1294円
中野京子さん高階秀爾さんのファンらしい。高階秀爾良いよね。高階秀爾の本も全部買お
中野京子本の中でこれが一番好きかも。ドイツ版堤中納言物語、虫めづる姫君。
美術を知れば知るほどオランダという国が魅力的に思える。オランダって国的にもヨーロッパの端の方だし、保守的なキリスト教の思想から自由に色々探究してる感じが面白いし、オランダは科学的な絵が多い印象ある。日本人にフェルメールとかレンブラント好きな人が多いのもキリスト教的世界観が薄いからなんじゃないかな?
中野 京子
(なかの きょうこ、生年不詳)は、日本の作家[1]、ドイツ文学者[2]、西洋文化史家、翻訳家[3]。北海道生まれ[4]。1979年、早稲田大学大学院修士課程修了[5][6]。オペラ、美術などについて多くのエッセイを執筆する。2007年に発表された『怖い絵』を端緒とする『怖い絵』シリーズが大ヒットとなる。新聞や雑誌に連載をもつほか、テレビの美術番組にも出演する[7][8]。早稲田大学講師[9][10]。『怖い絵』シリーズの刊行10周年を記念して2017年に開催された「怖い絵」展では、特別監修を務めた[11][12][13]。2021年9月に開催された「怖いクラシックコンサート」(東京文化会館)での解説[14]、2022年3月公演の舞台「怖い絵」の監修[15][16]、同年7月上映の「星と怖い神話 怖い絵×プラネタリウム」の監修・解説を担当した[17][18]。
マリア・ズィビラ・メーリアン
17世紀のドイツ生まれ。画家・博物学者・昆虫学者・自然科学者、生態学者——現代の言葉で肩書を並べるより、上の絵を描いた人物、と言う方がずっと彼女らしいのです。虫を見つめ描き続けたマリアの眼差しと筆使いに迫ってみましょう。
「彼はじっさい尊大だったのか? もちろんそうだ。貴族でも大商人でもないが、しかしメーリアン社のようにおおぜいの職人や徒弟を擁した大工房の長は、高級職人として市民階級の上部に位置し、敬意をはらわれている。一七世紀半ばのヨーロッパは、男性の識字率三〇パーセント以下(女性はさらにその半数)といわれるが、マテウスはラテン語の読み書きもできた。〈手工業の親方〉という言葉から受けるイメージとは、はるかに遠い。尊大になることを許された身分だったので、とうぜんそうしたまでのこと。身分による役割をきちんと演じることが正しいとされた社会に、彼は生きていた。 だが妻と長女を相次いで亡くしたころから、マテウスの勢いはかげりを見せはじめる。何より健康状態が悪化した。長年の旅生活、日々の過労がたたったらしい。早描きはできなくなるし、商品の買いつけに対する勘もにぶってくる。しかもだいじなお得意だった貴族たちは、三十年戦争終了後の処理による宮廷縮小などで、注文を減らしはじめた。工房の負債が増え、その心労がまた肉体を痛めつけるという悪循環。とはいえそれは、数年にわたるゆっくりした変化ではあった。」
—『虫を描く女(ひと) 「昆虫学の先駆」マリア・メーリアンの生涯 (NHK出版新書)』中野 京子著
「 しかしながら、序列と人気は別ものである。経済的に豊かな市民層が形成された国、とりわけオランダでは、風景画や風俗画とともに静物画への需要が倍増していた。モノヘの尽きぬ関心が、彼らの好みをそこへ向けたからである。反対に宗教画は、宗教改革以降、偶像崇拝を認めないプロテスタント教会が注文しないため、ほとんどすたれた。」
—『虫を描く女(ひと) 「昆虫学の先駆」マリア・メーリアンの生涯 (NHK出版新書)』中野 京子著
