作品一覧

  • 高校生と考える日本の問題点 桐光学園大学訪問授業

    高校生と考える日本の問題点 桐光学園大学訪問授業

    ビジネス・実用

    3.3
    1巻1,650円 (税込)
    「いまの日本の指導者にいる大人たちの中に、君たちの将来の幸福なんて考えている人間はほとんどいません」―内田樹 豪華講師20人が、中高生に向き合いながら、日本の問題点を語り尽くした白熱1800分! この社会の仕組みはいつまで続くのか? わたしたちはどうやって現代を生き抜くべきか? 文学・社会学・歴史・科学・芸術・政治などさまざまな分野から考えます。 豪華講師が、中高生に向き合いながら、日本の問題点を語り尽くしました。 この社会の仕組みはいつまで続くのか? 白熱1800分!
  • 「トリート・テーブル」の料理教室 小さなお重のおせちと、お正月のつまみ。

    「トリート・テーブル」の料理教室 小さなお重のおせちと、お正月のつまみ。

    ビジネス・実用

    3.5
    1巻1,650円 (税込)
    「小さなお重」を使えば、だれでも盛りつけ上手! 手軽につくれるワザ満載、人気料理教室の「おいしい」おせちレシピ。 おせちといっしょにつくりたい、和・洋・中のつまみ盛り合わせレシピも便利。
  • 「トリート・テーブル」の料理教室 かんたん、おいしい、おもてなし。

    「トリート・テーブル」の料理教室 かんたん、おいしい、おもてなし。

    ビジネス・実用

    -
    1巻1,650円 (税込)
    著者・田中優子さんは、テレビ番組『チューボーですよ!』(TBS系)、漫画『美味しんぼ』など、メディアを中心に活躍するフードコーディネーター。そのかたわら、東京・牛込のキッチンスタジオ「トリート・テーブル」で、おもてなし料理の教室を開いています。本書では、生徒さんたちに人気の「太鼓判レシピ」を厳選して収録しました。田中優子さんのレシピが人気なのは、確実においしく、誰にでもできるから。これは、10年以上、毎週、「チューボーですよ!」のレシピを作り、料理指導をしてきた田中さんだからこそ。失敗の許されない料理番組での経験から生まれた、完成されたレシピです。
  • 昭和問答

    昭和問答

    ビジネス・実用

    3.8
    1巻1,232円 (税込)
    昭和は,今この瞬間の私たちの立っている時空につながる.なぜ競争から降りられないのか,国にとっての独立・自立とは何か,人間にとっての自立とは何か.これらの難問に答えるべく,明治・大正から平成までを縦横に語りつつ,各々が昭和を知るための本も紹介する.好評『日本問答』『江戸問答』に続く第三弾.

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  • 日本問答

    日本問答

    ビジネス・実用

    4.5
    1巻1,144円 (税込)
    日本はどんな価値観で組み立てられてきたのか.なぜそれが忘れられてきたのか.「内なる日本」と「外なる日本」,「善」と「悪」,「表」と「裏」――デュアル思考で見えてくる多様性の魅力とは.常に新境地を切り開く江戸文化研究者と古今東西の書物を読破し続ける編集工学者が,日本の来し方・行く末をめぐって侃侃諤諤の知の冒険!

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  • 蔦屋重三郎 江戸を編集した男

    蔦屋重三郎 江戸を編集した男

    ビジネス・実用

    3.8
    1巻1,100円 (税込)
    浮世絵、洒落本、狂歌。江戸文化の要には一人の大編集者がいた。 2025年大河ドラマ主人公の巨大な足跡と、江戸の思考法を描く。 2025年大河ドラマ『べらぼう』の主人公は、蔦屋重三郎。 花の吉原振り出しに 才人鬼才をより集め 幕府に財産取られても 歌麿写楽をプロデュース この蔦重こそ、数多くの洒落本、黄表紙、狂歌を世に出し、 歌麿、写楽を売り出した江戸最大のプロデューサーだった。 その華麗な人脈は太田南畝、山東京伝、恋川春町、酒井抱一、 市川團十郎、葛飾北斎、曲亭馬琴、十返舎一九とまさに江戸文化そのもの。 江戸文化とは何か、文化を創り出すとはどういうことか。 豊富な図版を入口に、人を編集し、 文化を織り上げた、蔦重の「たくらみ」に迫る。
  • 世渡り 万の智慧袋

    世渡り 万の智慧袋

    ビジネス・実用

    4.0
    1巻1,026円 (税込)
    江戸時代に大ヒットした、元祖ビジネス書があった! 今も昔も変わらない商売(ビジネス)の鉄則は、西鶴先生に聞け! 「就職するときは儲かってる企業より、『この人』と見込んだ主人(雇い主)を選べ」「『信用』こそが、仕事人の基本」…ヒット続出の敏腕プロデューサーだった井原西鶴が遺した、今の時代にこそ身につけたい「まっとうな生き方」指南!
  • 江戸とアバター 私たちの内なるダイバーシティ

    江戸とアバター 私たちの内なるダイバーシティ

    ビジネス・実用

    4.5
    1巻979円 (税込)
    武士も町人も一緒になって趣味で集まり遊んでいた江戸文化。それはダイバーシティ(多様性)そのもので、一人が何役も「アバター」として演じる落語にその姿を垣間見る。今アメリカで議論されている「パブリック圏」をひいて、日本人が本来持つしなやかな生き方をさぐる。
  • 最後の文人 石川淳の世界

    最後の文人 石川淳の世界

    小説・文芸

    4.0
    1巻968円 (税込)
    グローバリズムと新自由主義が世界を制覇しつつある今日、人々の自由はむしろ制限されつつあり、閉塞感や分断が拡大している。今、なぜ石川淳なのか? この孤高の作家を読み解くキーワードは「自由」。古今東西の書物世界を軽快な「精神の運動」で往還した石川の姿勢は知的自由の体現であった。だから、多くの知識人が戦時体制になびいた時代にも、石川は黙らなかった。かくして作品の発禁後、石川は自由を求め江戸の世界に向かう。石川作品には不自由に抗する不服従の精神が刻まれている。本書は5名の識者の解説を通じ、その作品と「絶対自由」の世界に誘う。
  • 苦海・浄土・日本 石牟礼道子 もだえ神の精神

    苦海・浄土・日本 石牟礼道子 もだえ神の精神

    ビジネス・実用

    4.0
    1巻968円 (税込)
    水俣病から新型コロナウイルスまで…。近代資本主義社会の限界と災禍の時代によみがえる世界的文学者の思想! 水俣病犠牲者たちの苦悶、心象風景と医療カルテなどの記録を織りなして描いた、石牟礼道子の『苦海浄土 わが水俣病』は類例のない作品として、かつて日本社会に深い衝撃を与えた。だが、『苦海浄土』をはじめとする石牟礼文学の本質は告発だけではない。そこには江戸以前に連なる豊饒な世界と近代から現代に至る文明の病をも射程に入れた世界が広がる。経済原理優先で犠牲を無視し、人間と郷土を踏みにじる公害、災害。それは国策に伴い繰り返される悲劇である。新型コロナウイルスの蔓延が状況を悪化させる中、石牟礼本人との対談、考察を通し世界的文学者の思想に迫る、評伝的文明批評。今は亡き文学者に著者は問い、考える。「石牟礼道子ならどう書いたであろう」と。
  • 不確かな時代の「編集稽古」入門

