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「自分には生きている価値がない」「ブサイクだから異性にモテない」。 極端な言葉で、自分を傷つける人が増えている。 「自分が嫌い」をこじらせてしまった人たちの、自傷行為のように見える言動。 その深層心理にひきこもり専門医である精神科医が迫る。 誰にでも何歳からでも起こり、一度おちいると出られない、徹底的な自己否定。 「ダメな自分」の思い込みを見つめ直し、健全な自己愛を取り戻す方法を探る。
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Posted by ブクログ
(2025/01/24 2h) 『スマホ時代の哲学』にて紹介されていたので読んでみた。 同著者の『まんが やってみたくなるオープンダイアローグ』も面白く読んだ。 わたしは引きこもり当事者として、「自傷的自己愛」をもつ傾向があると自覚している。 ただ、より傾向が強かったのは不登校だったときで、い...続きを読むまは気分の浮き沈みに関しても徐々に乗りこなせるようになってきた。 そのため、本書の助言も抵抗感なく受け入れられた。 著者は引きこもり介入のパイオニアみたいなひとなので、不登校や引きこもり当事者がいちばん共感して読めると思う。 ただ、SNSで「自分なんて…」と自己卑下するような投稿をした覚えのあるひとたちなんかも、読むべき。 弱者男性を自称するひと、ちょっとした優生思想を持ってますよってひとも対象になってる。 自己嫌悪と自分が嫌いは違う。 自己愛と自己肯定感も違う。 少しの言葉や生き方の解釈を変えてみると、楽になれるかもしれない。そういう希望がある本。
911 264P 半分読んだ 斎藤環 1961年生まれ。岩手県出身。筑波大学医学研究科博士課程修了。医学博士。爽風会佐々木病院・診療部長を経て、筑波大学社会精神保険学教授。専門は思春期・青年期の精神病理学、「ひきこもり」問題の治療・支援ならびに啓蒙。漫画・映画・サブカルチャー全般に通じ、新書か...続きを読むら本格的な文芸・美術評論まで幅広く執筆。著書に『社会的ひきこもり』『母は娘の人生を支配する』『承認をめぐる病』『世界が土曜の夜の夢なら』(角川財団学芸賞)『オープンダイアローグとは何か』『「社会的うつ病」の治し方』ほか多数。 アメリカ精神医学会(APA)の編纂した診断基準である「DSM‐5」によれば、それはこんな人物を指すようです。とにかく自分が重要な人物であるという誇大な思いが強く、さほどでもない業績や才能を過大評価してみせたり、周囲にも称賛を期待するようなところがあります。そんな自分には限りない成功や権力、才気と美しさ、あるいは理想的な愛が与えられるのが当然であると確信しています。それほど特別な自分は同じように特別な人々から認められたり関係を持つことができるはずで、どこにいっても自分は高く評価され、特別な扱いを受けるのが当然であると信じています。だから、いつでも態度は大きく傲岸不遜です。そのぶん他人の気持ちへの共感や配慮に乏しく、自分の目的のためなら相手を利用しても良いと考えています。また、たいへん嫉妬深く、また自分自身もいつも人から嫉妬されていると感じています。 現代の王侯貴族階層というべき「セレブ」界隈には、こういう人がいてもおかしくはないと思います。もっとも、周囲の環境がこうした振る舞いを許容している場合は、環境に適応できているわけですから、診断など余計なお世話、ということになるでしょう。パーソナリティ障害の診断は、その問題ゆえに本人や周囲が困っていることが条件ですから。 ナルシシズムという言葉は昔からありました。性科学者のハヴェロック・エリスが、自慰行為に没頭する女性に対して「ナルシス的」という言葉を用い(一八九八年)、これを読んだドイツの精神科医パウル・ネッケがはじめて自己愛の意味で「ナルシシズム」という用語に言及したとされています(一八九九年)。