筆者は、前著『世界で最もイノベーティブな組織の作り方』を執筆した際、社会から「イノベーター」と認められている人々に数多くのインタビューを実施しましたが、そこで特徴的だったのは、そのうちの誰一人として「イノベーションを起こそう」と思って仕事をしているのではなく、必ず具体的な「解決したい課題」があって仕事をしています。イノベーションの停滞が叫ばれて久しいですが、停滞の最大の原因となっているボトルネックは「アイデア」や「創造性」ではない、そもそも解きたい「課題=アジェンダ」がないということです。
そうなると「課題設定の能力」が重要だということになるわけですが、ではどうすれば「課題設定能力」を高めることができるのか? 鍵は「教養」ということになります。なぜかというと、目の前の慣れ親しんだ現実から「課題」を汲み取るためには、「常識を相対化する」ことが不可欠だからです。例えば、日本の風俗習慣・生活文化しか知らない人が、日本の風俗習慣について「なぜこんなことをやっているんだろう」と考えるのは大変難しいことですが、外国の風俗習慣・生活文化を知っている人であれば、それは容易なことでしょう。よく「ここがヘンだよ日本人」とかなんとか、そんな表題の書籍やテレビ番組がありますが、これらのコンテンツは、日本人にとってごくごく当たり前の習慣が、外国人には大変奇妙に思えること、そしてまた、そのような指摘によって当の日本人もまた「言われてみれば確かにそうだ」と共感してしまう、という構図を下地にして成立しています。つまり地理的な空間、あるいは歴史的な時間の広がりを持った人であればあるほど、目の前の状況を相対化してみることができるようになる、ということです。
イノベーションというのは、常に「これまで当たり前だったことが当たり前でなくなる」という側面を含んでいます。これまで当たり前だったこと、つまり常識が疑われることで初めてイノベーションは生み出されます。
一方で、全ての「当たり前」を疑っていたら日常生活は成り立ちません。なぜ信号の「ススメ」は青で「トマレ」は赤なのか、なぜ時計は右回りなのか、などといちいち考えていたら日常生活は破綻してしまうでしょう。ここに、よく言われる「常識を疑え」というメッセージの浅はかさがあります。
イノベーションに関する論考では、よく「常識を捨てろ」とか「常識を疑え」といった安易な指摘がなされますが、そのような指摘には「なぜ世の中に常識というものが生まれ、それが根強く動かし難いものになっているのか」という論点についての洞察がまったく欠けています。「常識を疑う」という行為には実はとてもコストがかかるわけです。一方で、イノベーションを駆動するには「常識への疑問」がどうしても必要になり、ここにパラドクスが生まれます。
結論から言えば、このパラドクスを解くカギは一つしかありません。重要なのは、よく言われるような「常識を疑う」という態度を身につけるということではなく、「見送っていい常識」と「疑うべき常識」を見極める選球眼を持つということです。そしてこの選球眼を与えてくれるのが、空間軸・時間軸での知識の広がり=教養だということです。
自分の持っている知識と目の前の現実を比べてみて、普遍性がより低い常識、つまり「いま、ここだけで適用している常識」を浮き上がらせる。スティーブ・ジョブズは、カリグラフィーの美しさを知っていたからこそ「なぜ、コンピューターフォントはこんなにも醜いのか?」という問いを持つことができたわけですし、エルネスト・ゲバラはプラトンが示す理想国家を知っていたからこそ「なぜ世界の状況はこんなにも悲惨なのか」という問いを持つことができました。目の前の世界を、「そういうものだ」と受け止めてあきらめるのではなく、比較相対化してみる。そうすることで浮かび上がってくる「普遍性のなさ」にこそ疑うべき常識があり、教養はそれを映し出すレンズとして働いてくれるということです。
予定説――ジャン・カルヴァン
さて、「努力に関係なく、救済される人はあらかじめ決まっている」というルールの下では、人は頑張れないし無気力になってしまうように思うのですが、どうなのでしょうか。
いや「まったく逆だ」と主張しているのがマックス・ヴェーバーです。後ほど本書の別箇所でも出てくる、あの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の著者です。マックス・ヴェーバーは、まさに『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中で、カルヴァン派の予定説が資本主義を発達させた、という論理を展開しています。
救済にあずかれるかどうか全く不明であり、現世での善行も意味を持たないとすると、人々は虚無的な思想に陥るほかないように思われるでしょう。現世でどう生きようとも救済されるものはあらかじめ決まっているというのなら、快楽にふけるというドラスティックな対応をする人もいるはずです。しかし、人々は実際にはどうだったかというと、そういう人ももちろんいたのでしょうが、多くの人はそうはならなかった。
むしろ「全能の神に救われるようにあらかじめ定められた人間であれば、禁欲的に天命(ドイツ語で〝Beruf〟ですが、この単語には〝職業〟という意味もある)を務めて成功する人間だろう、と考え、『自分こそ救済されるべき選ばれた人間なんだ』という証しを得るために、禁欲的に職業に励もうとした」というのがヴェーバーの論理です。
浅薄な合理主義に毒されている人からすると、ヴェーバーのこの主張はちょっとした詭弁に聞こえるかもしれません。しかし、例えば学習心理学の世界ではすでに「予告された報酬」が動機付けを減退させることが明らかになっている、という事実を知れば、私たちの「動機」というのが、シンプルな「努力→報酬」という因果関係によっては駆動されていないらしいということが示唆されています。
これはまた、現在の人事制度が、ほとんどの企業でうまく働いていない、むしろ茶番と言っていい状態になっていることについて考える、大きな契機をはらんでいると思います。人事評価が前提としている「努力→結果→評価→報酬」という、一見すれば極めて合理的でシンプルな因果関係が、これだけ不協和を起こし、数十年かけても未だに洗練された形で運用できないのはなぜなのか。人事評価制度の設計では「頑張った人は報われる、成果を出した人は報われる」という考え方、つまり先述した「因果応報」を目指します。しかし、では実際にその通りになっているかというと多くの人はこれを否定するのではないでしょうか。むしろ、人事評価の結果を云々する以前に、昇進する人、出世する人は「あらかじめ決まっている」ように感じているはずです。その上でなお、因果応報を否定する予定説が、資本主義の爆発的発展に寄与したのであるとするならば、私たちはなんのために莫大な手間と費用をかけて「人事評価」というものを設計し、運用しているのか、改めて考えるべきなのかも知れません。
