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源氏物語と紫式部日記読んだけど、紫式部かっこよくて憧れるな。紫式部大好き。あんなに頭の良い女性はいないよ。
源氏物語好きな人は紫式部日記も好きだと思う
紫式部日記読んでたら、漢文を分かることは出しゃばりだから分からないふりをするみたいなのがあったんだけど、平安時代から日本人は外国語分からないふりするんだなと笑った。英語出来ませんは千年の日本人仕草なんだな。
日本の出しゃばりへの冷笑文化は平安時代からも凄い。怖い。日本では出しゃばりは罪だ。
紫式部は頭が良いし、日本古来のフェミニストかな?
「【寸評】 時は寛弘五年秋。『紫式部日記』は、藤原道長の豪邸・土御門殿の描写から始まります。この邸に、紫式部が仕える中宮・彰子が出産を控え滞在中だったのです。出産予定日は九月、陰暦では秋の最後の月です。ならば秋の気配の訪れとは、中宮の出産の季節がやってきた、「その日」がいよいよ迫ってきたということ。樹の葉や草むらが秋色に色づくのも、空が鮮やかな秋晴れや夕焼けに染まるのも、それを知らせているのです。 自然たちの応援に応えるように流れてくるのは「不断の御読経」。文字通り、とだえることなく続く読経の声です。十二人の僧が一人二時間ずつ、二十四時間体制で経を読み続けるのです。中宮の父にして最高権力者、藤原道長の命じたことです。祈るのはもちろん中宮の安産。こうして豪邸は、自然と人間が心を一つにし、中宮出産への期待と緊張を高めています。」
—『紫式部日記 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』紫式部著
「【寸評】 遠景で邸の庭を見渡してきたカメラが切り替わるように、場面は邸内の中宮彰子を捉えます。この人物こそが、これから綴られる晴れの出来事、親王出産の記録の主役です。臨月間近の身は身動きもままならず、苦しいに違いありません。でもそれを露わには見せない中宮。周囲に心配をかけたくないという心遣いなのでしょう。または、身体のことで騒ぐのははしたないという慎みなのでしょう。この健気さに、紫式部は胸がいっぱいになってしまいます。」
—『紫式部日記 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』紫式部著
「ところで、紫式部は自分について「辛い人生」や「沈みがち」という言葉を使っています。これはどういう意味なのでしょうか? 実は紫式部はこの日記の中で幾度か、これに似た気分を書き留めています。そこからは紫式部が決して心底から幸福ではないことが伝わってきます。それではなぜ、またどのように彼女が悩みや苦痛を抱いているのか。それについては、はっきりとは記されないのです。 ただ、そうした自分でも中宮のこの姿にはすべてを忘れるほど感動するのだと、紫式部は言います。そしてこの言葉は、単なる主人への追従ではありませんでした。中宮が表面上何事もないように秘する心の内実を、紫式部は知っていたのです。」
—『紫式部日記 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』紫式部著
「【コラム】 重圧の中の 9年間 中宮彰子は、長保元(九九九)年に、わずか十二歳で一条天皇に入内しました。それからこの寛弘五(一〇〇八)年まで、懐妊したことは一度もありませんでした。数え年二十一歳での初産は平安女性としてそう遅くはありませんが、九年間も懐妊しなかったことには理由があったと言えます(「紫式部日記関係年表」*参照)。 彰子が入内したばかりの頃、一条天皇には最愛の女性・定子がいました。清少納言が仕えて『枕草子』にも書きとどめる、明るく知的な中宮(当時)です。彰子の父・道長は様々の調度や書物を彰子の御殿に用意して天皇の気をひこうとし、それは確かに天皇を喜ばせましたが、彰子に寵愛を抱かせるまでにはなりませんでした。二十歳の天皇には十二歳の彰子は娘のように思えたのです(『栄華物語』輝やく藤壺)。」
—『紫式部日記 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』紫式部著
