6年ほど前に読んだかな?確か。
20代に読んだ当時、結構、新鮮な気づきと価値観を貰えた気がした。
人とのコミュニケーションって分かりあうためにするもの、もしくは分かり合っている前提で、信頼の下で、通わすものだと読む前は思っていた。
けれど、他人は自分と同じ経験はどんな人にも成し得ない。
想像を働
...続きを読むかせて共感は出来るけれど、そもそも、分かり合えないことが当たり前だから(自分とは違うから)、やりとりのなかで、共通項に花を咲かせたり、新しい思考を貰って価値観の幅が広がるんだな、と。
みんな違って、みんないい
どこかで聞いたフレーズのように、個性をそれぞれで光らせるのは素敵だけど、
やっぱりともに過ごす大切なひととは、分かり合える(好きなものが同じな数が多いといいな)部分を増やしていく。そんな営みが毎日の幸せの積み重ねに思う。
感性が合うひとになかなか出逢えなくて毎日泣いてしまうけれど、世界のどこかで巡り合いたい。
分かり合える、ということは信じ合えると同義でしょうか。
信じ合う、そんな気持ちからまず、初めてみようっと。
また再読しよう。
あ、最後にひとつ。
誰かと会話をするとき、完全には分かり合えない。(だって、わたしはあなたと同じ経験は出来ないから)
その前提を押さえた上で、じゃあ、ちょっと君の物語聴かせて貰えない?
そんなふうな心持ちからの挨拶の始め方だったら、のしかかってた肩の荷も幾らか軽くなる気がした。
分かりあおう!相手を理解して、役に立てれたらいいな!そんな気張りがあるコミュニケーションは長い信頼関係には結びつかないのかも?
平田オリザさんは、そんなメッセージ、伝えたかったのかなと思いました。
前者の方が、互いに気楽で、楽しい感じする。
すぐには打ち解けないけれど、時間を重ねて、お互いの荷物を分け合って、夢を与え合えたら。
なんか、arrows聴きたくなってきた。
ついでに
真っ赤な空を見ただろうか
も。
ため息の訳を聞いてみても自分のじゃないから、分からない。
でも、知りたがる。
そこから弓の橋がかかるのかもしれない
いま、わからなくても
知りたがる気持ちを忘れずに抱きしめていけますように。
(この言葉、わかるひとには分かるでしょう)