本節の締めくくりとして、哲学者の内田樹の次の指摘を紹介しておきます。
自分の努力に対して正確に相関する報酬を受け取れる。そういうわかりやすいシステムであれば、人間はよく働く。そう思っている人がすごく多い。雇用問題の本を読むとだいたいそう書いてある。でも僕は、それは違うと思う。労働と報酬が正確に数値的に相関したら、人間は働きませんよ。何の驚きも何の喜びもないですもん。
自己実現的人間――エイブラハム・マズロー
私たちは一般に、知人や友人が多ければ多いほど良い、と思う傾向があります。確かに、友人や知人の数が多ければ、例えば仕事で声をかけてもらうとか、あるいは何かのときに助けてもらうことは、より容易になると思われます。だからこそフェイスブックの友達数やX(旧ツイッター)のフォロワー数は「多ければ多いほど良い」と考えられているわけですが、マズローの考察によれば、成功者中の成功者である「自己実現的人間」は、むしろ孤立気味で、ごく少数の人とだけ深い関係をつくっている。このマズローの指摘は、ソーシャルメデイアなどを通じてどんどん「薄く、広く」なっている私たちの人間関係について、再考させる契機なのではないかと思うんですよね。
実は、同様の指摘をしている人が、過去の賢人の中にもいます。例えば、『荘子』の「山木編」に「小人の交わりは甘きこと醴の如し、君子の交わりは淡きこと水の如し」という言葉があります。醴とは甘酒のようなべったりと甘い飲み物のことです。つまり、荘子はモノゴトをわきまえていない小人物の付き合いはベタベタとしており、その逆である君子の付き合いは、水のようにあっさりとしていると言っているわけです。
さらに『荘子』では、以下のように続きます。「君子は淡くして以て親しみ、小人は甘くして以て断つ。彼の故なくして以て合する者は、即ち故なくして以て離る」。つまり、君子の交友は淡いからこそ続き、小人の交友は甘いがゆえにすぐに終わる。必然性もなく、ただ「一緒に居るために一緒に居る」ような付き合いはすぐに終わるのだという、まあかなり意訳していますが、そういうことを言っているわけです。
小人の交わりというのは、「故無くして合する」わけで、そこには自立という観点がありません。つまり、お互いがお互いに依存している状況になっていて、そこから抜け出せずにベタベタと付き合っているということです。心理学ではこの状況を「共依存」という概念で整理します。
共依存はもともと、アルコール依存症の患者がパートナーに依存しながら、また同時にパートナーも患者のケアという行為に自分自身に存在価値を見出していくような状態がしばしば観察されたことから、看護現場において生まれた概念です。そして、ここが重要な点なのですが、共依存の関係にあるアルコール依存症患者とそのパートナーは、アルコール依存症そのものが関係性を維持するための重要な契機になっていることを無意識のうちに理解しているため、依存症の治癒につながるような活動を妨害(=イネ―ブリング)したり、結果として患者が自立する機会を阻害したりする、という自己中心性を秘めていることが報告されています。
表面的には「他者のため」という名目で、本人自身もアタマっからそう自覚しながら、実は内に自己本位な存在確認の欲求を秘めている。これが共依存の関係です。
話を元に戻せば、私たちの「広く、薄い」人間関係もまた、そのようになっていないか。マズローによる「自己実現を成し遂げた人は、ごく少数の人と深い関係を築く」という指摘は、今あらためて、私たちの「人のネットワークの有り様」について考えるべき時が来ていることを示唆しているように思えます。
認知的不協和――レオ・フェスティンガー
私たちは「意志が行動を決める」と感じますが、実際の因果関係は逆だ、ということを認知的不協和理論は示唆します。外部環境の影響によって行動が引き起こされ、その後に、発言した行動に合致するように意思は、いわば遡及して形成されます。つまり、人間は「合理的な生き物」なのではなく、後から「合理化する生き物」なのだ、というのがフェスティンガーの答えです。
権威への服従――スタンレー・ミルグラム
ヒトラーなどの狂信的な指導者が旗を振るだけでは人は死にません。銃や毒ガスを用いて実際に自分の手で罪もない人々を虫のように殺していたのはナチスの指導者たちではなく、私たちと同じような一般市民だったのです。彼等の自制心や良心はこのとき、なぜ働かなったのか。アーレントは「分業」という点に注目します。ユダヤ人の名簿作成から始まって、検挙、交流、移送、処刑に及ぶまでのオペレーションを様々な人々が分担するため、システム全体の責任所在が曖昧になり、極めて責任転嫁のしやすい環境が生まれます。「私は名簿を作っただけです」「あの時は誰もが協力していました」「私がどうしようと結果は変わりません」「殺していない、ただ移送列車の運転をしただけだ」……。このオペレーションの構築に主動的役割を果たしたアドルフ・アイヒマンは、良心の呵責に苛まれることがないよう、できる限り責任が曖昧な分断化されたオペレーションを構築することを心掛けた、と述懐しています。その悪魔的な洞察力には戦慄を禁じえません。ミルグラムの実験結果は、人が集団で何かをやるときにこそ、その集団のもつ良心や自制心は働きにくくなることを示唆しています。現在の日本ではコンプライアンス違反が続出していますが、このような時代だからこそ、ミルグラムの実験結果が示唆するものについて、私たちは考えてみる必要があると思います。
フロー ――ミハイ・チクセントミハイ
フローに入るためには、挑戦レベルとスキルレベルが高い水準でバランスしなければなりません。高いスキルを持った人が、なんとかやれるレベルの課題に挑戦し、その上で、外乱が入らず、集中が持続できるなど、いくつかの条件が揃った時に、初めて人はフロー状態に入ることができる、ということです。