    不確かな時代の「編集稽古」入門

    ビジネス・実用

    4.0
    1巻924円 (税込)
    7万人が入門した面白い学校がある。松岡正剛の理系・文系を超えたネット上のイシス編集学校。ここで学んだ医師、看護師、教師、経営者、外交官、臨床心理士が仕事場で活用した具体的実例が初公開される。彼らはどのように「編集稽古」をして、心身を柔軟に、そして視点や発想を変えることができたのか。法政大学元総長、現イシス編集学校学長は、軽井沢風越学園理事長と対談し、生成AIの運用を問いかけ、時代の転換期にこそ必要な身体知による編集稽古の重要性を説く。他者の心の奥深くへ、たくさんのわたしに出会う、関係の構築……。 ◯本書の目次より(一部) まえがき――イシス編集学校とはどういうところか Ⅰ 他者の心の奥深くへ 今ここからはじめる 他者の心の奥深くへ 「指南」という方法 添削から指南へ 「入る」ということ 問→感→応→答→返 Ⅱ 編集体験がもたらしたもの たくさんのわたしに出会う わたしが変わる 心の中の「注意のカーソル」 圧倒的な寛容さと柔軟さ 逆境は再編集のチャンス  Ⅲ 方法の冒険 学習棄却と再編集 <BPTモデル>で人生を物語する 「地と図」が見えた時  Ⅳ 「型」が必要だった 音楽とアートは「型」が必要! 世界がつながる 物語講座 “わかりやすい”とは? 子どもたちを見るまなざし  Ⅴ 編集とは関係の構築だった 関係の構築 「ルル3条」で気づいた流通の問題 物語編集で乗り越えた  Ⅵ さまざまな場所で展開するイシス編集学校 イシス特別バージョン レシピを真似る Ⅶ どこにもない学校を目指して 「自由」について 失敗できる学校 [AIDA]・間・あいだ 一途と多様 AIをどう考えるか? Ⅷ 編集稽古の基本用語 あとがき
  • 布のちから 江戸から現在へ

    布のちから 江戸から現在へ

    ビジネス・実用

    4.0
    1巻891円 (税込)
    歌麿が春画で描いた腰巻きや下帯、バリの儀礼用絣グリンシン、日本の着物の生命樹の柄……。江戸から現在へ、布はアジア文化のなかでどのように作られ、流通し、愛されてきたのか。人気江戸学者で法政大学総長の快著。カラー口絵8頁
  • 遊廓と日本人

    遊廓と日本人

    ビジネス・実用

    3.6
    1巻880円 (税込)
    人権無視の悲哀の場か、日本文化の聖域か。 「日本史の陰影(タブー)」を再考する。 江戸学の第一人者による「遊廓入門」の決定版! -------------------------------------------------------------- 遊廓は二度とこの世に出現すべきではなく、 造ることができない場所であり制度です。 一方で遊女が、高い教養を持ち、輸入香木を焚きしめ、とても良い香りを放ち、和歌を作り、三味線を弾き、生け花や抹茶の作法を知っており、一般社会よりもはるかに年中行事をしっかりおこない、日本文化を守り継承してきた存在でもあったことを忘れてはなりません。 ----------------------------------------------------------------- 【本書の目次】 はじめに 第一章 吉原遊廓の誕生 第二章 遊廓とはどういう場所か? 第三章 遊女とはどんな人たちか? 第四章 男女の「色道」と吉原文化 第五章 吉原遊廓の三六五日 第六章 近代以降の吉原遊廓 終章  遊廓をどう語り継ぐべきか 【本書の内容】 ・遊郭は「辺境の別世」「身分のない世界」 ・「不夜城」と呼ばれた吉原遊廓 ・「色好み」という日本文化の伝統 ・井原西鶴が描いた「床上手」な遊女たち ・恋を創るために読まれた「色道」 ・江戸の「いい男」「いい女」の条件とは ・遊女を世に知らしめた「洒落本」と「浮世絵」 ・遊女の人権が問われた「マリア・ルス号事件」 ・吉原遊廓の凋落と消えゆく江戸文化  ……ほか
  • 親が倒れた! どうする!?

    親が倒れた! どうする!?

    ビジネス・実用

    -
    1巻825円 (税込)
    親の介護に合う施設探しに最適 団塊の世代の人は今、介護すべき親と面倒みるべき子供の狭間にいます。 1000万人の団塊の世代の28・5%が介護を必要とする親を持ち、31・7%が経済的支えを必要とする子供を持っているという統計があります。しかし彼らも2025年には全員後期高齢者となります。一人の力で親の面倒をみるのは難しい時代となりました。親が倒れたときどうするかは切実な問題です。大家族の時代は終わり年老いた親は一人か二人の子供にのしかかってきます。 仕事を辞めてでも親の面倒をみるべきという考えにとらわれないで社会で見守り負担なく親との良い関係を続けてもらえたらと思います。超高齢社会の今、社会が高齢者を見るべきときとなったのです。 この本では各施設の説明と、追い出されず(安心)、24時間プロが常駐し(安全)、適切な料金(安価)という安らぎの空間・場所さがしのお手伝いをいたします。 【目次】 はじめに 第一章 超高齢社会はもう始まっている 第二章 安心なのはずっといられる施設であること 第三章 医療行為に対応する安全な施設とは 第四章 家計に優しい安価な施設はあるのか 第五章 施設選びで大事な3つのキーワード あとがき 親の幸せ、子の幸せ 【著者プロフィール】 田中優子 愛知県名古屋市出身。愛知医科大学卒業。 名古屋大学医学部に入局後、名古屋第一日赤病院に勤務。現在は長期療養型病床田中病院の院長を務める。 また、公益社団法人日本女医会理事、日本保健医療学会理事、日本医療福祉学会評議員も兼任。
  • 別冊NHK100分de名著 「平和」について考えよう

    別冊NHK100分de名著 「平和」について考えよう

    ビジネス・実用

    4.2
    1巻792円 (税込)
    Eテレで放送された特番「100分de平和論」のムック化。フロイト『人はなぜ戦争をするのか』、ブローデル『地中海』、井原西鶴『日本永代蔵』、ヴォルテール『寛容論』という4冊の名著を読み解きながら、平和のために「いま私たちができること」を考える。 [主な内容] 第1章 心理学から考える フロイト『人はなぜ戦争をするのか』 斎藤 環──平和のためにできることは、対話である 第2章 経済学から考える ブローデル『地中海』 水野和夫──平和のためにできることは、よりゆっくり、より近く、より寛容に 第3章 江戸文学から考える 井原西鶴『日本永代蔵』 田中優子──平和のためにできることは、信頼を作り出し、それを持続すること 第4章 哲学から考える ヴォルテール『寛容論』 高橋源一郎──平和のためにできることは、Pray, and think
  • 池波正太郎「自前」の思想

    池波正太郎「自前」の思想

    小説・文芸

    3.0
    1巻715円 (税込)
    二十三回忌を迎え、なぜ今なお池波正太郎が愛されるのか。そこには池波が描き、そして生きた、たとえ貧しくとも「世間」というセーフティネットが機能し、誰もが「自前」で生きていける社会に対する我々日本人の郷愁と憧憬があるのではないか。「ワーキングプア」「孤立死」「世代間格差」……社会が個人を分断し、突き放している今の日本。辛口評論家と江戸研究家の最強コンビが、『鬼平犯科帳』『剣客商売』『仕掛人・藤枝梅安』など池波のヒット作はもちろん、池波自身の人生をも読み解きながら、これからの日本人に相応しい生き方を共に考える。【目次】はじめに 佐高 信/序章 池波正太郎、愛される理由/池波正太郎年譜(1) 世間に学んだ一〇代/第一章 仕事の流儀/池波正太郎年譜(2) 戦中、戦後、二〇代/第二章 遊びに磨かれて/池波正太郎年譜(3) 脚本作者から小説家へ、直木賞の三〇代/エッセイ(1) 池波ドラマの演者たち 佐高 信/第三章 家族の肖像/池波正太郎年譜(4) 『鬼平』『梅安』『剣客商売』始動の四〇代/第四章 正義は誰のため?/エッセイ(2) 『鬼平犯科帳』を歩く 田中優子/池波正太郎年譜(5) 三大シリーズ充実の五〇代と早すぎる死/第五章 江戸と東京のメンタリティ/終章 答えは池波正太郎にあり/あとがき 田中優子
  • 芸者と遊び 日本的サロン文化の盛衰