「【コラム】 藤原道長 中宮彰子の父、藤原道長(九六六 ~一〇二七)は、平安時代の貴族では最も有名な人物でしょう。彼の「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば(この世は私のものだと実感する。この空にかかる満月に欠けた所がないように、何一つ手に入らないものはないと思うと)」という歌などからも、その権力の大きさがうかがえます。ただ彼は、決して最初から権力の頂点を約束されていたわけではありませんでした。 道長は父藤原兼家の末っ子で、長兄の道隆(定子の父)とは十三歳の歳の差がありました。当然、兄たちのほうが早く出世し、一条天皇が即位した寛和二(九八六)年には兄たちが権大納言や権中納言であったのに比べ、道長はまだ公卿の仲間入りもしていませんでした。また、一条天皇が十一歳で元服した時、最初に娘を入内させたのも長兄の道隆でしたから、当初の道長は兄たちに大きく水をあけられていたのです。 しかしそんな間にも、道長は野心を温め、着々と準備を進めていました。そのひとつが、娘の彰子です。兄たちが受領階級や中級貴族の娘と結婚したのに対し、道長は皇室の血を引く源倫子を正妻に迎えました。自分がやがて持つ娘を道隆の娘定子よりも優れた后候補とするために、彼は高貴な妻を選んだのです。倫子は結婚の翌年はやくも女子を産みました。これが彰子です。」
—『紫式部日記 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』紫式部著
「【コラム】 摂関政治(外祖父摂政への道) ここで、道長が目指している「外祖父摂政」について説明しましょう。「摂政」とは、天皇が幼かったり病気だったりして政務を執ることができないときなどに、天皇に代わってそれを行う役職です。「摂関政治」と対にされる「関白」が天皇への助言者であるのに比べ、完全に自分の意志で政務を執ることができるという、最大の権限を持っていました。この役職がこれほどの権力を持つようになったのは、平安時代も初期の清和天皇の時でした。父の文徳天皇が亡くなり、清和天皇が跡を継いだもののまだ九歳と幼かったので、天皇になり代わって政治を行う人物が必要とされたのです。」
—『紫式部日記 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』紫式部著
「が、紫式部はいつまでもこうではありませんでした。『紫式部日記』には類似の場面が繰り返し描かれることがあって、この場面に対応するのは一年余り後、寛弘七年正月中の記事です。そこでは、祝賀行事の朝に小少将の君は依然としてのんびりした参上だったいっぽう、紫式部は気を付けて早朝からきちんと参上しています。この日記には紫式部が女房として成長する様も記されているのです。」
—『紫式部日記 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』紫式部著
「公任は実資と同じく藤原氏嫡流の家柄です。が、彼の特徴はなんと言っても諸芸の達人ということです。当時男性の文芸として最高の品格を誇った漢詩、女性の参加する文芸では最も重々しいとされた和歌、そして管弦の、すべてに彼は堪能でした。その彼の口から自分の『源氏物語』ヒロインの名が出たとき、紫式部はどんなに心躍ったことでしょうか。物語が品格の劣るサブカルチャーとみなされていた中で、『源氏物語』は文化の重鎮のお墨付きを得たのです。しかしそれで喜んで飛び出すのは、万事謙虚な紫式部の主義に反すること。ぐっとこらえてやり過ごし、しかし後でしっかりとこの日記に書きとどめたのです。なお、この「このわたりに」という言葉は中国の伝奇物語『遊仙窟』の一節を踏まえているという説があります。紫式部はその物語を典拠に「若紫」の巻を書いており、漢文に博学だった公任はそれを見抜いていてこのように呼びかけたのだという説です。とすれば紫式部はますます鮮明に、和漢の文芸に秀でた彼の姿を捉え、書きとどめていることになります。」
—『紫式部日記 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』紫式部著
