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264P
半分読んだ
斎藤環
1961年生まれ。岩手県出身。筑波大学医学研究科博士課程修了。医学博士。爽風会佐々木病院・診療部長を経て、筑波大学社会精神保険学教授。専門は思春期・青年期の精神病理学、「ひきこもり」問題の治療・支援ならびに啓蒙。漫画・映画・サブカルチャー全般に通じ、新書から本格的な文芸・美術評論まで幅広く執筆。著書に『社会的ひきこもり』『母は娘の人生を支配する』『承認をめぐる病』『世界が土曜の夜の夢なら』(角川財団学芸賞)『オープンダイアローグとは何か』『「社会的うつ病」の治し方』ほか多数。
アメリカ精神医学会(APA)の編纂した診断基準である「DSM‐5」によれば、それはこんな人物を指すようです。とにかく自分が重要な人物であるという誇大な思いが強く、さほどでもない業績や才能を過大評価してみせたり、周囲にも称賛を期待するようなところがあります。そんな自分には限りない成功や権力、才気と美しさ、あるいは理想的な愛が与えられるのが当然であると確信しています。それほど特別な自分は同じように特別な人々から認められたり関係を持つことができるはずで、どこにいっても自分は高く評価され、特別な扱いを受けるのが当然であると信じています。だから、いつでも態度は大きく傲岸不遜です。そのぶん他人の気持ちへの共感や配慮に乏しく、自分の目的のためなら相手を利用しても良いと考えています。また、たいへん嫉妬深く、また自分自身もいつも人から嫉妬されていると感じています。
現代の王侯貴族階層というべき「セレブ」界隈には、こういう人がいてもおかしくはないと思います。もっとも、周囲の環境がこうした振る舞いを許容している場合は、環境に適応できているわけですから、診断など余計なお世話、ということになるでしょう。パーソナリティ障害の診断は、その問題ゆえに本人や周囲が困っていることが条件ですから。
ナルシシズムという言葉は昔からありました。性科学者のハヴェロック・エリスが、自慰行為に没頭する女性に対して「ナルシス的」という言葉を用い(一八九八年)、これを読んだドイツの精神科医パウル・ネッケがはじめて自己愛の意味で「ナルシシズム」という用語に言及したとされています(一八九九年)。この論文を読んだジークムント・フロイトが、「ナルシシズム」という言葉を『性欲論三篇』の中で用いました(一九〇五年)。かくして精神分析の創始者であるジークムント・フロイトは、人間心理の説明にナルシシズム概念を体系的に応用したわけです。フロイトは「自体愛」「一次的ナルシシズム」「二次的ナルシシズム」といった概念を提唱していますが、それぞれについて簡単にみておきましょう。
自体愛というのは、まだ生まれたばかりの赤ん坊が、自分と他人の区別も十分についていないような段階で、自分自身の身体に向ける欲動を指す言葉です。指しゃぶりやマスターベーションのような行為は自体愛的な行為、と呼ばれます。 次の「一次的ナルシシズム」というのは、幼児がリビドー(性的なエネルギー)のすべてを自分自身に向けるような、他者がまだ存在しない段階での自己への愛を意味しています。もっとも、最近の研究では、乳幼児がかなり早期から外的対象を認識できるとされており、フロイトの説はだいぶ分が悪いようです。ただ、乳幼児期にこうした欲望の閉鎖系を想定することは、その後のさまざまな病理を考える上で意義があるとする意見もあります。私自身も、後で触れる「二次的ナルシシズム」が「一次的ナルシシズム」から派生すると考える方が、自己愛と対象愛の入れ子状の関係を説明する上で有利になると考えてはいます。
ナルシシズムに浸る人は、幻想に騙されやすいとされています。昨今、世にはびこる荒唐無稽な陰謀論を信じてしまう人もまた、強烈な自己愛の持ち主だと思われます。マスメディア報道に見るような標準的社会理解に囚われない自分でありたい、という思いは、自己愛そのものです。人は、安直に自己愛を満たす手段に走りがちです。この点については後でも触れます。