    芸者と遊び 日本的サロン文化の盛衰

    ビジネス・実用

    4.5
    1巻704円 (税込)
    江戸の志士や明治の文豪たちを魅了した芸者。そもそも彼女たちは何者なのか。いつどのように誕生し、日本文化にどんな影響を与えてきたのか。芸と色といなせな会話。男と女の「粋」と「意気」――そこには、日本固有のサロン文化と、今や失われつつある日本の美の本質があった。花柳界の栄枯盛衰、名妓や遊び等の具体的なエピソードを辿りつつ、芸者の文化と歴史から、日本独特の「人間関係の洗練」を浮き彫りにする傑作。 はしがき 「芸者の時代」 序 芸者とはそもそも何者か 第一部 江戸の芸者とその歴史 踊り子から芸者へ 深川芸者の発生と実像 色を売ること売らないこと 幕末の芸者たち 第二部 明治の芸者 その栄華と終焉 祗園と柳橋 雑魚寝のこと 名妓たち 水揚げのこと 芸者遊びとは何か 日本的サロン文化 エピローグ「のんびり」の世界 あとがきに代えて 芸者のかたち 文庫版あとがき
  • 春画のからくり

    春画のからくり

    ビジネス・実用

    3.8
    1巻693円 (税込)
    春画では、女性の裸体だけが描かれることはなく、男女の絡みが描かれる。男性のための女性ヌードではなく、男女が共にそそられ、時に笑いながら楽しむものだったと考えられる。また、性交場面を際立たせるために、顔と性器以外は、衣装で隠された。「隠す・見せる」「覗き」等の視点から、江戸のエロティシズムの仕掛けが明らかになる。図版豊富。
  • 大江戸ボランティア事情

    大江戸ボランティア事情

    小説・文芸

    4.0
    1巻660円 (税込)
    お上に頼らず金かけず、幸せに生きる江戸の知恵。訴訟、教育から火消しまで、江戸庶民の創意と情を碩学二人が魅力一杯に紹介ーーお上には頼らない、「おたがいさま社会」だからこそ、江戸の生活は豊かだった。生きる喜びを最優先した住空間「長屋」の秘密とは!? 世界最高水準の寺子屋教育、誰もが無銭で楽しんだ長旅から、やくざをも役立てる社会システムまで。今こそ学びたい江戸庶民の知恵を、碩学二人が紹介する「大江戸事情」シリーズ第6弾! 江戸庶民の知恵と心意気!
  • 大江戸生活体験事情

    大江戸生活体験事情

    小説・文芸

    3.8
    1巻660円 (税込)
    やってみました2年間、快適便利な江戸暮らし! 火打ち石から和時計、着物……。江戸時代の道具を試した面白体験報告! ーー江戸の日常は、なぜ現代人の100分の1のエネルギー消費で足りたのか。火打ち石で火をおこすコツから、旧暦で暮らすメリット、行灯(あんどん)生活の豊かさに、毛筆、着物、下駄の便利さまで……。江戸人が持っていた知恵と伝承、生活を楽しむ工夫を、碩学(せきがく)二人が、2年にわたる実体験で明かした、興味津々、侃々諤々(かんかんがくがく)の面白エッセイ。

ユーザーレビュー

  • 別冊NHK100分de名著 「平和」について考えよう

    Posted by ブクログ

    #ツナグ100分de名著

    \\ 寛容な心。そこにある強さ。 //

    『平和』について、
    4冊の本から共に考える。

    ◇◇◇◇◇◇

    【タイトル】別冊 NHK 100分 de 名著「平和」について考えよう私たちに何ができるのか?
    【 著者 】斎藤環/水野和夫/田中優子/高橋源一郎
    【 出版社 】NHK 出版

    ◇◇◇◇◇◇

    本書は2016年オリンピックイヤーに当たる年に企画された。
    オリンピックは元々『平和の祭典』として戦争を休戦して大会に参加しようという理念がある。

    そこから企画された本書は、4章4冊から成り立っている。

    ◇◇◇◇◇◇

    第1章
    フロイト『人はなぜ戦争をするのか』斎藤環

    ☆心理学から考える。平和のためにできることはダイアローグ対話である

    第2章
    ブローデル『地中海』水野和夫

    ☆経済学から考える。平和のためにできることはよりゆっくりより近くより寛容に

    第3章
    井原西鶴『日本永代蔵』田中優子

    ☆江戸文学から考える平和のためにできることは信頼を作り出し、それを持続すること

    第4章
    ボルテール『寛容論』高橋源一郎

    ☆哲学から考える。平和のためにできることはPray,and think

    ◇◇◇◇◇◇

    このポストでは、第一章『フロイト//人はなぜ戦争をするのか』について、触れてみたいと思います。

    ◇◇◇

    『人はなぜ戦争するのか』は精神分析の創始者であるジークムント・フロイトが物理学者アルバート・アインシュタインの呼びかけに応じて交わした公開の往復書簡である。

    ●アインシュタインは、人間の心自体、平和に抵抗する人間の悪しき権力欲と権力にすり寄って利益を得ようとする心がある。人間には本能的な欲求が潜んでいてその本能的な破壊欲動、死の欲動があると言った。

    ●戦争防止する2つの方法
    ①感情的な絆
    ②同一化

    ●反戦活動をする問いのこたえ
    ①個人の生を尊重するという個人主義に基づく
    ②生理的に戦争が嫌だと感じるから

    ●文化は欲動を制限する
    文明は科学技術的なもの、文化はどちらかというと人文的な知識全般を指すもの。良い悪いの価値判断はどこでするのか。その判断をしていくのが文化の力。

    「文化の発展がもたらすものは全てが戦争を防ぐように機能する」とフロイトはこの書簡の最後に記している。

    ◇◇◇◇◇◇

    フロイトは反戦の理由を『生理的に戦争が嫌だと感じるから』と、人間の本能を取り上げていることに、驚きと納得を覚えたのでした。

    あれこれ考えた理由、理性の問題じゃないんだなぁ、って思ったんです。

    ◇◇◇◇◇◇

    他にも、4章にパリ同時多発テロの時に、奥様を亡くされた人が、『あなたたちは私に憎しみを抱かせることはできません。』Facebook に書き込みをした話が載っている。

    『彼は生後十七カ月。普段通り食事をし、私と遊び、そして幸せで自由な人生を過ごすことで、あなた達に勝利するでしょう。彼もあなたたちに憎しみを抱くことはありませんから』

    パートナー、幼い子どもの母を亡くした直後にこの思いを抱き、口にできることの凄さには考えさせられるものがあります。

    ◇◇◇

    ページの横には各々の平和に対する一言格言が載っていて、

    『戦いは戦いを生み、復讐は復讐を生み、好意は好意を生み、善行は善行を招く。』エラスムス

    の言葉との繋がりも感じ、
    『寛容』な心を自分の中に大きく育てることが『平和をつくる』ことなんだと、真摯に受け止め、難しくても励んでいこうと思いました。

    ◇◇◇◇◇◇

    他にも、

    『すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。』世界人権宣言第一条

    『すべて人は、生命、自由及び身体の安全に対する権利を有する。』世界人権宣言第三条

    など大切な考え方が本書の隅々まで載っている学びの多い、示唆に富む1冊です。

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    2026年07月30日
  • 昭和問答

    昭和問答

    ビジネス・実用

    Posted by ブクログ

    『日本問答』『江戸問答』『昭和問答』とつづいた二人の対談シリーズは、松岡の死とともに終わりを告げた。

    なぜ競争から降りられないか?国にとっての独立とは?人間にとっての自立とは?という3つのリサーチクエスチョンに対し、苦海浄土やゴジラを引っ張ってきて、連綿とつながる歴史を織り交ぜた認識は、2人の知に圧倒されっぱなしだった。
    エディティングステート/持続的編集力に期待する二人に、自分がどう向き合うのか?道はまだまだ続く。

