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昔の遊女は半端ない教養があった人でそこから文化が生み出されるレベルだったらしい。遊郭に行く男性も着物や髪型、教養とか求められることが多すぎて一部の人しか行けなかったらしい。そもそも文化というのは人間の三大欲求の周辺から生まれるっていうのがなるほどと思った。講談社現代新書読み放題88冊目で一番面白い本に出会えた。
芸能と性風俗は元は同じものだった。
田中優子
1952年神奈川県横浜市生まれ。法政大学社会学部教授、社会学部長等を経て法政大学総長(2021年に退任)。専門は日本近世文学、江戸文化、アジア比較文化。2005年紫綬褒章受章。著書に『江戸の想像力』(ちくま学芸文庫/芸術選奨文部大臣新人賞受賞)、『江戸百夢 近世図像学の楽しみ』(ちくま文庫/芸術選奨文部科学大臣賞、サントリー学芸賞受賞)など多数。近著に『日本問答』『江戸問答』(岩波新書/松岡正剛との対談)など。
吉原は現在の浅草寺裏、台東区千束3、4丁目あたりに位置する日本有数の歓楽街。
二代目吉野太夫
(にだいめよしのたゆう、本名:松田徳子、慶長11年3月3日(1606年4月10日) - 寛永20年8月25日(1643年10月7日)) は六条三筋町(後に島原に移転)の太夫。生まれは京都の方広寺大仏殿(京の大仏)近くと伝えられる。実父はもと西国の武士であったとも。六条三筋町「七人衆」の筆頭。また夕霧太夫、高尾太夫とともに寛永三名妓といわれる。彼女の命日は吉野忌として俳句の季語にもある。吉野太夫は京都の太夫に代々伝わる名跡であり、初代から数えて10代目まであったと伝えられる。初代吉野太夫は安土桃山時代の人物で、本阿弥光悦などの文化人と交流があったとされており、現代においては吉川英治作の『宮本武蔵』における登場人物として知られている。また末代の吉野太夫は寛文期もしくは延宝期(1670年代頃)の人物であったとされている。吉野太夫は、その職性から2代目以外の人物像については詳細不明となっており、本項では特に断りのない限り2代目の吉野太夫を記載する。幼少のころに禿(かむろ、遊女の世話をする少女)として林家に抱えられ、禿名は林弥(りんや)といった。14歳で太夫になる。和歌、連歌、俳諧に優れていて、琴、琵琶、笙が巧みであり、さらに書道、茶道、香道、華道、貝覆い、囲碁、双六を極めたという。また太夫18人の絢爛豪華な衣装を纏う集いの中、寝床から寝乱れ姿で出てきたにもかかわらず圧倒的な存在感を放ったといわれるほどの美貌を備えていた。才色兼備を称えられ国内のみならず、遠くは明国にまで「東に林羅山、西の徳子よし野」と聞こえていると言わしめるほど名を知れ渡らせ、馴染み客には後陽成天皇の皇子で近衛信尹の養子である関白近衛信尋や、豪商で、当時の文化人の一人である灰屋紹益がいた。寛永8年(1631年)、退廓・紹益と結婚。時に26歳。寛永20年8月25日(1643年10月7日)に死去、38歳であった。彼女は日乾上人に帰依しており、鷹峯(京都市北区)にある常照寺に朱門を寄進したといわれる。太夫自身の墓もここにある。彼女をしのんで毎年4月第3日曜日に花供養が行われ、島原から太夫が参拝し訪問客に花を添えている。吉野はまた、慈悲深い女性として時代を経てなお賛辞されている。吉野を見染めた刀鍛冶職人駿河守金網の弟子が爪に火を灯すように上げ代53匁を貯めて島原に向かうものの、太夫の相手となる格に遠く及ばず門前で追われる。それを不憫に思った吉野はその男をひそかに招き、思いを遂げさせたという。井原西鶴の『好色一代男』では、それを目にした主人公の世之助が「これぞ女郎のあるべき姿」と嫁にひくことになっており、「なき跡まで名を残せし太夫。前代未聞の遊女也。いづれをひとつ、あしきともうすべきところなし。情第一深し」と残している。そのほかにも『好色一代男』には世之介との結婚を親族から猛反対された吉野太夫の話が出てくる。吉野は「正妻でなくともいいからたまに通う妾にしてください」と世之介を説得するが、聞き入れようとしない。