あらすじ
なぜ「格差社会」が生まれるのか。
なぜ自己啓発書を何冊読んでも救われないのか。
資本主義を内面化した人生から脱却するための思考法がわかる。
ベストセラー『永続敗戦論』『国体論』著者によるまったく新しい「資本論」入門!
経済危機が起こるたびに「マルクスの『資本論』を読もう!」という掛け声が上がる。でもどうやって読んだらいいのか。「資本論」の入門書は数多く刊行されている。しかし「資本論」を正確に理解することと、「資本論」を現代に生かすこととは同じなのか?
本書では「資本論」の中でも今日の資本制社会を考える上で最重要の概念に着目し、それが今生きていることをどれほど鮮やかに解明するかを見ていく。
【他の「資本論」入門書との違い】
◎マルクスの「資本論」そのものの解説ではなく、「資本論」の「キモ」の部分だけを紹介。
◎「資本論」の中でも最重要な「商品」「包摂」「剰余価値」「本源的蓄積」「階級闘争」を切り口に、なぜ今のような格差社会が生まれているのか、どうすれば「乱世」を生き延びられるのか、を考える。
【本文より一部抜粋】
実は私たちが気づかないうちに、金持ち階級、資本家階級はずっと階級闘争を、いわば黙って闘ってきたのです。
それに対して労働者階級の側は「階級闘争なんてもう古い。そんなものはもう終わった」という言辞に騙され、ボーッとしているうちに、一方的にやられっぱなしになってしまったというわけです。(第11講より)
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マルクスの資本論に関して、噛み砕いて説明している。非常にわかりやすい。
冒頭の満員電車で30代サラリーマンが必死に資本論を読んでいたというエピソードが、どうも頭から離れない。資本論というのは、資本主義とはどういうものであるか?ということを示した本であり、別に革命を目指すようなものでもない。
どうして我々労働者は、働いても報われないのか?という強烈な課題意識があると、資本論はスッと入ってくることがある。そういうことを言いたかったんだろうなと思う。
資本論の解説としても有用であるものの、本書で面白かった箇所を引用する。
>新自由主義が変えたのは、社会の仕組みだけではなかった。新自由主義は人間の魂を、あるいは感性、センスを変えてしまったのであり、ひょっとするとこのことの方が社会的制度の変化よりも重要なことだったのではないか、と私は感じています。
社会にとって有用なスキルがなければ、低賃金に甘んじるしかなく、それは自己責任だよね?という考えそのものが浸透している現代は、すっかりその価値観に毒されてるなと。
最近まで高みの見物をしていたホワイトワーカーも、その例外ではなくなってきた。お前は生成AIよりも有用であることを証明できるのか?という命題を突きつけられるからである。
改めて人間にとっての価値とは?という根源的な問いに向き合う時、それが現代の階級闘争なのかもなと。
Posted by ブクログ
武器としての「資本論」
著:白井 聡
出版社:東洋経済新報社
政治学者である、白井氏が資本論のエッセンシャルを解説されている書です。
冒頭に、「生き延びるための『資本論』」とある。
資本論挫折組としては、この上もないありがたい書であるが、こんな内容が含まれていたなんておもいもよりませんでした。
また、3冊ぐらいかとおもっていましたが、岩波『資本論』は全9冊とあり、かなりの分量であったこと改めてびっくりしました。
なぜ、資本論がこれまで読み継がれているのか、それは、経済概念の何かしらの本質をつかんでいるからこそ、今もなお、読まれるだけの価値があるという。それが、生き延びるための資本論なのです
資本制社会とは、商品の生産と交換が行われている社会、商品の生産、流通、消費を通じて行う社会が資本主義社会である。
その原則のもとに、資本論は、唐突に商品で始まる。
次に商品に対して、労働。まるで簿記である
商品交換のよいところは、あとくされがないこと、それに対して、共同体内部でのやりとりは、あとくされあり
剰余価値を生み出すことが、資本主義のキモである。
教育の荒廃の最大の原因は教育の商品化である。教育の商品化をやめない限り、教育は立て直せない
資本はとにかく増えること、増えることで豊かになるということは資本の目的ではない。増えることこそ、資本の目的である
機械は人を楽にしない。機械が、AIが働いてくれるから、人はもう働かないでよい、とはならない
資本主義の下では絶対にそうならない。どんどん機械化が進んでいるのに、私たちの労働が時間の面では全然楽になっていないのが、その証拠です。
日本の労働者階級は過去30年間ずっと退却し続けている
資本のために、生産性をあげているのに、自分のために、生産性をあげているのだという錯覚がある
技術革新はなぜ人を幸福にしないのか
生産性が上がるということは、労働価値が下がるということ
生産性向上とは、労働のダンピングです。
国内の高い労働力から海外の安い労働力に置き換える
日本政府がやろうとしている外国人労働者受け入れも同様、安価な労働力の輸入
日本の高度成長が終わったのは、農村の過剰人口に基づく労働力を使い果たしから。要するに安い労働力がてにはいらなくなったから。
イノベーションによって生まれる剰余価値は、たかが知れている
資本家が安価な労働力で商品を生み出すと、いずれ、商品を買う人がいなくなってしまいます。
そこで、労働者=消費者戦略、そのためには、労働者にある程度厚遇しないと、資本家も共倒れになってしまいます。
労働者と、資本家との格差の拡大を解消する方法
マルクスは、階級闘争といっている、いわば戦争です
そして、国家の介入で平等化を図ること、社会保障政策です
富は次第に少数の資本家に集約されていく、それによって資本主義は進んでいく
その先にあるのは、窮乏、抑圧、隷従、堕落、搾取といっています。
さらにその先にあるのが、その状況を是正する出来事になります。
資本家に人格はいらない。資本が人格化されているだけだ。
つまり、資本論には、二面性がある。階級闘争VS構造主義である
労働者階級を破壊してしまうこと、産業化が、大衆文化を破壊してしまうことにつながる
そして一度破壊されてしまうと、そのダメージからは、容易に立ち直ることはできない
つまり、生産力を爆発的に上昇させ、かつての人類には想像すらできなかったような物質的な豊かさをもたらしながら、そのただ中に、貧しさを作りだしてしまっている。
目次
はじめに 生き延びるための「武器」としての『資本論』
第1講 本書はどのような「資本論」入門なのか
第2講 資本主義社会とは? ――万物の「商品化」
第3講 後腐れのない共同体外の原理「無縁」 ――商品の起源
第4講 新自由主義が変えた人間の「魂・感性・センス」 ――「包摂」とは何か
第5講 失われた「後ろめたさ」「誇り」「階級意識」――魂の「包摂」
第6講「人生がつまらない」のはなぜか ――商品化の果ての「消費者」化
第7講 すべては資本の増殖のために ――「剰余価値」
第8講 イノベーションはなぜ人を幸せにしないのか ―― 二種類の「剰余価値」
第9講 現代資本主義はどう変化してきたのか ――ポスト・フォーディズムという悪夢