チクセントミハイの指摘で面白いと思うのは、上記のチャートはダイナミックなもので、時間の経過にともなって「挑戦レベル」と「スキルレベル」の関係はどんどん変わっていく、という点です。例えば、最初は「強い不安」のゾーンであっても、やり続けているうちにスキルが高まり、やがて「覚醒」を経て「フロー」のゾーンに入っていくということが起こりますし、「フロー」のゾーンで同じ仕事をやり続けていれば、やがて習熟度が高まって、「フロー」から「コントロール」のゾーンに移行していくことになります。そうなると、いわゆるコンフォートゾーンに入ってしまい、居心地のよい状況にはなりますが、当然ながらそれ以上の成長は望めません。つまり、自分の技量とタスクの難易度は、ダイナミックな関係であり、フローを体験し続けるためには、その関係を主体的に変えていくことが必要だということです。
チクセントミハイは、もともと「幸福な人生とはどのようなものだろうか」という問題意識から、心理学の道に進んでいます。そうして行き着いたのが「フロー」の概念ということになる訳で、「フローの状態にある」というのは、幸福の条件と考えることもできます。しかしながら、では実際にはどうかというと、あまりにも多くの人は「無気力」のゾーンで生きている、とチクセントミハイは嘆いています。「無気力」のゾーンを抜け、幸福な人生を送るために「フロー」のゾーンをめざすことを考えた時、「スキルレベル」も「挑戦レベル」も、一気に高めることはできません。まず「挑戦レベル」を上げ、タスクに取り組むことで「スキルレベル」を上げていくしかありません。ということは、幸福な「フロー」のゾーンに至るには、必ずしも居心地の良いものではない「不安」や「強い不安」のゾーンを通過しなければならない、ということなのではないでしょうか。
予告された報酬――エドワード・デシ
今日、イノベーションは多くの企業において最重要の課題となっています。個人の創造性とイノベーションの関係はそう単純ではなく、個人の創造性が高まったからといってすぐにイノベーションが起きるわけではないのですが、とまれ「個人の創造性」が必要条件の大きな一部であることは論をまちません。では、個人の創造性は外発的に高めることができるのでしょうか?
この問題を考えるために、1940~50年代に心理学者のカール・ドゥンカーが提示した「ろうそく問題」を取り上げてみましょう。まず、143ページの上の図を見てください。「ろうそく問題」とは、テーブルの上にろうが垂れないようにろうそくを壁に付ける方法を考えてほしい、というものです。
この問題を与えられた成人の多くは、だいたい7~9分程度で、下図のアイデアに思い至ることになります。
つまり、画鋲を入れているトレーを「画鋲入れ」から「ろうそくの土台」へと転用するという着想を得ないと解けないということなのですが、この発想の転換がなかなかできないんですね。一度「用途」を規定してしまうと、なかなか人はその認識から自由になれないということで、この傾向をドゥンカーは「機能認識の固着」と名付けました。考えてみれば、例えばフェルトペンなどは、ガラス製の瓶に入れられたフェルトに有色の揮発油がしみ込んでいるので、物性としてはアルコールランプとほとんど同じです。で、実際に暗闇ではこれを立派にランプとして使うことが可能なわけですが、なかなか普通の人にはそういう発想の転換が出来ない、ということをこの実験を通じてドゥンカーは証明しました。
その後、ドゥンカーの実験から17年を経て、ニューヨーク大学のグラックスバーグは、この「ろうそく問題」を、人間の若干異なる側面を明らかにするための実験に用い、そして興味深い結果を得ています。彼は、この問題を被験者に与える際、「早く解けた人には報酬を与える」と約束することで、アイデアを得るまでにかかる時間は際立って「長くなる」ことを明らかにしました。1962年に行われた実験では、平均で3~4分ほど長くかかったという結果が出ています。つまり、報酬を与えることによって、創造的に問題を解決する能力は向上するどころか、むしろ低下してしまうということです。実は、教育心理学の世界では、このほか数多くの実験から、報酬、特に「予告された」報酬は、人間の創造的な問題解決能力を著しく毀損することがわかっています。有名どころでは例えばデシ、コストナー、ライアンが行った研究でしょう。彼らは、それまで行われてきた、報酬が学習に与える影響についての128件の研究についてメタ分析を行い、報酬が活動の従事/遂行、結果のいずれに伴うものであるとしても、予告された報酬は、すでに面白いと思って取り組んでいる活動に対しての内発的動機付けを低下させる、という結論を得ています。デシの研究からは、報酬を約束された被験者のパフォーマンスは低下し、予想しうる精神面での損失を最小限に抑えようとしたり、あるいは出来高払いの発想で行動したりするようになることがわかっています。つまり、質の高いものを生み出すためにできるだけ努力しようということではなく、最も少ない努力で最も多くの報酬を得られるために何でもやるようになるわけです。加えて、選択の余地が与えられれば、そのタスクを遂行することで自分のスキルや知識を高められるような挑戦や機会を与えてくれる課題ではなく、もっとも報酬が多くもらえる課題を選ぶようになります。
これらの実験結果は、通常ビジネスの世界で常識としておこなわれている報酬政策が、意味がないどころかむしろ組織の創造性を低下させていることを示唆しています。つまり「アメ」は組織の創造性を高める上では意味がないどころか、むしろ害悪を及ぼしている、ということです。
幼児の発達過程において、幼児が未知の領域を探索するには、心理的なセキュアベースが必要になる、という説を唱えたのはイギリスの心理学者、ジョン・ボウルビィでした。彼は、幼児が保護者に示す親愛の情、そこから切り離されまいとする感情を「愛着=アタッチメント」と名付けました。そして、そのような愛着を寄せられる保護者が、幼児の心理的なセキュアベースとなり、これがあるからこそ、幼児は未知の世界を思う存分探求できる、という説を主張したのです。これを援用して考えてみれば、一度大きな失敗をして×印がついてしまうと会社の中で出世できないという考え方が支配的な日本よりも、どんどん転職・企業して失敗したらまたチャレンジすればいいといった考え方が支配的なアメリカの方が、セキュアベースがより強固であり、であればこそ幼児と同じように人は未知の世界へと思う存分挑戦できるのだ、という考え方が導き出されることになります。つまり、人が創造性を発揮してリスクを冒すためには「アメ」も「ムチ」も有効ではなく、そのような挑戦が許される風土が必要で、更にその風土の中で人が敢えてリスクを冒すのは「アメ」がほしいからではなく、「ムチ」が怖いからでもなく、ただ単に「自分がそうしたいから」ということです。