そこで吉野は一計を案じ、世之介に親戚一同に「吉野に明日限りで暇を出すことにした。ついては花見の宴を催すのでご婦人方もぜひ」と触れ状を出すように頼む。親戚一同は二つ返事でそれぞれ駕籠に乗りやってきた。皆にちょうど酒がまわったとき、吉野は下女のみすぼらしい恰好をして手には酒の肴をもち、親族の中でも一番年を取った者に向かって「自身がこのような場所に出ることも憚られますが、今日限りでお暇をいただきましたのでお名残りに。」と丁寧に暇乞いの挨拶をした。その後吉野は「時計の調整」(当時家に時計を持っている人は少なく、また調整には技術がいったのでそれだけでも知識人)「親族女性の娘の髪や化粧をととのえたり」「箏を弾き、笙をふき」「茶をしほらしく点て花を活け替え」「話題は風流事からはては家計のやりくりの話まで」人をひきつけて離すということがない。ほんの少しでも吉野が席を離れると、吉野がいない、吉野はどこへ行ったと人が探して回るという有様。このような女性は親戚中探してもいないくらいだ。素晴らしい女性なのになぜ離縁するなどというのか!と親族の女性たちから抗議の連絡が来たため、正式に祝言をあげることとなった。その際、ご祝儀は山のように積まれ、白髪になってもともに長生きしようと皆で祝った。あくまで物語のエピソードだが、ある程度の実話にもとづいたものと考えられている。吉野太夫が登場するテレビドラマ『吉野太夫』(1970年、フジテレビ おんなの劇場 演:山本富士子)『武蔵 MUSASHI』(2003年、NHK 演:小泉今日子)『宮本武蔵』(2014年3月15日 ‐ 16日、テレビ朝日系列 演:中谷美紀)
遊廓と日本人 (講談社現代新書)
by 田中優子
平安時代にはまだ遊廓というものがありませんでした。しかし遊女はいました。江戸時代のように都市に「廓」を作っていたのではなく、船で移動しながら楽器を奏で、唄を唄い、夜は枕を並べたのです。
遊女たちは船で移動しながら美しい調べを奏で、その歌声は美声で知られるインドの黒ほととぎす「 俱尸 羅」のようだと書いてあります。
一六〇三年、江戸幕府が開かれた年に、阿国を中心とする一〇人ほどの芸能集団が、北野天満宮で歌舞伎の起源である「阿国かぶき」を上演していました。阿国が男装し、男性が女装をして演じるいわばミュージカルです。ただしこのころはまだ三味線が使われていません。能と同じ鼓や大鼓(おおかわ)、笛が用いられていました。
そして一六〇八年、いよいよ、初めて三味線が導入されました。三味線を弾く「和尚」と呼ばれる遊女を中心に、複数の遊女が、輸入の香木である伽羅を焚きしめた鮮やかな中国製の絹織物の着物を着て、踊りまわるのです。その劇場いっぱいに広がる伽羅の香り、音、リズム、色に、多くの人が夢中になりました。この熱狂が後に、「女かぶき」の禁止につながったのです。
この騒ぎは京都だけではなかったようです。一六〇七年には徳川家康が駿河からかぶき女を追放したからです。次の年、江戸でも舞台に立つ多くの遊女が追放されています。一六一二年には、幕府はかぶき者約三〇〇人を逮捕、処刑しています。これは遊女たちではなく、阿国と遊女たちがその姿を真似た男性のかぶき者たちでしょう。しかし、これらのかぶき者や女かぶきの人気が引き起こした騒乱が、吉原遊廓成立のきっかけだったのです。
さて、こうして元吉原ができました。一六二四年には中村勘三郎が芝居取り立て願いを許可され、中橋南地に櫓を上げます。これが「若衆歌舞伎」の始まりでした。いよいよ一六二九年、女かぶき、女舞、女浄瑠璃が禁止されます。一六三二年には中村勘三郎の猿若座が中橋から禰宜町(堺町・葺屋町) に移転し、元吉原と隣接することになりました。京都では一六四一年、京都六条三筋町の遊女が島原へ移転させられ、島原遊廓が成立します。こうして一六三〇年前後に、女性を排除した芝居町と、女性だけの遊廓が成立したのです。
そして客の予約や食事や休憩の場である「茶屋」という重要な場所がありました。そこで客は着替えをしたり、食事をしたり、芸者を呼んで宴会をしたのです。その後、遊女屋に上がって、さらに遊女と飲み、床をともにしました。これらの組織が、遊廓と遊女の美麗や品格や高度な遊興を維持するために、呉服屋、香木屋、髪結い、櫛こうがい業者、生花業者、化粧品業者、芸者衆、仕出屋、絵草紙屋そして多くの従業員に金を支払い、そのお金が江戸を巡ったのです。