    0
    2025年02月23日
  • 遊廓と日本人

    Posted by ブクログ

    875

    178P

    昔の遊女は半端ない教養があった人でそこから文化が生み出されるレベルだったらしい。遊郭に行く男性も着物や髪型、教養とか求められることが多すぎて一部の人しか行けなかったらしい。そもそも文化というのは人間の三大欲求の周辺から生まれるっていうのがなるほどと思った。講談社現代新書読み放題88冊目で一番面白い本に出会えた。

    芸能と性風俗は元は同じものだった。

    田中優子
    1952年神奈川県横浜市生まれ。法政大学社会学部教授、社会学部長等を経て法政大学総長(2021年に退任)。専門は日本近世文学、江戸文化、アジア比較文化。2005年紫綬褒章受章。著書に『江戸の想像力』(ちくま学芸文庫/芸術選奨文部大臣新人賞受賞)、『江戸百夢 近世図像学の楽しみ』(ちくま文庫/芸術選奨文部科学大臣賞、サントリー学芸賞受賞)など多数。近著に『日本問答』『江戸問答』(岩波新書/松岡正剛との対談)など。

    吉原は現在の浅草寺裏、台東区千束3、4丁目あたりに位置する日本有数の歓楽街。

    二代目吉野太夫
    (にだいめよしのたゆう、本名:松田徳子、慶長11年3月3日(1606年4月10日) - 寛永20年8月25日(1643年10月7日)) は六条三筋町(後に島原に移転)の太夫。生まれは京都の方広寺大仏殿(京の大仏)近くと伝えられる。実父はもと西国の武士であったとも。六条三筋町「七人衆」の筆頭。また夕霧太夫、高尾太夫とともに寛永三名妓といわれる。彼女の命日は吉野忌として俳句の季語にもある。吉野太夫は京都の太夫に代々伝わる名跡であり、初代から数えて10代目まであったと伝えられる。初代吉野太夫は安土桃山時代の人物で、本阿弥光悦などの文化人と交流があったとされており、現代においては吉川英治作の『宮本武蔵』における登場人物として知られている。また末代の吉野太夫は寛文期もしくは延宝期(1670年代頃)の人物であったとされている。吉野太夫は、その職性から2代目以外の人物像については詳細不明となっており、本項では特に断りのない限り2代目の吉野太夫を記載する。幼少のころに禿(かむろ、遊女の世話をする少女)として林家に抱えられ、禿名は林弥(りんや)といった。14歳で太夫になる。和歌、連歌、俳諧に優れていて、琴、琵琶、笙が巧みであり、さらに書道、茶道、香道、華道、貝覆い、囲碁、双六を極めたという。また太夫18人の絢爛豪華な衣装を纏う集いの中、寝床から寝乱れ姿で出てきたにもかかわらず圧倒的な存在感を放ったといわれるほどの美貌を備えていた。才色兼備を称えられ国内のみならず、遠くは明国にまで「東に林羅山、西の徳子よし野」と聞こえていると言わしめるほど名を知れ渡らせ、馴染み客には後陽成天皇の皇子で近衛信尹の養子である関白近衛信尋や、豪商で、当時の文化人の一人である灰屋紹益がいた。寛永8年(1631年)、退廓・紹益と結婚。時に26歳。寛永20年8月25日(1643年10月7日)に死去、38歳であった。彼女は日乾上人に帰依しており、鷹峯(京都市北区)にある常照寺に朱門を寄進したといわれる。太夫自身の墓もここにある。彼女をしのんで毎年4月第3日曜日に花供養が行われ、島原から太夫が参拝し訪問客に花を添えている。吉野はまた、慈悲深い女性として時代を経てなお賛辞されている。吉野を見染めた刀鍛冶職人駿河守金網の弟子が爪に火を灯すように上げ代53匁を貯めて島原に向かうものの、太夫の相手となる格に遠く及ばず門前で追われる。それを不憫に思った吉野はその男をひそかに招き、思いを遂げさせたという。井原西鶴の『好色一代男』では、それを目にした主人公の世之助が「これぞ女郎のあるべき姿」と嫁にひくことになっており、「なき跡まで名を残せし太夫。前代未聞の遊女也。いづれをひとつ、あしきともうすべきところなし。情第一深し」と残している。そのほかにも『好色一代男』には世之介との結婚を親族から猛反対された吉野太夫の話が出てくる。吉野は「正妻でなくともいいからたまに通う妾にしてください」と世之介を説得するが、聞き入れようとしない。そこで吉野は一計を案じ、世之介に親戚一同に「吉野に明日限りで暇を出すことにした。ついては花見の宴を催すのでご婦人方もぜひ」と触れ状を出すように頼む。親戚一同は二つ返事でそれぞれ駕籠に乗りやってきた。皆にちょうど酒がまわったとき、吉野は下女のみすぼらしい恰好をして手には酒の肴をもち、親族の中でも一番年を取った者に向かって「自身がこのような場所に出ることも憚られますが、今日限りでお暇をいただきましたのでお名残りに。」と丁寧に暇乞いの挨拶をした。その後吉野は「時計の調整」(当時家に時計を持っている人は少なく、また調整には技術がいったのでそれだけでも知識人)「親族女性の娘の髪や化粧をととのえたり」「箏を弾き、笙をふき」「茶をしほらしく点て花を活け替え」「話題は風流事からはては家計のやりくりの話まで」人をひきつけて離すということがない。ほんの少しでも吉野が席を離れると、吉野がいない、吉野はどこへ行ったと人が探して回るという有様。このような女性は親戚中探してもいないくらいだ。素晴らしい女性なのになぜ離縁するなどというのか!と親族の女性たちから抗議の連絡が来たため、正式に祝言をあげることとなった。その際、ご祝儀は山のように積まれ、白髪になってもともに長生きしようと皆で祝った。あくまで物語のエピソードだが、ある程度の実話にもとづいたものと考えられている。吉野太夫が登場するテレビドラマ『吉野太夫』(1970年、フジテレビ おんなの劇場 演:山本富士子)『武蔵 MUSASHI』(2003年、NHK 演:小泉今日子)『宮本武蔵』(2014年3月15日 ‐ 16日、テレビ朝日系列 演:中谷美紀)

    遊廓と日本人 (講談社現代新書)
    by 田中優子
     平安時代にはまだ遊廓というものがありませんでした。しかし遊女はいました。江戸時代のように都市に「廓」を作っていたのではなく、船で移動しながら楽器を奏で、唄を唄い、夜は枕を並べたのです。

     遊女たちは船で移動しながら美しい調べを奏で、その歌声は美声で知られるインドの黒ほととぎす「 俱尸 羅」のようだと書いてあります。

     一六〇三年、江戸幕府が開かれた年に、阿国を中心とする一〇人ほどの芸能集団が、北野天満宮で歌舞伎の起源である「阿国かぶき」を上演していました。阿国が男装し、男性が女装をして演じるいわばミュージカルです。ただしこのころはまだ三味線が使われていません。能と同じ鼓や大鼓(おおかわ)、笛が用いられていました。