第10講 資本主義はどのようにして始まったのか ――「本源的蓄積」
第11講 引きはがされる私たち ――歴史上の「本源的蓄積」
第12講 「みんなで豊かに」はなれない時代 ――階級闘争の理論と現実
第13講 はじまったものは必ず終わる ――マルクスの階級闘争の理論
第14講 「こんなものが食えるか!」と言えますか? ――階級闘争のアリーナ
ISBN:9784492212417
判型:4-6
ページ数:292ページ
定価:1600円(本体)
2020年04月23日第1刷発行
2020年07月17日第7刷発行
Posted by ブクログ
読みやすさ★★★★☆
マルクス関連書籍の中で一番わかりやすくて面白かったかも。
剰余価値を日常生活レベルに噛み砕いて説明してくれたり、資本主義の始まりから終わりまで流れで書いてあるのが読みやすかったし、ある種のカタルシスも感じた。
Posted by ブクログ
資本論の入門として勉強になったが、著者の思想が影響された部分もあるので(思想自体を否定する意味ではない)この一冊で満足せず客観的に社会の遍歴を分析し、これからについて考えようと思えた本でした。
Posted by ブクログ
マルクス入門書としてのNo. 1クオリティ。
文章も平易で、切り口、白井節感じるアイロニー、引用文献のいずれをとってもセンス抜群。
マルクスってなに?という人に読んで欲しい一冊。
中高生でも読み切れる内容。
Posted by ブクログ
ネオリベによる魂の包摂を防ぐためには、感性の再建が必要。美味いものを食い、美しいものを見る権利があると信じること。
産業革命がイギリス料理をまずくした。
Posted by ブクログ
ー 新自由主義が変えたのは、社会の仕組みだけではなかった。新自由主義は人間の魂を、あるいは感性、センスを変えてしまったのであり、ひょっとするとこのことの方が社会的制度の変化よりも重要なことだったのではないか、と私は感じています。制度のネオリベ化が人間ネオリベ化し、ネオリベ化した人間が制度のネオリベ化をますます推進し、受け入れるようになる、という循環です。
ですから、新自由主義とはいまや、特定の傾向を持った政治経済的政策であるというより、トータルな世界観を与えるもの、すなわち一つの文明になりつつある。新自由主義、ネオリベラリズムの価値観とは、「人は資本にとって役に立つスキルや力を身につけて、はじめて価値が出てくる」という考え方です。人間のベーシックな価値、存在しているだけで持っている価値や必ずしもカネにならない価値というものをまったく認めない。だから、人間を資本に奉仕する道具としか見ていない。
資本の側は新自由主義の価値観に立って、「何もスキルがなくて、他の人と違いがないんじゃ、賃金を引き下げられて当たり前でしょ。もっと頑張らなきゃ」と言ってきます。それを聞いて「そうか。そうだよな」と納得してしまう人は、ネオリベラリズムの価値観に支配されています。人間は資本に奉仕する存在ではない。それは話が逆なはずだ。けれども多くの人がその倒錯した価値観に納得してしまう。それはすなわち資本による労働者の魂の「包摂」が広がっているということです。 ー
僕たち自由な労働者は、身分制から解放されて、自由に職業選択を行い、自由に幸せを追求することができる。とは言え、僕たちは、生産手段を持たないので、生産手段を手に入れられない限りは、資本家の雇用化に入らなければならない。僕たちはそれで一定の幸福を感じられる世界にいると信じているし、努力すればより幸福になれる世界にいると信じている。階級闘争なんて、おどろおどろしい時代錯誤なものだと、どういうわけか感じてしまう。「危ない奴」と警戒してしまうのは何故だろう?それは、僕たちが階級闘争に慣れていないから。資本家たちが必死にひた隠しにしてきた、階級闘争なんてあたかも無いかのような世界で育ってきたから。学校にも会社にもテレビにも広告にも階級闘争は見当たらない。階級闘争まがいはあるが、それが僕たちの世界の話であるようには描かれていない。資本家たちは、階級闘争を続けてきた。搾取を資本家たちの手に取り戻すために、彼らは彼らの階級闘争をずっと続けてきたんだ。僕たち労働者がのんびりしている間にも、資本家たちは、より効率的により多くの搾取が可能となるように階級闘争を続けてきたんだ。ネオリベというのがそうだったとしても、僕たちは政治を語らないし、階級闘争からも疎外されてしまっている。闘う手段を奪われた僕たちは、このまま微睡んで搾取され続けなければならないのだろうか。それでいいはずがない!
と、いうのがよく分かる作品。
分かるからといって、この暖かく居心地のいい緩やかな世界から、階級闘争の革命闘士になれるわけでもない。なぜなら、僕たちは生産手段を持たず、階級闘争からは疎外されているのだから。
とは言え、まずは“知”という“武器”を手にする必要がある。これが、この作品のメッセージである。
Posted by ブクログ
「資本論」の解説本の中では一番わかりやすいと感じた。資本主義は、ひたすらに生産性を向上させることを追求するものであり、その結果として労働の価値が低下するとの指摘が一番の学んだ点。
共同体の中では、富や労働の貸し借りが頻繁に行われ、人間的な付き合いもする。商品は共同体の間の交換によって発生していた(p.54-55)。近代資本主義が始まると、生産的労働が商品交換を介して行われるようになり、労働力が売り買いされるようになって、共同体の外の原理が共同体を飲み込んでいった(包摂)(p.60)。
マルクスは、生産の目的が商品を売ることによる貨幣の獲得になること(形式的包摂)と、生産過程の全体が資本によって組織化されること(実質的包摂)を論じた。さらに著者は、人間の思考や感性までもが資本によって包摂されると論じる(p.89-90)。
マルクスは、労働力と土地が商品化されたときに、その社会は資本制社会になったとみなした。生産手段を持たないため労働力を売るしか生活手段がなく、身分的束縛がない自由な労働者が存在し、土地の売買が自由化されることで資本主義が成り立つ(p.95-96)。
労働によって形成される価値が労働力の価値よりも大きいときに、剰余価値が生産される。デヴィッド・リカードは、労働者の賃金が労働者が生きて再生産されるのに必要な費用に落ち着くと考えた(賃金の生存費説)(p.120-122)。労働時間を長くすることによって剰余価値(絶対的剰余価値)は増えるが、社会全体で労働者を確保するために、法による労働者の救済措置がとられるため、限界がある。同じ生産をより短時間で行い、生産性を上げることによって剰余価値(相対的剰余価値)を増やすことができ、これが資本主義以降に追及されてきた(p.133-138)。
フォードは20世紀後半、労働者を絞り上げるだけの対象ではなく、比較的高い賃金を払うことによって消費者に変えようとした(フォーディズム)。この動きの背景には、資本主義vs.社会主義のイデオロギー対立の時代の中で、平等と福祉を喧伝する社会主義を前にして、資本主義体制も階級格差を緩和しなければならない動機があった。また、戦前の帝国主義政策の背景に、国内の労働大衆の購買力が小さく、市場を国外に求めていたことがあったため、労働者階級を富裕化して中流階級化することが課題だった(p.146-149)。
