斎藤環のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
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半分読んだ
斎藤環
1961年生まれ。岩手県出身。筑波大学医学研究科博士課程修了。医学博士。爽風会佐々木病院・診療部長を経て、筑波大学社会精神保険学教授。専門は思春期・青年期の精神病理学、「ひきこもり」問題の治療・支援ならびに啓蒙。漫画・映画・サブカルチャー全般に通じ、新書から本格的な文芸・美術評論まで幅広く執筆。著書に『社会的ひきこもり』『母は娘の人生を支配する』『承認をめぐる病』『世界が土曜の夜の夢なら』(角川財団学芸賞)『オープンダイアローグとは何か』『「社会的うつ病」の治し方』ほか多数。
アメリカ精神医学会(APA)の編纂した診断基準である「DSM‐5」によれば、それはこんな人物を指すようです。とにかく自分が重要な人物であるという誇大な思いが強く、さほどでもない業績や才能を過大評価してみせたり、周囲にも称賛を期待するようなところがあります。そんな自分には限りない成功や権力、才気と美しさ、あるいは理想的な愛が与えられるのが当然であると確信しています。それほど特別な自分は同じように特別な人々から認められたり関係を持つことができるはずで、どこにいっても自分は高く評価され、特別な扱いを受けるのが当然であると信じています。だから、いつでも態度は大きく傲岸不遜です。そのぶん他人の気持ちへの共感や配慮に乏しく、自分の目的のためなら相手を利用しても良いと考えています。また、たいへん嫉妬深く、また自分自身もいつも人から嫉妬されていると感じています。
現代の王侯貴族階層というべき「セレブ」界隈には、こういう人がいてもおかしくはないと思います。もっとも、周囲の環境がこうした振る舞いを許容している場合は、環境に適応できているわけですから、診断など余計なお世話、ということになるでしょう。パーソナリティ障害の診断は、その問題ゆえに本人や周囲が困っていることが条件ですから。
ナルシシズムという言葉は昔からありました。性科学者のハヴェロック・エリスが、自慰行為に没頭する女性に対して「ナルシス的」という言葉を用い(一八九八年)、これを読んだドイツの精神科医パウル・ネッケがはじめて自己愛の意味で「ナルシシズム」という用語に言及したとされています(一八九九年)。この論文を読んだジークムント・フロイトが、「ナルシシズム」という言葉を『性欲論三篇』の中で用いました(一九〇五年)。かくして精神分析の創始者であるジークムント・フロイトは、人間心理の説明にナルシシズム概念を体系的に応用したわけです。フロイトは「自体愛」「一次的ナルシシズム」「二次的ナルシシズム」といった概念を提唱していますが、それぞれについて簡単にみておきましょう。
自体愛というのは、まだ生まれたばかりの赤ん坊が、自分と他人の区別も十分についていないような段階で、自分自身の身体に向ける欲動を指す言葉です。指しゃぶりやマスターベーションのような行為は自体愛的な行為、と呼ばれます。 次の「一次的ナルシシズム」というのは、幼児がリビドー(性的なエネルギー)のすべてを自分自身に向けるような、他者がまだ存在しない段階での自己への愛を意味しています。もっとも、最近の研究では、乳幼児がかなり早期から外的対象を認識できるとされており、フロイトの説はだいぶ分が悪いようです。ただ、乳幼児期にこうした欲望の閉鎖系を想定することは、その後のさまざまな病理を考える上で意義があるとする意見もあります。私自身も、後で触れる「二次的ナルシシズム」が「一次的ナルシシズム」から派生すると考える方が、自己愛と対象愛の入れ子状の関係を説明する上で有利になると考えてはいます。
ナルシシズムに浸る人は、幻想に騙されやすいとされています。昨今、世にはびこる荒唐無稽な陰謀論を信じてしまう人もまた、強烈な自己愛の持ち主だと思われます。マスメディア報道に見るような標準的社会理解に囚われない自分でありたい、という思いは、自己愛そのものです。人は、安直に自己愛を満たす手段に走りがちです。この点については後でも触れます。
