田中久文の作品一覧
「田中久文」の「近代日本思想選 九鬼周造」「九鬼周造」ほか、ユーザーレビューをお届けします!
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「田中久文」の「近代日本思想選 九鬼周造」「九鬼周造」ほか、ユーザーレビューをお届けします!
ビジネス・実用
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Posted by ブクログ
本書は九鬼周造の主著を紐解きながら九鬼周造その人の思想の核心に触れる評伝である。若松英輔氏の『岡倉天心『茶の本』を読む』で本書が引かれていて、それ以来気になっていたのであるが、やっと講談社学術文庫で手に入るようになった。『「いき」の構造』で知られる九鬼周造の哲学は明晰な叙述で展開されるが、どことなく近寄りがたいところが否めない。しかし本書を通して九鬼周造その人の生涯の中で主著である『「いき」の構造』と『偶然性の問題』とがどのように記されたのかが生き生きと描かれ、生涯を貫くその哲学の核心が明かされるのである。
まず印象的であったのは『「いき」の構造』そのものが西洋哲学の精緻な理解を土台として作り上げられた構造物として理解されていることである。ハイデガーの『存在と時間』の不安概念と突き合わせることで第一の主著の積極的な意味が浮かび上がるのである。何の解説もなしにいきなり『「いき」の構造』に取り組もうとする読者は偏頗な男性中心の考えを読み取ってしまうかもしれないが、本書の明快な補助線を通して、それ自体明晰な叙述とも指摘される『「いき」の構造』の意図が明らかにされるのである。意気地をめぐる意気の現象学には目を見張るものがあり、性差についてより省察を求められる今の私たちに問いかけるものがある。
『「いき」の構造』で取り上げられた主題が文脈を変えて「日本的性格」で取り上げられる際に、前者で強調されていた意気の「張り」が姿を消し、後者において「諦念」が自然との結びつきで説かれていることに、自らの思想の高揚感と落胆とをその生涯に重ね合わせて読み解くこともできよう。だがそこに見られる思想的落胆がただの失望ではなく運命をめぐる洞察を経た九鬼の生涯の深まりと呼応することにも気づかされるのである。思想的営為そのものが如何に緊張をはらんだ繊細な統合の道行きであるかを思わされるのである。
『「いき」の構造』に端を発し、『偶然性の問題』で深まりを見せ、最後の著作『文芸論』の自然へと考察を深めていく筆致は圧巻である。高揚感から落胆へと移ったかに見える九鬼の思考は、自然をめぐって深まりを見せていく。その様子を著者はゲーテの色彩論を傍証に詩歌論の読解を通して明らかにしている。永遠の今の現出を五七の音の連なりのソネットの内に見出させ、その詩歌の形に時を刻む形式を明らかにするのである。その復興を企図する九鬼の最後の著作は今を生きる私たちの生を豊かにし得る問いかけを含んでいると思う。
著者のあとがきに述べられているように、自らの人生の危機を乗り越えてきた九鬼の思索は、様々な危機を目の当たりにする私たちにとってもまた生を豊かにし得る力を秘めている。本書は九鬼の生涯を通して、私たちにとっての生を問いかける言葉に出会うことのできる一冊である。
Posted by ブクログ
九鬼周造は明治から昭和を生きた哲学者。
その生い立ちも興味深い。
九鬼周造が、松岡正剛著の『日本文化の核心 「ジャパン・スタイル」を読み解く (講談社現代新書) 』を読んでる中で登場し気になり購入。
(彼を知らないことへの焦りのような感覚)
ただでさえ、哲学の基礎知識がない中、「九鬼周造」の本は大変難解に感じた。
西洋文化と日本文化の違いについては、自分の関心が高いところだし、彼のように内外で哲学を学んだというバックグラウンドからも、彼が日本文化・精神を何をどのように捉えているのか興味が湧いてくる。
九鬼も後年は仏教に傾倒していったらしい。
昨今、欧米からも注目されている仏教の考え方を知識としても習得する必要があると感じる今日この頃。
仏教の概念である「輪廻」「無常」、これは人生は周っているという概念。一方、一神教がベースにある欧米社会では、出発点が決まっているので(キリスト誕生等)、時間が進む概念が強いとする。その概念が技術の発展を支えている、得意とする、という事実にもつながる。
