平田オリザのレビュー一覧
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Posted by ブクログ
「私は この小説を書くときに、読んでくださる人が小学六年生までの漢字を読む力があれば読んでもらえるものと思ってこの作品を書き始めました」
と「氷点」を書いた三浦綾子さんがいってらっしゃいました。
この本の中で出張授業をされる先生たちは
もちろん、その道のプロフェッショナルの方たちです
そして、聴いている対象者たちは 中学生、高校生たち
その語り口が そのまま 一冊の本にまとめられました
その「語り口」を読んでいて
冒頭の三浦綾子さんの言葉を思い起こしたのです
本当の専門家は
ただ感心させるだけでなく
それなら 僕も(私も) 何かやってみよう
そんな気にさせてくれる方なのです -
Posted by ブクログ
1997年9月から2000年9月まで雑誌に連載された、平田オリザの日本語に関するコラムを集めたもの。「対話と会話の違い」にスポットを当てた文章に始まり、日本語の様々な特性や問題点、その背景にある日本社会や日本文化について論じている。15年以上前の文章なので、さすがの平田オリザもまだ若く、最近の文章に比べると若干の硬さや性急さが感じられるのが面白い。逆に言うと、最近の彼の文章や発言は、昔よりも肩の力が抜け、ますます達人の域に到達していることが分かる。意地悪く言うと、この頃よりも毒気が薄れている印象もあるが。
内容については、極めて新しい視座は少ないものの、漠然とした概念を実に理路整然とした言葉にまとめている点に感心させられる。すでに述べた「対話と会話の違い」をはじめ、「コンテクストのずれ」に関する文章など、痛いほどよく分かる。平田が全編で最も言いたかったであろう「日本社会/日本語は対話のための言葉を持ちえなかった」という主張にも納得。ただし「対話の言葉」を獲得するレッスンのために演劇が必要だという話は、いささか我田引水の感を拭えない。もちろん演劇も確実にその一端を担うことになるだろうが、この問題は演劇以外の様々な芸術やメディア、そして何よりも教育が、根本から少しずつ変わっていくしかないだろう。なお「少しずつ」と加えたのは、言葉の急速な変化が生み出す弊害も、この本を読むことでよく分かるからだ。15年以上前の文章なのに、問題は今日でも全く変わっていない…とつい言いたくなるが、15年程度で言葉の問題が一変するようでは、確実に何らかの弊害が生じる。言葉も、その背景にある社会や文化も、少しずつ、しかし着実に変化していくしかない。そのための指標として、この本は大きな役に立つだろう。学校の国語の教科書に収録したい(もうされているのかな?)。 -
Posted by ブクログ
リアルな演劇の脚本を書くためのハウ・ツー本の体裁をとりながら、著者自身の演劇の捉え方が明らかにされています。
本書はまず、演劇をリアルなものにするために、「セミパブリック」な空間・時間を利用することや、「遠いイメージから入る」といったテクニックを紹介しています。その一方で、そうした工夫が「役者と対象、あるいは役者と観客との間で「コンテクストを摺り合わせる」こととして捉えることができるというアイディアが示され、均質性の高い日本社会においては「対話」の伝統が育まれてこなかったことなどに触れつつ、「コンテクストを摺り合わせる」という観点から演劇を包括的に捉えなおすような視座が示されることになります。
演劇の見方を解説した本だと思っていたので、ちょっと期待外れかな、と思いながら読み始めましたが、演劇におけるリアルを追求することが、メタ演劇的な考察につながっていることが明らかになっていくスリリングな議論の運びにしだいに興味を引かれ、おもしろく読めました。 -
Posted by ブクログ
著者の平田オリザさんは演劇人で、
僕は大学生の頃に友人が録画してくれたNHK-BSか何かの番組で、
そこに出演されていたのを見たことがありますが、
どんな人なのかはそれから何年かを経て知ることになりました。
鳩山首相のスピーチの台本を書いていたりもしたみたいですね。
大阪大学では演劇を中心としたコミュニケーションの講義をされているようです。
僕の好きだったボウリングが出てきたり、
僕の住む街の名前が出てきたり、
前回読んだ、みうらじゅんさんの「自分無くし」に通じるような、
「演じる自分」を楽しむようにしていこうという主張だとか、
すごく自分にとって、自分とリンクした情報の載っている本でした。
こういうのって、運が良いというか、運命というか、
そういうものを感じます。
みんな、感じ方や考え方が違って大変ななかでどうしようか、
っていうまとめが最後の章なんですが、
そのへんの考え方というか、目のつけ方は、
僕の最初の短編小説に通じるものがあって、
自分の作ったのだけれど読みなおしてみようかと思うくらい。
また序盤ででてきたのが、いたるところででくわすアレ。
いったいどっちよ?どっちを信じればいいのよ?っていう
矛盾的指図だとか、規律と現実の矛盾だとか。
そういうのって「ダブルバインド」というそうですね。
社会や家庭やいろいろなところでのそういうのがひきこもりの大きな一因なんだとか。
「コミュニケーション解決能力を持て!」というのと、
社会に浸透する同調圧力。これも大きなダブルバインドだとか。
提案したり発言したりをよしとしながら、
一方では空気を読んで発言を控えろとか発言で波紋を作るなとかいわれるアレです。
建前が「提案や発言をしろ!」で本音が「波風立てるな、同調しろ」だったら、
社会はもう「GAME OVER」って感じがしました。誰も参加したがらない。
まぁ、本音と建前じゃなしに、やっぱりどっちも本音としてあるんでしょうね、
だからダブルバインドなんです。
それも全くもってよろしくないわけですが、
著者はそういうのも甘受して、受け止めていこうと言っています。
一段階ぐっとおなかに力が入るようでいながら、
力が抜けていくような決意が必要というわけです。
コミュニケーション能力が低くなったわけではない、
コミュニケーションの意欲が低下しただけだ、という観点から始まります。
僕もそんなにコミュニケーションが上手くはないし、
意欲もそれほどないような気がするので、
自分もまだまだ途上段階の若者であるかのように読みました。
わかりあえる、か、わかりあえない、か。
どっちを前提にコミュニケーションをしていくか。
僕は前にも記事に書いたことがあるけれども、後者なんですよね。
それで、共通項を探っていくけどもそれで万事がわかりあえたような錯覚はしないし、
わかりあえないと感じれば排除するというムラ社会的な行為はしない。
たぶん、これからもそうやって生きていきます。