解凍=混乱=再凍結――クルト・レヴィン
組織の中における振る舞いはどのようにして決まるのか。クルト・レヴィン以前の心理学者、中でも特に「行動主義」と呼ばれる分野の人々によれば、それは「環境」ということになります。しかし、レヴィンは「個人と環境の相互作用」によって、ある組織内における人の行動は規定されるという仮説を立て、今日ではグループ・ダイナミクスとして知られる広範な領域の研究を行いました。
レヴィンは様々な心理学・組織開発に関するキーワードを残していますが、ここでは中でも「解凍=混乱=再凍結」のモデルについて、説明したいと思います。
レヴィンのこのモデルは、個人的および組織的変化を実現する上での三段階を表しています。
第一段階の「解凍」は、今までの思考様式や行動様式を変えなければいけないということを自覚し、変化のための準備を整える段階です。当然のことながら、人々は、もともと自分の中に確立されているものの見方や考え方を変えることに抵抗します。したがって、この段階ですでに入念な準備が必要となります。具体的には「なぜ今までのやり方ではもうダメなのか」「新しいやり方に変えることで何が変わるのか」という二点について、「説得する」のではなく「共感する」レベルまでのコミュニケーションが必要となります。
第二段階の「混乱」では、以前のものの見方や考え方、あるいは制度やプロセスが不要になることで引き起こされる混乱や苦しみが伴います。予定通りにうまくいかないことも多く、「やっぱり以前のやり方のほうがよかった」という声が噴出するのがこの段階です。したがって、この段階を乗り切るためには変化を主導する側からの十分な実務面、あるいは精神面でのサポートが鍵となります。
第三段階の「再凍結」では、新しいものの見方や考え方が結晶化し、新しいシステムに適応するものとして、より快適なものと感じられるようになり、恒常性の感覚が再び蘇ってきます。この段階では、根付きつつある新しいものの見方や考え方が、実際に効果を上げるのだという実感を持たせることが重要になります。そのため、変化を主導する側は、新しいものの見方や考え方による実際の効果をアナウンスし、さらには新しい技能やプロセスの獲得に対して褒章を出すなど、ポジティブなモメンタムを生み出すことが求められます。
レヴィンによれば、あらゆる思考様式・行動様式が定着している組織を変えていくためのステップが、この「解凍=混乱=再凍結」ということになるのですが、ここで注意しなければならないのは、このプロセスが「解凍」から始まっている、という点です。というのも、この「解凍」というのは、要するに「終わらせる」ということだからです。私たちは、何か新しいことをはじめようというとき、それを「始まり」の問題として考察します。当たり前のことですね。しかしクルト・レヴィンのこの指摘は、何か新しいことを始めようというとき、最初にやるべきなのは、むしろ「いままでのやり方を忘れる」ということ、もっと明確な言葉で言えば「ケリをつける」ということになります。
同様のことを、個人のキャリアの問題を題材にしながら指摘しているのが、アメリカのウィリアム・ブリッジズです。ブリッジズは、人生の転機や節目を乗り切るのに苦労している人々に集団療法というセラピーを施してきた臨床心理学者です。ブリッジズが臨床の場で出会った患者は千差万別であり、ひとりひとりの「転機体験」は非常にユニークなもので一般化は難しい。転機の物語も人それぞれにユニークだったはずですが、「うまく乗り切れなかったケース」を並べてみると、そこに一種のパターンや、繰り返し見られるプロセスがあることにブリッジズは気が付きます。そしてブリッジズは、転機をうまく乗り切るためのステップを「終焉(今まで続いていた何かが終わる)」→「中立圏(混乱・苦痛・茫然自失する)」→「開始(何かが始まる)」という三つのステップで説明しています。
ここでもまた、変革は「始まり」から始まるのではなく、「何かが終わる」ということから始まっている点に注意してください。
ブリッジズに言わせれば、キャリアや人生の「転機」というのは単に「何かが始まる」ということではなく、むしろ「何かが終わる」時期なのだ、ということです。逆に言えば「何かが終わる」ことで初めて「何かが始まる」とも言えるわけですが、多くの人は、後者の「開始」ばかりに注目して、一体何が終わったのか、何を終わらせるのかという「終焉の問い」にしっかりと向き合わないのです。
ここに、多くの組織変革が中途半端に挫折してしまう理由があると、私は考えています。経営者と管理職と現場の三者を並べてみれば、環境変化に対するパースペクティブの射程は、経営者から順を追って短くなります。経営者であれば、少なくとも10年先のことを考えているでしょうが、管理職はせいぜい5年、現場になれば1年の射程しか視野に入っていない。常に10年先のことを考えている経営者であれば、やがてやって来る危機に対応して変革の必要性を常に意識しているかもしれませんが、管理職や現場は常に足元を見て仕事をしているわけですから、十分な説明もなしに「このままでは危ない、進路もやり方も変える」と宣言されれば、十分な「解凍」の時間を取れないままに混乱期に突入してしまうことになります。
「歴史的正当性」「カリスマ性」「合法性」――マックス・ヴェーバー
もとい、話を元に戻せば「歴史的正当性」や「カリスマ性」を持ったリーダーはなかなかいないので、多くの組織では「歴史的正当性」をデッチあげるということが行われる、ということです。しかし一方で、デッチあげられる程度の「歴史的正当性」が、本当に中長期的な「支配の正当性」を担保しうるのか、という問題が残る。では「合法性」なのかというと、がんじがらめの官僚機構が、現在の社会で優秀な人材を引きつけ、動機付けられるかというと、まず不可能でしょう。
