あらすじ
【新書大賞2013第4位】 日本経団連の調査によると、日本企業の人事担当者が新卒採用にあたってもっとも重視している能力は、「語学力」ではなく、「コミュニケーション能力」です。ところが、その「コミュニケーション能力」とは何を指すのか、満足に答えられる人はきわめて稀であるというのが、実態ではないでしょうか。わかりあう、察しあう社会が中途半端に崩れていきつつある今、「コミュニケーション能力」とは何なのか、その答えを探し求めます。(講談社現代新書)
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Posted by ブクログ
「あいつ、全然わかってねーな」
「いったい何を考えているんだよ」
街中でも職場でも、わかりあえないことから生まれる痛みは多い。
いや、他人事のように書いたが、告白すると私の頭のなかでも、冒頭のような攻撃的な言葉が浮かぶことがある。そういう言葉は「自分は正しい」ことを強く後押ししてくれる気がして、一種の高揚感さえ生むことがある。
わかりあえないことは、よくないことだと思っていた。
わかりあえる人とだけ、話せればいいと思っていた。
けれどもこの本を読んで「社会なんて、わかりあえないことだらけだ」と気付いた。
社会は、一人ひとりの人間の集合体だ。
みんな違って当然なのだから、わかりあえないのは当然だ。
こう書くと、とても悲観的な響きがある。
この社会に、自分とわかりあえる人は、一人もいないのか。それってあまりにも孤独ではないか___
けれども「わかりあえない」というをまずしっかり受け止めることから、コミュニケーションは始まるのではないか、というのが本書のメッセージだと、私は感じた。
わかりあえないことはつらい。
けれども、ぼくらはわかりあいたい、とも思っている。
「わかりあえないこと」と「わかりあえること」の差。
この差分に向き合い、それをちょっとでも埋めるためのヒントが、本書にはたくさん書かれているなと思った。
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仕事で面接をする時にコミュニケーション能力がある人が良いとよく言われるがこのコミュニケーション能力とはなんぞやと思いこの本を読みました。
内容は、コミュニケーション✕演劇と言う想定していなかった視点で展開されます。
しかし、その内容は、腑に落ちるものばかりでとても満足の内容でした。
コミュニケーション能力とは、国、文化により異なり、この違いを調整することができる能力である。
私の体験談としても、大学の時のバイトや卒業研究などで多くの知らない大人と会話をしました。
この経験があったから、今までに会話したことのない人と会話に抵抗がないんだと改めて感じました。
コミニケーション能力を鍛えたい人、恐れずに会話したことない人と会話をするそれがコミニケーション能力向上の第一歩です。
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かなり身構えていた。私はマクベスを読むのをほんの数ページで断念した人間だ。演劇、戯曲、そういったものは自分と遥かに遠い世界にあると思っている。平田オリザ-劇作家、その文字を見て本当に私に読み進められる新書か自信をなくしてしまっていた。
その不安は、平田オリザの気さくな「まえがき」によって吹き飛ばされた。
ほんの少しだけ教育をかじった人間として、また企業に勤めてからほんの少ししか経っていないが人事に興味を持つ人間として、充分興味深い「まえがき」だった。
なにより「わかりあえない」ことから出立してみようという試みがよかった。理解するに難しくない語り口や例えで書いていてくれるのも、ちょっと苦手意識の味方でいてくれる。さくっと読んでしまった。面白い。
余談だが、何かをつきつめた人は強い。平田オリザもその1人だろう。何かをつきつめ、何かに興味を持つことを忘れていないからこそ、自分のこれまでやってきたことに自信を持てるのではないか。
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人生の岐路に立った時、「対話的精神」を大切にして選んでいきたい。
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「対話的な精神」とは、異なる価値観を持った人と出会うことで、自分の意見が変わっていくことを潔しとする態度のことである。あるいは、できることなら、異なる価値観を持った人と出会って議論を重ねたことで、自分の考えが変わっていくことに喜びさえも見いだす態度だと言ってもいい。
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演劇や教育現場での体験を通じて、コミュニケーションとは何かを考える一冊。とても面白く、読みごたえがあった。
冗長率を操作することの重要性、日本語には対話の言葉(対等な関係での褒め言葉など)が作られていないこと、コンテクストの「ずれ」を認識し、すり合わせることの重要性などが具体的な言葉や場面を例に挙げながら分かりやすく説明されている。
Posted by ブクログ
おすすめ北海道に行くなら富良野に行ってみたい。
現在の自分が内面の問題ばかり見ていることに気付かされた。社会的問題やこれからの日本社会は成長しない成熟期へと向かっている。長く変化しない時代はきっと苦しい。その過渡期にいるのだと感じた。
しかし、辛い苦しいとばかり言ってられない。分かり合えないことからはじめよう。これからは、これまで多様性を受け入れられないことから、生きづらさを感じていた人々の多様性が力になる時代に変化している。そして、これまで以上に個人がわかりあうための能力が必要になるだろう。
本の厚みに騙された。演劇というワードから、ここまで話が壮大になるとは考えもしなかった。
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昨今では、企業が採用時に重要視する観点ランキングに堂々たる1位として君臨している「コミュ力」である。が、定義を述べられる者はほとんどいないだろう。学生のうちは、大きな声を出して、ノリよくすることが、「コミュ力が高い」とされるが、社会に出た後で特に重要だと感じたのは、「合意形成能力」である。複数意見を統合し、シナジー効果を生み出す力であり、多様性を尊重する力である。そこに必要なのは、筆者の述べる「コンテクストのずれ」、つまり微々たる違いに敏感になり、ストレスフリーの対話を目指す力であるのかな?
