ビジネス・実用の高評価レビュー
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Posted by ブクログ
家族に対しても国民に対しても容赦無さすぎて怖い。
また権力争いの苛烈さも極まっていて、血生臭さと過酷さの絶えない渦中にいるからこそ皇帝も女帝も苛烈な人が多かったんだなとよく分かる。
ユロージヴィや農奴、船曳きといった存在について初めてちゃんと知って、当時の国としての邪悪さが身に沁みるようだった。読んでいてなんとも暗鬱とした気持ちになってくる。
この時代におけるロシアと日本の関わりもすごく興味深かった。
当時日本人の、それも女性のイコン作家がいたなんて、驚きと同時になんだか胸があつくなる。
教会の鐘が有罪判決を受けた末に激しい拷問と厳しい処罰を受けた話で、
「ものに魂が宿る」という考えは理解できるし、その後の人々の行動を見ても、この話は非道なものであるのはよく分かるけど、
それはそれとしてやっぱりちょっと変に感じるし、エピソードとしてちょっと面白い。 -
Posted by ブクログ
794円
北野武の老人を崇拝したり、年老いる事はちゃんとみすぼらしい事って断言する感じ好きだな。変に綺麗事言うのは嘘だからな。
昔は男ばかりが不倫してたんだから、男女平等論者は、女が不倫するのは男女平等社会の象徴なんだから批判するなよ。しかも不倫のトラブルとか迷惑は不倫された人とかした人なのに、日本って何も関係無い外野のババアがギャーギャー批判してるの意味が分からない。
著者:ビートたけし 本名・北野武。1947年東京都足立区生まれ。浅草フランス座で芸人としてデビュー後、1972年に漫才コンビ「ツービート」を結成、人間の「建前と本音」「理想と現実」との落差を舌鋒鋭く突きまくる芸風で漫才ブームの牽引役となる。テレビに進出後、『オレたちひょうきん族』『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』などの人気番組を次々と手掛ける。映画監督としても『その男、凶暴につき』『ソナチネ』『HANA‐BI』などの話題作を多数世に送り出す。2016年にレジオン・ドヌール勲章、2018年には旭日小綬章を受章。近年は小説執筆にも力を入れている。著書に『弔辞』(講談社)、『不良』(集英社)、『浅草迄』(河出書房新社)など。
「本を読んで「孤独を受け入れろ」と諭されたぐらいで、人間は他者とのつながりを捨て去ることなんてできやしない。 そもそも、そういう「孤独礼賛本」を手に取る時点で、「自分はもしかして孤独なんじゃないか」と気にしているということだ。世間からどう思われているのか、他人からの視線を意識している。「価値のない老人」「哀れな老人」と思われたくない見栄があるから、孤独を肯定してくれる本が心地いい。「しかたなくではなく、進んで孤独を選んでいる」と、他人に向けてアピールしたいという気持ちが実は裏側にあるんじゃないかって思うんだよな。 つまり何が言いたいかというと、人間はどんなに頑張ったって「他人から認められたい」という承認欲求を完全には捨て去れないということだ。 オイラみたいに、ずっと「客前」で仕事をしてきた人間にはよくわかる。この歳になったって、「客からウケる」っていうのはこれ以上ない快感だからね。カネや名誉なんて後からついてきたもので、まずは「ウケたい」「評価されたい」って感情があったわけだ。だからこそ、オイラは今でもときどき「ほぼ単独ライブ」なんてものを開いて生の観客の前でバカをやっているし、立川梅春なんて名前を立川談春さんからもらって高座にも上がっている。ウケるってのは麻薬みたいなもんだ。」
—『「さみしさ」の研究(小学館新書)』ビートたけし著
「 でも真実は逆だよ。人生は、年齢を重ねるほどつまらなく不自由になっていく。夢のように輝かしい老後なんてない──。それこそが真理だ。老いるっていうことは、想像してる以上に残酷だ。まず、それを受け入れることから始めないとさ。 なんでも大抵のことは老いとともにガタがくるもんだ。それなのに、「カッコいい歳の取り方」みたいなものにこだわると、胡散臭いことになる。結局、カッコいいか悪いかなんてのは他人の判断なんで、そんなもの気にしちゃいつまで経っても報われないんだよな。」