客は遊女に会うためにその遊女に支払っているつもりですが、抱え主はすでに遊女の家族にまとまった金を渡しており、その借金の返済金を、客の支払いから計算します。返済金が借金の額までいけば、遊女は遊廓を出て行くことができました。逆に言うと、それまでは厳しく監視され、出て行くことはできませんでした。
つまり、大きなお金が動くということは、そのお金に縛られている人がいるということです。それが遊女だったのです。今私たちは「人権」という、とても大事な思想を持っています。個人の人権は人類の普遍の価値なのです。お金が巡って都市全体を豊かにするのは良いのですが、そのために一時的にせよ組織から自由を奪われる人がいる、ということは、近現代社会では許…
ところで、何を目的にこの町は造られたのでしょう。「遊廓」というわけですから、「遊」のために造られた「くるわ」です。「遊」は遊ぶ、という意味ですね。しかし「遊」にはもうひとつ意味があります…
これは、この吉原遊廓に暮らす遊女たちの由来と関係しています。第一章で書いたように、遊女は旅をしながら芸能を見せ、同時に色を売った女性たちのことだったのです。 現在の芸能人は芸能を売りますが、色は売りません。美しさを売りますが、身体は売りません。ではなぜ前近代の…
たとえば茶の湯という文化があります。手順、作法、着物、美意識、建築、諸道具、庭園、絵画、生け花、料理、季節感などの総合空間芸術であり時間の芸術で、現在でも複数の家元がおり、高価な茶碗や諸道具が伝えられています。この文化は抽象的…
歌舞伎や日本舞踊という伝統文化があります。これらは音楽と踊りと演劇で成り立っていますが、やはり音、響き、リズムなど五感の快楽を前提にしています。芸能が今のように遠い舞台の上やテレビやスクリーンの中ではなく、座敷に呼んで間近に楽しむものであった時代、その迫力と魅力を一時的にであっても独占したいと思うことがあっても不思議ではありません。 遊廓は、その移動する芸能者である遊女が選ばれて集まる場所として作られました。その時、その空間は普段の社会とは異なる「別世界」になったのです。その記憶から、吉原に入るまでの道程は、特に川を使って…
本書も、遊廓の謎をすべて解くことはできません。膨大な資料が存在し、そのすべてにわたることもできません。しかし、なぜ「あってはならない悪所」であるのに人を魅了したのか、それを探ることにします。
さて、ここは「別世」だと書きましたね。この町に入るには、三つの方法がありました。 多くの商人が住んでいた日本橋や大伝馬町から吉原に行くとすると、駕籠に乗って行く人もいます。歩いて行く人もいます。もっとも多いのはいったん柳橋に出て猪牙舟という、猪の牙のような形の小舟に乗って隅田川を上り、山谷堀という狭い堀に入り、途中でそれ以上進めなくなるので舟を下り、そこから「土手通り」と呼ばれる日本堤大通りに出て歩く、という方法です。
吉野太夫
江戸時代の京都の島原遊廓に、吉野太夫という人がいました(図3‐1)。太夫(のちに「花魁」「呼び出し」とも言う) とは、遊廓で最高位の遊女のことです。吉野太夫はある豪商から結婚を申し込まれました。しかしその豪商の親族に反対されましたので、諦めて郷里に帰ることにしました。そして最後だから、とその親族の女性たちを集めてもてなしたのです。 前掛けをして自ら立ち働き、女性たちが集まると琴を弾き、笙を吹き、和歌を詠み、茶を 点て、花を生け、時計の調整をし、碁の相手をし、娘さんたちの髪を結い、面白い話で人を引き込みました。
そのような吉野を見て遊女に偏見を持っていた親族の奥方たちは、吉野の面白さ、やさしさ、品格、教養にすっかり引き込まれ、むしろ結婚を勧めるようになりました。この吉野は実在の人物で、京都の文化人で豪商であった佐野紹益の正妻になった人です。