さて、未成熟な自己は、「野心」と「理想」の二極構造であると述べてきました。しかし現実世界を生き延びるには、それだけでは不十分です。エンジンとゴールは人を動かすでしょうが、正しくゴールを目指すには、さまざまなスキルが必要となるからです。たとえば母親のような人間になりたいと願ったとしても、そのためには社会に参加し、他者とコミュニケーションを重ね、さまざまな知識や技能を習得する必要がある。そういうスキルを与えてくれるのは、友人や知人、先輩や教師といった「自己─対象」ということになります。なぜ家族はスキルを与えられないのか。典型的には「性愛」があります。性愛のスキルを家族が与えることはできません(「性教育」とは異なります)。それは必然的に、家庭の外で、家族以外の他者から学ぶべきものです。 人がひきこもってしまうことについて、私が一番危惧するのは、実はこの点です。家族以外の他者との接点を持たないことによって、人は生きる上で必要な「スキル」を獲得する機会から遠ざかってしまうのではないか。「そんなものはネットがあれば学べる」という考え方もあるでしょうし、確かにそういう形で補える場合もあるでしょう。私が危惧するのは、ここで想定されているスキルというものが、単なる知識や手続きとは異なると考えるからです。
もともと私は「〈家族以外の対人関係〉なくしては人間の成熟はあり得ない」と考えていました。別に「人はすべからく成熟すべし」と考えているわけではありませんし、成熟せずに生きられる社会は良い社会であるとも考えています。ただ、この社会には成熟によって避けられる苦痛がたくさんあるとは考えています。長期にひきこもってしまった人が成熟から遠ざかっているように見えるのは、まさに「家族以外の対人関係の欠如」ゆえではないか。そのことに起因する成熟困難が、当事者を苦しめている可能性はないか。ひきこもることそれ自体を問題視したり病気扱いしたりすることは間違いですが、それとは別に、こうした視点はもう少し維持しておきたいと考えています。
松本俊彦氏らによれば、自傷は死に至る行為ではありますが、自殺企図ではありません。むしろ自傷は、少なくともその初期においては「死なないため」の手段とされています。自傷経験者はしばしば「切るとすっきりする」と言いますが、自傷には不安やいらいら、緊張などを解放するためのガス抜き的な効果があることがわかっています。自傷の瞬間にはエンケファリンと呼ばれる脳内麻薬が分泌され、それが心の苦痛も緩和してくれるというメカニズムも知られています。 また自傷行為には、周囲に自分の苦しい状況をアピールするための援助希求行動という意味もあります。ただ、何度も繰り返すうちに周囲も無関心になって本人が孤立していき、その苦痛をやわらげるためにさらに自傷が習慣化する、という悪循環が生じがちです。こうした悪循環が最終的に自殺既遂に至ることが非常に多いため、「自傷は死に至る行為」と呼ばれるのです。
先ほども述べましたが、自己批判を繰り返す人ほど、自分と他人を比較したり、自分の価値について思い悩んだりするなどして、結果的に「自分について考え続けることで忙しい」状態に陥りがちです。この、自分に対する尋常ならざる関心ゆえに、私はそれを「自己愛」と呼ぶのです。それはともかく、自己批判的な人ほど、他者からの好意や愛情に対して鈍感になりやすく、また好意に気づいても自分で否定してしまいがちです。まして他者を愛したり好きになったりといったことは、いっそう困難になってしまいます。社会的には成功していながら自傷的自己愛を有すると思しい女性を何人か知っていますが、美人で聡明な彼女たちは一様に「自分がモテている」ことについて驚くほど鈍感か、無関心でした。この傾向はかなりの程度、一般化できるように思います。
このことと矛盾するようですが、自傷的自己愛を持つ人が、他者から向けられた好意を過大評価してしまい、その相手に強く執着してしまうこともあります。特に異性関係においては、「こんな自分でも愛してくれる貴重な他者」として過剰に執着し、相手が自分の期待に応えてくれないと、逆に激しく攻撃したり、ストーカーめいた振る舞いに陥ってしまう場合もあります。
就職が「承認のため」というのは、こういうことです。望む職業に就くことで、友人知人から「すごい」と評価されること。そればかりではありません。恥ずかしくない就職に成功することで、同世代の友人たちから見放されないという安心感、合コンを含め異性関係の獲得に有利になること、そして結婚し家庭を持つこと……これらすべてが「承認強者」の条件となります。実際にはこうした懸念の大半は杞憂で、多少条件の悪い職場に就職したからといって友人から見捨てられるなどということはそうそうないのですが、承認に依存してきた人にとっては、そうなるとしか思えない。周囲からあまり評価されない(と予想される)仕事に就くことは、たとえそれで食べていけたとしても、十分な承認が得られないだろうという予期ゆえに、自己愛は大いに傷つくでしょう。その結果、友人たちは何とも思っていないのに、自分から友人を遠ざけてしまう人も少なくありません。こうした状況下では、社会的評価の高い会社(職業)に、回り道をせずに就職できるかどうかが、誇張ではなしに死活問題になるのです。 -
Posted by ブクログ
面白かった!