ただ、出発点が明確で進化が前提の社会であると、何らかの歪みが生じる。行き過ぎた資本主義、環境破壊等は、そのような中で捉えることができる。そして、そのアンチテーゼとして仏教の考え方が受け容れているのかもしれない。
そんな問題意識がある中で本著を読み、九鬼も同じよう概念を示しているように感じている。
Posted by ブクログ
九鬼周造についてはこれまで『「いき」の構造』『偶然性の問題』を読んだが、なんだか思想の全体像が掴めずにいたので、このちくま学芸文庫のアンソロジーを読んでみた。
前記の2書は抜粋が入っている。
『「いき」の構造』(1930〈昭和5〉年)は名著として読み継がれているものだが、私にはやはり、「何故こういうテーマを書いたのか」という疑問が残る。記述はなかなか厳格な哲学なのだが、西洋文化に対する日本文化の特色としての「いき」を浮き彫りにしようというテーマは哲学と言うより文化論である。その概念を深く追究するプロセスはじゅうぶんに哲学ではあるが、テーマは哲学的でない。
一方、『偶然性の問題』(1935〈昭和10〉年)はもっと深い哲学的主題を哲学的に論じる完全な哲学書である。『いき』との関連性は全く無い。だから私は九鬼の哲学の全体イメージが持てなかったのだった。
実は岩波文庫の九鬼周造としてはもう一つ『人間と実存』(1933〈昭和8〉年)というのがあって私は未読なのだが、現在絶版で入手しがたい。その片鱗を覗かせる抜粋が本アンソロジーには含まれている。
九鬼周造は英語・ドイツ語・フランス語に習熟しており留学してベルクソンやハイデガーと直接会って会談している。本書にもこの2人の海外の、時代を画した超大物哲学者たちの強い影響が見られる。そうした西欧の哲学の文脈に沿いつつ、それを咀嚼し、自らの思考を追求したというのが、九鬼周造哲学のプロセスであったようだ。著作の主題は多様で、全体として大きな体系を構築することは無かったように思われ、そうした「しなやかさ」の点ではメルロ=ポンティに似ている気がする。
本書に収録された論文の内では「文学の形而上学」(1940〈昭和15〉年)が私には一番面白かった。『「いき」の構造』などもそうであるように、九鬼周造には日本文学への心的傾斜が見られ、私は彼にとっては芸術論が得意分野だったのではないかという気すらしている。この論文はベルクソン・ハイデガーを参照した「時間」という哲学問題に沿って文学を論じ、音楽や美術にも言及している。ここでの「時間」論の援用の仕方が私にはすこぶる興味深く、更に考えてみたくなる問題であった。
Posted by ブクログ
丸山眞男が思想史研究を通じて取り組んだ、「自由」や「主体」、「対話」などといったテーマを発掘している本です。
戦後の丸山は、徂徠の思想に近代的主体性の先駆けというべき「作為」の考え方を見ようとしていました。しかし徂徠の思想は、従来の封建的秩序を変革する可能性をもっている一方で、封建的社会関係や道徳的規範を人為的なものとみなしつつも新たな秩序の構築にはつながらないような可能性も孕んでいると著者は指摘します。後者の可能性は、安藤昌益や本居宣長の「自然」の考えによって実現されることになりますが、丸山は新たな規範の確立を妨げるそれらの思想家たちの批判をおこなっています。
ところが、やがて丸山は、そうした「自然」は「作為」の裏側につねに存在しつづけるものだということに気づきます。こうした転回をうながしたのが、大衆社会の成立でした。こうした状況を見た丸山は、人間の主体性の確立には超越的・普遍的なものとのかかわりが不可欠だと考えるようになります。それは、みずからの立場を状況や他者とのかかわりのなかで相対化する視点をもちつづけ、不安定な立場に耐えることを意味します。丸山は、福沢諭吉の「独立自尊の精神」の根底に、宇宙の前で自己の無力を知るという「自然」の思想があったことに改めて注目するようになります。このことは、「自然」に根ざしつつ、「自然」をスプリング・ボードとすることで主体性を立ち上げる可能性を追求する試みだったと考えられるでしょう。
著者はこうした発想が、晩年の丸山のいわゆる「古層」論のなかにも見られると主張します。本書の後半は、武士のエートスや鎌倉新仏教などにかんする丸山の研究を紹介しつつ、こうした主張を裏づけています。主体性は、主体性を超えたものとのかかわりによってしか生まれないというのが、本書において示される丸山の晩年における思想史研究の成果とされています。