—『「さみしさ」の研究(小学館新書)』ビートたけし著
「よく「定年になったら、新しい趣味を始めて第二の人生を始めたい」なんて言ってるヤツがいる。だけどそういうヤツに限って、いつの間にかその趣味に飽きちまったり、「老後が毎日つまんない」なんて言い始める。オイラに言わせりゃ、それこそ「自己客観視」ができてない証拠だ。音楽にしろ、芸術にしろ、 60歳になるまでやろうともしなかったものにいきなり手を出して、最初から上手くいくわけがない。物覚えが早い 10代、 20代のときに始めるのと比べても、相当ハードルは高いはずだ。それをわかって手を出すんならいいけど、そこまでの覚悟がないのにやろうとするから、大体結果は無惨なことになる。だから自分に過度な期待をしちゃいけない。 別にオイラは、趣味で老後を過ごすことを否定しているわけじゃない。だけどそのためには、若い頃から何かに夢中になって、リタイアする頃には「名人」と呼ばれるくらいになってなきゃダメだと思う。 ゴルフやら、釣りやら、囲碁や将棋が三度の飯より好きだというジジイはいっぱいいるけど、そういう人間は大概、仕事が忙しい若い頃から何とか時間を捻出して、そういう趣味の場に通っているわけでね。時間やカネ、努力も費やして長年やってきたものが、ようやく本当の趣味になるんだよな。」
—『「さみしさ」の研究(小学館新書)』ビートたけし著
「よく、どこかの学校の校長や教頭なんかが、未成年の少女と淫行していたとか、裸の写真を何千枚も集めていたとかでニュースになることがある。こういうヤツは、きっと青春時代に悶々と我慢して、ロクな女遊びをしていなかったんだと思う。若い頃にオネエチャンと無茶しまくってたオイラみたいなのが、ジジイになって枯れて余裕が出てくるのとは対照的で、女に免疫がないまま社会的地位とカネを持って「デビュー」しちゃうとロクなことがない。さっき話した「紀州のドン・ファン」みたいに年季が入ってれば話は別だけど、余裕のないジジイの色欲ってのは、見苦しいだけなんだよな。」
—『「さみしさ」の研究(小学館新書)』ビートたけし著
「オイラの場合、年取ってから付き合うオネエチャンは、男の友達と変わらなくなってくる。「話してて楽しい」ってのが最高だね。男も女も、年取ってからモテたいと思うなら、痩せようとかアンチエイジングなんてものに必死になるより、本を読んだり映画を観たり、芸術に触れるなり、「話せる人」になるほうがよっぽど有意義だ。 年取ってからは、「体の相性」なんて大した意味をなさない。「一緒に酒飲んで楽しい」が一番だよ。その点、最高の熟年カップルは、こないだ6つ年上の元大学教授と結婚した阿川佐和子さんだな。オイラ、阿川さんが結婚を発表する前に、阿川さんと旦那さんとメシを食ったんだよ。気さくないい人で「お似合いだな」って思ったね。 2人とも博学なんで、会話がドンドン盛り上がってさ。」
—『「さみしさ」の研究(小学館新書)』ビートたけし著
「これから老人中心の時代になるのは間違いない。だから独身高齢者が増えるのも必然だ。そしたら「熟年離婚」だけじゃなくて、「熟年初婚」「熟年再婚」も盛り上がってくるよ。そういう時代が進めば進むほど「内面を鍛える」ってのが大事になってくるんじゃないか。 自分がいかに知識がないか、知らないことがたくさんあるかを知ること。それしか自分を客観視できる力を鍛える方法はないんだからさ。」
—『「さみしさ」の研究(小学館新書)』ビートたけし著
「もちろんオイラ自身も模範的なジジイになろうなんざ、これっぽっちも考えちゃいない。これからもテレビやライブでバカをやって、ヒンシュクを買ってやろうと思っている。 しかし調子が狂ってしまうのは、ヒンシュクを重ねてきたはずなのに、この歳になってなぜか褒められることが増えてきたことだ。フランス政府からは「レジオン・ドヌール」なんてたいそうな勲章ももらったし、最近は旭日小綬章も頂いた。 オイラはそもそも「勲章」や「表彰」なんてものに特に興味はない。だから昔はもらうのを断ることも多かった。だけど、最近は頂けるというのならありがたく頂くようにしている。それを見て「ジジイになって名誉欲が出てきたのか」「たけしも終活を始めたか」なんて悪し様に言うヤツもいる。でも、オイラはそんな風に権威におもねるつもりは毛頭ない。そういう名誉を頂くことが、本業の「笑い」に生きてくるんじゃないかと思ってるんだよな。「文化勲章をもらって立ち小便で捕まりたい」「人間国宝になった日に食い逃げでニュースになったら面白い」 オイラは会見のたびに、そう言ってきた。自分の地位や権威が上がってきたら、それを自分で一気に落とすようなことをする。そのギャップが最高の笑いのネタになるんじゃないかって思うんだよな。」