「やがてマリア・シビラが学校へ通うころ、母ヨハンナは長く放っておいた娘に改めて目をとめ、愕然とする。他の少女たちと全然違っているではないか。人形遊びもせず、友だちもできず、いつもひとりで虫ばかり見ている。見ているだけならまだしも、素手で触っている。将来一人前の女性になるためにすべきこと──料理、裁縫、掃除、刺繡、聖書の暗唱──を嫌がり、逃げまわっている。これではいけない。焦った母は、放任から一転、厳しい躾をほどこしはじめた。 良い子のマリア・シビラは、母に逆らわなかった。言いつけられた家事を、黙ってこなした。しかし虫の観察はやめなかった。あんな気色の悪いものを集めるのはやめなさい、といくら止められても、表だっては反抗せず、ただ続けた。家事のせいで虫を見ている時間こそ短くなったが、ヨハンナの思惑どおりには決してならなかった。」
—『虫を描く女(ひと) 「昆虫学の先駆」マリア・メーリアンの生涯 (NHK出版新書)』中野 京子著
「 誰もが皆、時代のとらわれびとだ。マリア・シビラのきわめて個性的な絵に見られる、しなやかに波うつ茎の装飾的描写も、まぎれもなく、彼女の生きたバロックという時代の影響である。 もちろん彼女は〈バロック〉などという言葉は知らない。〈歪んだ真珠〉を意味するこのバロックは、一八世紀末の人々が非古典的な一七世紀を蔑んで呼んだものだ。ルネサンスの調和の美に比べれば、バロックの躍動する生命力や過度の視覚効果は、確かに烈しすぎる。しかしそこに生き、そこの空気を吸っている者にとっては、その劇的表現こそがあたりまえであった。 いや、そんなことをいえば、珍しい花、珍しい昆虫への偏愛もまた、この時代の要請によるものだった。ヨーロッパは〈大航海時代〉を経て、植民地から空前の富をかき集めていた。それとともに、これまで見たこともない珍奇な品々や生きものへの熱狂も生じた。世界は驚異に満ちている。人々は何かひとつ発見するたび、さらにまた別の新しい発見を求め、先を争って所有したがった。オランダにおけるチューリップ・バブルに代表されるように、いわば世をあげてのコレクターブームが巻き起こっていたのである。」
—『虫を描く女(ひと) 「昆虫学の先駆」マリア・メーリアンの生涯 (NHK出版新書)』中野 京子著
「だが南アメリカの植民地の様子を描いた版画などを見ても、とうぜんながらまだ自分の身にひきつけて考えられはしない。新大陸どころか、地続きの隣国でさえ、いつの日か行けるときが来るなどと想像するのはむずかしかった。当時の女性は結婚でもしない限り、生まれた土地にほとんど一生しばりつけられていた。どんなに才能があっても、外国へ徒弟修業に出ることはできなかった。少年のころのマテウス が、プッサン(一五九四 ~一六六五)の絵の模写をさらに模写しながら、フランスやイタリアヘ行って実物を見るのを楽しみにしたのと比べれば、なんと大きな落差だったろう。 だからといって、マリア・シビラがそれを悔しがったかといえば、それは違う。むしろ彼女は、恵まれた自分の立場をありがたいと思っていた。なぜならメッセがないときでも、最新の海外情報、最新の書籍や絵画に、いくらでも接することのできる環境にいた。父親や兄弟、職人たちが、絶えずヨーロッパ各地をまわり、そうしたものを持ち帰ったからだ。マレル家でもそうだが、それよりメーリアン家で所蔵品の数々を見せてもらえるのが何よりの特典といえた。」
—『虫を描く女(ひと) 「昆虫学の先駆」マリア・メーリアンの生涯 (NHK出版新書)』中野 京子著
「 孤独は必ずしも悪いことばかりではない。マリア・シビラはこれまで以上に昆虫に熱中した。後年、「自然研究という生涯の仕事の礎となった年は一六六〇年」と書いたように、一三歳は大きな転換点になる。生まれて初めて、蚕の変態を目のあたりにした年──。 フランクフルトでも養蚕業は盛んだった。虫好きの少女は近所の養蚕場から、いくつかの卵をもらい、部屋で飼育を始める。蚕は変態時間の短さがとりえだ。端に黒点のある孵化まぢかの卵からは、すぐ幼虫がかえり、旺盛な食欲をしめすので、せっせと新鮮なクワの葉を与え続けた(腐ったのや湿ったのをやればすぐ死ぬとわかると、さっそくメモを残しておく)。丸々と太った幼虫は何度か脱皮をくりかえした末に、あるときぴたりと餌を食べなくなり、同時に体はアメ色に変わって糸を吐き出す。休みなく糸を吐き出し、動きまわって、自分の体をぐるぐる巻きにする。しばらくは外から見えていたその幼虫も、やがて自分で作った楕円形のその白い殻にすっかりかくれてしまう。もちろんマリア・シビラは、どの段階も丹念にスケッチしておくのを忘れない。」