     そして一六〇八年、いよいよ、初めて三味線が導入されました。三味線を弾く「和尚」と呼ばれる遊女を中心に、複数の遊女が、輸入の香木である伽羅を焚きしめた鮮やかな中国製の絹織物の着物を着て、踊りまわるのです。その劇場いっぱいに広がる伽羅の香り、音、リズム、色に、多くの人が夢中になりました。この熱狂が後に、「女かぶき」の禁止につながったのです。

    この騒ぎは京都だけではなかったようです。一六〇七年には徳川家康が駿河からかぶき女を追放したからです。次の年、江戸でも舞台に立つ多くの遊女が追放されています。一六一二年には、幕府はかぶき者約三〇〇人を逮捕、処刑しています。これは遊女たちではなく、阿国と遊女たちがその姿を真似た男性のかぶき者たちでしょう。しかし、これらのかぶき者や女かぶきの人気が引き起こした騒乱が、吉原遊廓成立のきっかけだったのです。

     さて、こうして元吉原ができました。一六二四年には中村勘三郎が芝居取り立て願いを許可され、中橋南地に櫓を上げます。これが「若衆歌舞伎」の始まりでした。いよいよ一六二九年、女かぶき、女舞、女浄瑠璃が禁止されます。一六三二年には中村勘三郎の猿若座が中橋から禰宜町(堺町・葺屋町) に移転し、元吉原と隣接することになりました。京都では一六四一年、京都六条三筋町の遊女が島原へ移転させられ、島原遊廓が成立します。こうして一六三〇年前後に、女性を排除した芝居町と、女性だけの遊廓が成立したのです。

     そして客の予約や食事や休憩の場である「茶屋」という重要な場所がありました。そこで客は着替えをしたり、食事をしたり、芸者を呼んで宴会をしたのです。その後、遊女屋に上がって、さらに遊女と飲み、床をともにしました。これらの組織が、遊廓と遊女の美麗や品格や高度な遊興を維持するために、呉服屋、香木屋、髪結い、櫛こうがい業者、生花業者、化粧品業者、芸者衆、仕出屋、絵草紙屋そして多くの従業員に金を支払い、そのお金が江戸を巡ったのです。

     客は遊女に会うためにその遊女に支払っているつもりですが、抱え主はすでに遊女の家族にまとまった金を渡しており、その借金の返済金を、客の支払いから計算します。返済金が借金の額までいけば、遊女は遊廓を出て行くことができました。逆に言うと、それまでは厳しく監視され、出て行くことはできませんでした。

    つまり、大きなお金が動くということは、そのお金に縛られている人がいるということです。それが遊女だったのです。今私たちは「人権」という、とても大事な思想を持っています。個人の人権は人類の普遍の価値なのです。お金が巡って都市全体を豊かにするのは良いのですが、そのために一時的にせよ組織から自由を奪われる人がいる、ということは、近現代社会では許…

     ところで、何を目的にこの町は造られたのでしょう。「遊廓」というわけですから、「遊」のために造られた「くるわ」です。「遊」は遊ぶ、という意味ですね。しかし「遊」にはもうひとつ意味があります…

     これは、この吉原遊廓に暮らす遊女たちの由来と関係しています。第一章で書いたように、遊女は旅をしながら芸能を見せ、同時に色を売った女性たちのことだったのです。  現在の芸能人は芸能を売りますが、色は売りません。美しさを売りますが、身体は売りません。ではなぜ前近代の…

     たとえば茶の湯という文化があります。手順、作法、着物、美意識、建築、諸道具、庭園、絵画、生け花、料理、季節感などの総合空間芸術であり時間の芸術で、現在でも複数の家元がおり、高価な茶碗や諸道具が伝えられています。この文化は抽象的…

     歌舞伎や日本舞踊という伝統文化があります。これらは音楽と踊りと演劇で成り立っていますが、やはり音、響き、リズムなど五感の快楽を前提にしています。芸能が今のように遠い舞台の上やテレビやスクリーンの中ではなく、座敷に呼んで間近に楽しむものであった時代、その迫力と魅力を一時的にであっても独占したいと思うことがあっても不思議ではありません。  遊廓は、その移動する芸能者である遊女が選ばれて集まる場所として作られました。その時、その空間は普段の社会とは異なる「別世界」になったのです。その記憶から、吉原に入るまでの道程は、特に川を使って…

     本書も、遊廓の謎をすべて解くことはできません。膨大な資料が存在し、そのすべてにわたることもできません。しかし、なぜ「あってはならない悪所」であるのに人を魅了したのか、それを探ることにします。

     さて、ここは「別世」だと書きましたね。この町に入るには、三つの方法がありました。  多くの商人が住んでいた日本橋や大伝馬町から吉原に行くとすると、駕籠に乗って行く人もいます。歩いて行く人もいます。もっとも多いのはいったん柳橋に出て猪牙舟という、猪の牙のような形の小舟に乗って隅田川を上り、山谷堀という狭い堀に入り、途中でそれ以上進めなくなるので舟を下り、そこから「土手通り」と呼ばれる日本堤大通りに出て歩く、という方法です。

    吉野太夫

     江戸時代の京都の島原遊廓に、吉野太夫という人がいました(図3‐1)。太夫(のちに「花魁」「呼び出し」とも言う) とは、遊廓で最高位の遊女のことです。吉野太夫はある豪商から結婚を申し込まれました。しかしその豪商の親族に反対されましたので、諦めて郷里に帰ることにしました。そして最後だから、とその親族の女性たちを集めてもてなしたのです。  前掛けをして自ら立ち働き、女性たちが集まると琴を弾き、笙を吹き、和歌を詠み、茶を 点て、花を生け、時計の調整をし、碁の相手をし、娘さんたちの髪を結い、面白い話で人を引き込みました。

     そのような吉野を見て遊女に偏見を持っていた親族の奥方たちは、吉野の面白さ、やさしさ、品格、教養にすっかり引き込まれ、むしろ結婚を勧めるようになりました。この吉野は実在の人物で、京都の文化人で豪商であった佐野紹益の正妻になった人です。

    実際、多くの太夫は和歌を詠み、手紙を見事な筆跡で書きます。俳諧、狂歌もでき、漢詩を作ることもありました。平安時代の貴族のように髪や着物に伽羅(輸入された香木) を焚きしめ、着物のセンスがあり着こなしがうまく、人前で食事をしません。後に芸能は芸者たちに任せられますが、それまでは琴や三味線を弾き、唄を唄い、踊りや能の舞も披露していました。

     それほど何もかも揃った人が本当にいたのだろうか? と思うかも知れませんね。確かに、これは一種の理想像だと思われますが、実在の太夫について語り伝えられ、それらが集合した像であることは確かです。

     遊女が貴族や大名の娘のように多くの教養を積んでいたのは、日本文化の核心である色好みの体現者となり、豪商や富裕な商人、大名、高位の武士たちと教養の共有、つまり色好みの共有を果たすことが求められていたからでしょう。これらの伝統的文化に遊ぶことこそが、彼らにとっての「遊び」だったのです。

     ところで『世間胸算用』で井原西鶴は、遊女ではないふつうの女性( 地女) を辛辣に書いています。気持ちが鈍感で、物言いがくどくて、いやしい所があって、文章がおかしく、酒の飲み方が下手で、唄も唄えなくて、着物の着方が野暮で、立ち居振る舞いが不安定で、歩けばふらふらして、一緒に寝ると味噌や塩の話をして、ケチで鼻紙を一枚ずつ使うし、伽羅は飲み薬だと思いこんでいる、と。つまりこれをひっくりかえしたのが遊女でした。

    「床上手にして名誉の好きにて」と言われた夕霧は、化粧もせず素顔で素足、肉付きはいいのにほっそりとしとやかに見え、まなざしにぬかりがなく、声がよく、肌が雪のようだったそうです。実は初期の遊女は髪にかんざしもほとんどつけず、多くの人が化粧もしませんでした。飾りが一切いらないくらいの、本来の美しさをめざしていたのです。