生産性の向上とは、労働の価値低下を意味する。資本はひたすらに増えていく運動であり、そのために生産力の向上が要請される。人々の物質的に豊かになったのは、その副次的効果に過ぎない(p.168)。
イギリスにおける囲い込みは、15世紀末から16世紀にかけて毛織物産業が発展して羊毛の需要が高まった第一次と、18世紀後半から19世紀初頭にかけて農業の資本主義化が進行した第二次がある。このプロセスは、大土地所有者やブルジョワジー、資本家が政治に圧力をかけて囲い込みを可能にする法律を作らせることによって行われた(p.183-184)。
日本では、明治政府の廃藩置県によって領主が廃止され、土地売買が解禁された。1873年の地租改正によって、地価に応じて税金が決められたため、地租を納められず土地を譲り渡す農民が続出した。1876(明治9)年の秩禄廃止によって特権階級を失った武士が反乱を起こし、その最大の西南戦争では明治政府が不換紙幣を乱発したため、インフレーションが起きた。大蔵卿の松方正義は、増税と歳出抑制を組み合わせた緊縮財政を行ったためにデフレが進行した。生糸や米などの農産物の価格も下落したため、農民は土地を売って自作農から小作農へ転落し、土地は地主に集中して資本家となった。これが日本における本源的蓄積の時代となった(p.189-194)。1929年の世界大恐慌によって、農村における現金収入を支えていた養蚕業が崩壊したため、農村の過剰人口を解消するために起こしたのが満州事変だった(p.196)。現代においても、脱正規化やアウトソーシング、外国人労働者の受け入れ拡大の形で労働価値のダンピングが行われている(p.207)。
戦争は、土地を更地にして開発することで有効需要を生み出す特効薬になる。アメリカには、第二次世界大戦によって恐慌を脱し、世界経済を支配する大国になれたという成功体験がある。イラク戦争では、既存の権力を消滅させ、企業が自由に活動できる空間をつくり出そうとした(ナオミ・クライン「ショック・ドクトリン」)(p.217-218)。
Posted by ブクログ
ー資本主義とは。
富は資本主義以外の社会でも存在するが、その富が商品という形で発生するのが資本主義の特徴。商品は共同体間の交換。後腐れのない等価交換。
労働に関しても商品として扱われるようになっているのが近代。もともと労働ってのは共同体的な作業(富の生産作業)だったが、それが共同体外の活動(=商品の生産であり、労働自体も商品)になった。
労働の過程すらも資本に取り込まれた状態のことを実質的包摂と言ってる。(農業やってるときに買い取りをしてもらうとかは別に農業のアウトプットの仕方は固定されてない。労働者にやり方は任せてるときは包摂は低いということか。生産性を高めるということは自動化であって、機械化。機械化は生産の過程に対しての意味なので、実質的包摂度の上昇につながる。資本家からのアウトプットの仕方を固定されていない状態(形式的な包摂)から生産性向上をするにつれて、包摂度を上げていくほかなくなる。そうすると最終的に感性すらも包摂された人が生まれてくる。それがネオリベ。資本のために働く人であって商品の性質を全肯定する存在。筆者はネオリベを資本家の階級からの階級闘争と言っている。資本家にとってうまみのある感性なのだろうし、なんとなくそういう感性の持ち主は現代においても結構いるような気がする。
ただ、その論理だけでは成り立たなくなっているのが現状だと思う。
この論理だけではエッセンシャルワーカーや教育者など社会にとって重要だが、稼げないところにお金が落ちなくなるため。それを政府が支えるということだろうけど。
難しいのは確かに包摂度は上がっていくが機械化や自動化を実現できると世界が変わって見えるし、成し遂げた喜びというのももちろんある。また生産性向上によって商品の総量は間違いなく増えてる。なので労働者にとっても包摂度が上がっていくことが全否定されるべきでもないとも思う。
ー労働はなくならない。
そういう包摂度が上がっていく資本の運動をマルクスはM-C-M'という式で表した。つまり「お金(money)で商品(Commodity)を買う。その商品をM'で売ることで資本が増える」とした。M'はもともとのMから幾分か利益がある状態(M'=M+ΔM)としている。そのΔMは剰余価値と呼ばれ、例えばそれは空間的な差異を理由に価値が発生している場合、グローバル経済に紐づくし、時間的差異をもとに金融は成り立つ。またマルクスはイノベーションにおいても時間的差異による価値だとしている。画期的な発明があったとして結局真似されてコモディティ化すると発明当初の価値はなくなる。それは値段が下がるという意味で買い手からするといいことだが、売り手からすればさらなる発明を行う必要が生まれるからだ。
ΔMのために労働が発生する。労働の価値がΔMとの源泉となっている。ΔMのために契約を回したり、各種調整を行って、チームビルディングして、毎日仕事をしている。イノベーションによって仕事が楽になればとか、もっと効率的に仕事をしてほしいとか考えていたが、この論理である限り、いつまでたってもそこに終わりはなくて、価値の総量は確かに増えるかもだが、労働はなくならない。
ーじゃあどうするか。
最近では、従来の単純労働からの解放されてイノベーション創出のために柔軟な発想や自走ができる人が好まれるようになった。それは時間的な差異(イノベーション)による剰余獲得のため。従業員のためというより資本の論理がそこにあるだけ。単純労働で作れるもので売れるものが少なくなったから。
ライシュ・ロバートなどはそういった状態を擁護しているようだが、筆者はこの状態も処方箋にはなりえなかったとしている。まあ実際今むしろ格差は拡大してるように見えるし、そうなんだろう。
またもともとは土地が奪われたことによる労働力の発生を見たことを踏まえ土地(生産手段)の国有化を目指した社会主義も結局は上手くいかなかった。
そういった種々の主義の立ち退き後、まだ打開策がないという状態。
そこでパシュカーニスというロシアのマルクス主義者の言葉を引用し、等価交換の破棄こそが解決策となりえるのではないかとしている。労働力の価値は労働力の再生産に必要な生活手段と等価とされるが、その必要の度合いを増やす、つまりいいものを食うということだと。それはスキルがないからこの給料しかでない、もっといい暮らしをするにはスキルを上げる必要があるという論理ではなくて、人間の本来の価値を信じること。そこから階級闘争が始まるという結論。
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『資本論』とは何かというより、なぜ現代社会で『資本論』に触れるべきなのか、ということを考えさせてくれる一冊。内容も『資本論』そのものについて触れている部分よりも、現代社会を『資本論』の視点から捉えてリフレーミングして解説している部分が多い。