結論は一つしかありません。過去を変えられない以上、「歴史的正当性」は求めても仕方がない。では「合法性」なのかというと、官僚機構による支配を前提にしたのでは、現在の有数な人材を惹きつけ、動機付けることは難しいし、そもそも発想として美しくありません。そうなると「カリスマ性」による支配ということになるわけですが、ヴェーバーの定義によれば、「カリスマ」というのは「非日常的な天与の資質」を持った人物ということですから、それほどたくさんいるわけではありません。結局のところ、私たちは、この数少ない「カリスマ性を持った人物」をどれだけ「人工的」に育てられるかどうか、ということにチャレンジしなくてはならない、ということになるのではないでしょうか。人を惹きつける天与の資質を持った人物をどれだけリバースエンジニアリングし、それをより裾野の広い範囲に共有・実践できるか、というのがポイントになってくると思います。
他者の顔――エマニュエル・レヴィナス
20世紀の後半になって「他者論」が大きな哲学上の問題として浮上してきたのには必然性があります。哲学というのは、世界や人間の本性について考察する営みですが、では古代ギリシアの時代以来、膨大なエネルギーをかけて考察が積み重ねられてきたにもかかわらず、未だに「これが決定打!」とされるものが確定されないのは、なぜなのか。答えは明白です。ある人にとって、「これが答えだ」とされるものが、決して「他者」にとってのそれではないからです。連綿と「提案」と「否定」が続く、永遠に「完全な合意」に至らないかのように思える、この営みが、「わかり合えない存在」としての「他者」の存在の浮上につながったのでしょう。
このように、レヴィナスにおける「他者」は、私たちがふだん用いる「他人」という言葉よりも、はるかにネガティブなニュアンスを持っているわけですが、それでもなお、レヴィナスは「他者」の重要性と可能性について論じ続けています。ううむ、そのようなよそよそしい相手、わかりあえない「他者」が、なぜ重要なのか。レヴィナスの答えは非常にシンプルです。それは、「他者とは、〝気づき〟の契機である」というものです。
自分の視点から世界を理解しても、それは「他者」による世界の理解とは異なっている。この時、他者の見方を「お前は間違っている」と否定することもできるでしょう。実際に人類の悲劇の多くは、そのような「自分は正しく、自分の言説を理解しない他者は間違っている」という断定のゆえに引き起こされています。この時、自分と世界の見方を異にする「他者」を、学びや気づきの契機にすることで、私たちは今までの自分とは異なる世界の見方を獲得できる可能性があります。
レヴィナス自身は、このような体験を、ユダヤ教の師匠と弟子である自分との関係性の中から、体験的に掴み取っていったようです。この感覚は、師匠について何らかの習い事をやった経験のある人には、心当たりがあるのではないでしょうか。私自身について言えば、学生時代に長らく勉強した作曲がそうでした。習い始めの頃は、どうにもこうにも、師匠の言う「音を探しに行ってはならない」という注意が、感覚的によくわからない。ここで言う「わからない」というのは、もちろん日本語として「わからない」ということではありません。その文言でもって、師匠が意図するところが「わからない」のです。
ところが、この「わからなさ」は、ある瞬間に気づくと氷解している。その瞬間に何があったのかは、自分でも遡及的に体験することができません。とにかく、昨日まで「わからなかった」ことが、なぜかはわからないけれども、今日になって「わかった」と感じられる。そのような体験をした人も少なくないと思います。このとき「私」という言葉で同定される個人は、「わかった」後と前とでは、違う人間ということになります。なぜなら、今日の自分が、昨日の自分に同じ文言を投げかけても、それは「バカの壁」にあたって向こうに届かないからです。つまり「わかる」ということは「かわる」ということなんですね。そういえば、一橋大学の学長を務めた歴史家の阿部謹也は、指導教官であった上原専禄による指導について、その著書『自分のなかに歴史をよむ』の中で次のようなエピソードを紹介しています。
上原先生のゼミナールのなかで、もうひとつ学んだ重要なことがあります。先生はいつも学生が報告をしますと、「それでいったい何が解ったことになるのですか」と問うのでした。(中略)
「解るということはいったいどういうことか」という点についても、先生があるとき、「解るということはそれによって自分が変わるということでしょう」といわれたことがありました。それも私には大きなことばでした。(阿部謹也『自分のなかに歴史をよむ』)
未知のことを「わかる」ためには、「いまはわからない」ものに触れる必要があります。いま「わからない」ものを「わからないので」と拒絶すれば「わかる」機会は失われてしまい、「わかる」ことによって「かわる」機会もまた失われてしまう。だからこそ「わからない人=他者」との出会いは、自分が「かわる」ことへの契機となる。これが、レヴィナスの言う「他者との邂逅がもたらす可能性」です。
権力格差――ヘールト・ホフステード
ホフステードは、韓国や日本などの「権力格差の高い国」では「上司に異論を唱えることを尻込みしている社員の様子がしばしば観察されており」、「部下にとって上司は近づきがたく、面と向かって反対意見を述べることは、ほとんどありえない」と同調査の中で指摘しています。
さて、では権力格差の大きさは具体的にどのような影響をおよぼすのでしょうか。現在の日本の状況を考えると、二つの示唆があるように思えます。
一つ目の示唆は、コンプライアンスの問題です。組織の中で、権力を持つ人によって道義的に謝った意思決定が行われようとしている時、部下である組織の人々が「それはおかしいでしょう」と声をあげられるかどうか。ホフステードの研究結果は、我が国の人々は、他の先進諸国の人々と比較して、相対的に「声を上げることに抵抗を覚える」度合いが強いことを示唆しています。
二つ目の示唆は、イノベーション移管する問題です。本書別箇所でも取り上げている科学史化のトーマス・クーンは、パラダイムシフトを起こす人物の特徴として「非常に年齢が若いか、その領域に入って日が浅い人」という点を挙げています。これはつまり、組織の中において相対的に弱い立場にある人の方が、パラダイムシフトにつながるようなアイデアを持ちやすいということを示唆しています。したがって、そのような弱い立場にある人々が、積極的に意見を表明することで、イノベーションは加速すると考えられるわけですが、日本の権力格差は相対的に高く、組織の中で弱い立場にある人は、その声を圧殺されやすい。
以上の二つを踏まえれば、組織のリーダーは、部下からの反対意見について、それが表明されれば耳を傾けるという「消極的傾聴」の態度だけでは、不十分だということが示唆されます。より積極的に、自分に対する反対意見を、むしろ探し求めるという態度が必要なのではないでしょうか。