—『「さみしさ」の研究(小学館新書)』ビートたけし著
「 歳を取ると、その「さみしさ」を埋めるためかわからないけど、宗教や自己啓発セミナーみたいなのにハマり始めるヤツがいる。だけど、いくら手を合わせてもお布施をしても、それは自己満足に過ぎないと考えておいたほうがいい。 宗教が世界を救うなんてウソっぱちだと常々オイラは言ってきた。人類の歴史を見れば、宗教をめぐる戦争やイザコザで死んだヤツだらけだ。宗教で救われた人もいるだろうが、それより宗教に殺された人間のほうがよっぽど多い。パレスチナの紛争を見たって、「この世に宗教がなかったほうが平和だったんじゃないか」と思ってしまう有様だ。 宗教家が胡散臭いのは、拡大路線を掲げているヤツが多いからかもしれない。「もっと信者を増やせ ~」なんて号令をかけている宗教のトップってのは、もう宗教家というよりビジネスマンだ。 そんなことは、オイラがわざわざ言わなくたってみんなわかっているのだろう。だけど、それでも宗教にすがってしまうのは、みんな「何が人生の目的かわからないから」かもしれない。」
—『「さみしさ」の研究(小学館新書)』ビートたけし著
「たとえば、サッカーには色々なルールがある。手を使っちゃいけないとか、ヘディングは OKだとか。そういうルールがあるからスポーツとして成立してるんだけど、一方で「なぜそのルールじゃなきゃいけないのか」と聞かれたら、答えられるヤツはいないだろう。でもそういう規則が存在するから楽しいってのがあると思うんだよ。 何も縛りがないフリーな状態ってのは、ある意味ではすごく辛いことでさ。人生についても、神様とか仏様みたいなルールを作ってしまったほうが楽なのかもしれない。だからそもそもは宗教ってのが「楽に生きるコツ」として意味を持ったんじゃないかって思うんだよな。でも別にそういう「ルール」ってのは、宗教団体に所属しなきゃ作れないものじゃないからね。自分のさりげない日常の中で、それぞれが心の中に持っていればいいだけのことだと思う。」
—『「さみしさ」の研究(小学館新書)』ビートたけし著
「かくいうオイラも、時々は仏壇に手を合わせている。仏壇の中にはお袋や、父親、祖母、他にもいろんな大切な人が入っている。だけどこれは、宗教というよりは習慣に近いものだ。たとえばオイラが浅草にいた頃、芸人たちは浅草寺の前を通り過ぎる時には必ずちょっと立ち止まって、本堂に向かって手を合わせていた。けど、オイラもその芸人たちも、今の人に比べてとりわけ信心深いというわけでもない。 別に神様の存在とか、来世とかあの世を信じているわけではないけれど、そういう答えの出ない問題に答えを出さないことがニッポン人の知恵なのかもしれない。お盆にはあの世のご先祖様をお迎えして、親しい人の命日には墓参りをし、正月には初詣をする。キリスト教やイスラム教みたいな「信じるか、信じないか」の二者択一とはまるで違うところで、ニッポン人は生きてきたんだよな。」
—『「さみしさ」の研究(小学館新書)』ビートたけし著
「カルトな新興宗教が受験エリートを勧誘するのは、そういうヤツラが一番チョロいからでね。優等生が実社会で使える〝頭が回るヤツ〟かというと、必ずしもそうじゃない。ただ受験勉強のテクニックに秀でてるだけで、社会を生き抜く知恵を持っているとは限らないわけでさ。ガキの頃から近所の不良とやり合ったり、キツいアルバイトや肉体労働をしたり、そういう厳しい世間と接してこないままいい歳になっちまうこともある。 世の中は「〇か ×か」じゃ決まらないことだらけなのに、そういう純粋培養のヤツラは「こっちが正しくてこっちが悪い」っていう二元論にすぐ寄りかかっちまう。マークシートの解答みたいで、そっちのほうが居心地がいいんだろう。オウムみたいなのは、そういうヤツラを目ざとく見つけ出して引っかけたんだよ。」