特に本書の「包摂」に関する記述には頷かされたし、しかもそれが殆ど不可逆的なものだという絶望感のようなものも感じた。一方で、以前テレビで見た「ポツンと一軒家」や「人生の楽園」に出てくる人達を思い出した。日本の少なくない場所にああして自分なりの感性を持ち、自分なりの生き方をしている人達がいるということは、社会がまだ完全には資本主義に包摂されていないことの証だとも思う。資本主義に代わる新しい何かを見つけ出すことは難しくても、資本主義の負の側面に呑まれないように個人レベルで努力し、資本主義と上手く付き合っていきたい。
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生き延びたかったら読んだ方がいい。マルクスといえば共産主義でとんでもないことになると考えてるそこの若いあなた!本当のコミュニズムを知らないんだよ。金に取り憑かれたジジイたち、いや資本主義に、そう教育されただけなんだ。まだ可能性があるから…
Posted by ブクログ
マルクスの資本論は原典を読む能力も気力も無いので、解説本や何かの引用ばかり目にしている。佐藤優や斎藤幸平など。読む度に新たな発見もあり味わい深い。今回も、考えさせられた。
一つは「包摂」という問題。本書では「阻害」について解説はないが、いずれも資本に組み込まれ、生産性の奴隷化を純粋化した境地だ。人間は、自らを道具として扱い、それ故に、労働に感情を持ち込めず、他者だけでなく、自分自身とも利害関係を意識する事となり、脱せない自分に無力感を抱えた存在となる。
ー たぶん今「包摂」は、生産の過程、労働の過程を呑み込むだけでなく、人間の魂、全存在の包摂へと向かっているということです。クランスの哲学者ベルナール・スティグレールは著書「象徴の貧困」において、テクノロジーの進歩による「個」の喪失へ警鐘を鳴らしました。肉体を資本によって包摂されるうちに、やがて資本主義の価値観を内面化したような人間が出てくる。すなわち、感性が資本によって包摂されてしまうのだと。
ー 新自由主義とはいまや、特定の傾向を持った政治経済的政策であるというより、トータルな世界観を与えるもの、すなわち一つの文明になりつつある。新自由主義、ネオリベラリズムの価値観とは、「人は資本にとって役に立つスキルや力を身につけて、はじめて価値が出てくる」という考え方です。人間のベーシックな価値、存在しているだけで持っている価値や必ずしもカネにならない価値というものをまったく認めない。だから、人間を資本に奉仕する道具としか見ていない。
ー 資本の側は新自由主義の価値観に立って、「何もスキルがなくて、他の人と違いがないんじゃ、貸金を引き下げられて当たり前でしょ。もっと頑張らなきゃ」と言ってきます。それを聞いて「そうか。そうだよな」と納得してしまう人は、ネオリベラリズムの価値観に支配されています。
ー 人間は資本に奉仕する存在ではない。それは話が逆なはずだ。けれども多くの人がその倒錯した価値観に納得してしまう。それはすなわち資本による労働者の魂の「包摂」が広がっている。
本書で考えさせられたのは、今、改めて資本家階級が労働者階級からの搾取に遠慮がなくなっているという事、それと、しかし搾取一方では資本家にも不利益を被るため、その舵取りが重要だという事。イノベーションによる剰余価値は知れていて、結局は安い労働力が効く。階級闘争を抑え込まれた労働者は、弱体化しつつある。
しかし、そうなると有効需要が不足する。そのため、消費者でもあるボリュームゾーン、大衆層の労働対価をケチると、資本家の身入りも減るし、社会全体のサービスレベルも低下する。なんだならば結局は、持ちつ持たれつの良いベクトルではないか、と思うが、これは資本家同士が手繋ぎで応じた場合だ。抜け駆けの搾取を禁じるために、雇用の流動性、法律による労働者保護が重要だ。
Posted by ブクログ
本書では『資本論』における重要な概念を著者が丁寧に解説して、資本主義(資本制)の構造をとらえていくが、なかでも重要な概念が「商品」である。商品は近代以前から存在する「富」と異なり、資本主義社会以降に誕生したものである。マルクスは商品がある共同体の内部ではなく、自分たちが属する共同体とは別の共同体と接触して、しかも共同体の等価交換が成立することによって誕生したと考えた。ゆえに富=商品とみなした古典派経済学をマルクスは批判した。
また本書では「包摂」という概念を説明しており、この包摂という現象を知ることで、資本主義社会をやめることが困難で、代わりとなる社会システムが見つからないのかがわかる。つまり資本主義社会はそれまで商品として扱われなかったもの(たとえば水や教育などといった社会インフラ)を商品化してしまい、しかも広範囲に押し進めるので限りがない。
さらに資本主義が誕生したきっかけを見ていくが、それによると生産手段の所有が大きなポイントである。言い換えると資本家が生産手段を持っていたのに対して、労働者は持っていなかった。しかしそれは歴史の必然ではなく、歴史の偶然性つまり人類の歴史がたまたまたどってきた一つの特殊な社会のあり方なのである。
最後に今もなお影響力がある新自由主義社会の脱却に触れており、著者によると人間が元から持つ感性に再度注目すべきではないかという。「ファスト」なものとは真逆のものに触れることが今後ますます重要であろう。
Posted by ブクログ
【身近に考えるマルクスと資本主義】
いろんな技術が発達して、より便利な社会になっているはずなのに、なぜ私たちはより忙しくなっているのか。
資本主義の本質を知ることを通して、このような現象を理解することを試みている本。
例えば、資本制社会が、生産性を不断に高めないといけないしくみであること。
資本主義をマルクス的に定義するとしたら、物質の流れが商品を介して行われる社会らしい。
そして、資本は価値を増やし続けて初めて成り立つものだから、限りなく商品の余剰価値を増やすために、効率化、労働力の低価値化、などが進められるとのこと。
労働力に焦点を当てて考えると、
資本家は、労働力が再生産される賃金・待遇を与え続けるーつまり、死なない程度、そして資本家化しない程度の、ということ。
そして新自由主義の広まった外題社会では、意識から資本に飲み込まれているという。つまり、資本のために生産性を上げているのに自分のためと錯覚してしまうこと。
現代に照らして考えると、
・労働力不足というけれと、安い賃金・手薄い待遇で働く労働力が不足しているだけであり、それは資本家側が適切な程度の労働対価を与えていないことに問題があるのかもしれない。
・リスキリングとか、アンラーニングとか、いろいろと自分の労働市場価値を高める言葉・コンセプトが流行ったりするけれど、結局自分のためではなくて、今の資本市場に資するように励んでいるだけの部分もあるということ。経済価値化されないことを無駄としてしまたら、まったくその通りだと思った。
あらためて、
最後の結論部分でも、感性の再建、という、なかなか難しい解を提示しているけれど、
自分は何に感動するのか、
経済価値抜きにして自分の感性を大事にすることが、私たち一人ひとりができる資本主義への抵抗だと思った。
Posted by ブクログ
著者の「今を生きる思想 マルクス 生を呑み込む資本主義 」で読んで、面白かったので、こちらも読んでみましたが、基本的には、同じ感じなのかな?