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コミュニケーション能力とは何か、コミュニケーションスキルが高いとはどういうことか、スキルが高ければ人間として良い人なのか。
最近そんな疑問を抱いていたので、この本に出会えて、それらの疑問に答えを見出せそうな気がした。そもそもそれらに対して違和感を感じていたことも肯定されたようで嬉しかった。自分なりの結論にはまだ足りないけれど。でも、次に進む方向はなんとなく見えてきそう。
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2024年
鑑賞作品 No.19
現代の子ども・若者は本当にコミュニケーション能力が低いのか。その問いに一つの答えを出した本作。
真のコミュニケーション能力とそれを身につけるヒントを得ることができた。
子どもと関わるすべての人、
特に学校の先生に読んでほしい!
著者は、コミュニケーション学の専門家ではなく、心理学や工学の教授でもない。
しかし戯曲のプロフェッショナルである。
演劇という観点からコミュニケーションについて語るのは意外だったが、読むうちに、戯曲に精通する者でなければ気づかない視点にハッとした。
「相手の立場に立って考える」ということは大切なことである。それは誰もがわかっている。
しかし、それを実践できる人はほとんどいない。
なら実際に相手を演じればいいのでは…?
これが私の一番の気づきである。
Posted by ブクログ
数年ぶりの再読。いま改めて読んで本当に良かった。この本好きだな。仕事で受ける社内のウザったい問い合わせに対しても優しくなれる。結局これって対話のプロセスなんだ。対話のプロセスを辿るってことはすなわちその前提に違う価値観とか背景があるということ。別に以心伝心にわかりあえなくていい。わかりあう必要もない。でも真摯に言葉を尽くして少しでもお互いを理解して歩み寄れるようになるためのプロセスを経ることは間違いなく重要。そう思えばいちいち回答するのもそんなに苦ではないような気もする。もちろん多少はイライラするけどそこは寛容に。対話のためのトレーニングの1つ。書かれていたとおり、日本語教育からは対話の目的・意義・やり方が抜け落ちている。たぶん誰もが真摯に対話をできるわけではない。だから説明をしてあげる相手が対話を対話と認識していないと意味がないんだけど、でもこちらが少なくとも対話をし続ける姿勢を示すことに意味はあると思う。そう信じてやっていきたい。それってますますこれからの人事労務屋に求められるコミュニケーションなんじゃないかと思う。
Posted by ブクログ
対話=異なる価値観を擦り合わせていく行為である といった話や、自分と価値観の違う価値観やライフスタイルの違う他者と接触する機会をシャワーを浴びるように増やしていくことが大事という話に特に共感した。
演劇が他者の感情や価値観を理解するのに役立つということが新しい発見だった。
Posted by ブクログ
第一章 コミュニケーション能力とは何か?