—『「さみしさ」の研究(小学館新書)』ビートたけし著
「さくらさんと話した中で、よく覚えているのが確かお祖父さんの亡くなった時のことだよ。お祖父さんは亡くなる時に口をポカーンと開けたまま死んじゃって、それを隠すためにほっかむりみたいなのを頭に巻いて納棺したんだって。本当は白いさらしの布がよかったんだけど、見つからないからしかたなく〝祭〟と赤い字で書かれた手ぬぐいで代用したんだよな。 それをさくらさんは「ドジョウすくいの人みたいだった」なんて言ってさ。「今にもクネクネ踊り出すかと思って、あたしゃ笑いを堪えるのが大変だったんだから」ってね。 芸人ならまだしも、女の人が自分の身内をそういう風に引いた目線で見たり、話したりすることはなかなかできないよね。結局、そういうシニカルさというか、ブラックユーモアみたいなセンスがオイラと似ているのかもしれない。 それでいて、茶化す相手への愛情みたいなものがあるんだよ。だから歳は離れていたけど、ウマがあったんだろうね。 まる子と同じ喋り方『ちびまる子ちゃん』もまさにそうだよな。一見して子供向けのように感じるけど、実はシニカルな視点がある。まる子ってのは単に素直な子供じゃなくて、物事を裏やナナメから見て、ずる賢く立ち回ろうとするところがあるから面白いんだよね。だから子供だけじゃなく、大人も楽しめる作品になる。 最近になって、シニカルな笑いができる女芸人がちょいちょい出てきたのも、さくらももこの影響じゃないか? そういうセンスを子供たちに広めたのは、すごく価値のあることだと思うよね。 PTA推奨じゃない笑いを、誰も嫌がらない形で広めたのはすごいよ。」
—『「さみしさ」の研究(小学館新書)』ビートたけし著
「今の若いヤツラは、「大学に行く意味」をもう 1回考えたほうがいいね。〝みんな行ってるから〟ってだけの理由で 4年間通っても、大学はガキを一人前にしてくれやしない。 オイラは目的もなくバカ大学に通ってるヤツより、中卒の 16歳でもきちんと働いて税金を納めてるヤツのほうがよっぽど偉いと思うね。大学に入らなくたって「一流」と呼ばれる仕事人はたくさんいる。若いヤツラは「就職できない」ってボヤくけど、そういう職人たちの募集にはなかなか人が集まらないっていうぜ。今の大学は、そういう厳しい現実から目を背けて、ちょっとボーッとしていようっていう休憩所みたいな存在になっちまってるんだよな。」
—『「さみしさ」の研究(小学館新書)』ビートたけし著
「オイラなんてこの歳になっても、「いつか飽きられちまうんじゃないか」っていつも次のことを考えてるぜ。来年は NHKの大河ドラマに出て落語もやるし、映画や小説だってまだまだやろうと思ってるわけでさ。 芸人で、まだ売れてるのに自分から引退宣言するヤツなんてほとんどいない。大体は仕事がなくなって辞めざるを得なくなった言い訳だよ。」
—『「さみしさ」の研究(小学館新書)』ビートたけし著
「まァ、最近の芸能スキャンダルで一番驚いたのは、爆笑問題の太田光が「日大に裏口入学」って週刊誌に書かれちまった件だよな。その記事じゃ「オヤジがそのためにブローカーに 800万円支払った」とまで書いてあるんだけど、最後まで読んでもホントかどうかよくわかんないんだよな。 だけど笑っちゃうのは、「太田は高校生になっても割り算もできないバカだった」みたいに書いてあったことだよ。こんなに面白いネタはないんで、テレビ局でアイツの楽屋を通りかかったときに「 4 ÷ 2、わかるか?」って問題を出してみたんだけどさ。そしたら「 3、う ~ん、やっぱり 2かな?」なんてボケて返してきた(笑)。 だけど裏口入学については、「そんな話は聞いたこともないし、オヤジも死んじまってる。いい迷惑してますよ」って言ってた。太田の事務所も、この記事を書いた出版社を告訴するってぐらいだから、許せなかったのは間違いないんだろうけどね。まァ、オイラからすりゃどうでもよくて、アイツの頭が切れるかどうかは芸を見りゃわかるだろ。 芸人の評価は、客にウケるかどうかがすべてだよ。たとえスキャンダルが出ようが、それを笑いに変えられりゃ、ソイツの勝ちってこと。まァ、週刊誌もよっぽどネタがないんだろう。」