パラノとスキゾ――ジル・ドゥルーズ
よくキャリア論の世界では「自分が何をやりたいか、何が得意なのかを考えろ」と言われます。この点は既に拙著『天職は寝て待て』にも書いたことですが、私はこんなことを考えるのはほとんど無意味だと思っていて、結局のところ、仕事は実際にやってみないと「面白いか、得意か」はわかりません。「何がしたいのか?」などとモジモジ考えていたら、偶然にやってきたはずのチャンスすら逃してしまう恐れがあります。
つまり、大事なのは行き先などを決めていないままに、「どうもヤバそうだ」と思ったらさっさと逃げろ、ということです。もっと目を凝らし、耳をすまして周りで何が起きているのかを見極める。先に挙げた浅田彰の抜粋では「たよりになるのは、事態の変化をとらえるセンス、偶然に対する勘、それだけだ」とありますが、これは私が前著『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』において、「積み上げ型の論理思考よりも、大胆な直感が必要だ」と指摘したのと、同じことです。周囲が「まだ大丈夫」と言っていても、「危ない!」と直感したらすぐに逃げる。ここで重要になってくるのが「危ないと感じるアンテナの感度」と、「逃げる決断をするための勇気」ということになります。往々にして勘違いされていますが、「逃げる」のは「勇気がない」からではありません。逆に「勇気がある」からこそ逃げられるんですね。
私が新卒で入社した当時、広告代理店は就職人気ランキング上位の花形産業の一つでしたが、今日ではメディア・通信環境の大きな変化を受け、もっとも将来の不確実性が高い業種の一つとなっています。おそらく今日の就職人気ランキング上位の花形産業の多くもまた、20年後には衰退産業に数えられることになるでしょう。誰もが羨むような会社に入社すれば、その会社に所属している自分をアイデンティティの柱にするのは避けられないことです。しかし、その会社が「花形」のままでいられる期間はどんどん短くなっている。自分のアイデンティティの拠り所がもはや人が羨むような「花形」ではなくなった時、それをサッサと捨て去って、なお「自分」というものを「崩壊させずに分裂させておく」ことができるか。まさに「パラノからスキゾへ」の転換が求められているわけです。
ここで留意しておかなければならないのは、日本の社会では未だに、一カ所に踏みとどまって努力し続けるパラノ型を礼賛し、次から次へと飽きっぽく変異転遷していくスキゾ型を卑下する傾向が強い、ということです。考えてみれば、例えばシリコンバレーの職業観などは典型的なスキゾ型なので、こういった「パラノ礼賛、スキゾ卑下」の職業観が日本のイノベーションを停滞させる要因の一つとなっているのでしょう。この社会的な価値観が、「スキゾ型」の戦略を採用しようというとき、大きな心理的ブレーキとして働く可能性があります。だからこそ、逃げるには「勇気」が必要なのです。世間的な風評を気にして沈没しかけている船の中でモジモジしていたら、それこそ人生を台無しにしかねません。
ほかの多くの人が「一度この船に乗った以上、最後まで頑張るんだ」と息巻いているなか、「僕はこの船と心中するつもりはありません。お先に失礼します」と言って逃げるとき、どれだけの勇気がいるだろうかと想像してください。パラノとスキゾを対比させてみれば、後者は前者より軽薄で軟弱な生き様に思えるかも知れません。しかし全くそうではない。むしろ勇気と強度を持たない人こそ、現在の世界ではパラノ型を志向し、それらを持つ人だけがスキゾ型の人生をしたたかに歩むことができる、ということです。
格差――セルジュ・モスコヴィッシ
問題となるのは大きな格差や差別ではありません。江戸時代の身分差別制度や、現在のイギリスやインドに見られる、いわゆる「クラス」によって分け隔てられた人々のあいだで「不公平」が心身を蝕むことはない。むしろ同質性が前提とされている社会や組織における「小さな格差」こそが大きなストレスを生み出すのです。誤解の内容に注記しますが、私は身分差別制度が望ましいと言っているわけではありません。そのような社会においては、同質性が建前上は前提となっている社会や組織と比較して、ルサンチマンや妬みといった感情に搦めとられることが少なかった、と言っているだけです。
格差や差別に基づく「妬み」の感情は、社会や組織の同質性が高まるほどに、むしろ構成員を蝕んでいくことになります。19世紀前半に活躍したフランスの政治思想家、アレクシ・ド・トクヴィルは平等を理想として掲げる民主主義の台頭に際して、その矛盾を鋭く指摘します。
不平等が社会の共通の法であるとき、最大の不平等も人の目に入らない。すべてがほぼ平準化するとき、最小の不平等に人は傷つく。平等が大きくなればなるほど、常に平等の欲求がいっそう飽くことなき欲求になるのは、このためである。(トクヴィル『アメリカのデモクラシー』)
トクヴィルの指摘は、私たちが「公正な組織」「公正な社会」を希求することの本質的な矛盾を突いてきます。このような認識が成立した上でなお、私たちは「公正」で「公平」であることを希求するべきなのでしょうか。
もし、社会や組織が公正で公平であるのであれば、その中で下層に位置付けられる人には逃げ道がありません。人事制度や社会制度に不備があるから下層にいるのではなく、まさしく自分の才能や努力や容姿といった点で、人より劣っているからに他ならないからです。序列の基準が正当ではない、あるいは基準は正当であっても評価が正当になされていない、と信じるおかげで私たちは自らの劣等性を否定することができます。しかし「公正な組織」「公平な組織」ではこの自己防衛は成立しません。私たちが安易に「究極の理想」として掲げる「公正で公平な評価」は、本当に望ましいことなのか。仮にそれが実現したときに「あなたは劣っている」と評価される多数の人々は、一体どのようにして自己の存在を肯定的にとらえることができるのか。そのような社会や組織というのは、本当に私たちにとって理想的なのか。「公正」を絶対善として奉る前に、よくよく考えてみる必要があると思います。
差異的消費――ジャン・ボードリヤール
ここでボードリヤールは、私たちの持つ「欲求」は、個人的・内発的なものとしては説明できない、むしろ他者との関係性、つまり「社会的」なものだと言っています。この本を初めて読んだのは20代後半のことでしたが、これを読んで時には随分と新鮮な気持ちがしたものです。