p20
日本のこれまでの表現教育というものは、教師が子どもの首を絞めながら、「表現しろ、表現しろ!」と言っているようにしか見えない。そういう教員は、たいていが熱心な先生で、周りも「なんか違うな」と思っていても口出しができない。
私は、そういう熱心な先生には、そっと後ろから近づいていって肩を叩いて、「いや、まだ、その子は表現したいと思っていませんよ」と言ってあげたいといつも感じる。
p25
では、その「伝えたい」という気持ちはどこから来るのだろう。私は、それは、「伝わらない」という経験からしか来ないのではないかと思う。
p28
若者全体のコミュニケーション能力は、どちらかと言えば向上している。
p29
全体のコミュニケーション能力が上がっているからこそ、見えてくる問題があるのだと私は考えている。それを私は、「コミュニケーション問題の顕在化」と呼んできた。
p37
コミュニケーション能力は、せいぜい「慣れ」のレベル
p39
私たちは、これまでの社会では子どもたちが無意識に経験できた様々な社会教育の機能や慣習を、公教育のシステムの中に組み込んでいかざるをえない状況になっている。
第ニ章 喋らないという表現
p47
・・・ある種の言語規範を、あらかじめ一方的にすり込んでしまっては、子どもたちの学びの機会はなくなってしまう。
私が公教育の世界に入って一番に驚いたのも、実はこの点だった。教師が教えすぎるのだ。
p58
無前提に「正しい言語」が存在し、その「正しい言語規範」を教員が生徒に教えるのが国語教育だという考え方自体を、完全に払拭しなければならない。
「正しい言語」が自明のものとしてあるという考え方を捨てて、言語というものは、曖昧で、無駄が多く、捉えどころのない不定型なものだという覚悟を持つということを意味する。
第三章 ランダムをプログラミングする
p62
どうも私たちがロボットなりアンドロイドなりを「人間らしい」と感じるのは、その動きの中に無駄な要素、工学者がよく言うところの「ノイズ」が、的確に入っているときだという点だ。
人間は何かの行為をするときに、必ず無駄な動きが入る。
こういった無駄な動きを、認知心理学の世界ではマイクロスリップと呼ぶそうだ。
p65
どうも人間というのは、複雑な動きをきちんと記憶するときには、インプットとアウトプットを、同時に記憶しているらしい。
p69
どうも長期的な記憶は、様々な新鮮な体験の組み合わせによって起こるらしい
メチャクチャに、子どもの興味の赴くままに、いろいろと教えた方がいい
p74
いままでの日本の教育は、子どもの関心の伸びる方向を無視して、教師の教えやすいように教えてきたのではなかったか。教え漏れがないように、全国一律、疎にして漏らさない(つもりの)ような授業が求められてきたのではなかったか。
第四章 冗長率を操作する
p81
私たちは、普段の日常生活では、強弱のアクセントはほとんど使わないと言っていい。
p88
語順によって文の意味内容が厳密にけっていされていく印欧語族の母語話者に対して、初級、中級のレベルで、あまりに日常的な日本語会話を教科書に載せても、ただ混乱を招くだけの結果となる。
p104
日本型のコミュニケーションだけに慣れてしまっていると、海外での対話の時間に耐えきれずに、「何でわからないんだ」と切れるか、「どうせ、わからないだろう」とあきらめてしまう。演劇に限らず、音楽、美術など、どのジャンルに置いても海外で成功している芸術家の共通点は、粘り強く相手に説明することをいとわないところにあるように思う。
本当に必要な言語運用能力とは、冗長率を低くすることではなく、それを操作する力なのではないか。
第五章 「対話」の言葉を作る
p116
日本語には対等な関係で褒める語彙が極端に少ない。
p117
「対等な関係における褒め言葉」という日本語の欠落を「かわいい」は、一手に引き受けて補っていると言ってもいい。
p119
現代社会は、ジェンダーや年齢といった区別なく、対等な関係で「対話」を行うための言葉を生成していく「過渡期」だと言っていいだろう。
p122
職場では、こういった丁寧な言い回しを、役職の上下を問わず地道に習慣づけていく。それ以外に、新しい「対話」の言葉を定着させる方策はない。
p123
日本語は、大きな諸言語の中で、もっとも性差の激しい言葉の一つである。このことが、無意識のレベルで女性の社会進出を阻んでいることは、おそらく間違いない。社会の変貌と共にこの点が変わっていくのは、もう止めようのない変化である。実際に、中高生くらいまでは、話し言葉の男女差は、急速に縮まってきている。
第六章 コンテクストの「ずれ」
第七章 コミュニケーションデザインという視点
第八章 協調性から社交性へ
Posted by ブクログ
高校の時に読んでなんで読めたのか理解できない、何もわからず読んだか諦めたんだだろう、、笑
当時より今読んだ方が、社会情勢を踏まえて面白いかもしれない。
国際化がより普通となった現代、一方で奥ゆかしさなどの文化が犠牲になっていく。