—『虫を描く女(ひと) 「昆虫学の先駆」マリア・メーリアンの生涯 (NHK出版新書)』中野 京子著
「こうして幼虫は二週間近く、繭に守られてぐっすり眠る。繭の中でさらに脱皮して、堅い蛹になり、蛹の中で最後の変身、つまり羽化がおこなわれて、ついに繭をやぶって飛び出てくる。それも夜明けに。マリア・シビラは養蚕業者に教えられたとおり、一晩じゅう寝ずに繭を観察し続けた。やがて繭がふるえはじめ、次いで先端から黒っぽい頭が見えてくる。その頭でぐいぐい繭を押し上げ、苦心惨憺の脱出劇が演じられる。ようやく外へ出られても、体はまだ湿り、翅も縮みきっているので、よろけてとても飛ぶどころではない。しばらくもがくうち体は乾いてくるが、まだ翅とのバランスがうまくとれず、よちよち歩きのヒヨコみたいに、羽ばたきしては飼育箱の壁にぶつかっている。だがそれを何度かくりかえすと、生まれたての蛾はいつのまにか空中を飛んでいる……。」
—『虫を描く女(ひと) 「昆虫学の先駆」マリア・メーリアンの生涯 (NHK出版新書)』中野 京子著
「意外だったのは、必ずしもきれいな色のイモ虫が、美しい蝶になるわけではないこと。ぶよぶよした冴えない醜いイモ虫が、鮮やかな翅を持つみごとな蝶に生まれ変わり、ゆうゆうとはばたく姿を何度も見た。平凡な容姿に生まれついたマリア・シビラが、そのめざましい再生、ドラマティックな変化に勇気づけられたろうことは、想像に難くない。女性なら誰しも少女時代に、「いまは悪きぞかし/さかりにならば/かたちはかぎりなくよく/髪もいみじく長くなりなん」と夢みるものだ。蝶ほど、そんな少女の憧れをすくいとる存在はないであろう。」
—『虫を描く女(ひと) 「昆虫学の先駆」マリア・メーリアンの生涯 (NHK出版新書)』中野 京子著
「恋愛で結婚が決まる時代では全然なかった。ヨハンナの二度の結婚が典型的なように、階級はつりあいがとれているか、宗教は同じか、夫は妻子を養えるか、妻は子どもをたくさん産めるか、そして何より互いの利害が一致するか(持参金の多寡も含め)が肝心で、その他は──相手に性的魅力が感じられなくとも、双方に子どもがいても、妻がはるかに年上でも──あまり問題にならない。 つまりあらゆる点で、グラフとマリア・シビラは申し分ないカップルだった。その上、初婚同士である。ニュルンベルクの教師の息子に生まれたグラフに、継ぐべき工房はないけれど、マリア・シビラとならいずれ新しい仕事場を開いてやってゆけるだろう。彼女はすでに立派にミニョンの代役をつとめ、近隣の少女たちを集めて教えるなど、マレル工房の中心になって働いている。マテウス・メーリアンの血をひくだけあり、絵の腕も天才的と評判だ。グラフが最初からすべて計算ずくだったというわけでもないだろうが、後年、徐々に姿を現してくる遊び人の本能で、依存できる相手をただちに見抜いたということはあるかもしれない。」
—『虫を描く女(ひと) 「昆虫学の先駆」マリア・メーリアンの生涯 (NHK出版新書)』中野 京子著
