【感想・ネタバレ】武器としての「資本論」のレビュー

あらすじ

なぜ「格差社会」が生まれるのか。
なぜ自己啓発書を何冊読んでも救われないのか。
資本主義を内面化した人生から脱却するための思考法がわかる。
ベストセラー『永続敗戦論』『国体論』著者によるまったく新しい「資本論」入門!

経済危機が起こるたびに「マルクスの『資本論』を読もう!」という掛け声が上がる。でもどうやって読んだらいいのか。「資本論」の入門書は数多く刊行されている。しかし「資本論」を正確に理解することと、「資本論」を現代に生かすこととは同じなのか?
本書では「資本論」の中でも今日の資本制社会を考える上で最重要の概念に着目し、それが今生きていることをどれほど鮮やかに解明するかを見ていく。

【他の「資本論」入門書との違い】
◎マルクスの「資本論」そのものの解説ではなく、「資本論」の「キモ」の部分だけを紹介。
◎「資本論」の中でも最重要な「商品」「包摂」「剰余価値」「本源的蓄積」「階級闘争」を切り口に、なぜ今のような格差社会が生まれているのか、どうすれば「乱世」を生き延びられるのか、を考える。

【本文より一部抜粋】
実は私たちが気づかないうちに、金持ち階級、資本家階級はずっと階級闘争を、いわば黙って闘ってきたのです。
それに対して労働者階級の側は「階級闘争なんてもう古い。そんなものはもう終わった」という言辞に騙され、ボーッとしているうちに、一方的にやられっぱなしになってしまったというわけです。(第11講より)

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Posted by ブクログ

ネタバレ

ー資本主義とは。
富は資本主義以外の社会でも存在するが、その富が商品という形で発生するのが資本主義の特徴。商品は共同体間の交換。後腐れのない等価交換。
労働に関しても商品として扱われるようになっているのが近代。もともと労働ってのは共同体的な作業(富の生産作業)だったが、それが共同体外の活動(=商品の生産であり、労働自体も商品)になった。
労働の過程すらも資本に取り込まれた状態のことを実質的包摂と言ってる。(農業やってるときに買い取りをしてもらうとかは別に農業のアウトプットの仕方は固定されてない。労働者にやり方は任せてるときは包摂は低いということか。生産性を高めるということは自動化であって、機械化。機械化は生産の過程に対しての意味なので、実質的包摂度の上昇につながる。資本家からのアウトプットの仕方を固定されていない状態(形式的な包摂)から生産性向上をするにつれて、包摂度を上げていくほかなくなる。そうすると最終的に感性すらも包摂された人が生まれてくる。それがネオリベ。資本のために働く人であって商品の性質を全肯定する存在。筆者はネオリベを資本家の階級からの階級闘争と言っている。資本家にとってうまみのある感性なのだろうし、なんとなくそういう感性の持ち主は現代においても結構いるような気がする。
ただ、その論理だけでは成り立たなくなっているのが現状だと思う。
この論理だけではエッセンシャルワーカーや教育者など社会にとって重要だが、稼げないところにお金が落ちなくなるため。それを政府が支えるということだろうけど。
難しいのは確かに包摂度は上がっていくが機械化や自動化を実現できると世界が変わって見えるし、成し遂げた喜びというのももちろんある。また生産性向上によって商品の総量は間違いなく増えてる。なので労働者にとっても包摂度が上がっていくことが全否定されるべきでもないとも思う。

