平田オリザのレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
内田樹篇の平成を振り返るエッセイ集。最初に内田氏が言っているように、自由に書いてもらったので統一感はないが、それぞれの書き手の専門分野に応じて、いろいろな平成の断面が見える。中には内田氏ファンである読み手の存在を忘れているのではないかと思われるものもあったが、総じて興味深く読めた。面白かったのはブレイディ氏の英国的「ガールパワー」と日本的「女子力」が全く真逆の意味になるという指摘だった。前者は、女が、女たちの支持を得て女たちをインスパイアすることだったが、後者は、女が、男たちの支持を得て男たちに愛されてほかの女たちより上に立つことだという、なるほど、双方の国民性の一端を垣間見せてくれている。
-
Posted by ブクログ
人は文化や環境で考え方がそれぞれ異なる。「みんな違って大変だ」。この前提で人との察し方を考える。筆者が演劇への深い考察から得た結論が、豊富な事例を元にまとめられている。以下、エッセンスというか、自分なりのトピック。
人間らしいロボットは、その動きの中に無駄な要素、ノイズがあり、それが的確に入っているらしい。人間は何かの行為をするときに必ず無駄な動きが入る。認知心理学の世界ではマイクロスリップという。優れた俳優も、このマイクロスリップを演技に取り入れている。
長期記憶のメカニズム。ある程度明らかなのは、様々な新鮮な体験との組み合わせによって起こるらしい。
会話の冗長率。一つの段落、一つの文章に、どのくらい意味伝達とは関係のない無駄な言葉が含まれているかを数値で表したもの。会話はお互いが知り合い同士だから冗長率は高くならない。最も高くなるのは対話。異なる価値観を擦り合わせていく行為だから。
列車の中で他人に声をかけるかどうか。文化によって異なる。これがコンテクストのズレ。日本人は1割しか声をかけない。話しかける相手によるところもあり、怖そうな人には話しかけないが、相手が赤ん坊を抱いていてじゃれついてきたりすればかわいいですねと話しかける。日本はシマ国家・ムラ社会なので多くを語るのは野暮という雰囲気。アイルランド人はほぼ全員雑談のように声をかける。イギリスの上流階級はマナーとして他人には声をかけない。アメリカやオーストラリアでは5割。多民族国家では悪意を持っていないことをこちらから示す必要があるため。
胸が痛いんですと患者に言われた時の看護師の反応。よくないのは一緒にパニックになる。どのように?いつから?など尋ねるのは普通。胸が痛いんですねとオウム返しにまず答えると一番患者を安心させる。患者が受け止められ、自分に集中してくれてると感じられるから。 -
Posted by ブクログ
ネタバレわかりあえないことから。
このタイトルのとおりのコミュニケーション論。
この本を読んだのは2度目だが、初めて読んだときに衝撃を受けたのを覚えている。
コミュニケーションは“わかりあえないこと”から始める必要がある。
自分としてはずっと“わかりあえるもの”としてコミュニケーションをとっていたわけだけれど、この本を読んで、なるほど!と思った。
たしかに生きてきた環境も違えば、当然価値観も考え方も違う。趣味趣向も違えば、好きなもの嫌いなものも違う。そんな人たちと関わり合うのが社会だ。
そりゃあ、わかりあえないだろうよ。
そう思ったら至極気が楽になった。
まずは“わかりあえない”から始める。
“わかりあえない”というズレを少しでも擦り合わせるために、コミュニケーションが存在する。
本当にたくさんの人たちに読んでもらいたい作品。 -
Posted by ブクログ
あらゆる企業の新人採用において重視される項目であるところの「コミュニケーション能力」とは何なのか。一般論と教育論、そして演劇をからめて、議論は展開していく。
日本語においては区別が曖昧な、対話(ダイアローグ)と会話(カンバセーション)、そして対論(ディベート)の違いを明確にし、対話的精神、いやそれよりも、「対話の基礎体力」の重要性を説く件は深く納得。
冗長率(意味伝達と関係のない無駄な言葉の含有率)は、実は「対話」に最も多いのだという。小津安二郎の映画を題材に、夫婦だけの会話のシーンに、近所の他人がひとり加わった瞬間「まあ、」とか「いやあ、」とかの間投詞が増え、それが対話に切り替わる様が説明される。
そしてなんと、話の上手い人、説得力のある人は、この冗長率を操作しているという。確かに、夫婦間の会話では無駄を省いた最低限の情報交換になりがち(そのせいで心遣いの不足したやり合いになることもあるなあ)で、仕事上の対話では相手の出方や表情の変化を汲んで落とし所を探るのに、間投詞を使いながら間を開けたりしているかも。
コミュニケーション能力に直結するキーワードとしては、コンテクスト(文脈)がある。誰もが思い通りに言葉を操っているわけではないから、相手がどのような想いでその言葉を発するに至ったのかを汲み取る力が必要だ(医療や看護の現場の事例を挙げて説明してくれる)。