「 いずれを主張するにしても、しかしこの絵の女性が美しくないという点では一致している。ほんもの説は美しくないからであり、別人説もまた美しくないからだった。確かにこの女性は人目をひかない。思いつめたような、生真面目そのものの眼差しこそ印象的だが、目鼻立ちはごくごく平凡だ。ぼってりした頰と、長くて先の赤い鼻、あいまいな顎の線、特徴のない唇。一九世紀のある批評家はこれを評して、マリア・シビラは才能には恵まれたが「容貌に関しては、神は継母が継子を扱うように扱った」とまで言っている。 ──たった一、二枚の肖像画で、その人の何がわかるというのか。 きっとマリア・シビラも、そういう思いだったに違いない。美貌に恵まれていないという自覚があればこそ、自分の姿や、虫と関わりない私生活を、残す気になれなかった。でなければ、父や兄のように肖像画や自伝を残さない理由が見あたらない。なにしろ当時は肖像画の時代、自伝の時代といっていいくらいだった。著名人はむろんのこと、無名でも争って自分の姿を世にとどめたがった。少なからぬ金を払って画家に描いてもらったり、長い退屈な自伝を書く者もいた(一介の床屋の親方ディーツの伝記のおもしろさは、例外的)。その意味では、ふつうの人がふつうの自分の人生を自費出版したり、カメラで自分ばかり撮すなど、強烈に自己にこだわる現代日本とよく似た時代だったのだ。 マリア・シビラの場合、自意識が強すぎたともいえよう。人一倍、美に敏感だったせいで、自分の容姿を肯定しにくかったのかもしれない。特に、流行の衣服をまとうといっそうだめだった。毎日外へ出て採集している顔は、健康的に陽焼けしているのだからあたりまえである。この肖像画の女性は、貴婦人の留守にこっそり衣装を借りた農婦のように見えてしまう。むしろマリア・シビラの高貴さは、昆虫網を持っていたり版画を彫っていたりと、ふだんの自然な姿にこそあっただろう。そんな彼女が描かれていれば、真の魅力が伝わったはずなのに……。」
—『虫を描く女(ひと) 「昆虫学の先駆」マリア・メーリアンの生涯 (NHK出版新書)』中野 京子著
「二〇センチ以上もある巨大毒グモも生息しているのだそうだ。そのオオツチグモは、ふつうのクモとは違って網を張らず、木に登って獲物に近づき、いきなり嚙みつくらしい。ハチドリが襲われたこともあったという。マリア・シビラは夢中になって質問を浴びせたが、しょせん虫に関心のない人間たちの語ることには限界がある。はがゆい思いで終わるのが常だった。」
—『虫を描く女(ひと) 「昆虫学の先駆」マリア・メーリアンの生涯 (NHK出版新書)』中野 京子著
「絶対君主のこの時代にあって、プロテスタント国家オランダはかなり特殊な性格を持っていた。後世から、〈一七世紀の典型的資本主義国〉と呼ばれることになる、商業貴族的共和制が実現しており、裕福な中産市民の層は厚く、彼らが政治経済を動かすとともに、社会秩序を律した。知識欲は旺盛で、女性の識字率もドイツなどよりはるかに高く、三分の一以上だったらしい(男性は六割近い)。芸術は市民のものであり、特に絵画はどんな貧しい家にもない家はない、といわれるほどだった。「けっきょくのところオランダ人はみんな画家として生まれる。それ以外のものとしては存在できない」(エリー・フォール)ほど、絵が好きだった。」
—『虫を描く女(ひと) 「昆虫学の先駆」マリア・メーリアンの生涯 (NHK出版新書)』中野 京子著
「同じものを描き続ける(ないし書き続ける)場合の最大の難点は、やがて本人が飽きるということ。内側から突き上げるものが弱まり、需要があるから制作するという袋小路に迷いこみやすい。たとえば物語画家フェルディナンド・ボル(一六一六 ~一六八〇)は、金持ちの未亡人と結婚したとたん、画家を廃業してしまった。彼はいっとき、レンブラントの有力な後継者といわれたほどである。それでもやめるチャンスがあればやめてしまう。 飽きということの他に、創作だけで暮らす厳しさもあろう。なにしろこれだけ同業者が多いと、飽和状態になるのも早い。少し前まで絵画は──たとえ後世の評価がどんなものでも──購入者にとっては、高価な贅沢品であった。壁に飾った絵にわざわざカーテンを引き、傷まないよう気をつかい、大切にしていた。だが数が多くなればそうはいかない。クヴィリング・ファン・ブレーケレンカムの『仕立屋の店』という絵には、質素な仕立て屋の仕事場の壁に静物画が掛けられ、その額、しかも真ん中に、帽子が無造作にひっかけてある様子が描かれている。もはやその絵は財産でもなければ、部屋の装飾ですらないのだった。」