こちらの方が、ページ数が多い分、説明が丁寧だし、現代の日本とどう関係するかという話しもあるので、分かりやすい。
とくに「本源的蓄積」のところは、面白かった。そうか、歴史的にそういうことがあるから、資本主義がスタートするわけだ。
Posted by ブクログ
資本主義ってそもそもなんだ?今どういう問題を抱えているんだ?ということが分かってよかった
特に資本主義が人間の魂までをも包摂しつつあるというのは納得。
ここから私の考えですが、資本主義による魂の包摂に個人のレベルで対抗するには
•まず資本主義が我々の幸せのためにあるものではないと認識すること。
•その上で効率をもとめすぎることや、誰かと競争して勝つ、人と比べて優劣をつけると言った、いわゆる資本主義的な価値観から脱出すること。
•効率化によって切り落とされた手間暇と、それに伴う感情や愛着を取り戻すこと。(例えば料理をする、サブスクばかりでなくレコードを聞いてみる、コーヒーを入れる)
=効率を求めれば「無駄」に見えてしまうものこそが豊かさであり、それを愛すること。
•趣味を持ち、自らの心を涵養すること。
•利害や損得を超えた友人やパートナーと出会い、助け合うこと。
などが大事なのかなぁと思います。
Posted by ブクログ
2020年4月刊。
資本論からの紹介は冒頭と末尾くらいで中間部は関連したたとえ話など。勉強会での議論が元だというが、それらしくわかりやすい話にはなっている。
Posted by ブクログ
資本主義の度合いが高まることは、共同体的世界の領域が狭まっていくこと
共同体の外の権利が共同体を包み込み内部に浸透していくプロセス=包摂
ネオリベラリズムでは、相対的剰余価値の追求がより加速した。
人間を資本に奉仕する道具としか見ていない。という見方。
資本主義=物質代謝の大半が商品によって媒介される。
資本主義ではこの大半が際限なく高まってゆく性格を持つ。
資本主義では原則が等価交換。
労働の対価が労働力の所持者の維持のために必要な生活手段の価値。
→賃金の生存費説
だが、デフレマインドで必要の水準が下がっている。
供給が増えても消費者=労働者が貧しいと買い手がいないため、国外にそれを求めることとなる。
→帝国主義、世界大戦
Posted by ブクログ
情報化社会を耳にして久しくなるが、そこに疑念を抱くどころか加速する現代、ファスト〇〇がその極地となるのか、もはや文化を "愉しむ" のではなく情報化して "知る" で満足してはいないか。"知らない" は恥ずかしいから "知る"。そこで完結する。思考の放棄に気付かない悲劇はこの国の教育に起因している。受験という "知識の詰め込み" は考えること、数多の解答を良しとせず、"これはこうだ" という方程式でしか教えない。だから学ぶ側は "知る" を優先する。知らないは不都合になる、疎外されたくない、と。そんな環境で育つと格差社会に打ちひしがれても、恵まれる手段を "知らなかった" 自己責任で諦める。それは間違っている。もちろん本書で "知る" こともあるが、大切なのは "思考" であると筆者は訴える。この社会に包摂されたままでいいのか。
Posted by ブクログ
最初から2/3ほどは資本論で定義された重要な概念についての解説、最後の1/3で資本論の視点からこれまでの歴史を見直して、現代社会を分析する
最初はとにかく読みづらい 書かれている日本語も分かりづらい 新出の概念は別の資料にあたって調べないと理解できない
少し進んでは戻って読み直して、やっと理解できた気持ちになれる(本当に理解できているかどうかはおぼつかない)
それでも、頑張って読んだ価値はあったと思う
物事を見る視点が一つ増えた気がする
バブル期の経済活動が異常だった、という意識があり、意識的無意識的に節約節制を心がけていたが、それが新自由主義的な文化を前提とした意識活動だったという視点は新鮮で説得力を感じる
資本論の翻訳そのものを読む気にはまだまだなれないが、別の資本論の入門書、解説書は読んでみようかな
Posted by ブクログ
『資本論』で明らかにされている資本主義の分析を、現代社会に照らし合わせて、さまざまな社会的な矛盾などがどこから生じてくるのかということを明らかにしている。『資本論』からは、まだまだ汲み取るべきところが多々あるのだ。
Posted by ブクログ
新自由主義がもらたす、人間の骨抜き化。
以下メモ
・剰余価値の生産方法の変革(=新自由主義/ネオリベラリズム)で、包摂の度合いが高まり魂の包摂も広がる
・新自由主義改革によって資本家は肥え太り、労働者は戦後獲得してきた権利(終身雇用、企業における共同体主義「社員は家族だ!」)を次々と失った
・新自由主義は、人間の魂を、感性、センスを変えた。←新自由主義自体が文化になっているから。
❌「わたしはスキルがないから価値が低いです」
→魂までもが資本に包摂された状態
・人間の基礎価値を信じることが大切。
「私たちはもっと贅沢(=豊かさ)を享受していいのだ」
Posted by ブクログ
【感想】
『資本論』は、資本主義経済を批判的に考察したマルクスの著作である。
資本論が刊行されてから150年近く経つ今、当時よりも一層ラディカルに資本主義が進行している。もちろん弊害も多発しており、そうした「現代社会の暗部」にフォーカスを当てながら、マルクスの論を再考していくのが本書の目的だ。身近な例を持ち出しながら資本主義の欠点を挙げ、その問題は150年以上も前にマルクスによって記されていたことを振り返りつつ、今後の人間の在り方を洞察していく。『資本論』の解説本というよりは、現代社会に潜んでいる資本主義の欠点を具体的にピックアップし、それに資本論はどういう答えを出していたかを紹介する「教本」という位置づけが正確かもしれない。
この本の核となる部分は「どうして資本主義は瓦解するのか」いう問題であるが、マルクスは「労働時間のありかた」にその理由を見出し、2つの「剰余時間」を定義している。
①絶対的剰余価値:労働時間の延長から得られる剰余価値
②相対的剰余価値:必要労働時間の削減から得られる剰余価値、生産力の増大から得られる製余価値(働く時間を伸ばさない代わりに生産性の上昇によって生み出す価値)
資本主義の大きな特徴は、市場競争と技術革新により生産性が上昇し、身の回りの物が一層廉価で便利になっていくことである。
しかし、技術革新は人を幸せにしない。なぜかと言えば、技術革新は特別剰余価値を増幅するためのプロセスにすぎないからだ。
特別剰余価値とは、高まった生産力で商品を廉売して得られる利益のことであり、いずれ同業者が模倣していくことで、ゼロに限りなく近づいていく。特別剰余価値が低下していくと、資本家は①と②の追求によって何とか利益を生み出そうとする。歴史を紐解くと、産業革命から近代までの手段は①の追求であった。しかし、違法労働問題や人口数の減少から、物量による効率は次第に求められなくなる。現代以降はもっぱら②の追求がメインであり、イノベーションにさらなるイノベーションを重ねて利益を得ようとしてきた。
しかし、これらはどちらも破滅に向かうステップである。①は言わずもがな、②もやがて人に不幸をもたらしていく。「生産性が上がった」とは、その生産に従事する労働者から見れば、労働の価値が低下したことにほかならないからだ。
この洞察は直感的に納得できるものだと思う。現在の社会では、マネジメントスキル、PCスキル、ライティングスキル、英語力など、一昔前までは必要とされていなかった様々なスキルが求められている。労働者が自らの価値を高める、と言えば聞こえはいいが、スキルが普遍的になればなるほど、労働に占める希少性が安売りされていく。昔は1時間かかっていた仕事が10分でできるようになっても、絶対的な給料が6倍になっていなければ、労働価値のデフレが発生しているのだ。
結局のところ、イノベーションは人を便利にするが幸せにはしない。
ではイノベーションの追求の代わりに人間にできることは何かというと、筆者は、かなり面白い結論に至っている。「食にこだわる」ことである。
資本論を話しておきながら「ごはん」とはどういうことだ、と思うかもしれないが、これがなかなか真っ当な理由である。人が感じる「最低限度の生活」を譲らない、という方針だ。