実際、多くの太夫は和歌を詠み、手紙を見事な筆跡で書きます。俳諧、狂歌もでき、漢詩を作ることもありました。平安時代の貴族のように髪や着物に伽羅(輸入された香木) を焚きしめ、着物のセンスがあり着こなしがうまく、人前で食事をしません。後に芸能は芸者たちに任せられますが、それまでは琴や三味線を弾き、唄を唄い、踊りや能の舞も披露していました。
それほど何もかも揃った人が本当にいたのだろうか? と思うかも知れませんね。確かに、これは一種の理想像だと思われますが、実在の太夫について語り伝えられ、それらが集合した像であることは確かです。
遊女が貴族や大名の娘のように多くの教養を積んでいたのは、日本文化の核心である色好みの体現者となり、豪商や富裕な商人、大名、高位の武士たちと教養の共有、つまり色好みの共有を果たすことが求められていたからでしょう。これらの伝統的文化に遊ぶことこそが、彼らにとっての「遊び」だったのです。
ところで『世間胸算用』で井原西鶴は、遊女ではないふつうの女性( 地女) を辛辣に書いています。気持ちが鈍感で、物言いがくどくて、いやしい所があって、文章がおかしく、酒の飲み方が下手で、唄も唄えなくて、着物の着方が野暮で、立ち居振る舞いが不安定で、歩けばふらふらして、一緒に寝ると味噌や塩の話をして、ケチで鼻紙を一枚ずつ使うし、伽羅は飲み薬だと思いこんでいる、と。つまりこれをひっくりかえしたのが遊女でした。
「床上手にして名誉の好きにて」と言われた夕霧は、化粧もせず素顔で素足、肉付きはいいのにほっそりとしとやかに見え、まなざしにぬかりがなく、声がよく、肌が雪のようだったそうです。実は初期の遊女は髪にかんざしもほとんどつけず、多くの人が化粧もしませんでした。飾りが一切いらないくらいの、本来の美しさをめざしていたのです。
夕霧はさらに琴、三味線の名手で、座のさばきにそつがなく、手紙文が素晴らしく、人に物をねだらず、自分の物を惜しみなく人にやり、情が深かったそうです。また三笠という名の遊女は、情があって大気(おおらかで小さなことにこだわらないこと)、衣装を素晴らしく着こなし、座はにぎやかにしたかと思うと、床ではしめやかな雰囲気を作ります。誰にでも思いを残させ、また会いたいと思わせる人でした。
金山という遊女は、ある被差別民の客が身分を隠してやってきてそれが噂になると、衣装にあえて欠け碗、めんつう(器)、竹箸、という非人の印を縫いつけ、「世間はれて我が恋人をしらすべし。人間にいづれか違いあるべし」と言い放ったというから見事です。人権派の遊女、というところです。吉野の話はすでに冒頭で紹介しましたね。遊女の魅力は第一に人間的魅力だったのです。
『曾根崎心中』では、主人公の徳兵衛は醬油屋の手代です。主人は徳兵衛を見込んで妻の姪を嫁にし、後を継がせようと考えています。徳兵衛には田舎に母親がいるのですが、これが欲の深い継母でした。主人はお金を持ってその継母を訪ね、徳兵衛と姪の結婚を承知させてしまいます。 しかし実は徳兵衛には恋人がいました。遊女のお初です。お金を払って請け出せば遊女と結婚することも可能です。しかし問題はそのお金でした。徳兵衛のような手代は遊女を請け出すお金は持っていません。
文化は、欲望に人間的で伝統的なかたちを与えたものです。たとえば私たち人間には食欲があります。何でも食べさえすれば命はつながります。しかし料理や食卓の文化が発達してくると、私たちは何でもいいとは思わなくなります。各文化圏の料理は、それぞれ素晴らしい特質を持つようになります。 またそうして生まれた優れた料理は、料理文化の無い別の場所に伝わります。いい雰囲気でおいしい酒を飲み、料理を味わったり、また料理に腕をふるったりすることは、生活と人間関係を豊かにします。単なる欲望を精神的、社会的な喜びに変えること。それが文化なのです。
遊廓は、性を中心にそのような総合的な文化を創り上げた場所です。西鶴が遊女たちについて書いたことも、性そのものではなく、このような性の文化のことなのです。食欲が料理と演出によって真に贅沢で幸福な時間に生まれ変わるように、性欲や愛欲も、贅沢で夢のような経験に生まれ変わり得るのです。