これからの時代に求められるリーダーシップとは、人々を強く引っ張っていく能力ではなく、『弱者のコンテクストを理解する能力だろう』との見識に、私は賛同する。
終盤、コミュニケーションとは何かの問題に再度取り組む。
「『心から分かり合えなければコミュニケーションではない』という言葉は耳に心地よいけれど、そこには、心からわかりあう可能性のない人々をあらかじめ排除するシマ国・ムラ社会の論理が働いてはいないか」。
だから、この本のタイトルのとおり、「わかりあえないことから」始めて、分かり合える部分を探っていく「対話」を続ける、「対話の基礎体力」をつけましょうと。
「このような話を教育関係の講演会ですると決まって、あ、金子みすずですね。『みんなちがって、みんないい』ですねと言う先生方がいる。私はそうは思わない。そうではないのだ。
『みんなちがって、たいへんだ』という話をしているのだ。」 -
Posted by ブクログ
今後日本が成長していくことはないということを改めて実感した。また、そのことをきちんと受け止めて、新自由主義を脱却し、新たな産業構造に基づいて文化政策を打ち出していくことの重要性に気がついた。
作者の述べる文化政策や寛容と包摂の社会は決して情緒的・感情的なものに振り切ってない。
それは極めて現実的・合理的でいて、筋の一本通った主張だった。
地方創生や大学入試、文学作品、諸外国、演劇など様々な題材を取り上げる中で、これからの日本の在り方を一貫した姿勢で見つめ直している。
日本の衰退を勇気を持って受け入れ、耐え忍んでいくためには、芸術・文化の地位を高め、対話を行なっていくことが大切だという主張は、実に説得力がある。
「成長から成熟へ」の価値観の転換点に今我々は立っているのだと気付かされた。そしてそれに気づいていない(もしくは目を瞑っている)日本人のなんと多いこと。 -
Posted by ブクログ
続・僕たちが何者でもなかった頃の話をしよう
チャレンジをテーマとして各氏の講演と主催者である永田和宏氏との対談が収められている。何者でもなかった頃の話かと言われるとそうでもない感じもするが、基本的には若者向けのメッセージになっている。学びは多いと思う。
池田理代子
漫画家を中断してまでも声楽家を目指すために47歳で音大に入り直す。やらないで後悔したくないというのがモチベーション。
平田オリザ
コミュニケーション能力について。相手のコンテクストを読み取ることができる医師を育成するために阪大は劇作家である氏を招聘した。劇の役割は解答を与えることではなく議論を喚起するものであるという意見も興味深い。やや説教臭い感じはある。
彬子女王
面白そうがモチベーションとなって「石橋を適当にたたいて」周りを巻き込みながら挑戦してしまう勢いがある。オックスフォード留学での経験が自身を大きく変えた。
大隅良典
オートファジー(自食)の仕組みを解明したことによりノーベル賞を受賞した。冒頭に若者へのメッセージをまとめているので分かりやすい。
1. 長い人類の歴史の中で自分の生きている時代を考えよう
2. 自然と親しみ、小さな発見を大切にしよう
3. 権威や常識に囚われず、自分の興味、抱いた疑問を大切にしよう
4. 情報にながされず自分の眼で確かめよう
5. 最初の疑問に繰り返し立ち返ろう
6. 人と違うことを恐れずに、自分の道を見極めよう
7. はやりを追うことはやめよう
8. 役に立つこととはなにか、長い目線で考えよう
9. 自分の理解者をつくろう -
Posted by ブクログ
(01)
演劇は生きることそのものではないが,生きることに少し似ていると著者は締め括る.その似る姿は,この人間はあの人間に似ていながら,かつ互いに他者であり続けることに相似している.人間社会と個人生活を映し出す演劇ではあるが,それは観るものにとっても演じるものにとって,社会や個人そのものではないが,似たものとして舞台において提示されている.ワークショップの試みは,他者を通じて社会や個人を探る行為でもあり,そのものの延長に演劇があるとも言える.
著者の経験的な理論から近代演劇史に基づいた理論(*02)までが,テスト的なテキストを用い,ワークショップ成功のポイントを示しながら論じられていく.動作や言葉が織りなす他者との関係性がワークショップには現れており,その関係性に介入するのが演出の役割とも考えられ,同時にそれは社会の改革や個人のカウンセリングにも通じる手法でもあるのかもしれない.
(02)
スタニスラフスキーが俎上に,あるいは槍玉に挙げられる.また,ブレヒトの演劇理論についても触れられる.宗教とカルト,ワークショップとメソッドは,時に人生を壊し,社会を壊す危険性があることを示している.人は木になることはできないが,木を強制させられ,その強制に演者自らの意志を集中し,没入する危険は,演技という行為のどこかにいつも潜んでいる.ブレヒトの「なーんちゃって」という覚醒は,その洗脳や没入から救い出す手立てとして論じられていく.集団や社会の現代的な問題を視野に入れた指摘と言えるだろう.