市場の取引は等価交換によって成り立っているが、「価」の基準は人によって異なる。毎日ファストフードでOKという人もいれば、3日に1回寿司を食べねばやっていけない人もいるだろう。「価」の範囲は下から上まで幅が出るが、イノベーションによる特別剰余価値の減少を甘んじて受け入れ続ければ、次第に労働者の価値は下がっていく。
必要性の水準がどんどん低くなって、やがて「そんなに贅沢しなくても、毎日カロリーメイトでいいじゃないか」と言われたとき、「それはいやだ」と言えるかどうか。これが階級闘争の原点になるのだ。
食とは、人間に根差した基礎的な文化である。人間を根本から規定する土台である。そして、人間の基礎価値を信じることが、資本制社会への行き過ぎた迎合を止めるトリガーになるのである。
筆者「『私はスキルがないから、価値が低いです』と自分から言ってしまったら、もうおしまいです。それはネオリベラリズムの価値観に侵され、魂までもが資本に包摂された状態です。(略)それに立ち向かうには、人間の基礎価値を信じることです。『私たちはもっと賛沢を享受していいのだ』と確信することです。賛沢を享受する主体になる。つまり豊かさを得る。私たちは本当は、誰もがその資格を持っているのです」
私はこの一節を読んでいるとき、老後2000万円問題を思い出してしまった。今までは退職金+年金によって、老後の人生を不自由なく楽しむことができたのに、時代が流れるにつれ受給額がやせ細り、最終的には「年金制度なんて頼らずに、自分で2000万円貯蓄していないとゲームオーバーです」と言われるようになった。「これっぽっちの贅沢」がいつの間にか「大きな贅沢」と見なされて、譲れない部分が次々と侵されていった例だ。人々は「それはいやだ」という声を挙げるも、もはや手遅れになりつつある。
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本書は真っ赤な表紙に小さなタイトルという装丁で、そのタイトルも「武器としての『資本論』」であり、何だか難解そうな印象を受ける。しかし、手に取ってみるとこれがかなり分かりやすく、大学の講義を受けているみたいでスルスルと読めてしまった。剰余価値のほかにも、「物質代謝」や「包摂」といった概念によって、現代社会に通ずる問題を非常に明瞭にあぶり出している。是非オススメの一冊である。
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【まとめ】
1 資本制社会のありかた
マルクスが考える資本制社会
→「物質代謝の大半を商品の生産・流通・消費を通じて行う社会」であり、「商品による商品の生産が行われる社会(=価値の生産が目的となる社会)」
「物質代謝」とは、ある物質を作り、それにより別の物質を使っていくサイクル。例えば石炭やガスを燃やして電気を作り、電気が工場を動かし、工場がパソコンを作り、消費者がパソコンを買うような循環のこと。言い換えれば、物がめぐりめぐるプロセスのことが「物質代謝」である。
このプロセスが、「商品による商品の生産」によって稼働する、つまり労働力という商品を使って別の商品を生産していくのが資本制社会である。そして、「大半」の範囲が際限なく拡大し続ける(昔は商品で無かったものもどんどん商品化されていく)のが、資本制社会の宿命だ。
2 商品
富と商品は違う。
お金による商品交換の原理は「無縁」。取引関係の中では、相手と関係を持つ必要がない。後腐れなく、関係はその場で切れる。一方、共同体の中では無縁の商品交換はできない。贈与、手伝い、育児など、共同体における価値取引は関係性とは切り離せない。
しかし、資本制社会が発達するにつれ、共同体の外の原理が共同体を飲み込んでいく。これをマルクスは「包摂」と呼んだ。
3 包摂
資本制社会は余剰価値を生産し、生産性を不断に高め続けなければならない。やり方を変革していけば行くほど、資本による包摂の度合いも高まっていく。生産工程が細分化され、労働者一人ひとりは決まりきった作業をやらされるようになる。
やがて資本制社会は、生産の過程、労働の過程を飲み込むだけでなく、人間の魂、全存在への包摂へと向かうようになる。人間存在の全体、思考や感性までもが資本のもとへと包摂されるようになるのだ。
4 資本の増大と余剰価値
資本の目的はとにかく増大することだ。「増えることによって、人々が豊かになる」ことは資本の目的ではない。増えることそのものが資本の目的。
資本が増えるとは、「価値増殖していく」ことである。
機械化が進めば人は働かなくて良くなる、と言われ続けていた時代から何年経とうとも、人の仕事は楽にならず、より大変になっている。
商品には「使用価値(質)」と「交換価値(量)」の二重性がある。使用価値とはそのままの意味で、使用に値する自然的属性のこと。交換価値とは、その商品に投じられた人間労働を通して、その価値を表示できるという「抽象的人間労働の結晶」のことである。
労働力についても同じであり、労働力は「具体的有用労働(質)」と「抽象的人間労働(量)」という二重性を帯びている。
資本制社会において商品は全て等価交換される。では、なぜ労働力によって余剰価値が生産できるのか?
それは、「労働によって形成される価値が、労働力の価値よりも大きいから」である。
「労働力の価値」を、マルクスは「労働力の再生産に必要な労働時間によって規定されている」「労働力の所持者の維持のために必要な生活手段の価値である」と規定している。労働者が搾取されすぎて死んでしまうほど低くはなく、かといって金持ちになって働かなくてすむようになるほど高くもない水準ぐらいが「労働力の価値」だ。もちろん、人によってこの水準は変わる。
5 余剰価値
マルクスは、労働時間を「必要労働時間」と「剰余労働時間」に分けた。「必要労働時間」とは、「賃金に相当するだけの生産を上げるのに必要とされる時間」であり、言い換えれば自分のために働く時間である。一方、働かされているのに支払いを受けられない労働時間が「剰余労働時間」である。
マルクスいわく、「奴隷労働にあっては、奴隷が彼自身の生活手段の価値を補填するにすぎない労働部分、したがって、彼が事実上自分自身のために労働する部分さえも、彼の主人のための労働として現れる」「賃金労働にあっては、逆に不払労働さえも、支払労働として現れる」。
賃金労働は奴隷労働とは真逆で、資本家のための労働の部分まで、まるで労働者自身のための労働であるかのごとく錯覚されるのだ。
マルクスは余剰価値の生産方法を2つに分けている。
①絶対的剰余価値:労働時間の延長から得られる剰余価値
②相対的剰余価値:必要労働時間の削減から得られる剰余価値、生産力の増大から得られる製余価値(働く時間を伸ばさない代わりに生産性の上昇によって生み出す価値)
技術革新が人を幸せにしない理由は、技術革新は特別剰余価値の獲得にあるからだ。特別剰余価値とは、高まった生産力で商品を廉売して得られる利益のことであり、いずれ同業者が模倣することで、特別剰余価値はゼロに近づいていく。剰余価値を求めることこそ資本の本質であり、その運動を続けることこそが資本そのものなのである。
20世紀の終盤になって、相対的剰余価値の生産が行き詰まってしまった資本主義は、グローバル化に活路を見出す。これは労働力商品の価値の引き下げであり、絶対的剰余価値の追求への回帰である。
近代になって生産力が向上したが、生産性が上がったとは、その生産に従事する労働者から見れば、労働の価値が低下したことにほかならない。現代社会においては、それが大きな問題として人類の前に立ちふさがっている。
イノベーションによって生まれる剰余価値、すなわち資本主義の発展のキモにあたる部分は、結局、安い労働力を時間的差異と空間的差異を活用してダンピングした結果に他ならないのだ。
6 階級闘争
マルクスは「資本主義の破局的帰結をどうやって避けるのか?」という疑問に対して、「階級闘争によって」と答えている。
マルクス「資本主義の発展に伴い、独占資本が巨大化し、階級分化が極限化する。それにより窮乏、抑圧、隷従、堕落、搾取が亢進し、ある一点でそれが限界を迎える」
