斎藤環のレビュー一覧
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著者が「対談を終えて」のコメントにも書いたように、萩尾望都さんのプライヴェートなお話が聞けてよかった。就活の学生さん、本当の「貴重なお話」っていうのは、こういう話のことなんですよーーだそうですw
まあ皆さん酷い母親をお持ちで。私も機能不全家庭で育ちましたが、大して珍しい事ではなかったんだなと。また母親と距離を置きたいと思う事に罪悪感を感じなくてもよかったんだと今更ながら納得しました。水無田さんのように理路整然と考えていれば、もっと早くに楽になれたのかなと思いました。
母性は存在しない、精神分析的には男性は身体を持っていない、にはビックリ。
p152
信田 だからあんなメタボな身体でも平気でさらせるんですね(笑)。私、よく恥ずかしげもなくメタボな身体や、薄くなった髪の毛を電車のなかで平気でさらして、足を広げて寝ていられるなと思うんですけど、あれはそういうことだったんですね。 -
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精神科医で社会評論家の斎藤先生の「ヤンキー」論。
昔からヤンキーにカテゴライズされる人たちは沢山いたわけであるが、何故か最近「発見」されて、消費マーケティングの世界でも人気だったりする。
これはネットをはじめ「トンガッた」ところにいる「オタク」たちは、弁は立つし、知識も豊富で、ロゴスの世界では優位にいるように見えるのだが、じつはマイノリティだ。世界は「気合い」=ヤンキーの精神的な支柱で動いているのだw
<齋藤先生のヤンキーの定義=笑える>
・過剰装飾を好む「バッドセンス」な美的感性
・気合とかその場の勢いをなにより大事にし、「深く考えない」ことを美徳とする精神(反知性・教養主義)
・大局的・本質的な理解よりも、実際的な技能を至上とする価値観(戦略軽視、戦術重視)
・循環的な社会関係を重要視する志向性(結果としての家族重視)
・本物とフェイクのすり替わりを許容する程度の「伝統」重視 -
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読んだ後に率直に感じた感想は「重い」であった。またこのような母娘関係がどのような家庭にもレベルは違うにせよ存在すること、決して他人ごとでないこと、そしてこれらの問題の根深は深いこと、これらにため息をついた。またこの本が述べていることはあくまでも様々な情報から判断した著者の主観であり、一般論の断片であること。この本に書かれていることが絶対ではないことを忘れてはいけないと、自戒した。今回の本は母親と娘の関係性のバランスの難しさについて書かれていた。この本のメッセージは明確であり、首尾一貫している。それは「母親殺しは不可能であり、娘と母の関係は一生続く」というものだ
まず書かれていたのは、母親と娘が戦っている事例について書かれていた。なぜ母親と娘は戦うのか。それは、母親が自身の母親に十分な愛を注がれていなかったためや、夫の圧力から逃れるためなど、様々な理由があるにせよ、母親が娘を支配しようとするため、だという。それに対し、目に見える形で、もしくは静かな形で、娘は母親に反発する。
このように母親が娘を支配しようとする構造がなぜ生まれるのか。この呪縛の招待は何なのか。ここでまず印象に残ったのはインナーマザーについての記述である。簡単に言えば親が「世間体」に対しひれ伏し、世間に従うよう親が子供をしつけることを言う。両親が世間体を気にしながら子供を教育するため、子供はそれに気づき、親に気を使いながら自分の行動を制限する。ここでは、世間は子供を教育するための「材料」ではなく、「教祖様」のような存在になっているので、子供をしつけるという名目で親が子供を支配するという。このような「条件付の愛(or 条件付の承認+無条件の愛)」を親が子供に与えるとき、特に母娘関係は他の親子関係とは特異な性質を帯びるという。これは母親と娘が同性であることから生じる。母親は娘に自身の考えを共有し、感情を共感させようとする。娘は母親哀れに思ったり、日ごろ母親に尽くしてもらっている感謝や罪悪感から母親に寄り添おうとする。そのような中で母親と娘の密着が進んでいく。
このような条件付の愛の中、娘は母親のダブルバインドによって板ばさみ状態になる。ダブルバインドとは口で発しているメッセージと、母親が行動で示すメタなメッセージの間に矛盾が生じることである。たとえば口では「もーあなたしっかりしなさいよ!」と娘に対してきちんと生活することを促しておきながら、娘の身辺を母親が整理し、結局「自立しなくていいのよ」とメタなメッセージを娘に送る。結局娘は自立できないという。このようなダブルバインドの中、娘と母の密着は進んでいく。