     夕霧はさらに琴、三味線の名手で、座のさばきにそつがなく、手紙文が素晴らしく、人に物をねだらず、自分の物を惜しみなく人にやり、情が深かったそうです。また三笠という名の遊女は、情があって大気(おおらかで小さなことにこだわらないこと)、衣装を素晴らしく着こなし、座はにぎやかにしたかと思うと、床ではしめやかな雰囲気を作ります。誰にでも思いを残させ、また会いたいと思わせる人でした。

     金山という遊女は、ある被差別民の客が身分を隠してやってきてそれが噂になると、衣装にあえて欠け碗、めんつう(器)、竹箸、という非人の印を縫いつけ、「世間はれて我が恋人をしらすべし。人間にいづれか違いあるべし」と言い放ったというから見事です。人権派の遊女、というところです。吉野の話はすでに冒頭で紹介しましたね。遊女の魅力は第一に人間的魅力だったのです。

    『曾根崎心中』では、主人公の徳兵衛は醬油屋の手代です。主人は徳兵衛を見込んで妻の姪を嫁にし、後を継がせようと考えています。徳兵衛には田舎に母親がいるのですが、これが欲の深い継母でした。主人はお金を持ってその継母を訪ね、徳兵衛と姪の結婚を承知させてしまいます。  しかし実は徳兵衛には恋人がいました。遊女のお初です。お金を払って請け出せば遊女と結婚することも可能です。しかし問題はそのお金でした。徳兵衛のような手代は遊女を請け出すお金は持っていません。

     文化は、欲望に人間的で伝統的なかたちを与えたものです。たとえば私たち人間には食欲があります。何でも食べさえすれば命はつながります。しかし料理や食卓の文化が発達してくると、私たちは何でもいいとは思わなくなります。各文化圏の料理は、それぞれ素晴らしい特質を持つようになります。  またそうして生まれた優れた料理は、料理文化の無い別の場所に伝わります。いい雰囲気でおいしい酒を飲み、料理を味わったり、また料理に腕をふるったりすることは、生活と人間関係を豊かにします。単なる欲望を精神的、社会的な喜びに変えること。それが文化なのです。

     遊廓は、性を中心にそのような総合的な文化を創り上げた場所です。西鶴が遊女たちについて書いたことも、性そのものではなく、このような性の文化のことなのです。食欲が料理と演出によって真に贅沢で幸福な時間に生まれ変わるように、性欲や愛欲も、贅沢で夢のような経験に生まれ変わり得るのです。

     傾城の反対語を「 地女」と言います。ふつうの女性たちは地女つまり土地の女です。逆に、遊女は「土地」からも「日常」からも浮上した天上の女として演出されました。映画スターをまさに 星 と呼ぶのと似ています。

    これを「性」と「恋」の関係で考えてみます。遊廓は性を売っていたのではなく、恋の理想(夢) を売っていたのです。性だけの世界は貧しく、恋の世界は贅沢なのです。しかし、遊廓ではどの遊女や客にも一律に恋の美意識を適用しようとするという欠点もあります。

     本多髷とは、ちょんまげをねずみの尻尾のように細くした髪型のことです。これは当時の男性の理想である「清潔感」の象徴です。戦国時代から江戸時代初期は髭をたくわえた男性的な男性がいましたが、元禄時代以降になるとほとんどいません。江戸時代中期(一八世紀なかごろ) になると、髭やもみあげどころか、髪がたくさんあることも嫌われるようになり、ちょんまげは可能な限り細くしたのです。  毛深さも野蛮の象徴となり、ダンディな男性たちは必要があれば毛も抜きました。戦争の無い時代の、男性性を消し去ったファッションこそが、江戸のダンディズムです。

    江戸時代の男性のセンスは、微妙なコーディネイトに現れました。ブランドで固めればよい、というものではなかったのです(図4‐1)。

     お洒落のひとつの典型は歌舞伎の助六でした。黒羽二重の着物の裏と裾回しに 紅絹 を使い、黒い布からわずかに深紅が見えるようにします。その下に浅葱色を重ね着し、さらにその下には緋縮緬の下帯をつけます。上品で格調高い綾織りの帯を締め、頭には紫の鉢巻きを締め、帯には印籠をさげます。足もとは桐の下駄に黄色の足袋。髪はやはり本多髷です。

     助六のダンディズムの要素を並べるとやはり、地味であること、地味の 際 や裏に、派手がひそんでいること、上品であること、髭やもみあげや毛深さといった動物的な男性性が全くないこと、洗い上げたような清潔感にあふれていることでしょう。

     西鶴は『好色一代女』の主人公の外貌を詳しく書いています。顔が丸く、薄い桜色の肌、眼がぱっちりして、眉は厚みがあり、眉と眉の間がゆったりとした雰囲気で開いています。口が小さく、歯は粒がそろっていて白い。耳は長めだが縁が浅く、顔から離れぎみで、根元まで透き通って見えます。額ぎわは自然で、首が長く、後れ毛がありません。手の指は細くて長く、爪は薄い。足のサイズは約二〇センチほどで、親指がそっていて、扁平足ではないこと。胴は長い方がいいらしく、そのかわり腰はしまっていてあまり肉がついていません。お尻は豊かで、物腰、物言いが素敵で、着物の着こなしがよく、姿全体に品格があり、気だてはおとなしく、女性ができるはずの技芸はすべてこなし、ほくろはひとつもない。

    ここに、さまざまな本に書かれた「いい遊女の条件」を加えてみます。和歌、琴、笙、三味線、各種の唄、生け花、茶の湯が身についています。自分や他の人の髪結いができ、碁の相手がうまく、時計の調整の技術を持っています。酒が適度に飲めて、いい文字と文章で手紙を書けます。お金の話をせず、人の悪口を言わず、腹がすわり、ちょっとやそっとのことでは動じず、下の者にやさしく、物をもらおうとせず、物を惜しまず、気位が高い人、です。

     ところで、廓言葉だけでなく、手紙もまた名物でした。ただし手紙の文化は吉原独特のものというより、遊女の存在そのものにずっとついてまわったと思われます。その伝統を引き継ぎ、恋の物語を大切にする遊廓では、恋文は非常に重要なものでした。手紙を書くための文字の美しさと文章力は、遊女が第一につけねばならない能力だったのです。

     ちなみに、遊女の位と値段は、マークで示されました。太夫という名称がなくなった後、最高級の遊女は「 昼三」と呼ばれ、その中でさらに最高級を「呼び出し」と言いました。「花魁」は高級遊女全体を表すニックネームのようなものです。昼三とは、昼間の揚げ代が三分という意味です。私は変動の大きな米の値段ではなく、生活実態に合ったかけそばの値段で換算した独自の換算方法を使っています。そこから考えると八万七〇〇〇円ほどです。

     呼び出しは入り山形(山の形を二つ組み合わせたもの) の下に星(小さな黒丸) を二つ置いた記号で表しました。その下の新造のつかない昼三は入り山形の下に黒の四角記号、昼夜で三分の昼三は、入り山形の下に黒丸ひとつで表しました。昼三の下の「附廻し」という位は昼二分で、入り山形の下に白丸ひとつ。その下の「座敷持ち」という位は昼一分か昼二分で、入り山形のみ。振袖新造、番頭新造などは無印です(図4‐3)。最下級の「切見世」と言われる店にいる「局女郎」という遊女は、約一〇分の単位で五〇文とか一〇〇文、つまり九〇〇円、一八〇〇円という値段をつけられていました。いかに遊女間で格差が大きかったかがわかります。