ー労働はなくならない。
そういう包摂度が上がっていく資本の運動をマルクスはM-C-M'という式で表した。つまり「お金(money)で商品(Commodity)を買う。その商品をM'で売ることで資本が増える」とした。M'はもともとのMから幾分か利益がある状態(M'=M+ΔM)としている。そのΔMは剰余価値と呼ばれ、例えばそれは空間的な差異を理由に価値が発生している場合、グローバル経済に紐づくし、時間的差異をもとに金融は成り立つ。またマルクスはイノベーションにおいても時間的差異による価値だとしている。画期的な発明があったとして結局真似されてコモディティ化すると発明当初の価値はなくなる。それは値段が下がるという意味で買い手からするといいことだが、売り手からすればさらなる発明を行う必要が生まれるからだ。
ΔMのために労働が発生する。労働の価値がΔMとの源泉となっている。ΔMのために契約を回したり、各種調整を行って、チームビルディングして、毎日仕事をしている。イノベーションによって仕事が楽になればとか、もっと効率的に仕事をしてほしいとか考えていたが、この論理である限り、いつまでたってもそこに終わりはなくて、価値の総量は確かに増えるかもだが、労働はなくならない。

ーじゃあどうするか。
最近では、従来の単純労働からの解放されてイノベーション創出のために柔軟な発想や自走ができる人が好まれるようになった。それは時間的な差異(イノベーション)による剰余獲得のため。従業員のためというより資本の論理がそこにあるだけ。単純労働で作れるもので売れるものが少なくなったから。
ライシュ・ロバートなどはそういった状態を擁護しているようだが、筆者はこの状態も処方箋にはなりえなかったとしている。まあ実際今むしろ格差は拡大してるように見えるし、そうなんだろう。
またもともとは土地が奪われたことによる労働力の発生を見たことを踏まえ土地(生産手段)の国有化を目指した社会主義も結局は上手くいかなかった。
そういった種々の主義の立ち退き後、まだ打開策がないという状態。
そこでパシュカーニスというロシアのマルクス主義者の言葉を引用し、等価交換の破棄こそが解決策となりえるのではないかとしている。労働力の価値は労働力の再生産に必要な生活手段と等価とされるが、その必要の度合いを増やす、つまりいいものを食うということだと。それはスキルがないからこの給料しかでない、もっといい暮らしをするにはスキルを上げる必要があるという論理ではなくて、人間の本来の価値を信じること。そこから階級闘争が始まるという結論。

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2022年03月19日

Posted by ブクログ

ネタバレ

【身近に考えるマルクスと資本主義】
いろんな技術が発達して、より便利な社会になっているはずなのに、なぜ私たちはより忙しくなっているのか。

資本主義の本質を知ることを通して、このような現象を理解することを試みている本。

例えば、資本制社会が、生産性を不断に高めないといけないしくみであること。
資本主義をマルクス的に定義するとしたら、物質の流れが商品を介して行われる社会らしい。

そして、資本は価値を増やし続けて初めて成り立つものだから、限りなく商品の余剰価値を増やすために、効率化、労働力の低価値化、などが進められるとのこと。

労働力に焦点を当てて考えると、
資本家は、労働力が再生産される賃金・待遇を与え続けるーつまり、死なない程度、そして資本家化しない程度の、ということ。
そして新自由主義の広まった外題社会では、意識から資本に飲み込まれているという。つまり、資本のために生産性を上げているのに自分のためと錯覚してしまうこと。

現代に照らして考えると、
・労働力不足というけれと、安い賃金・手薄い待遇で働く労働力が不足しているだけであり、それは資本家側が適切な程度の労働対価を与えていないことに問題があるのかもしれない。

・リスキリングとか、アンラーニングとか、いろいろと自分の労働市場価値を高める言葉・コンセプトが流行ったりするけれど、結局自分のためではなくて、今の資本市場に資するように励んでいるだけの部分もあるということ。経済価値化されないことを無駄としてしまたら、まったくその通りだと思った。

あらためて、
最後の結論部分でも、感性の再建、という、なかなか難しい解を提示しているけれど、
自分は何に感動するのか、
経済価値抜きにして自分の感性を大事にすることが、私たち一人ひとりができる資本主義への抵抗だと思った。