対話部分が一番おもしろかった。日本に根づいていないし、根付けばいいなと思う。対話の難しい部分は、こちらが対話をする気満々でも相手に対話の体力や経験がないと受け入れてもらえない(対話自体が一切成り立たない)ことである。とにかく否定ではなく、私はこう思っていて、あなたはどう思っているの?このラリーが「あなたを否定しているわけではなく、私はあなたと話して結論を探したいのです」とわかってもらえるようになるにはどうしたらいいのだろうか。
~~抜粋~
関係がなければ言葉は生まれない
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工業立国においては「ネジを90度曲げなさい」と言われたら、90度曲げる正確性とその能力が求められてきた。
しかし、付加価値(人との違い)が利潤を産むサービス業中心の社会においては、略 60 度曲げてみようという発想や勇気、あるいは「120度曲げてみました、なぜなら」と説明できる表現力やコミュニケーション能力が重要視される
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教室で習う星座の名前より、キャンプ場でお父さんから習った星座の名前を、子どもたちはよく覚えているでしょう
キャンプ場では、たき火の残り香や、川のせせらぎ音、そして何よりお父さんの優しい笑顔と共に、子どもたちは星座の名前を記憶していく。(略)ここにおそらく、教室での教育よりも、体験教育や科目横断的な総合学習がすぐれている根拠がある。
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日本社会には、この「対話」という概念が希薄である。(略)一般に、日本社会は、ほぼ等質の価値観や生活習慣を持った者同士の集合体=ムラ社会を基本として構成され、その中で独自の文化を培ってきたと言われてきた。(略)私はこのような日本社会独特のコミュニケーション文化を、「わかりあう文化」「察し合う文化」と呼んできた。
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「温室のようなコミュニケーション」
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一方、ヨーロッパでは、異なる宗教や価値観が、陸続きに隣り合わせているために、自分が何を愛し、何を痛み、どんな能力を持って社会に貢献できるかを、きちんと他者に説明できなければ無能の烙印を押されるような社会を形成してきた。これを私は「説明し合う文化」と呼んでいる。
(略)「察し合う」「口には出さない」というコミュニケーションは、世界においては少数派だ。
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「対話的な精神」とは、異なる価値観を持った人と出会うことで、自分の意見が変わっていくことを潔しとする態度のことである。あるいは、できることなら、異なる価値観を持った人と出会って議論を重ねたことで、自分の考えが変わっていくことに喜びさえ見出す態度
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(AとCの意見、結論A’のような意見になったとして)とことん話し合い、二人で結論を出すことが、何よりも重要なプロセスなのだ。(略)
★異なる価値観と出くわしたときに、物怖じせず、卑屈にも尊大にもならず、粘り強く共有できる部分を見つけ出していくこと。
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日本人はシマ国・ムラ社会で、比較的のんびり暮らしてきたので、そういうことを声や形にして表すのは野暮だという文化の中で育ってきた。
Posted by ブクログ
人は文化や環境で考え方がそれぞれ異なる。「みんな違って大変だ」。この前提で人との察し方を考える。筆者が演劇への深い考察から得た結論が、豊富な事例を元にまとめられている。以下、エッセンスというか、自分なりのトピック。
人間らしいロボットは、その動きの中に無駄な要素、ノイズがあり、それが的確に入っているらしい。人間は何かの行為をするときに必ず無駄な動きが入る。認知心理学の世界ではマイクロスリップという。優れた俳優も、このマイクロスリップを演技に取り入れている。
長期記憶のメカニズム。ある程度明らかなのは、様々な新鮮な体験との組み合わせによって起こるらしい。
会話の冗長率。一つの段落、一つの文章に、どのくらい意味伝達とは関係のない無駄な言葉が含まれているかを数値で表したもの。会話はお互いが知り合い同士だから冗長率は高くならない。最も高くなるのは対話。異なる価値観を擦り合わせていく行為だから。
列車の中で他人に声をかけるかどうか。文化によって異なる。これがコンテクストのズレ。日本人は1割しか声をかけない。話しかける相手によるところもあり、怖そうな人には話しかけないが、相手が赤ん坊を抱いていてじゃれついてきたりすればかわいいですねと話しかける。日本はシマ国家・ムラ社会なので多くを語るのは野暮という雰囲気。アイルランド人はほぼ全員雑談のように声をかける。イギリスの上流階級はマナーとして他人には声をかけない。アメリカやオーストラリアでは5割。多民族国家では悪意を持っていないことをこちらから示す必要があるため。
