登校拒否になった中学生の女の子が、田舎のおばあちゃんちで過ごすお話
おばあちゃんは実は魔女で不思議な力を持っているという事から、魔女修行に励む事になる
魔女修行は精神力の鍛錬
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自分を生き抜く力を伝える、ロングベストセラー小説の愛蔵決定版。中学に進んでまもなく、どうしても学校へ足が向かなくなった少女まいは、夏のひと月をママのママ、西の魔女と呼ぶおばあちゃんと共に暮す。感受性が強く生きにくいと言われたまいは、その性質を抱えて生きるために魔女修行に取り組む――初刊から23年を経て、書下ろし短篇おばあちゃんのモノローグ「かまどに小枝を」等表題作に?がる三作も収録。
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本編は何度目かの再読
課題本読書会の前にもう一度読み直そうと思ったのと
この本には新たな短編が収録されているので今回購入
最初に読んだときは純粋に感動したし
何度読んでも最後のところは泣ける
まいが登校拒否になった理由
女子グループに属する事の違和感
さりとて独りを貫く強さを持ち合わせなかったから
結果として、自分一人を生贄とした女子達の団結の末に……
私の場合は、「いじめ」とされるようなものではなく「いじり」程度はあったけど
それなりに話をする友達はいたし
グループに所属するという事に違和感や忌避感は感じていなかったので、別に問題はなかった
でも、まいと同じくグループに所属する事に疑問を持って独りになっていたとしたらどうだろう?
独りは耐えられなかったかもね
今の精神性であれば学校なんてコミュニティに於いて独りなんて平気だろうし
もしいじめられても証拠を集めて法的な手段に訴えるという方法も思いつくし実行もできると思う
または、多数に迎合する事が最低限の社会性であるというのであればそれを受け入れるだけの余裕は持てる
多分、そんな精神性を獲得できたのも、この小説を読んでからなのかもしれないなぁ
ママの電話を盗み聞きして耳にした言葉「扱いにくい子」「生きていきにくいタイプの子」
本人も認めざるを得ないと自覚しているわけで、そこに殊更傷ついている描写はない
ママからしたら確かに「扱いにくい」ののだろうけど、こんな事はどんな子供でもあり得るトラブルだと思う
親としては、自分との違いからそんなレッテルを貼ってしまいたくなるのあもしれないけどね
ママも十分「扱いにくい子」だったように思われるけど、おばあちゃんはそんな事思ってないでしょうね
私の娘も二人とも「生きていきにくいタイプの子」とは思うけど、「扱いにくい」とは思わないかな
生きていきにくくても生きていかなければいけないわけで
そんな性質を持った上でどう生きていくかを導くのが親の約目でしょうね
まぁ、私は大して役に立ってないのだけれど
「自分の事は自分で決める」という事の重要さ
他の人の意見を取り入れて決めた事でも、「自分で決めた」という自責の考えなのでしょうね
大人でも、むしろ大人の方こそ責任逃れの仕方や言い訳が上手いかもしれない
おばあちゃんからママへの「考えないとわからないのですか?」という問い
当時は専業主婦率が高かったし、それが当たり前だったろうけど
母親が仕事をしたいと思うことは悪いことではないし、では仕事を辞めて専業主婦になって娘のそばにずっといれば解決する問題かと問われれば、それは違うと断言できる
結局は子供個人の問題なんだよね
親はそれを手助けくらいはできるけど、それがずっとそばにいる事とは同義ではない
うーん、こんな考え方の変化は時代のせいだろうか?
前述の通り、執筆された時代はそれが不自然で、子供が可哀想と思われてたんですけどね
ママも学校で嫌な思いをしたからなのか、まいに学校に行くことを強要しない
おばあちゃんの意見に反して、働き続ける事も自分で選んだ事だし、T市に引っ越す事を決めたのも自分
生き方は違えど、芯はおばあちゃんと共通しているものを感じる
おばあちゃんも家族の反対を押し切って日本にやってきたりと、家族の意見に迎合するのではなく、自分で決める事を重要視している
「自分が楽に生きられる場所を求めたからといって、後ろめたく思う必要はありませんよ。サボテンは水の中に生える必要はないし、蓮の花は空中では咲かない。シロクマがハワイより北極で生きるほうを選んだからといって、だれがシロクマを責めますか。」
それぞれ自分の適した場所で生きていけばいいという言葉なのだろうけど、「置かれた場所で咲きなさい」という巷で言われている言葉を思い出す
おばあちゃんの言葉の方は、場所を移る事は「逃げ」ではないという事なのだろうし
「置かれた場所で咲きなさい」は、ただ現在を否定するのではなく、努力する姿勢を促していると個人的には解釈している
(著作を読んでないから実際にどんな主張かは知らんけど)
なので、おばあちゃんの指針ともそう大きく違わないのではなかろうか
まいとおばあちゃんの諍い
「誰が鳥小屋を壊したかということはどうでも良いのです。今重要なのは、まいのこころが憎悪や疑惑でいっぱいになってしまっているということ。それに気づかなければなりません」
「私は真相究明ができて初めてこの憎悪から解放されると思う」
「そういうエネルギーの動きは、ひどく人を疲れさせると思いませんか?」という問い
「怒り」という感情は単独で発生するわけではなく、何らかの原因と結びついている
理不尽な対応や自分の思い通りにいかないままならなさ等々あるわけで