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2024年02月08日

Posted by ブクログ

ネタバレ

 武器としての「資本論」。 昨年出版された際に丸善で平積みされている際の真っ赤なカバーと強いメッセージ性を感じられるタイトルですごく気になっていた本。 気になった瞬間には、ちょっと難しそうだな、と自分の弱さが出てしまって手が伸びなかったのですが、今年のゴールデンウィークまとめ買いの際に改めて購入した本。 難しかったけれど、読んでよかった。

 マルクス「資本論」という難しい書籍を、著者独自の観点で解説してくれている本。 第1講 「本書はどんな『資本論』入門なのか」 の部分にわかりやすくまとめられているので、いきなりですが抜粋引用です。

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 私なりの『資本論』の読み方、「自分がマルクスから何を学んできたのか」についてまとめてみたいという気持ちがあって、機会を作ってもらうことになりました。
 (中略)「『資本論』はこういうふうに書かれていて、こういう議論がされています」と懇切丁寧に、順番どおりに説明をしていく誠実な入門書ということであれば、もちろんいろいろあります。
 (中略)ただ「これを読んで、『資本論』を読む気がするかな?という疑問があるのですね。
 (中略)そこに私がやるべきことがあるのではないか、と思い至ったのです。 本書で私が「ここが『資本論』のキモです」という話をして、それをきっかけに読者のみなさんにぜひ『資本論』を読んでいただきたい。

 (中略)マルクスが創造した概念を通じて見ると、今起こっている現象の本質が『資本論』の中に鮮やかに描かれていることがわかるし、逆に『資本論』から現在を見ると、現実の見え方がガラっと変わってきます。
 (中略)ですから、「こんな世の中をどうやって生き延びていったらいいのか」という知恵を『資本論』の中に探ってゆく。 マルクスをきちんと読めば、そのヒントが得られるのだということを改めて世の中に訴えていきたい。そう思っています。
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 もうここだけ読んだだけで、筆者の熱量が伝わってきますよね。 またこの営みは、こうして読書レビュを継続している自分の営みとも(レベルは違い過ぎますが)なんとなく似ています。 自分が読んだ本を自分なりに咀嚼し、人に読んでもらいたくて発信する。 
 ひと様が、これで読んだ気になってくれた/省時間化の観点でひと様のためになれたのならうれしいし、共感してくれて当該本の読者になってくれるのなら、それもまたうれしい。 自分のわずかな努力でも、なんらかひと様に影響を与えられ、結果的に世界が良くなる方向へ寄与できるのなら、うれしい。(だいぶ遠謀)

 ブレイディみかこさんが課題提起された本をたくさん読んだり、格差社会の本をいくつか読んできたりしていたので、「新自由主義(ネオリベ)」が巻き起こしてきた最近の現状について「それってなんだかおかしくないか? 目を覚ませ」という課題認識にはなんとなくは理解できるぐらいまでは学んできたつもり。
 そういう状況で本書を読めたので、やはり、改めて勉強になった、そう思った本。 



以下、抜粋引用となります。(あくまで自分が気になった部分の抜粋であること、ご理解ください)
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P55 商品は、交換から、しかも共同体の外での交換からのみ生まれるのだということ、これはマルクスの決定的な発見だったと言えます。

P66 フランスの哲学者ベルナール・スティグレールは著書『象徴の貧困』において、テクノロジーの進歩による「個」の喪失へ警鐘を鳴らしました。肉体を資本によって包摂されるうちに、やがて資本主義の価値観を内面化したような人間が出てくる。すなわち感性が資本によって包摂されてしまうのだ、と。
 (中略)人間の感性までもが資本に包摂されてしまう事態をもたらしたのは、とりあえずは「新自由主義」(ネオリベラリズムもしくはネオリベ)である、と言えるでしょう。