胸が痛いんですと患者に言われた時の看護師の反応。よくないのは一緒にパニックになる。どのように?いつから?など尋ねるのは普通。胸が痛いんですねとオウム返しにまず答えると一番患者を安心させる。患者が受け止められ、自分に集中してくれてると感じられるから。
Posted by ブクログ
コミュニケーションってなんなの?を演劇人であり教育者である著者からコツコツ教えてもらった感じ。
新書ってあんまり読んだことなかったけどサクサク読み進められた。
みんなちがうから、わかりあえないから、を前提として協調性だけでなく社交性を磨くことが大事だとわかった。
Posted by ブクログ
わかりあえないことから。
このタイトルのとおりのコミュニケーション論。
この本を読んだのは2度目だが、初めて読んだときに衝撃を受けたのを覚えている。
コミュニケーションは“わかりあえないこと”から始める必要がある。
自分としてはずっと“わかりあえるもの”としてコミュニケーションをとっていたわけだけれど、この本を読んで、なるほど!と思った。
たしかに生きてきた環境も違えば、当然価値観も考え方も違う。趣味趣向も違えば、好きなもの嫌いなものも違う。そんな人たちと関わり合うのが社会だ。
そりゃあ、わかりあえないだろうよ。
そう思ったら至極気が楽になった。
まずは“わかりあえない”から始める。
“わかりあえない”というズレを少しでも擦り合わせるために、コミュニケーションが存在する。
本当にたくさんの人たちに読んでもらいたい作品。
Posted by ブクログ
あらゆる企業の新人採用において重視される項目であるところの「コミュニケーション能力」とは何なのか。一般論と教育論、そして演劇をからめて、議論は展開していく。
日本語においては区別が曖昧な、対話(ダイアローグ)と会話(カンバセーション)、そして対論(ディベート)の違いを明確にし、対話的精神、いやそれよりも、「対話の基礎体力」の重要性を説く件は深く納得。
冗長率(意味伝達と関係のない無駄な言葉の含有率)は、実は「対話」に最も多いのだという。小津安二郎の映画を題材に、夫婦だけの会話のシーンに、近所の他人がひとり加わった瞬間「まあ、」とか「いやあ、」とかの間投詞が増え、それが対話に切り替わる様が説明される。
そしてなんと、話の上手い人、説得力のある人は、この冗長率を操作しているという。確かに、夫婦間の会話では無駄を省いた最低限の情報交換になりがち(そのせいで心遣いの不足したやり合いになることもあるなあ)で、仕事上の対話では相手の出方や表情の変化を汲んで落とし所を探るのに、間投詞を使いながら間を開けたりしているかも。
コミュニケーション能力に直結するキーワードとしては、コンテクスト(文脈)がある。誰もが思い通りに言葉を操っているわけではないから、相手がどのような想いでその言葉を発するに至ったのかを汲み取る力が必要だ(医療や看護の現場の事例を挙げて説明してくれる)。
これからの時代に求められるリーダーシップとは、人々を強く引っ張っていく能力ではなく、『弱者のコンテクストを理解する能力だろう』との見識に、私は賛同する。
終盤、コミュニケーションとは何かの問題に再度取り組む。
「『心から分かり合えなければコミュニケーションではない』という言葉は耳に心地よいけれど、そこには、心からわかりあう可能性のない人々をあらかじめ排除するシマ国・ムラ社会の論理が働いてはいないか」。
だから、この本のタイトルのとおり、「わかりあえないことから」始めて、分かり合える部分を探っていく「対話」を続ける、「対話の基礎体力」をつけましょうと。
「このような話を教育関係の講演会ですると決まって、あ、金子みすずですね。『みんなちがって、みんないい』ですねと言う先生方がいる。私はそうは思わない。そうではないのだ。
『みんなちがって、たいへんだ』という話をしているのだ。」
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人は演じる生き物である、というフレーズがとても印象的だった。
また、海外でものの捉えが異なることなど、常識だと思っているものを疑ってみることの大切さを改めて実感した。
Posted by ブクログ
人から聞いて読んでみた本。タイトルの「わかりあえないことから」。異文化同士はもちろん、同じ日本人同士であってもこの前提は大切。それは異文化に見をおいて仕事をする中で漠然と感じていたことではあった。そのうえで、わかりあえるための努力を惜しまず出来るかどうか。日本人が国際社会で生き抜いていく(成功していく)ための秘訣であると、眼を開かされたように感じた。日本がどのような文化を持ち、他者はどのような文化を背景に持っているか。これを意識的に考えるだけでもコミュニケーションは違ってくるだろう。「みんなちがって、たいへんだ」、その通りだと思う。でもだからこそ、多様な価値観から新しい何か、高いパフォーマンスが生まれる、それが多文化の強味だと私も思う。日本はそうじゃないと思ってきたけど、価値観が多様化し、バラバラになっていく社会で日本でもそうしたコミュニケーション観の転換が必要との主張に納得した。