—『「さみしさ」の研究(小学館新書)』ビートたけし著
「だけどテレビで情報番組をやってて肌で感じるのは、「女の不倫」ってのは、男のそれに比べて反発がダンゼン大きいってことだよな。ベッキーや矢口真里もそうだったし、斉藤由貴とか山尾志桜里もそうだよな。オイラがオネエチャンと遊んだり、ソープに行ったって何の話題にもなりゃしねェけど、旦那のいる女がヨソで男を作ってたとなると、世間は大騒ぎでね。特に同性である女から「許せない」ってギャンギャン批判されちまうんだよな。ベッキーが復帰しようってときにクレームを入れたのは、ほとんどが主婦だったっていうしさ。テレビのスポンサーにとっちゃ、商品の購買層は主婦やオネエチャンってことが多いんで、「女の反発」に過敏に反応してしまう。だから不倫の当事者は、男に比べてオネエチャンのほうが損をしてしまうというね。」
—『「さみしさ」の研究(小学館新書)』ビートたけし著
「なんで女は「妻の不倫」を許さないのかね? 昔の映画スターやらオイラじゃないけど、かつては夫ばかりが不倫をしてた世の中だったのに、いつの間にか妻が主役の不倫が増えてきてるっていうんだったら、それは「男女平等」で、女にとっちゃ素晴らしい社会が実現されたってことじゃないかと思うけどさ。 結局のところ、女はギャーギャー言ったって、ホントのところで「男女平等」なんて求めちゃいないってオチなんだよな。」
—『「さみしさ」の研究(小学館新書)』ビートたけし著
「『ヒンシュクの達人』じゃ、建前ばかりのニッポン社会の本質を分析したし、『テレビじゃ言えない』ではメディアの自主規制のエスカレートをきっかけにタブーに踏み込んだ。 一転、今回の新書は『「さみしさ」の研究』という、これまでとまるで雰囲気の違うものになっている。 オイラたち団塊の世代が 70代になって、世間でも「老い」や「孤独」の問題がテーマとなり、普段から週刊誌で続けているコラムでも、必然としてそれらを取り上げることになった。また、この 2 ~ 3年はオイラにとって大事な人たちが次々と亡くなった。その人たちへの惜別を載せていくと、自然と本のトーンも寂寥感に満ちたものになってしまった。 それに、 2018年にはオイラの周辺でもいろんな出来事があり、周りの環境も変わった。いつも通りの毒舌の前に、そのことについても一度きちんとした形で触れておかなければならなかった。」
—『「さみしさ」の研究(小学館新書)』ビートたけし著
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本書はユングに興味を抱いた読者にぜひとも薦めたい一冊である。河合隼雄の先駆的な仕事によってユングを読もうと思った読者は多いのではないだろうか。それと同時に精神医学や心理療法の分野、あるいは思想といった側面からユングはさまざまに翻訳が試みられ、ユングその人がどんな人であるのか、何をしようとしたのかを理解するには、どこかのタイミングでユングその人の著作や伝記を邦訳で読むことになろう。しかし実際に読もうとしてさまざまな訳者の仕事に触れて、道に迷った感覚に陥ってしまうこともあるかもしれない。本書はまさにそういった感覚を抱いたことのある読者のための本である。
本書の著者は多数のユングの翻訳を手掛けており、ユングを知りたいと思う読者に力強い助けをもたらしてくれる新進気鋭のユング研究者である。その著者がユングの全著作から印象的な言葉をピックアップしてそのエッセンスを読者に提示してくれる一冊なのである。本書に選ばれる言葉はどれもその文脈を欠いていながらも、一人ひとりの「こころ」に刺さるものばかりである。ユングの著作に触れる時に心を巡る二つの言葉が登場する。それは「心(Psyche)」と「こころ(Seele)」である。前者は意識と無意識の総体であり、後者は「たましい」とも訳され、自我が客体として無意識に体験する内容であると説明される(本書45頁)。この簡潔なコラムひとつでユングが取り組もうとしたことの輪郭がくっきりと浮かび上がってくる。本書においてはさまざまなユング心理学におけるキーワードを要所要所で取り上げながら簡潔にスパッと説明すると同時に、具体的な指摘を通して奥行きを垣間見させ、安易な理解に陥らないための配慮が随所に見られる。本書を読み進めることを通して読者はユング心理学でよく目にする、補償、連想、錬金術、自我、アニマ/アニムス、転移、投影、神話といった言葉をより深く理解する手掛かりが得られよう。