     しかし一方、細見によって驚くのは、その透明性の高さです。行ってみないとわからない、などということではなく、出版物で値段を明確にしていて、不当な金額を要求されることがありません。もちろんお大尽ともなると、これ以外にご祝儀(チップ) をばらまくと思いますが、そうしなくともよいのです。出版物はそういう意味でも、遊廓の敷居を低くし、遊廓繁栄の礎を作った、と言えます。

     遊女を商品として列記するのではなく、生け花が並べられています。一八世紀後半は生け花の世界が「 抛 入花」から「 生け花」へ変わるころでした。それにともなって生け花は「見立て絵」の素材として、出版市場に乗るようになっていました。一七五五年には花に見立てた絵本が刊行されています。

     一七六〇年代には遊女屋で複数の花会が開催され、一七七〇年には、高崎藩士で洒落本作家の蓬萊山人が『抛入狂歌園』という見立て絵本を出しています。これは生け花を鈴木春信や桐屋五兵衛(飴屋)、丁子屋喜左衛門(歯磨き粉屋)、笠森お仙など、当時の江戸の有名人たちに見立てた本でした。

     ところで、気になるのは「花魁」です。この文字は「花のさきがけ」という意味です。一七六〇年代に「太夫」という位が消滅して「おいらん」はその後に出て来た言葉ですが、この字が当てられたのは一七七〇年より後だと思われます。  だとすると、遊女を花に見立てるということが出版上でおこなわれ、その結果として「花魁」という文字が出現したと考えることも可能なのではないでしょうか。これらのことを考えると『一目千本』は、吉原を文化的な天上世界に押し上げる意図を持って編纂された、と思われるのです。

     吉原で生まれ育った蔦屋重三郎は吉原の醜さも素晴らしさも知り尽くしていました。だからこそ、出版によってそれを江戸および日本文化の代表となし、さらには芝居も、それに並ぶ日本文化の象徴としたのではないでしょうか。

     華やかなこの町では、季節ごとにさまざまな祭りが催されていました。今で言えばイベントやコンサート、展覧会、そしてパレードです。  喜多川歌麿が絵を描き、十返舎一九が文章を書いて一八〇四年に刊行された『青楼絵本年中行事』は一年にわたっておこなわれる一八の年中行事が記載され、絵も描かれています。「青楼」とは、吉原遊廓のことです。正月は「仲の街年礼之記」という文章です。

    『通言総籬』でこれを思い出しながら語っている「おちせ」という女性は吉原の遊女だった人で、今は 幇間(男性の芸者。太鼓持) と結婚しています。松葉屋の孔雀と大ゑび屋の鳳凰を人々が「よくまちがひやしたっけ」と言っています。確かに孔雀と鳳凰は似ていますね。

     てっぺんに白い御幣を垂らし、赤い布をまわりに垂らした巨大な傘を持った五、六人の住吉踊りの集団も正月に入ったかも知れません。普段から大道で鳥追(女太夫) の三味線に合わせて踊っているからです。鳥追も正月から吉原に入ったようです。ともかくこうして、正月から吉原はとても賑やかだったのです。

     すでに書きましたが、遊女は「傾き(かぶき) 踊り」によって現在の歌舞伎を開発した女性たちでした。出雲の阿国が始めた「傾き踊り」を、京都の遊女たちが継承し、常設の舞台で興行化したのです。「傾き踊り」に三味線を導入したのも、遊女たちでした。つまり遊女は芸能者だったのです。

     歌舞伎が男性だけのものになり、そこから追い出された女性たちは、吉原において一方では遊女という最高の女優となり、一方で芸者衆という芸能のプロフェッショナルになったのです。

     樋口一葉が『たけくらべ』を書いた翌年、一八九六(明治二九) 年に広津柳浪の『今戸心中』が刊行されました。酉の市が立つ初冬の吉原が舞台です。大店の角海老に大時計がかけられていて夜の一二時を知らせる光景は、まさに明治の吉原。「不夜城を誇り顔の電気燈」とあって、仲之町の行燈は電気になったのです。「(花魁の) 吉里は 紙巻煙草 に火を点けて」とあり、キセルが当たり前だった江戸時代とは、ずいぶん呼び出し花魁の喫煙情景が違います。

     一九〇二(明治三五) 年、朝鮮の馬山に日本人による芸妓、酌婦を置く料理店ができました。望月楼、吾妻、鳴戸、小倉庵、山水、勝利、一丸、旭、いろはという、いずれも日本人の経営者によるものです。これらは当地では遊廓とみなされていました。一九〇五(明治三八) 年、日露戦争終結後にソウルで料理店組合による新町遊廓の営業が開始されます。一九〇六(明治三九) 年には、ソウルの龍山に桃山遊廓が開業します。まだ朝鮮は日本に併合されておらず、独立国です。

     戦後の吉原では、三〇〇軒が「カフェー」の看板を掲げ、一〇三二名の「女給」がいたと言います。大店は相変わらず庭もあり、敷地内には女給たちに貸している部屋もありましたが、ほとんどの店は三坪程度でした。もはや電燈ではなくネオンサインがきらめき、一九五六(昭和三一) 年に売春防止法が可決成立し、一九五七(昭和三二) 年に施行され、一九五八(昭和三三) 年に実施されて今日に至ります。  この間、吉原は江戸時代以来の文化の拠点の実体を失い、衰微して単なる売春地帯となり、一九四六(昭和二一) 年の公娼廃止後はいわゆる「赤線地帯」として存続します。しかし売春防止法によって一斉廃業を余儀なくされました。そして特殊浴場街となって今日に至っています。それらもコロナ・パンデミックの後に、廃業が相次ぐことでしょう。

    三味線や踊りはその後、芸者衆の世界に引き継がれていますが、今は待合もなくなったので、料理屋に芸者さんを呼ぶ方法になっています。料理屋は「廓」を成しておらず点在しますので、夜間に流しの三味線が聞こえることなどありません。近所迷惑になるので、漏れ聞こえることもないでしょう。吉原遊廓の消滅はやはり、江戸文化の消滅と言って良いと思います。

     まず、私は冒頭で、遊廓はもうあってはならないと書きました。では遊廓の歴史と記憶は封印するあるいは、消滅させるのがよいのでしょうか? そうは思いません。遊廓は二つの観点から、語り継ぐべきだと思います。

     ひとつは日本の芸能史の観点です。詳述したように、遊女はそもそも芸能者で、遊廓と芝居は一体のものでした。いわば性と芸能が一体のものだったのです。そこから性にかかわる部分を切り離すことによって、今日の男性のみによる歌舞伎および能狂言が成立したのです。

     一方、遊廓は性のみで成り立つことはできませんので、そこに「恋の文化」「もてなしの文化」が成立しました。恋の文化は、平安時代以来、和歌と歌物語の中で成熟していた文化で、遊女はそのこともあって、書、和歌、俳諧、漢詩、文章、琴などの教養を積むことで遊廓を、文化を語り合うサロンにしました。そのサロンで豪商や作家や画家や出版文化が育ったわけです。もてなしの文化は、茶の湯がその筆頭ですから、遊女は茶の湯もたしなみました。

     その中で、武家のみならず町人たちも茶の湯に親しみ、遊女と語り合いました。着物や帯、櫛かんざし、髪結い、香、化粧なども遊廓独特の展開をしました。初期の遊女たちは化粧をせず、髪も束ねる程度でかんざしもしませんでしたが、次第に着物や帯とともに豪奢になり、歌舞伎に影響を与え、歌舞伎から影響を受けるようになりました。初期の遊女たちは芸能者でもあって、能を舞い、三味線も弾きましたが、それが踊り子に受け継がれ、踊り子が芸者衆になって、吉原遊廓で共存していたことは、芸能を継承する場としての吉原の重要性を、さらに増したわけです。

