる。
それでいうと、うちのねこもご飯の用意をすると走ってくるし、夜ケージに入れたら寝る時間だと理解して騒がず眠ってくれる。これってコミュニケーション成立してるのか!となんかうれしくなった。
今後も猫社会学の発展を見守りたい。学問的に強度のある猫社会学の展開を待っています。
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Posted by ブクログ
精神科医が書いているので、投影とか転移とか、妄想分裂ポジションとかたくさん出てくる。説明自体はわかりやすい。
母娘問題の根深さはまさに恐怖だ。この問題の構造を理解した上で、子育てするのとしないのでは、母娘にとって全然違う未来になりそう。母娘問題、避けては通れないにしても、自分自身を戒めながらも、自分を責めすぎずに子育てできたらなと思う。
マゾスティックコントロールについての概念が面白かった。
鶴女房の姿は、日本人が理想とする「お袋」の原型。献身的に我々を支えてくれる母親への「申し訳なさ」ゆえに、母親からの呪縛から逃れられないという概念。母娘関係の特異性を浮き彫にするうえでは、有用と考えられている。
マゾスティックコントロールに反応するためには、相手の努力を理解し「申し訳ない」と感じるだけの鋭さが必要。
息子たらはこうした感性に乏しい。母親の献身に甘え、依存しつつも、それをあたかも空気のように当然のもととみなして、さほど「申し訳ない」とは感じない、この「鈍感さ」のかなりの部分は、女が男に奉仕するのが当然とみなすような社会文化的な背景にもよる。
「父親殺し」によって結束を深めた男たちの背後には、永遠に殺しあうことなく、関係を深めあう女たちの共同体がある。
→これが「母親殺し」を不可能にしいるのではないか。
この不可能性は、男たちの共同体による抑圧によるところが大きいのかもしれない。
母娘関係においては、奉仕と支配、感謝と怨念とを曖昧化する作用がしばしば働きやすい。
「支配の意図がない支配」を本当に支配と呼びうるのか?という問題につながりやすい。
母親の過剰な責任感の話も参考になった。
子どもに対する過剰な責任感は、あきらか母親をとりまく政治的な状況からもたらされている。
妊娠中、子育て中に経験を重ねながら、多くの母親は「自分が全くの無力だと感じているのに、それでも子どもに対して全能のようにコントロールできると捉えている」という矛盾の中で宙吊りになっている。どんなにそれが不合理であると頭では理解していたとしても、自分が常に子どもをコントロールしているという考えにいつの間にかひきずられてしまっている。
決して忘れられるべきではないことは、私たち自身がこうした母親にちの過剰な責任感を煽ってきてしまったたという事実。
ひきこもりの臨床現場は、責任感や罪悪感の強すぎるの母親と、ひたすら逃げ腰の父親とう組あわせが圧倒的。
子どもから暴力そふるわれても、母親はひたすら庇い続け、抱え続ける。ここには明らかに子どもの人格に対する責任感とコントロール幻想が潜んでいる。
「発達障害」という診断がつくことによって、多くの母親が免責され、解放されるという事実があるを忘れてはならない。 -
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ネタバレ・心の病気でクリニックに通い出すと後悔するタイミングがくる。全然治らない、もっとひどくなってるんじゃないか。そんなときに乗り越える手段が対話である。この人ともっと話してみたいと思える人に出会えることが、病気の有無に限らず、今生きることに悩む人の助けになる。
・過去の悪い点のみを何度も反芻して悔やんだり、未来を先取りして不安になる思考より、意識を今ここに集中させて常に現在しかないとするメンタリティが有効になる可能性がある。(ヤンキー的寛容が鬱を癒す)
・愛情と承認の区別 愛は負けても親切は勝つ
愛情は最終的に相手との一体化を望む感情であるため、治療上はイネイブラーの側面があるため歓迎できない。
・承認は相手を自分と独立した個人としては尊重し肯定すること、友情に近い。
本来友達とは条件なしの付き合いのことであるという認識を持ち、人には共感を通して存在を承認してもらう権利がある。
・精神分析の有名な概念エディプス・コンプレックスをはじめとして、精神分析は悩みの原点を本人の家庭環境に見出し、治療していく理論と思われているが、あくまで心の状態を解釈するためのツールであり、鑑別や区分をするための学問ではない。(物語に基づく医療の系譜)
・心が病むのは親が原因だという精神分析の通俗化ぎ、日本では親の抱え込みや否定につながり、逆に当事者を生きにくくしている側面がある。
毒親ブームにより、親子を善悪二元論で割り切る風潮が強くなっているが、単に被害者意識を持つよりも、その気づきを家族との対話のきっかけにできる
と良い。
・標準家族への幻想の息苦しさはすでに現れ始めている。血縁という必然を求めるよりも、偶然出会った人とでも、関係を作り出して一緒にいられる技法の方が大切である。