この論文を読んだジークムント・フロイトが、「ナルシシズム」という言葉を『性欲論三篇』の中で用いました(一九〇五年)。かくして精神分析の創始者であるジークムント・フロイトは、人間心理の説明にナルシシズム概念を体系的に応用したわけです。フロイトは「自体愛」「一次的ナルシシズム」「二次的ナルシシズム」といった概念を提唱していますが、それぞれについて簡単にみておきましょう。 自体愛というのは、まだ生まれたばかりの赤ん坊が、自分と他人の区別も十分についていないような段階で、自分自身の身体に向ける欲動を指す言葉です。指しゃぶりやマスターベーションのような行為は自体愛的な行為、と呼ばれます。 次の「一次的ナルシシズム」というのは、幼児がリビドー(性的なエネルギー)のすべてを自分自身に向けるような、他者がまだ存在しない段階での自己への愛を意味しています。もっとも、最近の研究では、乳幼児がかなり早期から外的対象を認識できるとされており、フロイトの説はだいぶ分が悪いようです。ただ、乳幼児期にこうした欲望の閉鎖系を想定することは、その後のさまざまな病理を考える上で意義があるとする意見もあります。私自身も、後で触れる「二次的ナルシシズム」が「一次的ナルシシズム」から派生すると考える方が、自己愛と対象愛の入れ子状の関係を説明する上で有利になると考えてはいます。 ナルシシズムに浸る人は、幻想に騙されやすいとされています。昨今、世にはびこる荒唐無稽な陰謀論を信じてしまう人もまた、強烈な自己愛の持ち主だと思われます。マスメディア報道に見るような標準的社会理解に囚われない自分でありたい、という思いは、自己愛そのものです。人は、安直に自己愛を満たす手段に走りがちです。この点については後でも触れます。 さて、未成熟な自己は、「野心」と「理想」の二極構造であると述べてきました。しかし現実世界を生き延びるには、それだけでは不十分です。エンジンとゴールは人を動かすでしょうが、正しくゴールを目指すには、さまざまなスキルが必要となるからです。たとえば母親のような人間になりたいと願ったとしても、そのためには社会に参加し、他者とコミュニケーションを重ね、さまざまな知識や技能を習得する必要がある。そういうスキルを与えてくれるのは、友人や知人、先輩や教師といった「自己─対象」ということになります。なぜ家族はスキルを与えられないのか。典型的には「性愛」があります。性愛のスキルを家族が与えることはできません(「性教育」とは異なります)。それは必然的に、家庭の外で、家族以外の他者から学ぶべきものです。 人がひきこもってしまうことについて、私が一番危惧するのは、実はこの点です。家族以外の他者との接点を持たないことによって、人は生きる上で必要な「スキル」を獲得する機会から遠ざかってしまうのではないか。「そんなものはネットがあれば学べる」という考え方もあるでしょうし、確かにそういう形で補える場合もあるでしょう。私が危惧するのは、ここで想定されているスキルというものが、単なる知識や手続きとは異なると考えるからです。 もともと私は「〈家族以外の対人関係〉なくしては人間の成熟はあり得ない」と考えていました。別に「人はすべからく成熟すべし」と考えているわけではありませんし、成熟せずに生きられる社会は良い社会であるとも考えています。ただ、この社会には成熟によって避けられる苦痛がたくさんあるとは考えています。長期にひきこもってしまった人が成熟から遠ざかっているように見えるのは、まさに「家族以外の対人関係の欠如」ゆえではないか。そのことに起因する成熟困難が、当事者を苦しめている可能性はないか。ひきこもることそれ自体を問題視したり病気扱いしたりすることは間違いですが、それとは別に、こうした視点はもう少し維持しておきたいと考えています。 松本俊彦氏らによれば、自傷は死に至る行為ではありますが、自殺企図ではありません。むしろ自傷は、少なくともその初期においては「死なないため」の手段とされています。