P69 日本でも「一億総中流」と言われ、「もう階級なんて言葉は古くなった。いまの日本にそんなものはない」と言われていました。ところが1980年代あたりからその動きが反対側にターンし、90年代以降、格差の拡大が露骨な流れになっていきます。無階級社会になりつつあった日本が、新自由主義化の進行と同時に再び階級社会化していったのです。この構図はもちろん、他の先進資本主義国にも当てはまります。

P71 だが、新自由主義が変えたのは、社会の仕組みだけではなかった。新自由主義は人間の魂を、あるいは感性、センスを変えてしまったのであり、ひょっとするとこのことの方が社会的制度の変化よりも重要なことだったのではないか、と私は感じています。 制度のネオリベ化が人間をネオリベ化し、ネオリベ化した人間が制度のネオリベ化をますます推進し、受け入れるようになる、という循環です。

P89 マルクスが『資本論』で論じたのは、生産の目的が商品を売ることによる貨幣の獲得になること(形式的包摂)、そしてさらに、生産過程の全体が資本によって組織化されること(実質的包摂)でした。おそらくは「包摂」の概念の射程は、もっと広大なのです。 それは、「包摂」の深化に終わりは設けられないからです。人間存在の全体、思考や感性までもが資本のもとへと包摂されるようになる。

P135 19世紀の工場法を見れば、今回の「働き方改革」のような体制側による労働者の救済措置は今に始まったものではなく、昔からあったことがわかります。それは資本主義のある種の必然であって、あまりに搾取しすぎると、搾取する相手がいなくなってしまって、資本主義は成り立たなくなるのだということです。

P228 東京の都心部全般に言えることですが、とりわけ銀座などは資本主義の極致の街です。資本主義化が進み過ぎて、再生産ができなくなっている。
 (中略)そういう街から子供が駆け回る風景が消えるのは、当然のことでしょう。東京都民はそのさみしさをかみしめるべきなのです。自分たちでは自律的に再生産できない、一見華やかに見えて実は破壊的な街、よそから人を盗んで栄えている街なのだということ。その冷厳なる事実を、子どもの歓声が聞こえないという現実によって日々確かめるべきなのです。

P257 先ほど見たように、『資本論』は「資本主義の発展に伴い、独占資本が巨大化し、階級分化が極限化する、それにより窮乏、抑圧、隷従、堕落、搾取が亢進し、ある一点でそれが限界を迎える」と述べています。
 さながら今の日本を見ているような表現ですが、「本当にひどい世の中になり、人々がいよいよ我慢ならなくなって、立ち上がり、革命を起こすのだ」ということです。しかし実際には世界の多くの国では、そう簡単に革命には至らない。

P277 資本の側は、「そんな贅沢しなくていいじゃないか」とささやいてきます。「毎日カロリーメイトだけ食べたって、別に十分生きていけるよ」というささやきは、いくらでも聞こえてくるし、確かにそれで生きていけないことはない。
 そのとき「それはいやだ」と言えるかどうか。 そこが階級闘争の原点になる。

P279 人間という存在にそもそもどのくらいの価値を認めているのか。そこが労働力の価値の最初のラインなのです。そのとき、「私はスキルがないから、価値が低いです」と自分から言ってしまったら、もうおしまいです。それはネオリベラリズムの価値観に浸され、魂までもが資本に包摂された状態です。
 (中略)それに立ち向かうには、人間の基礎価値を信じることです。「私たちはもっと贅沢を享受していいのだ」と確信することです。贅沢を享受する主体になる。つまり豊かさを得る。私たちは本当は、誰もがその資格を持っているのです。しかし、ネオリベラリズムによって包摂され、それに慣らされている主体は、そのことを忘れてしまう。
 (中略)この意思を抹殺したことこそ、新自由主義の最も重大な帰結だと私は思います。
 それゆえ、意思よりももっと基礎的な感性に遡る必要がある。 どうしたらもう一度、人間の尊厳を取り戻すための闘争ができる主体を再建できるのか。 そのためには、ベーシックな感性の部分からもう一度始めなければならない。
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2021年06月19日

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