本書に引用される文章の一つひとつを読みながら、ほぼ毎回のように巻末の出典案内を確かめていた。ちょうど本書刊行後に光文社古典新訳文庫から出たユング自伝の下巻にドイツ語著作集全巻案内が収録されており、より網羅的に邦語文献の有無を調べることができる。ユング自伝の新訳もまた大塚氏の本書と併せて手元に置いておきたい一冊であろう。おそらく本書の読者は著者が邦訳している『夢分析論』や『心理療法の実践』へと手を伸ばすことであろう。それに、奇異の目を向けられがちな晩年の思索についても地に足の着いた用語解説とともに案内され、それらの著作の重要性もまたありありと伝わってくる。冒頭のユング小伝を含む「少し長めの前書き」におけるユングを今読むことへの著者の問いかけは、まさに著者が読み解いたユングその人の言葉の一つひとつによって応えられているのである。心理療法、ユングについて興味あるすべての人に薦めたい一冊である。 -
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「真面目な性格が仇になるな」と感じる時が時々あります。自分はそんなに真面目では無いと思う方でも、人から真面目だと言われた事があるなら、この本を読む事をおすすめします。
真面目な人が頭では理解しているけど、行動に移せない。そんな時はどうするのが良いか、アドバイスをくれる一冊です。
書いてある内容は、真面目な方であれば「知っている」、「分かっている」内容かと思いますが、文字にして客観的に読むと、不思議と「なぜこんな簡単で小さな行動ができないのか?」と、感じるようになりました。
本書の良いところは、さらにまだ一歩が踏み出せない人に対して、もう一度背中を押してくれるアドバイスがあるところです。
早速、職場で小さな実験(本書を読むと意味が分かります)をしたところ、自分が思っている程、相手は気にしていなかったとか、久しぶりに会話してみたら、以前のイメージから少し変わっていたなど、自分の行動の前後でモヤモヤしていたものが晴れていく感じでした。 -
Posted by ブクログ
近代哲学への入門書は少ない。哲学史入門シリーズの第二巻である本書は、その評判に違わず手堅い入門の一冊となっている。一世代前であれば野田又夫氏の様々な仕事を通して近代哲学への道はさまざまに開かれていた。それは「世界の名著」シリーズが現役だった時代までのことである。研究の推移もあってか近代哲学に関してはどこから手を付けて良いのか分からない状況が続いているように思う。それぞれの研究書の精華と思われるような各思想家についての新書などをいくつか読んで全体像をつかむというのが大方の現状なのではないだろうか。そのような凸凹した感じを埋めてくれる近代哲学史の通史そのものはミネルヴァ書房の『新しく学ぶ西洋哲学史』の第三部の大橋容一郎氏の章に見いだされよう。それこそ『新しく学ぶ西洋哲学史』は中央公論新社の『哲学の歴史』シリーズすべてを一冊にまとめたような本であり、現在、最終的に研究の総体を示してくれるレファレンスとしてより深く哲学の世界に分け入ろうとする読者は『哲学の歴史』各巻を読むことになろう。