自傷経験者はしばしば「切るとすっきりする」と言いますが、自傷には不安やいらいら、緊張などを解放するためのガス抜き的な効果があることがわかっています。自傷の瞬間にはエンケファリンと呼ばれる脳内麻薬が分泌され、それが心の苦痛も緩和してくれるというメカニズムも知られています。 また自傷行為には、周囲に自分の苦しい状況をアピールするための援助希求行動という意味もあります。ただ、何度も繰り返すうちに周囲も無関心になって本人が孤立していき、その苦痛をやわらげるためにさらに自傷が習慣化する、という悪循環が生じがちです。こうした悪循環が最終的に自殺既遂に至ることが非常に多いため、「自傷は死に至る行為」と呼ばれるのです。 先ほども述べましたが、自己批判を繰り返す人ほど、自分と他人を比較したり、自分の価値について思い悩んだりするなどして、結果的に「自分について考え続けることで忙しい」状態に陥りがちです。この、自分に対する尋常ならざる関心ゆえに、私はそれを「自己愛」と呼ぶのです。それはともかく、自己批判的な人ほど、他者からの好意や愛情に対して鈍感になりやすく、また好意に気づいても自分で否定してしまいがちです。まして他者を愛したり好きになったりといったことは、いっそう困難になってしまいます。社会的には成功していながら自傷的自己愛を有すると思しい女性を何人か知っていますが、美人で聡明な彼女たちは一様に「自分がモテている」ことについて驚くほど鈍感か、無関心でした。この傾向はかなりの程度、一般化できるように思います。 このことと矛盾するようですが、自傷的自己愛を持つ人が、他者から向けられた好意を過大評価してしまい、その相手に強く執着してしまうこともあります。特に異性関係においては、「こんな自分でも愛してくれる貴重な他者」として過剰に執着し、相手が自分の期待に応えてくれないと、逆に激しく攻撃したり、ストーカーめいた振る舞いに陥ってしまう場合もあります。 就職が「承認のため」というのは、こういうことです。望む職業に就くことで、友人知人から「すごい」と評価されること。そればかりではありません。恥ずかしくない就職に成功することで、同世代の友人たちから見放されないという安心感、合コンを含め異性関係の獲得に有利になること、そして結婚し家庭を持つこと……これらすべてが「承認強者」の条件となります。実際にはこうした懸念の大半は杞憂で、多少条件の悪い職場に就職したからといって友人から見捨てられるなどということはそうそうないのですが、承認に依存してきた人にとっては、そうなるとしか思えない。周囲からあまり評価されない(と予想される)仕事に就くことは、たとえそれで食べていけたとしても、十分な承認が得られないだろうという予期ゆえに、自己愛は大いに傷つくでしょう。その結果、友人たちは何とも思っていないのに、自分から友人を遠ざけてしまう人も少なくありません。こうした状況下では、社会的評価の高い会社(職業)に、回り道をせずに就職できるかどうかが、誇張ではなしに死活問題になるのです。
あなたが他者をむやみに否定しない倫理的理由があるのなら、全く同じ理由で自分自身も否定しないでほしい。 あなたに自分を否定させているのは、あなた自身の価値観というよりかは、世間的な価値観や同調圧力といった要素。 自分自身でありたい気持ちこそが自己愛。 本来1人の人間には無数の長所も短所も含まれて...続きを読むいてそれを一気にイメージすることはできない。 あなたの尊厳はあなた自身が守るべきだ。 成長や成熟は、自分自身でありたい気持ち、自己愛を大切にすることからこそもたらされる。