突き詰めると、まいとしては、おばあちゃんは私よりゲンジさんの方を信頼しているんだという失望なのだろうか
まいは自分が知り得る断片的な情報から、確からしい推測を組み立ててて
そう信じ込んでしまっている
おばあちゃんなら自分に寄り添ってくれるだろうという信頼があったのに、よりによってゲンジさんの方を信じているという状況なわけで
自分のマイサンクチュアリが侵される恐怖と、おばあちゃんも騙されているという不安感、そしてそれを見抜けないおばあちゃんへの失望なのでしょうねぇ
憎悪や疑惑のエネルギーが人を疲れさせるという意見には同意
私も嫌いな人間や気に入らない言動・行動を目にする事もあるけど
「嫌い」という感情は否定せずに、でもそのせいで自分が疲弊するのは別問題というスタンスを取ろうとしている
そうすると、自分の感情からくる精神的な披露を抑えられている気がする
この精神性は明らかにこの本を読んで得られたものですね
序盤からずっとファンタジー的な魔法の存在性についてはぼかしてきて
最後の最後でおばあちゃんからのメッセージ
これは泣ける
初読もそうだし、何度読んでも泣ける
ただ、その上で二度目以降に読んだ時は最後のアレは誰がいつどうやって書いたのか?というミステリ要素を深読みしてしまう
おばあちゃんは所謂超常的な魔法が使えるという決定的な表現はない
草花に詳しく、心のありかたを示すだけ
だからこその最後の最後でアレで示したのか、もしくはミステリ的な答えがあるのか まずは問題が存在するかどうかから考える必要があるんだよね
という話を、この本を薦めてくれた友人に言ったら、「そんな事考えずに純粋に感動しろ!」と罵倒されたのだけれども(笑)
解釈としては、大まかに分けて3つ
1.おばあちゃんは本当に不思議な力があって、死んでからやった
2.おばちゃんが死期を悟って事前に書いてあった
3.おばあちゃんが生前にゲンジさんに頼んであった
物語を素直に受け取れば1でしょうけど
2でも、おばあちゃんの優しさは伝わる
問題は3の場合
ゲンジさんという存在の見方がかなり変わってくる
まいの視点ではゲンジさんがとてもいかがわしい存在に思えるけど
おばあちゃんからしたらゲンジさんを普通の隣人だし
それにゲンジさんもまいの前では酷い事をいっているけれども、実はおじいさんとおばあちゃんを慕っているんだよね
もしかして、何等かの教え子の可能性もある
金網の始末にしても雑な仕事という印象を与えているものの
頼まれ事をしっかりやってくれている信頼できる人なんだよね
なので、生前に「私が死んだら……」と頼み事をしていた可能性が捨てきれない
ただそうだとすると、おばあちゃんがまいとの約束をゲンジさんに話すだろうか?という疑問も出てくる
おばあちゃんの性格から、まいとの約束を大事にするだろうし、可能性は低いような気がする
なので、不思議なことなど何もないという前提で考えるなら、2の「おばあちゃんが生前に書いていた」となるのが自然
書いたばかりに見えたのは、おばあちゃんは他にも仕込みをしていて、たまたまガラスに書いたのが功を奏しただけ
おばあちゃんの遺品にそれを仄めかすものが他にもあってもおかしくない
というのが、私なりの解釈の一つでしょうか
不思議な力なんかではなく、洞察力に優れているおばあちゃんなら自身の体調の事は認識していただろうし
それがいつ来てもいいように準備していたのかもしれない
あと、現実的な話をするなら、土地の名義を法的にちゃんとまいに変更してくれてたというところも大人としては気になる
贈与税!または相続税!固定資産税!不動産取得税!登録免許税!
と、夢のないツッコミを入れてしまいたくなる
そもそも、本人の同意なく登記変更ってできるわけがなく
親権者であるママかパパが代理でやったはずなんだよね
でなければ固定資産税を誰が払うかって事になるし
今の法律であれば、亡くなった際に遺言執行者が指定されていれば本人の意思に関係なく可能のようだけど、当時の法律はどうなんだろうね?
でもまぁ、おばあちゃんの事だから、ちゃんとママに話しをして手続きしたんだと思う
この本に収録されている短編3作
・ブラッキーの話
ママとブラッキーの話
ママも魔女の家系だなと思わせるエピソード
それとも、ブラッキーが魔女の使い魔的な存在なのだろうか?
おばあちゃんから、ママを守るように指示されたようなね
・冬の午後
まいが小学6年生の頃の前日譚
おばあちゃんは、まいが後に困難に至る事を予見しているように思える
・かまどに小枝を
まいとの共同生活後のおばあちゃんのモノローグ
おじいちゃんからおばあちゃんへ、亡くなってからのワイルドストロベリーのプレゼントの真相
そして、おばあちゃんからまいへのプレゼント
おばあちゃんがまいとの暮らしをどれほど愛おしいものだと思っていた事とか、自分の行く先を知っていたと思われる描写がある
やはり、不思議な力が存在する世界観である事が仄めかされている
でもまぁ、決定的な出来事はないんだよなぁ
そう言えば、映画が公開されてから家族+友人で見に行ったなぁ
既読の私と友人は最後のシーンの前から滂沱の涙を流していて、娘がひそひそと「泣いてる、泣いてる」ってツッコミ入れてた
随分を懐かしい思い出ですね
そして今回改めて見直したけど、原作と違うところは、映画はギンリョウソウの下りはカットされてるくらいだろうか
他にもまいがキンレンカを取り除かずに食べられるようになったみたいな、様々な描写とか
じっくり検証すれば他にもあるのでしょうけど、枝葉末節ですね
物語の本質的は変わっていない