「なんでもいいよ」と言われるのが一番困る。
誕プレ何が欲しい?
今日の夕飯に食べたいものある?
今度のお休みどこいこっか?
「なんでもいいよ」って、自分の提案を相手が真面目に考えてくれてない気がする。
時々腹が立つ。
考えるのがめんどくさいからって丸投げしてんじゃねえよ、と思ったりすることもある。
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私は「ちくまプリマー選書」のシリーズがかなり好きだ。
想定される対象は若い読者だと思うのだが、それだけに著者たちが言葉を厳選して伝わりやすく、言いたいことができるだけ届くようにと祈るような気持ちで書いていることが伝わってくる気がするからだ。
本書は、自身も小説家である著者が「小説とは何であり、どのようにして書かれているものなのか」を古今のさまざまな小説を例に出しながら紹介するものである。
何でも書ける。
何をどのように書いてもいい。
自由である、と著者は言う。
この自由さは、しかし苦痛でもある。
何でもある、は何にもない、と同義なのだ。
自分から、ゼロから産み出していかねばならない苦しみ。
苦労したから面白いものができる保証はなく、自分にとって面白いものがみんなにとっても面白い保証はない。
苦労して書いたものがたとえ受け入れられたとしても、それは一回消費されれば終わることも少なくない。
けれど「書かずにはいられない」というのが小説を生業とする人の業なのであろう。
素材はどこにでもあるが、どれでもいいわけではない。どれが良い素材になるのかはわからないし書いたものの責任は全て書いた人が負うことになる。厳しい批評や批判だって受けるかもしれない。
古くから人は物語を作ってきた。
それはほとんどが絵空事であって、私小説といわれるジャンルでも"作品"に昇華できる程度には脚色がなされているはずだ。
かつて小説は低俗なものとして低く見られていた(「小」説、という言葉がそれを表しているらしい)と聞いた。
それでも洋の東西を問わず、物語が絶えず作られ続けてきたことには意味があるのだろう。
そんな物語や小説について、若い読者に向けて言葉を綴る著者。その語り口はとても魅力的だ。
読んだけど自分には面白くなかった、それもひとつなのだ、意味があるのだ、と著者は言う。
そうなのかもしれない。
私たちは自分が触れてきたものたちでできている。
本棚はその人を映す鏡、みたいな言い方もあるし。
瞬時にして、その場(部屋の中とかカフェの中とか風呂の中とか)から動くことなくいろんな世界に入っていける、自分の頭の中に描かれるイメージを味わう、そんな感覚は"小説を読む"行為でしか体験できないものだろう。
うっかりすると仕事関係の本ばかりになってしまいそうな本棚に、もっといろんな小説を並べたいなと思う。
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ところで、自分が「何食べたい?」「どこに行きたい?」と聞かれた時につい「何でも」「どこでも」と答えたくなってしまうの、どうにかなりませんかねぇ。笑