面白かった! 健全な自己愛を育むことの何と困難なことか。 自分自身が本作で言う所の自傷的自己愛で長年悩み、根深い自己否定、嫌悪を抱えながら生きてきた。 だからこそ刺さる部分が多くあり、これからの人生では、少しずつでも健全な自己愛を育てていくことが出来るかもしれないという希望が持てた。 ...続きを読む039;'自己愛とは、自分が好きという感情ではなく、 自分が嫌い、自分がわからないという感情も含まれる。自分自身でありたいという欲望の事である。 成熟した自己愛を構成する要素には、自己肯定感のみならず、自己批判、自己嫌悪、プライド、自己処罰といった様々な否定的な要素までもが含まれる。"
自己愛って持っていてもいいんだ、無くすことはできないんだ。 刺さる言葉が沢山あって、メモ取った。 またしばらく経ったら読み返したい。
日本の全大学生が読むべき本 自分もそうだが,多くの人は,自分に卑屈になってしまう傾向がある。SNSが発達してきて,自分より上位種がSNSで散見されるからだ。学校では一番の成績だったとしても,Twitterを開けば,自分より遥か彼方の成績の人がいくらでもいる。容姿やスポーツなどの面をとっても格上はい...続きを読むくらでもSNSで見れるため,つい卑屈になってしまう。この本を読めばその問題が解決できるわけではないが,なぜ現在そのような状態に,社会がなってしまっているのか,どのようにしたら少しずつでも改善を図っていけるのか,その一助になるのがこの本書だと私は思う。
一から十まで自分ごととして読みました。自分が自傷的自己愛なる心性を保持しているという自覚は当初から強くありましたが、本書の「キャラ」概念の導入によってその解像度がさらに増したと思います。 つまり、2000年前後の「解離の時代」以降、「承認の可視化・定量化」とともに人々の承認依存=つながり依存の傾...続きを読む向が強まり、その中で「キャラとしての承認」が重要化し、そして「本来の自己」=身体と「キャラとしての自分」のずれこそが、自傷的自己愛のあり方を生んだのだということ。 個人的に、自分自身のことを「クズ」であると強く感じていましたが、このようなセルフスティグマに再帰的傾向があることも確信していました。つまり、自分は「クズ」であるが、自分を「クズ」と断定することにより、ある意味で自分の居場所を作り安心する。そのことが、また自らの「クズ」としての人格的特徴を再帰的に増幅する。このようなあり方を(モノローグ的に)「再帰的クズ」と呼称していましたが、本書を読み終わった今ならば、まさしくこの「再帰的クズ」こそが「キャラ化された自分」であるということに思い至ります。そして、「あるべき自分」の立場から、「キャラとしての自分」を徹底的に貶める(自傷)ことで、なんとか自己愛を保っていたのだと強く感じます。本書の言葉を借りるならば、「枯渇してしまった自信を高いプライドによって補い、必死に支えている」(p71)状態です。 著者も仰るように、自傷的自己愛は大変「閉じた」自己愛のあり方だと思います。自分について考えれば考えるほど、このモノローグ的思考から永遠に抜け出せなくなるのではないかという不安が募っていきます。本書を読んだことは、改めて自己を社会や他者との関係性の中で考え直す良いきっかけとなりました。「自傷的自己愛」という言葉を冠したこの新書を世に出していただいたことに、深く感謝したいと思います。
自責は自己愛の裏返し。自己保存のためにあえて自分を傷つけようとする。自分を責めることも大事だが、過度に痛みつけてしまうとあらぬ方向へ向かってしまう。時には楽観的に、力を抜くことが大事。
自傷的自己愛を抱える人が「プライドが高くて自信がない人」というのは分かりやすかった。また、「自己愛」というとどちらかというとネガティブな印象がある言葉だが、自己愛自体は生きるために必要なものであり、それは「自分自身でありたい」という願いなのだということがよく分かった。