     制御不能なパワーのことを、江戸時代では「悪」と言いました。悪は善悪の悪とは異なり、秩序を乱すこと、あるいは秩序をはみ出すことです。江戸時代は高度に制御された法治国家です。しかも権力は近代ほどではなくとも、一元化されやすい状況にありました。幕藩体制の秩序を整え、法律にしたがって戦争の起こらない、教育程度の高い国をつくるためには「悪」の抑圧は必要だったでしょう。

     したがって武家では秩序の問題として禁止していましたが、同性愛はヨーロッパのように違法にはならず、罰則があったわけでもなく、むしろ美意識の高さを誇るような文化でした。その結果、町人にも広がり、一部の役者は男性相手の売春をおこなっていましたが、非難や差別の対象ではなく、むしろ当たり前のこととして社会に受け入れられていました。

     これらは極端な事例ですが、女性はいつも不思議に思います。女性は不特定多数の異性や同性と身体的なかかわりを持ちたいとは思いませんが、男性は、差し出された女性たちと平然と交わり、慰安所に列をなすこともあったわけです。多くの女性は性行為を必要不可欠なものと考えませんが、多くの男性はそう「考え」ます。しかし実際には、生きるために必要不可欠なものではありません。女性を全体的な人間として対等に感じ考えることができれば、命にとって必要不可欠でない性的な交わりを、相手が望まないのであれば、自分も望まないでしょう。相手が望まないことをおこなう行為は、自分を惨めにするだけだからです。

     江戸時代でももちろん、遊廓に行く人は一部の人でした。第一に、お金を持っていないと行かれません。第二に、着物や髪型や一定の教養など、はずかしくない程度のものを身につけていないと行かれません。第三に、そもそもそういうところで女性とかかわりたいと思わない人もかなりいました。そう考えると、遊廓は必要だったか、という問いに対して「必要不可欠ではなかった」と答えざるを得ません。

     遊廓がなければ、芝居から排除された女性たちは踊り子として、芸者衆として、町の中で芸能や師匠をしながら生きていたでしょう。遊廓がなければ膨大な好色もの、黄表紙、洒落本などの文芸は生まれず、新内やその他の浄瑠璃、音曲も生まれなかったでしょう。遊廓がなければ助六ものなど、歌舞伎の演目は今より少なかったでしょう。しかし遊廓がなければ、そして女性に対し尊敬を持って全人格的にかかわる価値観と精神が存在していれば、女性たちはもっと多くの分野で、男性と同じように、思想や文学や宗教や科学の世界で活躍していたでしょう。平安時代の貴族の女性たちがそうであったように、文化上、多くの成果を残したでしょう。  女性たちが望むのは男性と同じになることではありません。それぞれの才能を活かし切ることです。平塚らいてうは『元始、女性は太陽であった』で、…

     しかしこの二〇二一年時点でジェンダー差別は依然として存在します。非正規雇用者の約七〇パーセントが女性であるという実態はどう変えることができるでしょうか? 「そういう働き方を望む女性もいる」という言い方をし続けるのであれば、何も変わりません。もし望む人もいるというのであれば、男女はほぼ同数になっているはずです。  皆さんを遊廓に案内することは、その文化面の面白さから言えば、とても嬉しいことでした。しかし一方、他の社会であれば遊女たちが別の面で才能を発揮し、日本の文化と社会に大きな貢献をしたのではないかと考えると、とても残念な気がします。辛い経験の果てに命を絶った遊女や病で亡くなった遊女のことを考えると、悲しいです。しかし同時に、彼女たちは家庭の中に閉じ込められた近代の専業主婦たちに比べれば、自分を伸ばす機会を与えられたのではないか、とも思うのです。

     遊廓の問題は「家族制度」の問題の一環なのではないか、と私は思います。家族は、性別による分業をしなくてもよい時代がきています。さまざまなツールと社会制度を利用して、家族は多様になりつつあるのです。男性どうしの家族、女性どうしの家族、血のつながらない子供達を育てる大人たち、異なる民族の集まる家族、友人や知らない人どうしの暮らすコレクティブ・ハウスなど、家族の多様性は広がっていくでしょう。

     その上で、正月も桜の祭りも、七夕も盆行事も、各地の祭りも、月見も共有し、茶の湯も着物も琴や三味線も、踊りも歌舞伎も能も狂言も、もう一度生活に取り戻すことができたら、日本には本当の意味での「自律」がやってくると思います。  遊廓を考えることが、遊廓を超えて未来を考えることにつながっていくよう、心から願っています。

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    2024年06月27日
  • 春画のからくり

    Posted by ブクログ

    春画がなぜ単なる猥雑画ではなく、海外にまでコレクターのいる芸術となり得たのか。そこには日本特有の、こうしたものにすら粋や笑いを求める気質がある。だから春画には女だけでなく必ず男女が描かれる。

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    2024年03月29日
  • 芸者と遊び 日本的サロン文化の盛衰

    Posted by ブクログ

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    遊女と歌舞伎との関わりも深い。歌舞伎は「かぶき踊り」という踊りの名前に由来する。かぶき踊りとは、かぶき者= 傾き者と言われる一種のやくざ者のふるまいを真似た踊りであった。傾き者は派手な格好に長いもみあげを生やし、長大な脇差を腰にさして長大な 煙管 のまわし飲みをする連中である。茶屋に出入りし、肩で風を切って歩く。極めて男性的なふるまいをする者たちだが、それを 阿国 と呼ばれる女性芸人(遊行芸能民)が自分なりに編集しなおして作り上げたのが、男装のかぶき踊りだった。それを受け継いだ遊女たちは腰に脇差を差し、長い髪を結い上げてはちまきを締めて舞台に立った。さらに和尚(卓越した女性芸人)は、 琵琶 から三味線に移行したばかりの男性の眼の不自由な音楽家たちに、三味線の技能を伝授してもらった。こうして「かぶき踊り」の中に三味線が導入されたのである。

    女歌舞伎は女が男装し、男が女装する世界だった。そしてそれこそが、人心を狂わせる根本であった。少しだけ、この後の歴史を追ってみよう。 承応 元年(一六五二)、若衆歌舞伎が禁止され、翌年、野郎(大人の男)歌舞伎が成立する。これは若衆(美少年)が女性同様、男性たちにとって性の対象だったからであるが、たった一年で野郎歌舞伎になったということは、実質的には若衆の役者たちが髪型を変えて大人の男になったにすぎない。若衆という男でも女でもない中性的存在はその後も江戸時代の都市に生き続け、江戸のホモセクシュアルの中心を担うのである。さらに 明暦 三年(一六五七)、明暦の大火をきっかけにして吉原は浅草寺裏(当時としてはかなりの郊外)に移転し、新吉原が成立する。

    吉原芸者と較べて、岡場所の芸者は、色を売るので芸者ではない、と極論する論者がいたりするが、それはおかしい。芸者の本質は、あくまでも売色を目的としたものではない。「あるいは売り、あるいは売らず」というのが本筋で、その目的は、芸にある。そこが、いかに華麗に装ったとて、売色を究極の目的としている吉原の花魁との違いである。

    実際に、色を売らずに芸一筋に励むことも可能だったし、少数といえども、そのように生きた者もいた。選択の余地があるということは、それが全くないというのとは、本質的に違うだろう。たとえば、芸者屋の娘や養女が自前で芸者をやり、少なからず自由の身であった彼女たちが、自分の意志で客と寝ようが寝まいが、それは、本人の勝手、売色とは別のものだ。もちろん、そのすべてが本人の自由意志とばかりはいえないことはいうまでもない。けれども、制度として、自由意志の働く余地がある、ということは重大で、そこに娼妓と芸者との根本的な違いがある。

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    2024年01月31日

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