傾城の反対語を「 地女」と言います。ふつうの女性たちは地女つまり土地の女です。逆に、遊女は「土地」からも「日常」からも浮上した天上の女として演出されました。映画スターをまさに 星 と呼ぶのと似ています。
これを「性」と「恋」の関係で考えてみます。遊廓は性を売っていたのではなく、恋の理想(夢) を売っていたのです。性だけの世界は貧しく、恋の世界は贅沢なのです。しかし、遊廓ではどの遊女や客にも一律に恋の美意識を適用しようとするという欠点もあります。
本多髷とは、ちょんまげをねずみの尻尾のように細くした髪型のことです。これは当時の男性の理想である「清潔感」の象徴です。戦国時代から江戸時代初期は髭をたくわえた男性的な男性がいましたが、元禄時代以降になるとほとんどいません。江戸時代中期(一八世紀なかごろ) になると、髭やもみあげどころか、髪がたくさんあることも嫌われるようになり、ちょんまげは可能な限り細くしたのです。 毛深さも野蛮の象徴となり、ダンディな男性たちは必要があれば毛も抜きました。戦争の無い時代の、男性性を消し去ったファッションこそが、江戸のダンディズムです。
江戸時代の男性のセンスは、微妙なコーディネイトに現れました。ブランドで固めればよい、というものではなかったのです(図4‐1)。
お洒落のひとつの典型は歌舞伎の助六でした。黒羽二重の着物の裏と裾回しに 紅絹 を使い、黒い布からわずかに深紅が見えるようにします。その下に浅葱色を重ね着し、さらにその下には緋縮緬の下帯をつけます。上品で格調高い綾織りの帯を締め、頭には紫の鉢巻きを締め、帯には印籠をさげます。足もとは桐の下駄に黄色の足袋。髪はやはり本多髷です。
助六のダンディズムの要素を並べるとやはり、地味であること、地味の 際 や裏に、派手がひそんでいること、上品であること、髭やもみあげや毛深さといった動物的な男性性が全くないこと、洗い上げたような清潔感にあふれていることでしょう。
西鶴は『好色一代女』の主人公の外貌を詳しく書いています。顔が丸く、薄い桜色の肌、眼がぱっちりして、眉は厚みがあり、眉と眉の間がゆったりとした雰囲気で開いています。口が小さく、歯は粒がそろっていて白い。耳は長めだが縁が浅く、顔から離れぎみで、根元まで透き通って見えます。額ぎわは自然で、首が長く、後れ毛がありません。手の指は細くて長く、爪は薄い。足のサイズは約二〇センチほどで、親指がそっていて、扁平足ではないこと。胴は長い方がいいらしく、そのかわり腰はしまっていてあまり肉がついていません。お尻は豊かで、物腰、物言いが素敵で、着物の着こなしがよく、姿全体に品格があり、気だてはおとなしく、女性ができるはずの技芸はすべてこなし、ほくろはひとつもない。
ここに、さまざまな本に書かれた「いい遊女の条件」を加えてみます。和歌、琴、笙、三味線、各種の唄、生け花、茶の湯が身についています。自分や他の人の髪結いができ、碁の相手がうまく、時計の調整の技術を持っています。酒が適度に飲めて、いい文字と文章で手紙を書けます。お金の話をせず、人の悪口を言わず、腹がすわり、ちょっとやそっとのことでは動じず、下の者にやさしく、物をもらおうとせず、物を惜しまず、気位が高い人、です。
ところで、廓言葉だけでなく、手紙もまた名物でした。ただし手紙の文化は吉原独特のものというより、遊女の存在そのものにずっとついてまわったと思われます。その伝統を引き継ぎ、恋の物語を大切にする遊廓では、恋文は非常に重要なものでした。手紙を書くための文字の美しさと文章力は、遊女が第一につけねばならない能力だったのです。
ちなみに、遊女の位と値段は、マークで示されました。太夫という名称がなくなった後、最高級の遊女は「 昼三」と呼ばれ、その中でさらに最高級を「呼び出し」と言いました。「花魁」は高級遊女全体を表すニックネームのようなものです。昼三とは、昼間の揚げ代が三分という意味です。私は変動の大きな米の値段ではなく、生活実態に合ったかけそばの値段で換算した独自の換算方法を使っています。そこから考えると八万七〇〇〇円ほどです。