—『虫を描く女(ひと) 「昆虫学の先駆」マリア・メーリアンの生涯 (NHK出版新書)』中野 京子著
「こうして絵画の値は下がり、実力のない画家は淘汰されてゆく。そんな現実を、しかしメーリアンは子どものころからずっと見てきたから、いたずらに怖れなかった。才能があり、実績があり、幸いコネもある。それならたとえ厳しくとも、ここほど自分を生かせる場はないだろう。ここほど名を上げるのにうってつけの環境はないだろう。なぜならアムステルダムは刺激を求める都市だ。常に新しく魅力的な対象をさがす都市だ。それがどんなに小さな対象──虫のように──でも、そこに驚きと美しさがあれば喜んで認める。今までにない分野であれば、なお。 メーリアンのテリトリーこそ、今までにない分野だった。彼女ほど昆虫に詳しい銅版画家は皆無なのだ。単に昆虫に詳しい者はいる。秀でた銅版画家もいる。だがその両者を合わせ持つ人間は、彼女をおいて他にない。誰よりも虫の生活に通じていなければ、描けない絵。それを誰よりも巧みに描く。この専門分野で、彼女は頂点を極められるにちがいない。頂点を極めれば需要は多い。彼女には自信があり、まさにそのとおりになる。」
—『虫を描く女(ひと) 「昆虫学の先駆」マリア・メーリアンの生涯 (NHK出版新書)』中野 京子著
「仕事の内容は変わらなかった。生徒を集めて絵の教室を開き、画材の販売をし、依頼に応じて昆虫画、植物画、布地絵、科学書のイラストを描く。むろん昆虫の飼育も続けた。都会での採集はたいへんだったので、もっぱら愛好家から分けてもらったり、植物園へ通って研究した。知識を吸収するのは、あいかわらずの悦びだった。 もっとも大きな変化は、これまでにない活発な社交生活である。アムステルダムには『花の本』や『虫の本』のファンが多く、メーリアンはおおぜいの知識人と面識を得て、親しくつきあいはじめる。後年『スリナム本』で、「アムステルダム市長であり東インド会社の長でもあるニコラス・ウィツェン博士と、同市政務次官ヨナス・ウィツェン氏のすばらしいコレクションを見せていただくことができた。また解剖学の医者で植物学教授でもあるフレーデリク・ライス博士、そしてレヴィヌス・ヴィンセント氏、他おおぜいの方々のコレクションを拝見させていただいた」「植物名は現地人の呼び名にしたがったが、ラテン語名は植物園園長であり植物学者、医学者のカスパル・コンメリン博士に付記していただいた」と、謝辞を述べている。」
—『虫を描く女(ひと) 「昆虫学の先駆」マリア・メーリアンの生涯 (NHK出版新書)』中野 京子著
「レーウェンフックのことを、もう少し如才なければ出世できるのに、という者もいたがそうとは限らない。いくら市民国家オランダといえども、正規の大学教育も受けずラテン語もできない人間に、どんなポストも与えられない。本屋の会計係をはじめ、織物商人やら町役場の受付係やらで生計をたててきた彼には、イギリスのロイヤル・ソサイエティの通信員というポストでさえ法外だったろう。だいいち彼はたまにアムステルダムヘ出てくるくらいで、故郷デルフトを離れたがらない。あちらで測量技師の免許も取っている。 もちろん天才である。九一年の長い生涯でただの一冊も著書を書かなかったにもかかわらず、それを認めない者はいない。熟達したガラス研磨術で二倍から三〇〇倍といった倍率の顕微鏡を数百も作り、それで人間の精子や赤血球や筋繊維、またノミの卵やら原生動物を発見した。顕微鏡の構造自体はどれも同じで、二枚の金属板の間に小さなレンズをはさむといった簡単なものだが、彼のようにガラスを磨き、彼のように観察できる者はいなかった。なにせ知りたがりの見たがりだ。盲目になる危険を冒し、火薬の爆発状況を四、五センチのところで観察したことさえあった。同じデルフトの画家ヨハネス・フェルメール(一六三二 ~一六七五)とも親交があり、彼の『地理学者』のモデルはレーウェンフックではないかといわれている(肖像画とはあまり似ていないので、賛否両論ある)。フェルメールの死後、彼の遺産管財人もした。」