結局日本の母娘関係において、母親は娘に母性的に奉仕し、娘に「申し訳ない」と感じさせるこによって娘を支配する、という。また上に述べたように娘にとって母親という存在は身体の中に浸透し、母親を否定することは自分自身を否定することに繋がるため、いわゆる「父殺し」ならぬ「母殺し」することはできない。では、女性の自立とは?心理学者の高石浩一氏は次のように述べている。「女性の「自立」とは、ひょっとすると決して「克服」しきらない、「殺し」きらないで共生し共存するような、剣が峰を綱渡りするような、ものすごく微妙なバランスを獲得していくことなのかもしれない」と述べていた。これに強く、共感した。
次に書かれていたのが女性の「女性性」に関してだ。母親は自身の娘を育てるときに「立派な娘になるよう」育てる。この「立派な娘」というのは「すばらしい女性性をもった娘」という風に置き換えることができる。では「女性性」とは何か、ということについて書かれていた。一言で言えば、「女性性=身体性」である。どういうことか。つまりある女性の「女性性」とはその女性の「身体性」を指すことが多い、ということだ。女性が自分が女性であることに対して肯定したり、逆に嫌悪したりするとき、その対象は女性自身の身体に向きやすい。「髪の毛が整っていない」や「肌が荒れている」ことに対して女性がことのほか男性より敏感なのが良い例である。これとは逆に男性は自身の能力や性格、社会的な地位などの「象徴的なもの」に肯定感や嫌悪感を抱くという。
この女性の身体性を説明するのに、女児のエディプスコンプレックスという概念が本文中登場する。女児のエディプスコンプレックスとは、自身にペニスがついていないことから自分をこういう身体に生んだ母親を恨み、また女性という身体に対して嫌悪感を抱くことをいう。通常なら、結果的にそれが出産願望に繋がっていく。
女性に多い"拒食症"などはこの女性の身体(女性性)への嫌悪感からヘテロセクシズムを捨て、ユニセックスな存在への願望からきているという。また加えて一部の女性がboys loveの同人誌を好むことも、このような女性の身体への嫌悪からきているという。つまり女性が自身の女性性に嫌悪感を抱くとき、攻撃の対象が身体になっているのである。母親は娘を育てるとき、娘の女性性を育てようとするので、結局母親の躾という大義名分で行う支配的な教育は、娘の身体性に絡んでくる。このことが、母親の娘の支配に大きく問題となる。
どういうことかというと、例えば息子に母親が教育をする場合、「男性としてのあり方」というのは象徴的な概念として親に認知されている。「男の子なんだから我慢しなさい!」や「男に二言はない」などがその例だ。よって男の子を育てる際、親の主観はもちろん入るが、それ以上に通念的な「男性像」みたいなものが存在し、それを意識しながら親は息子を育てることになるという。それに対し女性は「女性は~~であるべき」というような概念はあまり多くない。「おしとやかであるべき」や「人に対して優しくあるべき」など、男性像の否定のような概念は存在するが、それよりも「綺麗な髪」や「綺麗な洋服」、「綺麗な言葉遣い」、「身なりやしぐさ」など、女性らしさとは、上でも述べたとおり「身体」に関わる。よって娘が女性性を獲得するには、母親からの身体性の伝達が必要になる。これは結果的に母親が娘の身体性(所作・行為)を支配することに繋がる。つまり「ああしなさい」、「こうしなさい」が多くなるということである。母が娘を女性として教育するとき、その内容は身体性に関わる。よって母親の支配は娘に対して結果的に強くなってしまうという。
こういった支配構造を母親側の視点から見るとどう見えるか。背景には、母親が子供を持つことによって感じる無限の責任性が存在する。そして子供が娘であれば、その身体の共通性から、母親は娘へ過剰な期待をもつことになる。過剰な期待、男の子に対する「社会的な地位を獲得せよ」という要請のようにシンプルではない。それは「自分の人生を生きなおして欲しい」という要請である。
先ほどのエディプスコンプレックスでも述べたが、母親は娘を産んだ際、子供を女性の身体に生んでしまったことによる無限の責任を負うという。それに加え、「子育ては母親の責任」というような風潮が社会にはある。この責任感から、一般的に母親は娘に対して積極的に子育てを行う。上でも述べたように女性性を育てようとする際、母親は無意識のうちに娘の身体をコントロールするようになる。この娘をコントロールする過程で娘への罪悪感が期待感に変わるという。その期待の中身とは、基本的には人によると思うが、この本が言うには、「自分の人生の生き直して欲しい」という期待である。母親は娘の身体に関わりすぎるあまり、母親と娘の間で身体が共有されてしまう。それによって母親は娘を通して新しい人生を歩んでいるような感覚を持つという。そして娘は、母親に対する感謝という名の罪悪感と、娘の中に存在する母親という存在から、この期待を裏切れない。