健全な自己愛を育むことの何と困難なことか。
自分自身が本作で言う所の自傷的自己愛で長年悩み、根深い自己否定、嫌悪を抱えながら生きてきた。
だからこそ刺さる部分が多くあり、これからの人生では、少しずつでも健全な自己愛を育てていくことが出来るかもしれないという希望が持てた。
''自己愛とは、自分が好きという感情ではなく、
自分が嫌い、自分がわからないという感情も含まれる。自分自身でありたいという欲望の事である。
成熟した自己愛を構成する要素には、自己肯定感のみならず、自己批判、自己嫌悪、プライド、自己処罰といった様々な否定的な要素までもが含まれる。"
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Posted by ブクログ
第一次世界大戦終結後、あまりの惨事から、国際連盟が発足。
その国際連盟が、「ひとはなぜ戦争をするのか?」、を議論して欲しいと、物理学者のアインシュタインに依頼し、アインシュタインが依頼された議論をする、その相手に選んだのが心理学者のフロイトでした。
1932年にした2人の手紙のやり取りが、この本に収録されていて、読んでみたいと興味を持ち書籍を買ってみました。
今や、毎日毎日、テレビやニュースでは、「現在進行形の戦争」が日常的に報道されてて、余りにも目に入るので、その常態化に、何も感じなくなって麻痺している自分がいるのも怖いですが。
そんなマヒした自分自身に喝??を入れるべく、
「ひとはなぜ戦争をするのか?」
というテーマを国際連盟が学者に依頼した書簡をきっかけに、自分でも考える時間を持とうと、読んでみました。
フロイトは、アインシュタインへの手紙に、
「政治家が本来考え解決するテーマではあるが、本質的には政治家ではない一般の人間も考えるべきだ」
というところから始めて、
「愛と憎しみ」
のような人間の感情や観念を交えて議論していき、
「戦争をしないためには?」
という結論へ向かう、その考え方の流れが書かれてありました。
読後としての答えや感想は、読む人それぞれで違ってきそうですので、控えます。
この本の解説としてあとがきに、養老孟司さんが文章を書いてくれてもいます。
平和から少し遠ざかっている雰囲気の今この瞬間だからこそ、私は読んで良かったと個人的に思いました。
嫌な現実から目を背けたくなるニュースばかりの日々ですが、日本とはまるで遠くの場所の関係ない出来事だと、ついつい麻痺をしてそうな自分がいるな〜と思った、そこのあなた。
そんな人にこそ、是非一度手に取って頂ければと思います!