「しかしこの本は、彼に「お土産です」といって渡される物ではなかったでしょう。研究者は、彰子が自分の手元に置いて「あなたのために作らせました。読みにいらっしゃいませんか」と天皇を誘う、そして二人で読み合うのだと推測しています。確かに彰子がそうしたひと時を心にかけていたとすれば、作業に傾けた熱意もなおのこと理解できます。大切な人と二人で一つの物語を読み合うことは、互いを理解し合う助けになり、親しさを深めるもの。一条天皇の悲しい恋の経緯もあり、自分自身の臆病な性格もあり、長い間夫の心に真に寄り添うことのできなかった彰子ですが、皇子を産んだことに勇気付けられたのでしょうか、ようやく彼への気持ちを表したいと思うようになったようですね。一番近くで作業にいそしむ紫式部には、彼女の気持ちはよくわかっていたことでしょう。いっぽうで道長も、この冊子が帝と娘の夫婦仲をよりむつまじくすると見たからこそ、力を込めて応援したのでしょう。」
—『紫式部日記 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』紫式部著
「しかしいつしかそんな人生も彩りを取り戻したと紫式部はいいます。「物語」のおかげです。紫式部の様子を見るに見かねた友人が、「気晴らしにこれでも読んでみたら?」と貸してでもくれたのが最初でしょう。悲しい現実を抱えた彼女に、物語という虚構は息を吹き込んでくれたのです。『源氏物語』はこの時起筆されたと考えられます。ですから、最初の読者は友人たちでした。夫亡きアマチュア作家紫式部は空想の翼を広げて新作物語を書き、あるいは習作を書き直し、書き継ぎ、友人たちとやりとりする中で力を伸ばしていったのでしょう。皆物語好きで話の合う人ばかり。そこでは何の気を遣うことも無く、紫式部は素の自分でいることが出来ました。」
—『紫式部日記 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』紫式部著
「平安貴族社会の女性は、家にいて人目に触れないことがよしとされていました。でも役割を与えられたからには、割り切って務めを果たさなくてはなりません。が、そう思って物慣れたように振る舞えば人々からはしたないと見られてしまいます。どこからを仕事と割り切り、どこまでは女らしさを保つべきか。この兼ね合いは、女性の社会進出が格段に進んだ現代でも、女性たちの頭を悩ませる問題ではないでしょうか。 紫式部は今、主婦感覚から女房感覚へと脱皮する瀬戸際にあるのです。あくまでも奥ゆかしく、男性の目を避け、おとなしく。そんな主婦感覚は世間の保守層に支持されていて、これを守っている限り後ろ指を差されることはありません。が、女房の身にはそれは通用しません。今日の童女や下仕えのように、仕事とあらばどんなに恥ずかしくても衆目に身をさらさなくてはならないのです。やがては羞恥心も麻痺し、女性らしいはじらいを失った図太い私になってしまうに違いない。それは今の紫式部にとって、目の前が暗くなってしまうほど怖いことなのでした。」
—『紫式部日記 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』紫式部著
「さて、紫式部はベテランではなく、左京の君の現役時代を知りません。したがってこうした憤りを感じる理由もありません。しかし彼女はたくらみに参加し、結局は左京の君をからかう和歌まで詠んでいます。またその前に、贈り物として蓬萊の絵の扇を選んだのも、紫式部と考えられます。不老不死の世界、蓬萊の絵の扇を選んだ理由を「あちらにわかるものですか」と言っているからです。この絵は単純に左京の君の老いを皮肉ったものではなく、白楽天の詩「海漫漫」のストーリー(蓬萊へ行こうとして船に乗った若者が船中で歳を取ってしまったこと)をふまえて「あなたはいつまでもお若いかと思ったけれどやはりお歳を取るのねえ」という意味と考えられます。漢文は高級な知識なのでどうせわかるまい、と紫式部は踏んでいますが、わかる人にとっては、この扇も歌も明らかな嫌みです。 紫式部は、自分の中には理由がないのに周りの女房の空気に流されて、いじめに加担しているのです。しかも、後日の日記では「ちょっとしたいたずらだった」と振り返っており、その言い方から考えても、紫式部自身にもほかの女房にも、罪の意識など無かったのでしょう。老いているにもかかわらず臨時で出仕した左京の君には、それなりに内心の辛さや恥ずかしさもあったかもしれないのに。」