コミュニケーション能力が必要と言われるようになって久しいが、それがよく分からなかった。それは学べるものなのか、とも思っていた。日本と海外の教育のことから、コミュニケーションをデザインする、ということまで、丁寧にわかりやすく書かれており、とても勉強になった。時折り読み返して深めたい。
Posted by ブクログ
私が考えてるコミュニケーション能力とはまた違った視点で書かれていてとても興味深かった。
演劇を通すからこそ見えてくるコミュニケーションという、心理学ともまた違う視点。
国や個人の歴史・経験・文化や育ちから生まれる少しずつの人の違い。
移動しやすくなった今の時代だからこそ、その当たり前の事実をもう一度再認識するべきなのかもしれない。
もちろん日本人の大事な部分は守りつつ。
Posted by ブクログ
一度チャレンジして、途中で返却してしまったけどついに最後まで読めた。所々にほぉ〜ってなる(見聞が広がるような)ことが書いてあり面白かった。対話の基礎体力、それと学びと知性がもたらす美しい時間!
Posted by ブクログ
当然のことながら演劇がベースにあるし、「答え」のための「手段」が書かれているわけではないのだけど、それを期待してしまっていた自分に気がついてちょっと自省。
「サモワール」の話はそうだよなあと確かに、と思いながら、他者とのあたりまえの違いを偏見でスルーしてしまう日常への気づきのヒントが得られてよかった。
Posted by ブクログ
著者の平田オリザさんは演劇人で、
僕は大学生の頃に友人が録画してくれたNHK-BSか何かの番組で、
そこに出演されていたのを見たことがありますが、
どんな人なのかはそれから何年かを経て知ることになりました。
鳩山首相のスピーチの台本を書いていたりもしたみたいですね。
大阪大学では演劇を中心としたコミュニケーションの講義をされているようです。
僕の好きだったボウリングが出てきたり、
僕の住む街の名前が出てきたり、
前回読んだ、みうらじゅんさんの「自分無くし」に通じるような、
「演じる自分」を楽しむようにしていこうという主張だとか、
すごく自分にとって、自分とリンクした情報の載っている本でした。
こういうのって、運が良いというか、運命というか、
そういうものを感じます。
みんな、感じ方や考え方が違って大変ななかでどうしようか、
っていうまとめが最後の章なんですが、
そのへんの考え方というか、目のつけ方は、
僕の最初の短編小説に通じるものがあって、
自分の作ったのだけれど読みなおしてみようかと思うくらい。
また序盤ででてきたのが、いたるところででくわすアレ。
いったいどっちよ?どっちを信じればいいのよ?っていう
矛盾的指図だとか、規律と現実の矛盾だとか。
そういうのって「ダブルバインド」というそうですね。
社会や家庭やいろいろなところでのそういうのがひきこもりの大きな一因なんだとか。
「コミュニケーション解決能力を持て!」というのと、
社会に浸透する同調圧力。これも大きなダブルバインドだとか。
提案したり発言したりをよしとしながら、
一方では空気を読んで発言を控えろとか発言で波紋を作るなとかいわれるアレです。
建前が「提案や発言をしろ!」で本音が「波風立てるな、同調しろ」だったら、
社会はもう「GAME OVER」って感じがしました。誰も参加したがらない。
まぁ、本音と建前じゃなしに、やっぱりどっちも本音としてあるんでしょうね、
だからダブルバインドなんです。
それも全くもってよろしくないわけですが、
著者はそういうのも甘受して、受け止めていこうと言っています。
一段階ぐっとおなかに力が入るようでいながら、
力が抜けていくような決意が必要というわけです。
コミュニケーション能力が低くなったわけではない、
コミュニケーションの意欲が低下しただけだ、という観点から始まります。
僕もそんなにコミュニケーションが上手くはないし、
意欲もそれほどないような気がするので、
自分もまだまだ途上段階の若者であるかのように読みました。
わかりあえる、か、わかりあえない、か。
どっちを前提にコミュニケーションをしていくか。
僕は前にも記事に書いたことがあるけれども、後者なんですよね。
それで、共通項を探っていくけどもそれで万事がわかりあえたような錯覚はしないし、
わかりあえないと感じれば排除するというムラ社会的な行為はしない。
たぶん、これからもそうやって生きていきます。
Posted by ブクログ
わかりあえないことを前提にして多様な人と生きる。
そのために演劇という手法が効果的である。
コミュニケーション力とか言われると相手を説得するとか、納得させるといった流暢性に行き着くことが多いように思う。
そうではなくて、どうでもよいようなフィラーや表現にこそコミニュケーションの本質があるんだということ。
あとはわからないことをわからないということ。それが自分には難しいなかなか言えない。
見栄ばかり気にして。
演じるとは何か。分人主義。適当な場で適当な役割を。適当なってなんだ?
