平田オリザのレビュー一覧
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戯曲を書くにあたって、テーマを先に考えてはならない。これは従来の戯曲方法からすると、おかしなことらしい。だが、私から見ると、従来の方法のほうがはるかにおかしなことのように思えてならない。だって、あなたは絵を描くときに、テーマを考えてから風景を探しはしないだろう。ある風景に出会い、その風景を描写したいという表現の欲求が、あたに絵を描かせるのではないだろうか。もちろん、テーマが先にあり、そこから描く作家もいるだろうが、それはおそらく少数派なのではあるまいか。
私たちは、テーマがあって書き始めるわけではない。むしろ、テーマを見つけるために書き始めるのだ。それは、私たちの人生が、あらかじめ定められたテーマ、目標があって生きているわけではないのと似ているだろう。
ジョン・ロックの考えに従えば、まず私たちは、普通、次の二つの事柄を前提にして(誤解して)、他者とのコミュニケーションをとっている。
一、自分の考えは、当然、自分の考えている当の事物と一致しているものと信じている。(表象の一致…概念と事物が一致している)
二、自分がある言葉によって表明した考えや物事は、他人も同じ言葉によって表明すると考えている。(間主観性の一致…概念と言葉が一致している)
「遠いイメージから入る」という戯曲を書く際の一つの法則は、この「内的対話によるコンテクストの擦り合わせ」の端的な例である。表現者は、鑑賞者が日常生活で五感を通して行っているコンテクストの摺り合わせを、それに代わる何らかの情報を提供していくことにより代行させる。そして、鑑賞者が、主体的にコンテクストの共有を受け入れるように、その感覚を緩やかに導いていかなければならない。 -
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表現者とそれを観る者との間に生まれる対話、つまり「コンテクストの摺り合わせ」がどのように行われ、演劇としての「リアル」がどのように産出されるのか、といったことを劇作家、演出家である著者が解説している。
「下手な演劇」を下手と感じる理由の一つに、「説明的な台詞」があるが、例えばこれは「清水が大山のことを好きだからといって、『好きだ』だの『惚れた』だのという台詞を描いてはいけない」(p.103)というのがあって、なるほどと思った。「いかに清水の心情を、場の雰囲気に溶け込ませて表現するかが、台詞を書く技術だといえるだろう。」(同)というのが、分かりやすい。また、そのような台詞が発生する条件の1つとして、「絶対的他者である観客に近い存在、すなわち外部の人間を登場させ、そこに『対話』を出現させなくてはならない」(p.122)というのは、さらに納得させられた。確かに家族同士とか友達同士とかで延々続いていく芝居を見ていると、状況を理解するのに時間がかかるというのは、よく経験する。(状況が理解できるまで頑張れればいいが、途中で寝てしまったら最悪だ。)その他にも、役者と演出家との関係、演劇とサーカスやオペラとの違いなど、分かりやすく書かれていて面白かった。
演劇をする人だけでなく、演劇を時々観るという人にもおすすめ。演劇だけでなく、小説を読むことにおいても、こういった「コンテクストの摺り合わせ」は行われるのではないかと思った。(15/12) -
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学校でも、会社でも、学生の就職活動でも、どこへ行っても「コミュニケーション力」が問われる時代、そもそもコミュニケーション力とは一体どういうものか。
単に、他人と簡単に打ち解けられるとか、人前で上手にプレゼンをして人の心を掴めるとか、むろん空気を読むのが上手いとかそういうことではなく、意思の疎通が上手くいかない場面で「どうにかする力」であり、それを身につける(あるいは、そもそも持っている力を引き出す)ための訓練として演劇ワークショップが使えるよ、というのが本書の趣旨。
『インプット、感じ方は人それぞれでいい。バラバラなほうがいい。でも、それだけでは社会生活が営めない。何らかの形で集団で共有できたものを、合意できたものとして時間内にアウトプットしていこう』(本文より引用)
同質性が高かった日本でも、この姿勢がより求められるようになる。演劇ワークショップを通じて、多様性を重視しながら共通のアウトプットを作り出す力を身につけられる環境が整っていけばいいなぁと思う。 -
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2001年に発行された書籍。
本書で指摘している点で、現在改善されているものも多いかもしれない。
芸術が市場原理に任されると、経済生活に有用で機能的な芸術しか、
地方都市には残らなくなる。
芸術を享受する際の地域格差や所得格差による不公正の是正に対して、
医療や経済生活と同様に、芸術保険制度をもうけることを提案している。
観る側からすると、とても魅力的な制度だ。実現してほしい。
直接的に若手劇団に助成できるシステムとして、
劇場に助成を行い、劇場の芸術監督がその助成金の使い道に
責任を持つことが適切な方法ではないかと述べられている。
2001年の時点でこのようなやり方がどれほどあったかは知らないが、
現在では劇場主体で活気ある若手劇団の公演を行う劇場も多い。
ラインナップから想像すると、東京芸術劇場は
こういった形での運営を行なっているのではないだろうか?