以上のような理由から娘は母親殺しをすることができないという。イメージ的に言えば母親の言葉が娘にインストールされている形である。こういった状況を抜け出すには、どうしたらいいのか。基本的には、娘、母親の両方もしくは片方が状況を俯瞰すること大事である。そのために第三者が関わったり、こういった本を読んだり、母と娘の物理的な距離を広げたりすることが有効であるという。しかしこれらが必ずしも効くとは限らない。
母娘関係の難しさを痛感した、一冊だった。 -
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ネタバレ理論の裏付けがありながら、温かい心を持って治療に当たっている方なのだなぁと感じた。
一般の方向けの本、ということだけあって、とっても読みやすく、面白い。
ひきこもりのゴールは、心が自由になること。
自発性を大切にする。自分でやりたいと思うことは、なんでもやってみてもらう。
悩むぐらいなら現状維持を勧める。
などなど、共感できる言葉がたくさん見つかった。
治療にあたる者は、心を複雑にしておくこと、そうすることで、一種の慎重さが生まれ、アイディアが生まれる土壌となる、とも。形がなく、外からは見えない「心」を決め付けないために、必要なことなんだね。 -
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著者はひきこもりの専門医である。引きこもりとはという定義から始まり、引きこもりは病気といえるか、など語られていく。まず、引きこもり=無気力ではない、ということ。これは一般に誤解されがちなことで、私も本書を読むまではそう思いこんでいた。最後の引きこもりからの脱出過程でインターネットが役だっている箇所が興味深かった。最近では30代以降の引きこもりが増加する傾向にあり、これは就職難から来る理由も考えられる。いずれにせよ、他人に寄生して いるわけだから、両親が年老いていくと引きこもりにも、何らかの将来設計を立てねばならなくなる。この点に現時点では対応が難しいようだ。
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著者の斉藤環氏は、ラカン派精神分析学者である。私は以前同精神分析学者である樫村愛子氏の「ネオリベラリズムの精神分析」を読んでいたが、それとは全く違い、私たちにわかりやすいように「若者」について論じている。ただ単に「若者」を論じているわけではない。斉藤氏は「最近の若者は...」と若者論を上から目線で非難して安住する大人にも、問題があるという。つまり、「若者」とレッテルを貼り付けて安住するような善悪二元論的な構図では何も解決にはならないのだ。オウムとマスコミ=大衆の時もそうだったように、何らかの関わりを若者と持とうとしない限り、解決策は見えない。本書は、若者の問題として挙げられる「ひきこもり」「不登校」「リストカット」「インターネットや携帯電話の普及」「境界性人格障害」「心的外傷ストレス=PTSD」など多岐にわたる問題を「病因論的ドライブ」という斉藤氏独自の言葉で言及する。さらに難解ではなく平易に書かれているので、一日もあれば読めてしまう。このような青少年の問題は、何が原因なのか。彼らの自己責任なのか。家族か、社会か。まず、このような問題は「関係性」の中で生じる問題であり、簡単に当事者を「病人」扱いしてしまうことは非常に危険だと著者は言う。私もその通りだと思う。不登校の子供がいたら、まず家庭でその子供の声を聴いてあげることから始める。そして精神科にもまず当事者と同伴せずに、親だけで相談してみる。簡単に精神科に子供たちを連れて行くと、自分が病人だということを内面化してしまうおそれがあるからだ。その他にも「若者」の病因と「関係性」としての処方箋がこの本には記されている。リストカットやひきこもりは、良い悪いの問題じゃない。どう関わっていくか、の問題であると私は思う。
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斎藤環のひきこもりの定義はどれくらい普遍性があるのかわからない。
「社会参加をしない状態で精神障害が第一の原因ではない」というのは異論があるだろうし、「家族以外の対人関係が無ければどんなに毎日外出していてもひきこもり」というのは一般的なイメージと違うように思う。
ひきこもりが自信を欠いているのは業績がないからではなくて、子供の頃から親に誉められた経験が少ないからではないのか。
言葉は意味の代理物であり、意味の方が言葉より豊かであるように思う。
言葉を語らなくても人間は人間であるように思う。
「人間は言葉を語る存在である」という所から人間存在に他の生物と違う特権的地位を与えようとする意図があるように思う。
依存症は言葉と関係なく脳内の化学的反応により生じているように思う。
欲望は他者の志向性と関係なく生じるものもあるように思う。
プライドと自信を区別するのは宮台の考えから来ているのだろうか。
妄想と理想化した親のイマーゴの関係などについて書いて欲しかった。
「自己愛の病理」「人格障害」という言葉を医師による悪口としてしまうのはどうなんだろう。