さて、未成熟な自己は、「野心」と「理想」の二極構造であると述べてきました。しかし現実世界を生き延びるには、それだけでは不十分です。エンジンとゴールは人を動かすでしょうが、正しくゴールを目指すには、さまざまなスキルが必要となるからです。たとえば母親のような人間になりたいと願ったとしても、そのためには社会に参加し、他者とコミュニケーションを重ね、さまざまな知識や技能を習得する必要がある。そういうスキルを与えてくれるのは、友人や知人、先輩や教師といった「自己─対象」ということになります。なぜ家族はスキルを与えられないのか。典型的には「性愛」があります。性愛のスキルを家族が与えることはできません(「性教育」とは異なります)。それは必然的に、家庭の外で、家族以外の他者から学ぶべきものです。 人がひきこもってしまうことについて、私が一番危惧するのは、実はこの点です。家族以外の他者との接点を持たないことによって、人は生きる上で必要な「スキル」を獲得する機会から遠ざかってしまうのではないか。「そんなものはネットがあれば学べる」という考え方もあるでしょうし、確かにそういう形で補える場合もあるでしょう。私が危惧するのは、ここで想定されているスキルというものが、単なる知識や手続きとは異なると考えるからです。
もともと私は「〈家族以外の対人関係〉なくしては人間の成熟はあり得ない」と考えていました。別に「人はすべからく成熟すべし」と考えているわけではありませんし、成熟せずに生きられる社会は良い社会であるとも考えています。ただ、この社会には成熟によって避けられる苦痛がたくさんあるとは考えています。長期にひきこもってしまった人が成熟から遠ざかっているように見えるのは、まさに「家族以外の対人関係の欠如」ゆえではないか。そのことに起因する成熟困難が、当事者を苦しめている可能性はないか。ひきこもることそれ自体を問題視したり病気扱いしたりすることは間違いですが、それとは別に、こうした視点はもう少し維持しておきたいと考えています。
松本俊彦氏らによれば、自傷は死に至る行為ではありますが、自殺企図ではありません。むしろ自傷は、少なくともその初期においては「死なないため」の手段とされています。自傷経験者はしばしば「切るとすっきりする」と言いますが、自傷には不安やいらいら、緊張などを解放するためのガス抜き的な効果があることがわかっています。自傷の瞬間にはエンケファリンと呼ばれる脳内麻薬が分泌され、それが心の苦痛も緩和してくれるというメカニズムも知られています。 また自傷行為には、周囲に自分の苦しい状況をアピールするための援助希求行動という意味もあります。ただ、何度も繰り返すうちに周囲も無関心になって本人が孤立していき、その苦痛をやわらげるためにさらに自傷が習慣化する、という悪循環が生じがちです。こうした悪循環が最終的に自殺既遂に至ることが非常に多いため、「自傷は死に至る行為」と呼ばれるのです。
先ほども述べましたが、自己批判を繰り返す人ほど、自分と他人を比較したり、自分の価値について思い悩んだりするなどして、結果的に「自分について考え続けることで忙しい」状態に陥りがちです。この、自分に対する尋常ならざる関心ゆえに、私はそれを「自己愛」と呼ぶのです。それはともかく、自己批判的な人ほど、他者からの好意や愛情に対して鈍感になりやすく、また好意に気づいても自分で否定してしまいがちです。まして他者を愛したり好きになったりといったことは、いっそう困難になってしまいます。社会的には成功していながら自傷的自己愛を有すると思しい女性を何人か知っていますが、美人で聡明な彼女たちは一様に「自分がモテている」ことについて驚くほど鈍感か、無関心でした。この傾向はかなりの程度、一般化できるように思います。
このことと矛盾するようですが、自傷的自己愛を持つ人が、他者から向けられた好意を過大評価してしまい、その相手に強く執着してしまうこともあります。特に異性関係においては、「こんな自分でも愛してくれる貴重な他者」として過剰に執着し、相手が自分の期待に応えてくれないと、逆に激しく攻撃したり、ストーカーめいた振る舞いに陥ってしまう場合もあります。
就職が「承認のため」というのは、こういうことです。望む職業に就くことで、友人知人から「すごい」と評価されること。そればかりではありません。恥ずかしくない就職に成功することで、同世代の友人たちから見放されないという安心感、合コンを含め異性関係の獲得に有利になること、そして結婚し家庭を持つこと……これらすべてが「承認強者」の条件となります。実際にはこうした懸念の大半は杞憂で、多少条件の悪い職場に就職したからといって友人から見捨てられるなどということはそうそうないのですが、承認に依存してきた人にとっては、そうなるとしか思えない。周囲からあまり評価されない(と予想される)仕事に就くことは、たとえそれで食べていけたとしても、十分な承認が得られないだろうという予期ゆえに、自己愛は大いに傷つくでしょう。その結果、友人たちは何とも思っていないのに、自分から友人を遠ざけてしまう人も少なくありません。こうした状況下では、社会的評価の高い会社(職業)に、回り道をせずに就職できるかどうかが、誇張ではなしに死活問題になるのです。