大学の先生が書かれた本ということで拝読。 ✏こういう場合の「正解」は、いわゆる「アイ・メッセージ」、「あなたが自分を責めたい気持ちはわかったけれど、私は同意はできないよ」と言うことです。 ✏繰り返しますが彼らは、「自分がダメであることに関しては、誰よりも自信がある」ので、その自信までも否定され傷...続きを読むつけられたくないのです。こういった人々は、自己愛が弱いのではなく、むしろ自己愛が強いのではないか。つまりこれらの発言は、自己愛の発露としての自傷行為なのではないか。その根拠の一つとして、彼らが自分自身について、あるいは自分が周囲からどう思われるかについて、いつも考え続けているということが挙げられます。 ✏この社会には成熟によって避けられる苦痛がたくさんあるとは考えています。 ✏コフートによれば、自己愛の発達のもっとも望ましい条件は、青年期や成人期を通じて自己を支持してくれる対象が持続することです。特に青年期には、たとえ一人でも、無条件で支持してくれる人の存在が重要です。 ✏自傷的自己愛の一番わかりやすい構造は、この「高いプライドと低い自信」というギャップです ✏万能感はその本質からして開かれた幻想なので修正機会がありますが、無力感は徹底して閉じた幻想なので、修正がきわめて難しい。つまり自傷的自己愛は、徹底して閉じているという点で、もっとも完結した自己愛と考えることもできます。 ✏別にキャラいじりをされたわけでもいじめられたわけでもないのですが、「そう思われているだろうな」という思い込みだけで、その経験はトラウマ化するようです。 ✏「同一化」とは、簡単に言えば、母親が娘に「自分の人生の生き直し」を求めることです ✏健康な自己愛こそは親が子に与えうる最上のプレゼントではないかとすら思います。ここで私が「親」というのは、「子どもの身近にいる人」という意味なので、必ずしも母親であるとか肉親を意味するわけではありません。いかなる家庭環境でも健康な自己愛を与えることができますし、あえて言えば「コスパ」も最高です。成人してから自傷的自己愛の修復にかかるコストを考えるなら、健康な自己愛を育む価値はいくら強調してもしたりないほどです。 ✏ 母との関係に問題があると気付いた娘が、こうした母娘関係から自立するには、どうしたらいいのでしょうか。先述の著書で私が提案した解決策は、第一に「問題の存在に気付くこと」でした。私がほとんど極論のように「すべての母は毒母であり、すべての母娘関係は支配関係である」と主張しているのは、かなりどぎつい表現を用いないと、当事者にこの問題に気付いてもらえない、という危機感があるからです。 ✏問題の存在に気づいたら… ①母親の権威を相対化する。母親は娘のあなたにとって特別な存在だけど、その前に一人の不完全な人間であることを理解する。結婚前の話を聞くのもおすすめ。 ②両親の前で一回全部吐き出す。親の何が嫌だったか繰り返し語っていく。繰り返し口に出すことで思いが緩和され関係が修復されることがある。 ✏最も高度に達成された自己愛は透明化する、という考え方もあります。経済的にも養育的にも恵まれた環境の中で育った人の中には、そういう人がいます。自己愛の最も健全で望ましい形は、それが空気のように透明化することかもしれません。もはやいちいち「自分が好き」とすら思わないほど、安定した自意識の基盤になってしまうわけです。 ✏それに比べれば、常に「自分大好き」の人は、いくぶん不安定のように思います。常に内省的に自己愛を確認している人は、わずかな傷つきにも動揺しやすい。その意味で「自分が好き」であることが誰の目にもわかりやすい人は、その自己愛も案外盤石ではないのかもしれません。 ✏対話でなされているのは基本的に「主観と主観の交換」です。対話の相手がどんな主観の世界に住んでいるか教えてもらうわけです。その世界がどんなにおかしなもので、間違ってるように思えたとしても、いったんは受け入れます。反論や説得、批判はタブーです。 ✏もし社会がひきこもる自由を容認してくれたら、ひきこもりへの偏見は減少し、自分自身への偏見故にひきこもりをこじらせる人も減るでしょう。その意味で、ひきこもりの容認こそが、ひきこもり対策の究極の解とも考えられます。
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