呼び出しは入り山形(山の形を二つ組み合わせたもの) の下に星(小さな黒丸) を二つ置いた記号で表しました。その下の新造のつかない昼三は入り山形の下に黒の四角記号、昼夜で三分の昼三は、入り山形の下に黒丸ひとつで表しました。昼三の下の「附廻し」という位は昼二分で、入り山形の下に白丸ひとつ。その下の「座敷持ち」という位は昼一分か昼二分で、入り山形のみ。振袖新造、番頭新造などは無印です(図4‐3)。最下級の「切見世」と言われる店にいる「局女郎」という遊女は、約一〇分の単位で五〇文とか一〇〇文、つまり九〇〇円、一八〇〇円という値段をつけられていました。いかに遊女間で格差が大きかったかがわかります。
しかし一方、細見によって驚くのは、その透明性の高さです。行ってみないとわからない、などということではなく、出版物で値段を明確にしていて、不当な金額を要求されることがありません。もちろんお大尽ともなると、これ以外にご祝儀(チップ) をばらまくと思いますが、そうしなくともよいのです。出版物はそういう意味でも、遊廓の敷居を低くし、遊廓繁栄の礎を作った、と言えます。
遊女を商品として列記するのではなく、生け花が並べられています。一八世紀後半は生け花の世界が「 抛 入花」から「 生け花」へ変わるころでした。それにともなって生け花は「見立て絵」の素材として、出版市場に乗るようになっていました。一七五五年には花に見立てた絵本が刊行されています。
一七六〇年代には遊女屋で複数の花会が開催され、一七七〇年には、高崎藩士で洒落本作家の蓬萊山人が『抛入狂歌園』という見立て絵本を出しています。これは生け花を鈴木春信や桐屋五兵衛(飴屋)、丁子屋喜左衛門(歯磨き粉屋)、笠森お仙など、当時の江戸の有名人たちに見立てた本でした。
ところで、気になるのは「花魁」です。この文字は「花のさきがけ」という意味です。一七六〇年代に「太夫」という位が消滅して「おいらん」はその後に出て来た言葉ですが、この字が当てられたのは一七七〇年より後だと思われます。 だとすると、遊女を花に見立てるということが出版上でおこなわれ、その結果として「花魁」という文字が出現したと考えることも可能なのではないでしょうか。これらのことを考えると『一目千本』は、吉原を文化的な天上世界に押し上げる意図を持って編纂された、と思われるのです。
吉原で生まれ育った蔦屋重三郎は吉原の醜さも素晴らしさも知り尽くしていました。だからこそ、出版によってそれを江戸および日本文化の代表となし、さらには芝居も、それに並ぶ日本文化の象徴としたのではないでしょうか。
華やかなこの町では、季節ごとにさまざまな祭りが催されていました。今で言えばイベントやコンサート、展覧会、そしてパレードです。 喜多川歌麿が絵を描き、十返舎一九が文章を書いて一八〇四年に刊行された『青楼絵本年中行事』は一年にわたっておこなわれる一八の年中行事が記載され、絵も描かれています。「青楼」とは、吉原遊廓のことです。正月は「仲の街年礼之記」という文章です。
『通言総籬』でこれを思い出しながら語っている「おちせ」という女性は吉原の遊女だった人で、今は 幇間(男性の芸者。太鼓持) と結婚しています。松葉屋の孔雀と大ゑび屋の鳳凰を人々が「よくまちがひやしたっけ」と言っています。確かに孔雀と鳳凰は似ていますね。
てっぺんに白い御幣を垂らし、赤い布をまわりに垂らした巨大な傘を持った五、六人の住吉踊りの集団も正月に入ったかも知れません。普段から大道で鳥追(女太夫) の三味線に合わせて踊っているからです。鳥追も正月から吉原に入ったようです。ともかくこうして、正月から吉原はとても賑やかだったのです。
すでに書きましたが、遊女は「傾き(かぶき) 踊り」によって現在の歌舞伎を開発した女性たちでした。出雲の阿国が始めた「傾き踊り」を、京都の遊女たちが継承し、常設の舞台で興行化したのです。「傾き踊り」に三味線を導入したのも、遊女たちでした。つまり遊女は芸能者だったのです。
歌舞伎が男性だけのものになり、そこから追い出された女性たちは、吉原において一方では遊女という最高の女優となり、一方で芸者衆という芸能のプロフェッショナルになったのです。