パシュカーニス「等価交換の廃棄こそコミュニズムが進むべき道である」
人によって必要最低限の暮らしについての基準が異なるように、等価交換の「価」は、実際には人によって上下する。
生活レベルの低下に耐えられるのか、それとも耐えられないのか。実はそこに階級闘争の原点があるのではないか。「これ以上は耐えられない」という自分なりの限界を設けて、それ以下に「必要」を切り下げようとする圧力に対しては徹底的に闘う。そして闘争によって求める「必要」の度合を上げていく。それはすなわち、自分たちの価値、等価交換される価値を高めていくということである。これが階級闘争の原点だ。
筆者「『私はスキルがないから、価値が低いです』と自分から言ってしまったら、もうおしまいです。それはネオリベラリズムの価値観に侵され、魂までもが資本に包摂された状態です。(略)それに立ち向かうには、人間の基礎価値を信じることです。『私たちはもっと賛沢を享受していいのだ』と確信することです。賛沢を享受する主体になる。つまり豊かさを得る。私たちは本当は、誰もがその資格を持っているのです」
新自由主義は資本主義文化の最新段階であり、その特徴は、人間の思考・感性に至るまでの全存在を、資本のもとへ実質的包摂することにある。したがって、そこから我が身を引き剥がし、ベーシックな感性――例えばうまいものを食べ、量ではなく質の点で豊かさを享受するなど――の部分を大切にする必要があるのだ。
Posted by ブクログ
オーディオブックで拝聴。
20世紀で終わったと思ってたマルクス主義。だが資本主義の仕組みを紐解いたマルクスの資本論は、新自由主義隆盛の現代であっても、色褪せない部分があるというのはよくわかった。
難解な資本論を現代のグローバリズムの課題と照らし合わせながらわかりやすく説明しているのがこの本の凄いところだと思う。
とはいえ筆者も資本論のすべてをこの本で説明できているわけではなく、意図的にピックアップして取り入れているとも言っているので、これを読んで資本論をわかった気になってはいけないのだろう。
いや、それにしても資本主義(資本制)って本当に複雑で制御不能な代物なんだなと痛感。
ただ'60年代の左翼運動のように「資本主義をぶち壊す」のではなく、その中で生き抜くための思考のthe other OSとして「資本論的」なアイデアを自分の中に持っておくのは有効なのではないかと思う。
Posted by ブクログ
武器としての「資本論」。 昨年出版された際に丸善で平積みされている際の真っ赤なカバーと強いメッセージ性を感じられるタイトルですごく気になっていた本。 気になった瞬間には、ちょっと難しそうだな、と自分の弱さが出てしまって手が伸びなかったのですが、今年のゴールデンウィークまとめ買いの際に改めて購入した本。 難しかったけれど、読んでよかった。
マルクス「資本論」という難しい書籍を、著者独自の観点で解説してくれている本。 第1講 「本書はどんな『資本論』入門なのか」 の部分にわかりやすくまとめられているので、いきなりですが抜粋引用です。
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私なりの『資本論』の読み方、「自分がマルクスから何を学んできたのか」についてまとめてみたいという気持ちがあって、機会を作ってもらうことになりました。
(中略)「『資本論』はこういうふうに書かれていて、こういう議論がされています」と懇切丁寧に、順番どおりに説明をしていく誠実な入門書ということであれば、もちろんいろいろあります。
(中略)ただ「これを読んで、『資本論』を読む気がするかな?という疑問があるのですね。
(中略)そこに私がやるべきことがあるのではないか、と思い至ったのです。 本書で私が「ここが『資本論』のキモです」という話をして、それをきっかけに読者のみなさんにぜひ『資本論』を読んでいただきたい。
(中略)マルクスが創造した概念を通じて見ると、今起こっている現象の本質が『資本論』の中に鮮やかに描かれていることがわかるし、逆に『資本論』から現在を見ると、現実の見え方がガラっと変わってきます。
(中略)ですから、「こんな世の中をどうやって生き延びていったらいいのか」という知恵を『資本論』の中に探ってゆく。 マルクスをきちんと読めば、そのヒントが得られるのだということを改めて世の中に訴えていきたい。そう思っています。
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もうここだけ読んだだけで、筆者の熱量が伝わってきますよね。 またこの営みは、こうして読書レビュを継続している自分の営みとも(レベルは違い過ぎますが)なんとなく似ています。 自分が読んだ本を自分なりに咀嚼し、人に読んでもらいたくて発信する。
ひと様が、これで読んだ気になってくれた/省時間化の観点でひと様のためになれたのならうれしいし、共感してくれて当該本の読者になってくれるのなら、それもまたうれしい。 自分のわずかな努力でも、なんらかひと様に影響を与えられ、結果的に世界が良くなる方向へ寄与できるのなら、うれしい。(だいぶ遠謀)
ブレイディみかこさんが課題提起された本をたくさん読んだり、格差社会の本をいくつか読んできたりしていたので、「新自由主義(ネオリベ)」が巻き起こしてきた最近の現状について「それってなんだかおかしくないか? 目を覚ませ」という課題認識にはなんとなくは理解できるぐらいまでは学んできたつもり。
そういう状況で本書を読めたので、やはり、改めて勉強になった、そう思った本。
以下、抜粋引用となります。(あくまで自分が気になった部分の抜粋であること、ご理解ください)
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P55 商品は、交換から、しかも共同体の外での交換からのみ生まれるのだということ、これはマルクスの決定的な発見だったと言えます。
P66 フランスの哲学者ベルナール・スティグレールは著書『象徴の貧困』において、テクノロジーの進歩による「個」の喪失へ警鐘を鳴らしました。肉体を資本によって包摂されるうちに、やがて資本主義の価値観を内面化したような人間が出てくる。すなわち感性が資本によって包摂されてしまうのだ、と。
(中略)人間の感性までもが資本に包摂されてしまう事態をもたらしたのは、とりあえずは「新自由主義」(ネオリベラリズムもしくはネオリベ)である、と言えるでしょう。
P69 日本でも「一億総中流」と言われ、「もう階級なんて言葉は古くなった。いまの日本にそんなものはない」と言われていました。ところが1980年代あたりからその動きが反対側にターンし、90年代以降、格差の拡大が露骨な流れになっていきます。無階級社会になりつつあった日本が、新自由主義化の進行と同時に再び階級社会化していったのです。この構図はもちろん、他の先進資本主義国にも当てはまります。
P71 だが、新自由主義が変えたのは、社会の仕組みだけではなかった。新自由主義は人間の魂を、あるいは感性、センスを変えてしまったのであり、ひょっとするとこのことの方が社会的制度の変化よりも重要なことだったのではないか、と私は感じています。 制度のネオリベ化が人間をネオリベ化し、ネオリベ化した人間が制度のネオリベ化をますます推進し、受け入れるようになる、という循環です。
P89 マルクスが『資本論』で論じたのは、生産の目的が商品を売ることによる貨幣の獲得になること(形式的包摂)、そしてさらに、生産過程の全体が資本によって組織化されること(実質的包摂)でした。おそらくは「包摂」の概念の射程は、もっと広大なのです。 それは、「包摂」の深化に終わりは設けられないからです。人間存在の全体、思考や感性までもが資本のもとへと包摂されるようになる。
P135 19世紀の工場法を見れば、今回の「働き方改革」のような体制側による労働者の救済措置は今に始まったものではなく、昔からあったことがわかります。それは資本主義のある種の必然であって、あまりに搾取しすぎると、搾取する相手がいなくなってしまって、資本主義は成り立たなくなるのだということです。