ボードリヤールの言う通り、欲求が社会的なものだとすれば、マーケティングにおける市場創造・市場拡大において最も重要なのは、「差異の総計の最大化」ということになります。これは当然のことながら、非常に大きなルサンチマンを社会に生み出すことになります。
ボードリヤールの「差異的消費」というコンセプトはまた、消費というテーマを大きく越える射程距離を持っていると思います。例えば、私たちが「自己実現」という時、実現されるべき自己像は、自分たちの内発的な欲求や願望を基にして規定しうる、という前提に立っています。しかし、本当にそうなのか?「望ましい自己像」が、ある特定の集団が排他的に有する特性によって記述されるのであれば、その自己像は内発的な規定というよりもむしろ、特定集団とその他の集団との境界線を規定する要件、つまり「差異」によって外発的に規定されることになります。ボードリヤールは次のように指摘します。
消費者は自分で自由に望みかつ選んだつもりで他人と異なる行動をするが、この行動が差異化の強制やある種のコードへの服従だとは思ってもいない。他人との違いを強調することは、同時に差異の全秩序を打ち立てることになるが、この秩序こそはそもそものはじめから社会全体のなせるわざであって、否応なく個人を超えてしまうのである。(以上引用)
ここで注意してほしいのが、例えばお金持ちがブランド物や高級車などを購入する、見せびらかしのための衒示的消費だけが、差異的消費なのではないということです。お金持ちが、自分たちがお金持ちであることをわかりやすく他者に伝えるために、フェラーリやポルシェなどの「わかりやすい高級車」を買ったり、広尾や松濤などの「わかりやすいエリア」に住居を構えたりするのは、もちろん差異的消費の一形態ではありますが、それが全てではありません。ボードリヤールが言っているのはそういうことではなく、例えばプリウスに乗るとか、「無印良品」を愛用するとか、郊外の田舎に暮らすというのもまた、それを選択した主体が、そのような選択をしなかった他者と自分は異なるのだということを示すための差異的消費だということなんですね。
これはつまり、私たちがどのような選択を、どれだけ無意識的に、無目的に行なったとしても、そこには自ずと「それを選んだ」ということと「他を選ばなかった」ということで、記号が生まれてしまう、ということです。この窮屈さから逃れられる人はいない、私たちはそのような「記号の地獄」に生きている、というのがボードリヤールの指摘です。
これを逆に言えば、なんらかの記号性を持たない、あるいはあっても希薄な商品やサービスは、市場において生き残りにくい、ということでもあります。自己実現的消費は、市場成長の最終段階において発現するのが通例ですが、そのときの「自己実現」が、内発的に規定されるものではなく、言語と同じように「他者との差異」という形で規定されるのであれば、その商品なりサービスが、どのような「差異」を規定するのかについて、意識的にならない限り、成功する商品やサービスの開発は難しいということになります。
無知の知――ソクラテス
コンサルティングのプロジェクトではよく「ベストプラクティス」をベンチマークとします。ベストプラクティスというのは「最もウマいやり方」という意味で、これを実践しているのがマスタリーということになるわけですが、このマスタリーへのインタビューはとても苦戦するケースが多い。なぜかというと、マスタリーには「なぜこんなに上手にできるんですか?」と聞いても、「知っていることを知らない」ので、「はあ、特に何もしていないんですが…」というような答えが返ってくることが多いんですね。なので、こういう場合にはインタビューで話してもらうよりも、実際の仕事現場を見させていただいて、観察からマスタリーの秘密を引き出す方が有効な場合が多いんです。
私たちは容易に「わかった」と思ってしまいがちです。しかし、本当にそうなのか? 英文学者で名著『知的生活の方法』の著者である渡部昇一は「ゾクゾクするほどわからなければ、わかっていないのだ」と指摘しています。あるいは、歴史学者の阿部謹也が、その師である上原専禄から「解るということはそれによって自分が変わるということでしょう」と言われたというエピソードはすでに紹介しました。両者ともに「わかる」ということの深遠さ、自分へのインパクトを指摘しているわけです。私たちの学びは「わかった」と思った時には停滞してしまう。本当に「ゾクゾクするほど」わかったのか、わかることによって「自分が変わった」と思えるほどにわかったのか。私たちは「わかった」と思うことについて、もう少し謙虚になってもいいのかも知れません。
この忠告はまた、短兵急にモノゴトをまとめたがる危険性をも思い起こさせます。私が長年所属しているコンサルティング業界の人々には特有の口癖がいくつかありますが、中でも「要するに〇〇ってことでしょ」はその筆頭と言えます。コンサルタントは、物事を一般化してパターン認識するのが好きな人種ですから、人の話を聞いて、最後にこのように「まとめたい欲」を抑えるのが難しいようです。しかし、相手の話の要点を抽出し、一般化してまとめることは、常に良い結果をもたらすとは限りません。
まず対話において、話し手が一生懸命にいろいろな説明を交えて説明したのちに、最後に相手から単純化されて「要は〇〇ってことでしょ」と言われると、たとえそれが要領を得たものであったとしても、何か消化不良のような、あるいは何かこぼれ落ちてしまうように感じるかもしれません。あるいは「聞き手」にとっても、いつも「要は〇〇でしょう」で済ませる習慣は、世界観を拡大する機会を制限してしまうことになります。
私たちは、無意識レベルにおいて、心の中で「メンタルモデル」を形成します。メンタルモデルというのは、私たち一人ひとりが心の中に持っている「世界を見る枠組み」のことです。そして、現実の外的世界から五感を通じて知覚した情報は、そのメンタルモデルで理解できる形にフィルタリング・歪曲された上で受け取られます。「要するに〇〇でしょ」というまとめ方は、相手から聞いた話を自分の持っているメンタルモデルに当てはめて理解する、という聞き方にすぎません。しかし、そのような聞き方ばかりしていては、「自分が変わる」契機は得られません。
シニフィアンとシニフィエ――フェルディナンド・ソシュール