自分を騙すのは演じるとは違う?じゃあ自分は自分を騙してばかり…楽しむことが大切なのかな?
コミニュケーションについてわかった気になってまたわからなくなる。そんな一冊でした。
Posted by ブクログ
人は誰しも「わかりあえない」壁に突き当たる。家族でさえ意見は食い違い同僚とも誤解が生じる。そこで試されるのがコミュニケーション能力だ。単に言葉を巧みに操る力ではない。相手の立場を想像し違いを前提に橋を架ける姿勢こそが肝要である。だが社会はしばしば「空気を読む」ことを強調し異論を控える態度を美徳としてきた。その結果対立は覆い隠され議論の芽は摘まれる。平田オリザはむしろ「わかりあえない」ことから始めよと説く。差異を直視する勇気が共生の第一歩になるからだ。意見の衝突を恐れずに対話を重ねる。そこから生まれる理解は薄紙を重ねるように確かなつながりへと変わる。
Posted by ブクログ
わかりあうことを前提とするのではなく、わかりあえないことを前提としてコミュニケーションを繰り広げていくという内容の本。
しかし、具体的な例は演劇を利用したものばかりな点と著者自身も他者への決めつけが多そうな点がやや不満だった。
哲学で重複する内容だと「大きな物語から小さな物語へ」「バザールとクラブ」などが挙げられるであろう。
Posted by ブクログ
職場でのコミュニケーションについていろいろ思うことがあり、少しでも自分の視野を広げることができればと思い購入。
本作はコミュニケーションについてのハウツー本ではない。そもそも「コミュニケーションとは?」、「本当に現代人はコミュニケーション能力がないのか?」などなどを掘り下げていく内容となっている。
印象的だったのが、作者さんは劇作家ということもあり、コミュニケーションを演劇の側面で考えているのが面白かった。
コミュニケーション=以心伝心がとれて分かりやすい、みたいなイメージがあるけれど、作者さんに言わせれば「話さない」、すらもコミュニケーション(というか表現、といった方がいいかもしれない)に捉えている。本作を読んだことでコミュニケーションに対する認識が広がったように思う。
また、タイトルにもあるように「わかりあえない」という前提でコミュニケーションをとることで、うまく意思疎通ができないことに絶望したり、悲観的にならなくてすむようになると思う。「わかりあえない」なかで、たった少しでも分かり合えたことを喜びとしましょう、とする本作の主張は新鮮だった。
Posted by ブクログ
・ダブルバインド(二重拘束)
二つの矛盾したコマンドが強制されている状態
・教育の役割
社会の要請に応じて、最低限度の生きるためのスキルを子どもたちに身につけさせて世間に送り出すこと
・喋らない、いないも表現の一つ
・日本語の特性
強調したいものは語頭にもってくる
強弱アクセントによって感情を表現する×
・対話の基礎体力をつける
2人でとことん話し合い結論を出すことが重要なプロセス、意見が変わることは恥ずかしいことではない
・子供と接する時の優れたコミュニケーション
子供のコンテクストを受け止めて、さらに受け止めているよということをシグナルとしてら返してあげることが重要
・エンパシーとは
わかりあえないことを前提にわかりあえる部分を探っていく営み