(100ページくらいの5ミリ程の薄い本で、サラッと読めます)
そんな、本日でした。 -
Posted by ブクログ
日本の全大学生が読むべき本
自分もそうだが,多くの人は,自分に卑屈になってしまう傾向がある。SNSが発達してきて,自分より上位種がSNSで散見されるからだ。学校では一番の成績だったとしても,Twitterを開けば,自分より遥か彼方の成績の人がいくらでもいる。容姿やスポーツなどの面をとっても格上はいくらでもSNSで見れるため,つい卑屈になってしまう。この本を読めばその問題が解決できるわけではないが,なぜ現在そのような状態に,社会がなってしまっているのか,どのようにしたら少しずつでも改善を図っていけるのか,その一助になるのがこの本書だと私は思う。 -
Posted by ブクログ
スクールカウンセラーです。
非常に勉強になり、関係者皆に読んでもらって、意見交換をしたいくらいです。
問題の本質に切り込んでいく斎藤先生と、学校現場の実情を理解した上で、かゆいところに手が届く議論を展開してくださる内田先生との組み合わせが最高ですね。
オープンダイアローグについては、慎重に検討する必要があると思います。
いじめの状態によっては、被害児は加害児と場を同じくすること自体、外傷的な体験になり得ます。
虐待では効果があったということですが、親子という愛着関係が仮定される間柄でのことなので、いじめ事案にそのまま転用することはできないでしょう。
アセスメントの力を磨き、オープンダイアローグについてしっかり学んで、安全に場を回せる自信をつけられたら実践してみたいと思いました。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ1932年、国際連盟からの依頼が物理学者であるアルバート・アインシュタインにとどく。「今の文明において最も大事だと思われる事柄を、一番意見を交換したい相手と書簡を交換して下さい」、選んだテーマは「人はなぜ戦争をするのか」、選んだ相手はジグムント・フロイトであった。アインシュタインは権力と人間の本能的な欲求提示する。フロイトは、暴力とそれを止めることのできる国際機関の設立を願う。しかし、わかっていることがある「人間から攻撃的な性質を取り除くなど、できそうにもない!」。100年近い時間が経過しても、人間は進化せず戦争を繰り返している。さらにフロイトは問いかけます。「すべての人間が平和主義者になるまで、あとどれくらい時間がかかるのでしょうか」。何を進めていけば平和に近づくのでしょうか。フロイトの結論はこうです、「文化の発展を促せば、戦争の終焉へ向けて歩みだすことができる!」文化という言葉が正しいのかわかりませんが、お互いを正しく理解して尊敬をすること、それを文化もしくは文明と呼ぶのでしょうあ。国際的な交流や、その国へ旅行してその国を知ること、そこで生きている人間をしることが戦争を回避できる、そのような人間が国の中で増えていく。本書を読んで、戦争について深く考えることができました。そして100年たっても人類の根本的な問題は簡単には変わりえないことを確認しました。いま地球上で起きている不幸な戦争や紛争がお互いを理解することで早く終焉に向かうこと、新しい戦争が起きないことを心より願います。
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Posted by ブクログ
一から十まで自分ごととして読みました。自分が自傷的自己愛なる心性を保持しているという自覚は当初から強くありましたが、本書の「キャラ」概念の導入によってその解像度がさらに増したと思います。
つまり、2000年前後の「解離の時代」以降、「承認の可視化・定量化」とともに人々の承認依存=つながり依存の傾向が強まり、その中で「キャラとしての承認」が重要化し、そして「本来の自己」=身体と「キャラとしての自分」のずれこそが、自傷的自己愛のあり方を生んだのだということ。
個人的に、自分自身のことを「クズ」であると強く感じていましたが、このようなセルフスティグマに再帰的傾向があることも確信していました。つまり、自分は「クズ」であるが、自分を「クズ」と断定することにより、ある意味で自分の居場所を作り安心する。そのことが、また自らの「クズ」としての人格的特徴を再帰的に増幅する。このようなあり方を(モノローグ的に)「再帰的クズ」と呼称していましたが、本書を読み終わった今ならば、まさしくこの「再帰的クズ」こそが「キャラ化された自分」であるということに思い至ります。そして、「あるべき自分」の立場から、「キャラとしての自分」を徹底的に貶める(自傷)ことで、なんとか自己愛を保っていたのだと強く感じます。本書の言葉を借りるならば、「枯渇してしまった自信を高いプライドによって補い、必死に支えている」(p71)状態です。
著者も仰るように、自傷的自己愛は大変「閉じた」自己愛のあり方だと思います。自分について考えれば考えるほど、このモノローグ的思考から永遠に抜け出せなくなるのではないかという不安が募っていきます。本書を読んだことは、改めて自己を社会や他者との関係性の中で考え直す良いきっかけとなりました。「自傷的自己愛」という言葉を冠したこの新書を世に出していただいたことに、深く感謝したいと思います。