P228 東京の都心部全般に言えることですが、とりわけ銀座などは資本主義の極致の街です。資本主義化が進み過ぎて、再生産ができなくなっている。
(中略)そういう街から子供が駆け回る風景が消えるのは、当然のことでしょう。東京都民はそのさみしさをかみしめるべきなのです。自分たちでは自律的に再生産できない、一見華やかに見えて実は破壊的な街、よそから人を盗んで栄えている街なのだということ。その冷厳なる事実を、子どもの歓声が聞こえないという現実によって日々確かめるべきなのです。
P257 先ほど見たように、『資本論』は「資本主義の発展に伴い、独占資本が巨大化し、階級分化が極限化する、それにより窮乏、抑圧、隷従、堕落、搾取が亢進し、ある一点でそれが限界を迎える」と述べています。
さながら今の日本を見ているような表現ですが、「本当にひどい世の中になり、人々がいよいよ我慢ならなくなって、立ち上がり、革命を起こすのだ」ということです。しかし実際には世界の多くの国では、そう簡単に革命には至らない。
P277 資本の側は、「そんな贅沢しなくていいじゃないか」とささやいてきます。「毎日カロリーメイトだけ食べたって、別に十分生きていけるよ」というささやきは、いくらでも聞こえてくるし、確かにそれで生きていけないことはない。
そのとき「それはいやだ」と言えるかどうか。 そこが階級闘争の原点になる。
P279 人間という存在にそもそもどのくらいの価値を認めているのか。そこが労働力の価値の最初のラインなのです。そのとき、「私はスキルがないから、価値が低いです」と自分から言ってしまったら、もうおしまいです。それはネオリベラリズムの価値観に浸され、魂までもが資本に包摂された状態です。
(中略)それに立ち向かうには、人間の基礎価値を信じることです。「私たちはもっと贅沢を享受していいのだ」と確信することです。贅沢を享受する主体になる。つまり豊かさを得る。私たちは本当は、誰もがその資格を持っているのです。しかし、ネオリベラリズムによって包摂され、それに慣らされている主体は、そのことを忘れてしまう。
(中略)この意思を抹殺したことこそ、新自由主義の最も重大な帰結だと私は思います。
それゆえ、意思よりももっと基礎的な感性に遡る必要がある。 どうしたらもう一度、人間の尊厳を取り戻すための闘争ができる主体を再建できるのか。 そのためには、ベーシックな感性の部分からもう一度始めなければならない。
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Posted by ブクログ
つまるとこる、階級闘争、といってもいわゆる共産主義で言うところの革命、ではないように思うが、それによって資本制=新自由主義から自らを引き剥がさない限り、いつまで経っても、結局のところ死ぬまで、資本家に搾取され続ける人生で終わってしまうよということを言っているのかな。
たしかに、もう世界は、アメリカと中国とこの二国が「戦争」をやってどちらがパイを増やすのか、あれっ中国って共産主義ではなかったのか?というのはもう今更愚問なのかもしれないが、結局どちらが勝っても大国が、大資本家が、我々小市民をこれでもかこれでもかと、生産性をあげさせ続けるところに回帰していくものなのかもしれない。
早く、12億くらいの宝くじを当てるなどして、そういう意味で、コンベアーの流れから抜け出てしまいたい。しかしまあ、12億当選なんてことが既に荒唐無稽。返す返すも、幼少のみぎり、駄菓子屋で買って帰った餅菓子の当たりくじを7回続けて当ててしまって、もうおそらく一生分のくじ運を使い果たしてしまったようなのが…
いや、そんな結論に収まっていてはいけない。でも、資本論はやっぱりなかなか手を出せなさそうだなあ…
Posted by ブクログ
これはまた読むの挑戦したいなーー。シンプルに難しくて、何回も読み直したり遡ったりした。
考えさせられた文
①資本による労働者の魂の「包摂」が広がってる。新自由主義は社会の仕組みだけでなく魂やセンスも変えた。ex「何もスキル無くて他の人と違いがない、頑張らなきゃ」←人間が資本に奉仕してる
②生産性が向上=労働価値の低下
資本にとって人々の生活を豊かにすることは副次的
Posted by ブクログ
徹底的な資本主義の副作用でイギリスの食文化が崩壊したという話は笑い事じゃ済まなさそう.今後,日本や世界で合理的じゃないと烙印を押されたあらゆる文化がどんどん消滅していくんだろうな.
その手前にあるものとして貧困に喘ぎ文化を作り,残し,消費することすらできない大衆と,金で解決できる一握りの富豪.
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資本主義リアリズム
→資本主義以外の存続可能な政治・経済制度を想像すらできない意識が蔓延した状態
資本制・資本主義
物質代謝の大半を商品の生産・流通・消費を通じて行う社会
・商品は,共同体の内部では発生しない
共同体:家族,友人,恋人etc
相互扶助・相互監視・腐れ縁的関係・非匿名・滅私
共同体の外:
独立・無縁・自由・匿名・無関係の関係・
シートンの父親「20年でかかった養育費はいくらだ」→貸しの生産
経済的活動と人間的交際が渾然一体
キャッシュレス決済はお金のやり取りから匿名性を奪うもの.例:中国
・共同体の外で商品となったものは,共同体の内部でも商品化される
→共同体を呑み込む=包摂
生産様式,生活様式だけでなく価値観,感性,魂までも
・新自由主義・ネオリベラリズム
「人は資本にとって役に立つスキルや力を身につけて,初めて価値が出る」
人間の生そのものの価値やカネにならない価値は認めない.
・一昔前 デコトラ,ヤンキー>
今 デコトラ禁止 マーケティングセグメントとしての「マイルドヤンキー」
労働者階級が自立した文化の担い手からただの消費者に.
・弊害:教育の商品化
”彼ら,彼女らには,「自分で面白いことを見つけて,それを学ぼう」という考えはなくて,「どこからか面白いこと,楽しませてくれる何かが自分を目掛けて降ってきて,それが自分を楽しませてくれるのがあるべき姿だ」と思っています”
・”機械装置は剰余価値の生産のための手段である”
→AIは人間を労働から解放しない.
・使用価値・交換価値
・「差異」が儲けのもと
貿易ー>空間的差異 金融ー>時間的差異
・日給1万円の労働者が1万5千円の価値を生んだ.
5千円が剰余価値であり,労働者が搾取されている金額.
→定型労働で価値を生み出せる仕組み作り
儲けが出なくても給与を支払うといった資本家が背負うリスクへのリワードは???
→労働者への賃金は「価値への対価」ではなく「生活維持費」だからこの2つの間を
アビトラしているのが資本家ということはできそうだ.
”「資本論」を書いた当時のマルクスが見ていたのは,1日16時間くらい,限度一杯に労働者を働かせる世界でした”
・イギリスで労働者搾取を抑制する「工場法」
資本家が労働者を持続的に搾取するための仕組みに過ぎないとマルクスは喝破
体制側の労働者への救済措置という意味では「働き方改革」も同じ.
・20世紀の資本主義 フォーディズム(フォード+ism)
・市民は労働者であるが自分の商品(自動車)の消費者でもある
商品を安く作り,労働者には給料を渡す.その金でT型フォードを買ってもらう
→大衆消費社会の出現 物質的階級格差の消滅
・西と東の対立.低所得階級を救うことがイデオロギー,国家を支える
→国としても総中流化を後押し
・ポストフォーディズム・ネオリベラリズム
・大衆駆動・定型肉体労働での稼ぎに限界
・アイデアや知能が源泉→100の労働ではなく,1のアイデア
→勝者総取り
・流動性の向上
共同体の瓦解,労働力市場の解放
・寿司職人の「15年修行」縛り
生産の統制,既得権益の保護
・戦争は有効需要の特効薬
→不平等の人類史,「1984年」
・新自由主義は「金持ち階層からの階級闘争」
フォーディズムで譲った余剰価値の回収.
・不動産選び「XXX小学校区内」
→学校選びから競争.いい学校は資本力がないといけない
・西南戦争
明治維新→武士という公務員・既得権益の廃止→手切金→一部武士の反乱→西南戦争→紙幣刷りまくり→インフレ→松方デフレ 緊縮財政