本書は、朝日新聞のシリーズ「語る-人生の贈りもの」(2024年3月掲載)のために行われたインタビューをもとにしたもの。松岡さんが亡くなられてから、松岡さんの生涯の活動をまとめたものが出ることを期待していたが、その期待に十分応える内容で、実に刺激的だった。
昭和19年、京都の呉服屋の家に生まれた。終戦後、東京日本橋芳町に移住し、有名な芸者がいた置屋の前に住んでいた。小学3年生の時に京都に戻った(四条室町)。小学5,6年の時から、昆虫採集と鉱物、化石採集に夢中になり、また友達と電気クラブをつくった。中学では郷土部に入り、その後、科学部に変わった。高校入学前に横浜元町に移住した。東京の九段高校に通い、出版委員会で新聞をつくり、活版印刷の行程や編集作業のおもしろさに目覚めた。後に別冊宝島をつくることになる先輩の鈴木(石井)慎二が早稲田大学に入り、引っ張られて大学でも新聞部に入った。一方で、量子力学や相対性理論に関心を持ち、アインシュタインの全集を読み込んだり、サークルのアジア学会に入って、松田寿男の顧問を受けたりした。
大学4年の時に父親が亡くなり、多額の借金を相続した。借金返済のためにPR通信社という広告代理店に就職し、東販から話が来た高校生向けの読書新聞を担当した。借金返済が終わった頃、雑誌づくりを持ちかけられ、工作舎で「遊」をつくることになった。
1982年に「遊」を休刊して、松岡事務所を設立し、講談社の日本美術文化全集「アート・ジャパネスク」の編集をしたり、電電公社の民営化に伴う顧客へのギフトとして「情報の歴史」(1990年完成)を製作した。
1994年、世の中から少し撤退するために、自分のやることに関心を持ってくれる人にだけ伝える小さなメディア「一倒半巡通信」を発行し始めた。2000年には、情報をとことん編集するウェブ「編集の国」を立ち上げた。インターネットは情報をフラットに集めるだけだが、専門家は類推力を働かせて関連付けた情報を集める。そのような情報探索ができるブラウザをつくれないかと技術者たちと議論もしていた。すべての編集をごく小さなカード上のフォーマットに落として、それをやり取りできるようにしたが、スペックが重すぎて1年ほどで終了した(p.252-257)。「千夜千冊」は、「編集の国」に人を呼び込むためのコンテンツとして始めたもの。
同じ2000年に発行した「知の編集術」に取り入れた「編集稽古」を使って、編集を教える「編集学校」を開講した。2003年からは、日本論をテーマにした「連塾」を開催した。その前には、リチャード・ワーマンの「情報選択の時代」(1990年)を監訳したことをきっかけにして、1992年にアメリカのTEDに呼ばれている。
「アート・ジャパネスク」で編集の対象として日本にあるものに関わっている間に、日本が方法そのものの国ではないかと思い、「日本という方法」「方法の国としての日本」を提唱するに至った。「もどき」「なぞらえ」「あやかり」といった近寄りつつ離れていくような方法が、日本文化では多重多層に使われている。大陸から同時に入ってきたものを組み合わせるだけでなく、かなや国風文化などの新しいものも生み出してきた(p.343-350)。
進化論、脳科学、宇宙論の3つのテーマについては、10年おきに総ざらいをしてきた。
数寄とは選別で、「これ」というものをより分けていって、最後にひとつを残すこと。松岡の編集でもそれを大事にしていた。東は当番があり、役割が順番に変わる番の文化だが、西はチームをつくってみんなで事に当たる衆の文化。