・引きこもり脱却のカギ「適度なあきらめ」(できないことを認めないと、先に進めない)
・無限の可能性を煽る教育の問題性:子供には成長過程で、自分はこういう存在で、それ以外にはなれないと自然な諦めを獲得していく。それは幼児期の親子関係だけでなく思春期を通して他者との出会いによって繰り返されていく(主体的なあきらめ)
・発達障害が時代を象徴する病のように語られる背景に、産業構造の変化に伴うコミュ力総必修社会の成立がある -
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薄い。全111ページ。本文(p.9~55)と解説(解説Ⅰ・Ⅱ合わせてp.61~111)で、文量がほぼ同じ(解説のほうが若干長いか)。解説は養老孟司と斎藤環。この本の著者名としては名がないが、これは養老・斎藤も著者と言っていいくらいだと思う(ので、本投稿のタグには二人の名前を追加した。私の中では著者扱い)。
ともにドイツに住んでいたユダヤ人である(後に二人とも亡命することになる)物理学者・アインシュタインと心理学者・フロイトとの間の“戦争”を巡る往復書簡。アインシュタインからの問いに対するフロイトの答えは、最後のほうにある一文「文化の発展を促せば、戦争の終焉へ向けて歩み出すことができる!」(p.55)に集約されていて、解説Ⅱ(斎藤環)でもこの考えはある程度支持されているように見える。この前段階として、“戦争”というものを、権力・暴力でもって欲動を実現しようとする行動の行き着く果てとして捉えたうえで、「文化は欲動をコントロールする」という命題を心理学的に求めている(文化が発展すると人々が子を産まなくなる――つまり少子化――はその一例だそうだ)。
戦争は欲動の暴走だ。欲動は文化の力で抑えられる。ゆえに文化の発展でもって戦争は抑えられる。こんな三段論法。
昨今のイスラエル・アメリカ近辺のニュースを見ていると、“本当かいな?”と思うところ。この二国は、全地球の中でみれば文化の発展した部類だと思うが…。少子化やZ世代云々から、文化の発展による欲動の制御(減衰)は今も当てはまると思うが、とすれば、戦争の捉え方が違う/違ってきているのだろうか(国家の行動は、国民個々人の欲動とは違うところから生じるものかも知れない)。 -
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一度目と二度目の世界大戦の間に、国際連盟の依頼によりアインシュタインとフロイトが交わした戦争に関する手紙。
言うまでもなく、当時最高の知性が話し合っているわけだが、たった一往復の手紙のやり取りという性質上、議論が大きく深まることもなく終わった印象だった。印象に残ったのは、アインシュタインによる以下の記述である。
「『知識人』こそ、大衆操作による暗示にかかり、致命的な行動に走りやすいのです。なぜでしょうか?彼らは現実を、生の現実を、自分の目と耳で捉えないからです。紙の上の文字、それを頼りに複雑に練り上げられた現実を安直に捉えようとするのです」
認知戦という言葉を最近よく聞く気がするが、一次情報に触れず、二次、三次情報に依存し、自身の知性に過度な自信を持ち、点と点をありもしない線で結びがちな「知識人」こそ認知戦の餌食になりやすい気がする。
結局、国際連盟は第二次世界大戦を止めることは出来ず、その後に出来た国際連合の限界も、本レビューを書いている2026年時点では現在顕になっている気がする。戦争を人間社会に当然のものと認識することは容易いが、今一度立ち止まり、アインシュタインのように「ひとはなぜ戦争をするのか」という子供の様な問いを各個人で考えることは決して無駄ではないように思う。
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母親は役割に過剰に同化することによって、娘は役割用に担い切れないことによって母娘関係が問題化することが多い。
だとすれば、母親変化を、痛みは自律執行すれば良い。ある関係において、問題が生じた場合、やるべきことはつまるところ「対話」と「距離の調整」に尽きる。
子どもを持ってみるまで、我が子が自分の中にどんなことを引き起こすのか知ることはできない。
母親が感じる痛みや悲しみの大半は自分の子どもをコントロールするべきだという信念から生まれる。
ほとんど全ての娘はある時点で母親に対して失望を感じる。それは子育てにつきものの、不可能で消耗させられる期待に応えられる人など誰もいないから。
母親が娘に与えられる1つの素晴らしい贈り物は、出来る限り自分自身の人生を生きることです。それは同様に、息子や自分自身に対する贈り物でもあるのです。
母が仕方なく私を育てたように、私も仕方なく母の世話をするのだろうか。「しかたなく」の連鎖が困難な関係を成立させている。それに対する抵抗力は男性より女性の方が弱い。