—『紫式部日記 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』紫式部著
「清少納言の漢文に対する知識は、『枕草子』を見れば、それなりに十分なものでした。それなりにとは、お洒落な会話にちりばめる知的教養としてということです。定子も清少納言も周辺貴族たちも、漢文素養をアクセサリーのように身につけて、お互いに十分に楽しんでいました。ですからその限りにおいては「まだいと足らぬこと多かり」ではなかったのです。が、紫式部はそれを「不十分」と斬って捨てました。もちろんそう言うだけの理由はあります。紫式部にとっては、漢文素養を知的お洒落とする姿勢そのものが否定すべきことだったのでしょう。もしかしたら学問への冒瀆と感じていたのかもしれません。また清少納言に「知識不足のまがい物」というレッテルを貼ることは、そうした評価が下せる自分の方が優秀だと示すことでもあります。 さらには、独創性あふれる清少納言のことを「人と違いたがっているだけの人」と言い切ります。そんな人は最初こそ新鮮で人の気を引くものの、魅力はもの珍しさだけなので、だんだん見劣りがしてくるというのです。しかもそれを論じるために引き合いに出す「風流」の例は、まるで『枕草子』をほのめかすかのようです。『枕草子』は、定子が苦境にあった時期に書き始められたにもかかわらず、美意識と幸福感に貫かれています。そこに描かれた定子後宮のあり方は、逆境にあっても美とプライドを失わないことの気高さを感じさせ、読者の心を震わせます。でもそれは本当のことだったのでしょうか。「さるまじくあだなるさま」。「そんなはずがない」「上っ面だけ」という言葉は、もし紫式部が『枕草子』を念頭において語っているとすれば、この疑いに鋭くメスを入れるものと言えるでしょう。確かにリアリティーという面においては、最期までほとんど悲劇の片鱗を見せず美しく笑っている『枕草子』の定子像は表面的に過ぎず、美化だと言わざるを得ないからです。」
—『紫式部日記 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』紫式部著
「加えて、学問の素養は意識して隠してきた、と紫式部は言います。そのきっかけとなった言葉は「男ですら漢文の素養を鼻にかけた人は不遇になる」。「男ですら」の裏には「まして女は」というニュアンスがにじみます。「一」という文字も書かないという反応はいかにも大げさですね。が、大切なのは、紫式部が素養そのものではなく「ひけらかし」こそがいけないのだと肝に銘じたことです。こうして紫式部は、本格的な素養を内に秘めつつそれを外に表さないことを自分の主義とするに至ったのです。」
—『紫式部日記 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』紫式部著
「紫式部は、幼い頃に母を亡くしたか、あるいは離別したと考えられています。思春期の頃には姉を亡くしました。その姉の代わりにと慕った親友も、家族とともに九州の地に下り亡くなってしまいました。が、それら相次ぐ死のあげくに更に大きな打撃を彼女に与えたのが、夫の死でした。夫藤原宣孝は『枕草子』「あはれなるもの」にも酔狂な性格の一端を記される人物ですが、紫式部とは親子ほどの年齢差がありました。また紫式部以前に数人の妻がありました。それでも結婚のときには「百年添い遂げよう」「行く末深い縁で結ばれているのだ」と歌を詠んでくれる優しい人でした。学問好きで気難しい父に比べ、舞が上手だったり世渡りにたけていたりという面もありました。その彼が、結婚後たった三年で亡くなってしまったのです。紫式部はその悲しみの中で、逃れ難い現実というもの、無常という宿命、それでも薄紙を剝ぐように回復してゆく心など、人という存在の深みを思い知ってゆきます。これらのことは皆、紫式部の和歌集『紫式部集』から見えてくることです。」
—『紫式部日記 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』紫式部著