本書は第一巻の時もそうであったが齋藤哲也氏の軽妙な語りかけによって哲学史研究の面白さを取り出してくれる一冊である。参考文献の手薄さに関しては、そもそも対談者として選ばれた方々の仕事が窓になってくれることを前提としたうえでのことと受け止めて良いかと思うが、斎藤氏の問いかけが読者が実際に哲学者の本を手に取った際に感じるモヤモヤを取り上げて対談者にぶつけてくれていることに本書の特徴がある。最初の上野修氏との対談では、近代哲学は神もしくは絶対者の時代であったという指摘は読者の意表を突くものであろう。次の戸田剛史氏の回では、哲学史研究そのものの在り方を見直すべき研究動向を窺わせ、その射程はトマス・リードにまで及ぶ。次の御子柴義之氏のカントの回は、カント哲学を彩る哲学用語がこれまでになく有機的に提示される最良のカント入門である。そして大河内泰樹氏との回では、正反合で語られる弁証法理解はそもそも正しいのかといった様々な問いかけがされるが、特に本章はヘーゲル読解で回り道をしないためにも必読の章である。そして最後の山本貴光氏と吉川浩満氏との回では、哲学を学ぶってどんなことなの?という一歩引いた場所からの問いかけに、評者は哲学を学ぶには面白がり続けることが大事なのだと思い至った。
本書を通してもお分かりかと思うが、近代哲学は非常に個性の強い思想家たちが犇めき、決して時代の動向などで括ることのできないものである。本書はそのような混迷を極める思想史に取り組もうとする読者の背中を一押ししてくれる一冊といえる(ちなみに、通史的な案内として『年表で読む哲学・思想小事典』が頼りになる)。本書で指摘される根本的な問いかけは今まで受け止められてきた通説を覆すだけの力を持ったものばかりであるが、それで今までの研究すべてが否定されるべきものではないことも明らかであろう。むしろ、従来とは違った角度から光を当てることで豊かな思想劇を見出すことができるのではないか、それこそが本書の問いかけなのではないだろうか。哲学に興味あるすべての読者に薦めたい一冊であり、むしろ哲学書を読んで何言ってるか分からないと思った人にこそ手に取ってほしい一冊である。 -
Posted by ブクログ
本書は数多くの西田研究を著す著者による手堅い西田哲学入門である。著者の名前はおそらく講談社学術文庫の『善の研究』の注解者として名前を見かけた読者もいることであろう。著者の他の西田研究の特色を成すのはテクスト密着型の読解にある。そのような著者が満を持して一般向けに西田論を著した一冊なのである。
まず注意を引くのは西田哲学が最初の「日本の哲学」であることの内実を西洋哲学の具体的なテクストに突き合わせながら、実に明確に浮き彫りにしていることである。本書全体を通して「自覚」という語を手掛かりに、『善の研究』に始まる西田の思索の探求を、西田の生涯にわたる著作全体を通して実に「骨(コツ)」をつかませる仕方で明らかにしてくれる。西田論の多くが処女作である『善の研究』と晩年の「場所的論理と宗教的世界観」に記述が集中する中、『思索と経験』や『働くものから見るものへ』などの著作から満遍なく読み解いていることに特色があろう。
西田の難解さの代名詞ともいえる「絶対矛盾的自己同一」に関する著者の記述は、これ以上にない仕方で否定の論理の内実を明らかにしてくれるものである。それこそ『善の研究』に始まる自己の探求が西洋とは違う「論理」を掴んでいくさまが実に鮮やかに描かれているのである。その「論理」を明確にしていく過程が「自覚」という言葉に収斂していき、独自の論理を打ち立てていくのであり、それは決して閉鎖的なものではない。西田幾多郎に惹かれてその個別的な魅力を感じながらも彼の哲学をどううまく言葉にしてよいか分からない読者にとって、他の書では得難い導きとなってくれよう。禅の経験や体験を重視する読みが見られる中で、あくまでテクストそのものから西田の論理を明らかにしていることに大きな特徴がある。
本書の最後に取り上げられている『日本文化の問題』についての著者の解説は、改めて日本文化論の古典として西田を読む可能性を開いてくれるものであり、グローバルな世界にあって単純な二項対立を超えた文化の可能性を見出させるものとして未だなお魅力ある一冊であることを伝えてくれている。
数多くの西田研究を持ち、全集編纂にも携わる著者ならではの生涯にわたる西田の著作を跡付ける本書は、小さな一冊ながらも生涯にわたる西田哲学の深まりを垣間見させ個々の著作の魅力をありありと伝えてくれるものである。本書は西田と一緒に考え生きていくことへと読者を招く類を見ない西田入門である。 -
Posted by ブクログ
久々に、思わずメモを取りながら読んでいた。
これからの人生計画をたてるつもりで、その参考になるかなと思って読んだら、計画もやることリストもいらないと言われてびっくり!