樋口一葉が『たけくらべ』を書いた翌年、一八九六(明治二九) 年に広津柳浪の『今戸心中』が刊行されました。酉の市が立つ初冬の吉原が舞台です。大店の角海老に大時計がかけられていて夜の一二時を知らせる光景は、まさに明治の吉原。「不夜城を誇り顔の電気燈」とあって、仲之町の行燈は電気になったのです。「(花魁の) 吉里は 紙巻煙草 に火を点けて」とあり、キセルが当たり前だった江戸時代とは、ずいぶん呼び出し花魁の喫煙情景が違います。
一九〇二(明治三五) 年、朝鮮の馬山に日本人による芸妓、酌婦を置く料理店ができました。望月楼、吾妻、鳴戸、小倉庵、山水、勝利、一丸、旭、いろはという、いずれも日本人の経営者によるものです。これらは当地では遊廓とみなされていました。一九〇五(明治三八) 年、日露戦争終結後にソウルで料理店組合による新町遊廓の営業が開始されます。一九〇六(明治三九) 年には、ソウルの龍山に桃山遊廓が開業します。まだ朝鮮は日本に併合されておらず、独立国です。
戦後の吉原では、三〇〇軒が「カフェー」の看板を掲げ、一〇三二名の「女給」がいたと言います。大店は相変わらず庭もあり、敷地内には女給たちに貸している部屋もありましたが、ほとんどの店は三坪程度でした。もはや電燈ではなくネオンサインがきらめき、一九五六(昭和三一) 年に売春防止法が可決成立し、一九五七(昭和三二) 年に施行され、一九五八(昭和三三) 年に実施されて今日に至ります。 この間、吉原は江戸時代以来の文化の拠点の実体を失い、衰微して単なる売春地帯となり、一九四六(昭和二一) 年の公娼廃止後はいわゆる「赤線地帯」として存続します。しかし売春防止法によって一斉廃業を余儀なくされました。そして特殊浴場街となって今日に至っています。それらもコロナ・パンデミックの後に、廃業が相次ぐことでしょう。
三味線や踊りはその後、芸者衆の世界に引き継がれていますが、今は待合もなくなったので、料理屋に芸者さんを呼ぶ方法になっています。料理屋は「廓」を成しておらず点在しますので、夜間に流しの三味線が聞こえることなどありません。近所迷惑になるので、漏れ聞こえることもないでしょう。吉原遊廓の消滅はやはり、江戸文化の消滅と言って良いと思います。
まず、私は冒頭で、遊廓はもうあってはならないと書きました。では遊廓の歴史と記憶は封印するあるいは、消滅させるのがよいのでしょうか? そうは思いません。遊廓は二つの観点から、語り継ぐべきだと思います。
ひとつは日本の芸能史の観点です。詳述したように、遊女はそもそも芸能者で、遊廓と芝居は一体のものでした。いわば性と芸能が一体のものだったのです。そこから性にかかわる部分を切り離すことによって、今日の男性のみによる歌舞伎および能狂言が成立したのです。
一方、遊廓は性のみで成り立つことはできませんので、そこに「恋の文化」「もてなしの文化」が成立しました。恋の文化は、平安時代以来、和歌と歌物語の中で成熟していた文化で、遊女はそのこともあって、書、和歌、俳諧、漢詩、文章、琴などの教養を積むことで遊廓を、文化を語り合うサロンにしました。そのサロンで豪商や作家や画家や出版文化が育ったわけです。もてなしの文化は、茶の湯がその筆頭ですから、遊女は茶の湯もたしなみました。
その中で、武家のみならず町人たちも茶の湯に親しみ、遊女と語り合いました。着物や帯、櫛かんざし、髪結い、香、化粧なども遊廓独特の展開をしました。初期の遊女たちは化粧をせず、髪も束ねる程度でかんざしもしませんでしたが、次第に着物や帯とともに豪奢になり、歌舞伎に影響を与え、歌舞伎から影響を受けるようになりました。初期の遊女たちは芸能者でもあって、能を舞い、三味線も弾きましたが、それが踊り子に受け継がれ、踊り子が芸者衆になって、吉原遊廓で共存していたことは、芸能を継承する場としての吉原の重要性を、さらに増したわけです。
制御不能なパワーのことを、江戸時代では「悪」と言いました。悪は善悪の悪とは異なり、秩序を乱すこと、あるいは秩序をはみ出すことです。江戸時代は高度に制御された法治国家です。しかも権力は近代ほどではなくとも、一元化されやすい状況にありました。幕藩体制の秩序を整え、法律にしたがって戦争の起こらない、教育程度の高い国をつくるためには「悪」の抑圧は必要だったでしょう。