ソシュールは、概念を示す言葉をシニフィアン、言葉によって示される概念そのものをシニフィエと名付けます。例えば先述した例を用いれば、日本語では「蝶」と「蛾」という二つのシニフィアンを用いて、二つのシニフィエを示しているのに対して、フランス語では「Papillon」というシニフィアンを用いて、日本語の「蝶」でも「蛾」でもない、両者が合わさったようなシニフィエを示しているということです。そして、シニフィアンとシニフィエの体系は言語によって大きく異なる。先述した喩え以外にも、日本語では「湯」と「水」は別のシニフィアンですが、英語には「Water」というシニフィアンしかありませんし、あるいは「恋」と「愛」は別のシニフィアンですが、英語には「Love」というシニフィアンしかない。
さて、ソシュールによる指摘は、なぜ重要なのでしょうか。二つの点があります。
一つは、私たちの世界認識は、自分たちが依拠している言語システムによって大きく規定されている、ということを示唆するからです。西洋哲学が「世界はどのように成り立っているのか」という「Whatの問い」からスタートしていることは既に説明しましたね。この「問い」以来、デカルトやスピノザらが活躍した17世紀くらいまでの哲学者は、事実に基づいて明晰に思考を積み重ねていけば、「真実」に到達することができる、と考えていたわけですが、本当にそうなのか、という大きな疑義をソシュールは投げかけます。どういうことか。私たちは言葉を用いて思考するわけですね、当たり前のことです。しかし、その言葉自体が、すでに何らかの前提によっているとすればどうか。ことばを用いて自由に思考しているつもりが、その言葉自体が依拠している枠組み思考もまた依拠することになってしまいます。私たちは本当の意味で自由に思考することができない、その思考を私たちが依拠しているなんらかの構造によって大きな影響を不可避的に受けてしまう、これが構造主義哲学の基本的な立場です。ソシュール自身は言語学者であるにもかかわらず、構造主義哲学の始祖と呼ばれるのはそのためです。ちなみに「私たちは私たちが依拠している構造によって考えることしかできない」ということを、別の角度から指摘したのがマルクス、ニーチェ、フロイトらでした。彼らはそれぞれ、私たちの思考が「社会的な立場」「社会的な道徳」「自分の無意識」などによって不可避的に歪められてしまうことを指摘し、これらの考察が、やがてレヴィ=ストロースに代表される構造主義哲学へと収れんしていくことになります。ソシュールは、古代ギリシア時代から連綿と続いてきた、理知的な考察によって真理に到達することができる、という無邪気な「理知原理主義」とも言うべき考え方に、哲学とはまったく異なる側面から決定的なダメ出しをしたわけです。これがソシュールの指摘が重要とされる、一点目の理由です。
ソシュールの指摘がなぜ重要なのか、二点目の理由は、語彙の豊かさが世界を分析的に把握する力量に直結する、ということを示唆するからです。先ほどまでは日本語とフランス語、あるいは英語を比較していましたが、同じ日本語を用いる集団の中で、より多くのシニフィアンを持つ人とより少ないシニフィアンを持つ人を比べてみた場合はどうでしょうか。ソシュールが指摘するように、ある概念の特性が「ほかの概念ではない」ということなのであるとすれば、より多くのシニフィアンを持つ人は、それだけ世界を細かく切って把握することが可能になります。細かく切る、つまり分析ということです。あるシニフィアンを持つ、ということはあるシニフィエを把握することに繋がります。概念という言葉しか持たない人は、概念という言葉の中に含まれている「シニフィアン」と「シニフィエ」を分けて認識することができません。「シニフィアン」という言葉を持っているからこそ、ある概念が示されたときに、それが「シニフィアン」なのか「シニフィエ」なのか、判別する機構が働くことになるわけで、これはそのまま、世界をより細かいメッシュで分析的に把握していく能力の高低に繋がることになります。
本書で説明している哲学・思想の用語がまさにそうです。これらの用語は日常生活を送る上ではほとんど役に立ちませんが、本書冒頭に示した通り、目の前で起きている事象をより正確に把握するための洞察を与えてくれるはずです。なぜ、概念が洞察を与えてくれるのかというと、それは新しい「世界を把握する切り口」を与えてくれるからです。
まとめましょう。ポイントは二つです。まず、私たちは、自分が依拠している言語の枠組みによってしか、世界を把握することができないということ。二つ目には、それでもなお、より精密に、細かいメスシリンダ―を用いて計量するように世界を把握することを試みるのであれば、言葉の限界も知りながら、より多くの言葉=シニフィアンを組み合わせることで、精密にシニフィエを描き出す努力が必要だということではないでしょうか。
未来予測――アラン・ケイ
コンサルティングファームに居ると、よくクライアントから「未来予測」に関する相談を受けます。未来はどうなりそうでしょうか? その未来に対して、我々はどのように準備するべきでしょうか? というご相談で、もちろんフィーをいただいてレポートを作成することになるわけですが、個人的にはナンセンスだと思っています。
いまある世界は偶然このように出来上がっているわけではありません。どこかで誰かが行った意思決定の集積によっていまの世界の風景は描かれているのです。
それと同じように、未来の世界の形式は、いまこの瞬間から未来までのあいだに行われる人々の営みによって決定されることになります。であれば本当に考えなければいけないのは、「未来はどうなりますか?」という問いではなく「未来をどうしたいか?」という問いであるべきでしょう。
アンドロイドの研究で名高い大阪大学の石黒浩先生は、アラン・ケイと面会した際「ロボットの未来に可能性はあるでしょうか?」と質問したところ、アラン・ケイから叱責されたそうです。「お前はロボットを研究する立場にある人間だろう。そういう立場にある人間が、そんなことを他人に聞いてどうする。お前自身は、ロボットというものを人類にとってどういうものにしたいと思っているんだ?」と聞き返され、「アタマをガツーンとやられた感じがした」と述懐しています。
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最後にアラン・ケイのメッセージを。
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