危うく入念に計画を立てるところだった。
最善の選択ではなく、選択を最善に。
完璧主義は最大のリスク。
人生に致命傷はない。
自己評価は低いままの方がうまくいく。
やらなくていいことリスト。
機嫌よく生きること。
昨今は自己肯定感を高めようとする風潮が強い気がふるけど、自己評価は低いままでもいいのか。
その方が謙虚でいられるもんね。
過去にも、完璧じゃなくていい系、心配ごとは起こらない系とかいろいろな本に出会ってきた。
「とは言っても考えすぎちゃうんだからどうしようもない…」と思ってだけど、この本はなんか行動にうつせそうな気がする。
何より最後に、本を読んでわかった気になって何も行動に移さないことが多いと指摘された。確かに。
読んでそのままにせず、この本の中で出してくれた宿題をまずひとつでもやってみる!
自分にかかっている社会の嘘、洗脳、呪いを解いて、いい意味で人生を軽くしたい。 -
Posted by ブクログ
人間の思考は、会話を前提にしている。自分なりに咀嚼すると、鏡のようなもの。
鏡に自分が映っていることで、自分の姿・存在を確認できる。鏡に何も映っていないなら、自分は幽霊かなにかになってしまう。
鏡は映るのは自分だけど、会話は他人とでないと成立しないのが、厄介で面白いところ。
会話が成立することで、実在や心などを相互承認して、懐疑論から脱出できる。会話が成立しないなら、つまり自分と相手のどちらか一方でも誠実に返答しないなら、相互承認が成り立たない。実在を疑い、懐疑論から抜け出せない。
懐疑論にハマること自体は健全だけど、相手にまともに取り合ってほしいなら、まずは自分がまともに回答することから。
とすると、「聞く技術 聞いてもらう技術」とつながるところがあるかも。
自分用の宿題が2つ。
①陰謀論にハマった人達は、お互いには誠実な会話が成立していて、正気を確認し合っているが、外から見れば狂っている。エコーチェンバーから脱出するには、誠実な会話以外にも必要なものがあるらしい。
②AIと会話できるなら、AIとも心や自由などを相互承認できる、といえるのか? -
Posted by ブクログ
奈良・飛鳥時代の更に前の六世紀の継体天皇についての本。
名前しか知らなかったが、帯にあるように『ヤマト王権の始祖王』とあるのが気になって読んだ。
当時は天皇(ヤマトの大王)は地域の複数の王族集団から有能な人物を選んで据えていた、と本書ではされている。
ところが、大和地方での王族(いわゆる仁徳天皇の血筋)の継承者が絶えたので、継体天皇はその大和の王族たちの血縁を持つ別の有力集団でもあった北陸から迎え入れられたという。
そこから、継体天皇の系譜や当時の朝鮮の国々との関係、そして継体天皇その息子たちがどのように世襲天皇制を作り上げていったかが書かれている。
面白かった!
継承者がいなくなり、傍系から呼ばれた天皇だったとは。
また当時はまだ天皇と呼ばれていないので、日本書紀や古事記には誤りや明らかな国威高揚のための作為があるとしてそれ以外の考古学的な資料や散逸した資料などをもとに継体天皇の実体を推論していく過程が興味深い。
日本書紀の注釈に、今は伝わっていない古代の資料から引用されている内容があるということや、継体天皇の本名がもしかするとこれではないか、というの名前があるのも初めて知ることで面白かった。
日本や朝鮮も含めて、この時代の国は、現代で言う概念の国家とは違う流動的なものであるということがたびたび念を押されており、豪族もあちらについたりこちらについたり、さらに海を越えて朝鮮と結びついたりで国を治めるトップも大変だったのだなー。
同著者の「倭の五王」も、正体が知りたいので読もうと思う。