したがって武家では秩序の問題として禁止していましたが、同性愛はヨーロッパのように違法にはならず、罰則があったわけでもなく、むしろ美意識の高さを誇るような文化でした。その結果、町人にも広がり、一部の役者は男性相手の売春をおこなっていましたが、非難や差別の対象ではなく、むしろ当たり前のこととして社会に受け入れられていました。
これらは極端な事例ですが、女性はいつも不思議に思います。女性は不特定多数の異性や同性と身体的なかかわりを持ちたいとは思いませんが、男性は、差し出された女性たちと平然と交わり、慰安所に列をなすこともあったわけです。多くの女性は性行為を必要不可欠なものと考えませんが、多くの男性はそう「考え」ます。しかし実際には、生きるために必要不可欠なものではありません。女性を全体的な人間として対等に感じ考えることができれば、命にとって必要不可欠でない性的な交わりを、相手が望まないのであれば、自分も望まないでしょう。相手が望まないことをおこなう行為は、自分を惨めにするだけだからです。
江戸時代でももちろん、遊廓に行く人は一部の人でした。第一に、お金を持っていないと行かれません。第二に、着物や髪型や一定の教養など、はずかしくない程度のものを身につけていないと行かれません。第三に、そもそもそういうところで女性とかかわりたいと思わない人もかなりいました。そう考えると、遊廓は必要だったか、という問いに対して「必要不可欠ではなかった」と答えざるを得ません。
遊廓がなければ、芝居から排除された女性たちは踊り子として、芸者衆として、町の中で芸能や師匠をしながら生きていたでしょう。遊廓がなければ膨大な好色もの、黄表紙、洒落本などの文芸は生まれず、新内やその他の浄瑠璃、音曲も生まれなかったでしょう。遊廓がなければ助六ものなど、歌舞伎の演目は今より少なかったでしょう。しかし遊廓がなければ、そして女性に対し尊敬を持って全人格的にかかわる価値観と精神が存在していれば、女性たちはもっと多くの分野で、男性と同じように、思想や文学や宗教や科学の世界で活躍していたでしょう。平安時代の貴族の女性たちがそうであったように、文化上、多くの成果を残したでしょう。 女性たちが望むのは男性と同じになることではありません。それぞれの才能を活かし切ることです。平塚らいてうは『元始、女性は太陽であった』で、…
しかしこの二〇二一年時点でジェンダー差別は依然として存在します。非正規雇用者の約七〇パーセントが女性であるという実態はどう変えることができるでしょうか? 「そういう働き方を望む女性もいる」という言い方をし続けるのであれば、何も変わりません。もし望む人もいるというのであれば、男女はほぼ同数になっているはずです。 皆さんを遊廓に案内することは、その文化面の面白さから言えば、とても嬉しいことでした。しかし一方、他の社会であれば遊女たちが別の面で才能を発揮し、日本の文化と社会に大きな貢献をしたのではないかと考えると、とても残念な気がします。辛い経験の果てに命を絶った遊女や病で亡くなった遊女のことを考えると、悲しいです。しかし同時に、彼女たちは家庭の中に閉じ込められた近代の専業主婦たちに比べれば、自分を伸ばす機会を与えられたのではないか、とも思うのです。
遊廓の問題は「家族制度」の問題の一環なのではないか、と私は思います。家族は、性別による分業をしなくてもよい時代がきています。さまざまなツールと社会制度を利用して、家族は多様になりつつあるのです。男性どうしの家族、女性どうしの家族、血のつながらない子供達を育てる大人たち、異なる民族の集まる家族、友人や知らない人どうしの暮らすコレクティブ・ハウスなど、家族の多様性は広がっていくでしょう。
その上で、正月も桜の祭りも、七夕も盆行事も、各地の祭りも、月見も共有し、茶の湯も着物も琴や三味線も、踊りも歌舞伎も能も狂言も、もう一度生活に取り戻すことができたら、日本には本当の意味での「自律」がやってくると思います。 遊廓を考えることが、遊廓を超えて未来を考えることにつながっていくよう、心から願っています。