その他にも、若い世代の魅力的な公演に力を入れている劇場も、
いくつか思い当たる。
「芸術文化はなくても死なない」という言葉に対して、
三万を超える自殺者に対して、「心の教育」を叫びながら、
具体的な施策がなかったことを挙げている。
昔から、人間の精神の問題は、芸術と宗教が担ってきたと述べる。
芸術の創造と鑑賞に、時間とお金をかけて取り組むことは、
人の精神的な支えになると私も思う。
ただ、そのことは、かなり時間を要することであると思うし、
効果を測定するのも難しそうだと思う。
自分の言葉に落としこんで、多くの人に伝えたいと思った。 -
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読んでみた一番大きく感じたことは「教養が前提条件である時代の文章だなぁ」……であった。
生まれてこのかた、毎年のように活字離れが進んでいると、聞いているが、昭和初期の文学においては、「基礎教養」が求められていたと思う。例えばそれはゲーテやニーチェ、詩や哲学書、あるいは資本主義や社会主義のような思想。
書き手は、読み手にこれらの基礎があるものとして文章を綴り、読み手は知らなけれれば恥じて教養を身につけようとする。
そんな時代があったと思う。
この本が書かれたのは1979年(正確には旅に出た年)、今から約30年ほど前だ。
著者が教養を前提とするのはともかくとして、著者と手紙のやり取りをする少年たちも、「教養を知らぬこと」を恥じと感じる気持ちがあるように感じた。ぶっちゃけると、私の10代と比べ、のきちんと人格のあるように思える。
今は変化の時代と言われ、新しい情報を知ることにやっきになり、基礎教養という言葉は忘れ去られているのではないか。知らなくても別に何とも思わない。そして書き手も、そのような読み手に向け、知らないことを前提として、認識させていく文章を書く。
今の方が読みやすいけど、時折こういうものを読むと「教養」について考えさせられる。
本文とあとがきの著者の姿勢の落差が面白い。 -
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演劇好きにとっては、本当にこれが実現されたら、どんなにいい社会なんだ、とニヤニヤしながら読める本。
あまりに夢のようで、でも、平田オリザが言うと、実現できるかも、とその気になってしまう。一演出家の妄想なのにね。
芸術保険は、チケット代の高さに泣いたことのある私にはものすごく魅力的。でも、個体保存の欲求(最下層最低限の欲求)が満たされた状態でないと芸術を楽しむ心の余裕なんてないだろうから、まずは芸術を楽しめる心を持てるように、経済回復すればなぁ。
今みたいに一部の人だけの芸術じゃなく、芸術が地域や社会に自然に根付いたら素敵だとは思うけど、道のりは遠そう。
駒場アゴラ劇場が平田オリザの実家だとは。。。これにはほんとにびっくり。1億円以上の借金を背負って23歳でスタートした彼の演劇人生って小説よりおもしろそう!
アートマネージメントに興味がでてしまった。
そっち方面の本も読んでみたい。 -
Posted by ブクログ
緊張感や喜びが観ている人にも伝わって、結果としてそこに本当にはない縄が見えるようになるのが、演劇を支えているメカニズム。演出家は、このメカニズムを駆使して、虚構を本物らしく見せる。
イメージの共有のしやすいものから入っていって、イメージの共有のしにくいものへとたどり着く。
演出家の仕事は、この関係のイメージ、コンテクストを明瞭に示していくことであり、俳優の仕事は、そのイメージを的確に掴んで他者との関係を織り上げていくことにあります。
「間」を観客の想像力を見積もって、その範囲内で取ることが重要。ただし、想像力を閉じる作業も必要。どこで、観客の想像力が開き、どこで閉じていくのかを考えるのが、演出家の仕事
あたかも観客が自分で気付いたかのように仕向けるのが、演出の仕事。そのためには、どうしても、一度観客の想像力が大きく開く瞬間を作らなければならない。観客の脳の中に、無意識にいくつも選択肢を作っておいて、その中のひとつを、観客があたかも自分で選んだかのように誘導していかなくてはならない。
観客はわがまま。「分からない」と言っては怒り、「分かりやすすぎる」と言っては、また不満を言う。
観客の想像力の幅を意識して、その範囲内で作品を創ること。
社会的会話ー人間的会話の2つの会話スタイルを、バランスよく構成する
社会的なテーマを扱う作品ほど、人間的な側面を掘り下げて書かなくてはならない。人間的なテーマを扱う作品ほど、その社会的な背景をきちんと描かなくてはならない ex. 障害者のテーマ→恋愛の問題、東京物語 家族、親孝行のテーマ→都市への人口流入の問題→普遍性
俳優の演技においても同様 社会的な役柄、社会的な台詞の多い役柄を演じる時ほど、その人が、暑がりなのか寒がりなのか、紅茶が好きなのかコーヒーが好きなのかを考えなくてはならない。人間的な役割を演じる時ほど、その人の社会的な背景を考えなくてはならない。
ex. 科学者に見えるのなら標準的な科学者像から最も遠いところを探さなくてはならない 「最も遠いリアル」
いかにも科学者らしい姿を見せつけられても、観客は退屈するだけ。誰も思いつかない、しかし、形をして提示すれば「うーん、言われてみれば、たしかにそんな科学者もいるな」と思わせるそんな人間造形こそ、追求しなければならない。
喜劇、演劇的な笑いは、人間的なものが、社会的なものに浸食してきた時に起こる。 ex. タキシードを着た紳士がバナナの皮で滑る
社会的な構造を壊す、バナナの皮にあたるものを見つければ、演劇的な構造を作ることが出来る。そのために、実験を繰り返す。
作家の主題を的確に観客に伝える事を第一義とした近代演劇→世界の混沌を混沌のまま描こうとするのが、現代演劇
スタニスラフスキー メソード演技
ブレヒト 異化効果 観客が常に冷静に物語を観察し、社会への批判能力を高めるようにというのがブレヒトの「叙事演劇」