—『虫を描く女(ひと) 「昆虫学の先駆」マリア・メーリアンの生涯 (NHK出版新書)』中野 京子著
「ピョートルは後年、もう一度アムステルダムヘやってくる。そしてそのときには自分のコレクションにメーリアンの絵を加えるため、わざわざ侍医を彼女の家へよこすだろう。この世で唯一ゴキブリだけを怖がったというこの絶対君主は、どんな思いで彼女の昆虫画を鑑賞したのだろうか。 メーリアンとピョートル大帝の関係、いやメーリアンとロシアの関係は、これだけで終わらない。むしろオランダやドイツより密接な関係を結ぶことになる。」
—『虫を描く女(ひと) 「昆虫学の先駆」マリア・メーリアンの生涯 (NHK出版新書)』中野 京子著
「捕まえた虫はすぐ処理しないと、腐ったり大アリに喰われるので、場合によってはその場で標本にした。せっかくの標本を、家の中で台無しにしてしまったこともある。「アメリカでもっとも悪名高い虫」ゴキブリにやられたのだ。「小さなゴキブリは動きがすばやく、木箱や容器の継ぎ目や鍵穴から中へ入り込む」。もちろん彼らの生態も研究対象である。パイナップルのガクに、びっしり並んで産みつけられた卵とともに、南米産ワモンゴキブリの一生が時間の枠を超えて描かれた。」
—『虫を描く女(ひと) 「昆虫学の先駆」マリア・メーリアンの生涯 (NHK出版新書)』中野 京子著
「運にも味方され、ようやく全快したときには、もはやこれまでどおりのフィールドワークを続ける力はなかった。三年間という約束を東インド会社とかわしていたこともあり、まだ一年を残して帰らねばならないのは無念の極みだ。しかしこれ以上頑張ってまた病気に倒れては元も子もない。メーリアンの本来の目的は自然研究ではなく、自然研究によって得た知識で絵を描くことである。そのための余力をとっておかなければならない。いったんここは、帰るのが得策だろう。 帰国の決断は、母娘の相談の上と思われる。偉大な母親の後ろにかくれてドロテアの存在はほとんど見失われかねないほどだが、しかしこの娘は毎日のルーティンワークのときも、カヌーでのジャングル探検のときも、常に母によりそって黙々と補助作業をしながら支えてきたのだった。とうぜん病気のときには介護もした。メーリアンにとって、遅くに生まれたドロテアヘの愛情はひとしおだったが、ドロテアもまたその愛情に生涯かけてこたえることになる。」
—『虫を描く女(ひと) 「昆虫学の先駆」マリア・メーリアンの生涯 (NHK出版新書)』中野 京子著
「メーリアンがまず読者に強調したかったのは、自分は正統の学者ではないけれど、各地で長期間研究を続けてきて、すでに評価を得ている人間だという点だった。人に勧められたので出版するという表現は、この時代ではふつうのことなので、別にへりくだっているわけではない。それどころか、彼女には確固たる自信がある。誰の娘か、誰に絵を習ったかを明らかにする必要を、もう感じていない。マリア・シビラ・メーリアンの名前ひとつで、事足りるのを知っている。」
—『虫を描く女(ひと) 「昆虫学の先駆」マリア・メーリアンの生涯 (NHK出版新書)』中野 京子著
「では彼女の作品は、「あまりに美麗」な点だけに価値があるのだろうか。そうではない。科学と芸術は、真実を見るふたつの目だといわれている。メーリアン作品の神髄は、やはりサイエンスアートという点にあるだろう。彼女が自然をどう認識したか、その認識の証が絵になり、それが見る者の胸をふるえさせる。彼女への再評価は、けっきょくそうしたところから湧き起こってきたのだった。」
—『虫を描く女(ひと) 「昆虫学の先駆」マリア・メーリアンの生涯 (NHK出版新書)』中野 京子著