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世の教育に携わる人は必読だと思った。これからの公教育の目指すものは学びの個別化と、自ら学ぶ力だと言ってる。
苫野一徳
1980年生まれ。熊本大学准教授。博士(教育学)。関西学院高等部、早稲田大学教育学部卒業。同大学院教育学研究科博士課程単位取得満期退学。早稲田大学教育・総合科学学術院助手、日本学術振興会特別研究員などを経て現職。専攻は、哲学・教育学。
自身の著書『子どもの頃から哲学者』において、17歳から8年続いた躁鬱病(双極性障害)を哲学によって克服したことを告白している。
教育の力 (講談社現代新書)
by 苫野一徳
教育の世界に身を置いていていつも心苦しく思うのは、みんな...続きを読む 善意や熱意から教育を論じ合うのだけれど、ある種独りよがりなそれぞれの〝思い入れ〟や〝思い込み〟がどうしても先走ってしまい、そのために、不毛な対立がいたるところで起こってしまっていることです。 それは時に、〝われわれ〟と〝あいつら〟という、単純な二項対立の様相を呈します。「ゆとり教育、是か非か」「道徳教育の強化、是か非か」「いじめに対する厳罰処置、是か非か」など、教育をめぐるあらゆる問題は、単純な二項対立図式で論じられてしまいやすいものなのです。
序章で述べたように、それは最も根本的には、一人ひとりの子どもたちが〈自由〉になる、つまりできるだけ「生きたいように生きられる」ようになるための〝力〟のことです。 ではこの〝力〟、具体的には何を表すのでしょうか。 さしあたり、大きく次の二つに焦点化することができるだろうと思います。 一つは、いわゆる「学力」、もう一つは、序章でも述べた「相互承認の感度」です。 いうまでもなく、学校は「学力」を育むための場として存在しています。しかしそれだけでなく、前章で論じた通り、学校は「相互承認の感度」をすべての子どもたちに育むためにも存在しているのです。
ところで、この「学力」という日本語独自の言葉ですが、教育学においても膨大な研究や議論の蓄積があるものの、いまだに使う人によって込める意味がバラバラで、いつも議論を混乱させる要因になっているのが現状です(石井二〇一〇参照)。
たとえば、一九九八年改訂の学習指導要領で「教育内容の三割削減」が打ち出され、その後いわゆる「ゆとり教育」批判が過熱することになりましたが、学力を「知識量」と捉える立場からすれば、当然それは「学力低下」を生むと危ぶまれることになります。しかし、学力を「問題解決能力」と捉えるもう一方の立場からすれば、知識量それ自体の減少は、それほど大した問題ではないということになります。どうせすぐに忘れてしまうような細かな知識をため込むより、必要なのは自ら思考する力なのだ、というわけです。
産業主義の時代、企業の従業員の多くに求められていたのは、少し奇妙ないい方ではありますが、企業によってある意味「訓練されやすい」力だったといえます。一部の経営者層の指示の通りに、大多数の労働者層の人びとが、商品を大量に生産し流通させる。それが産業主義社会における基本的な労働のあり方でした。それゆえ、経済社会の人びとの多くに求められていたのは、ある意味では、与えられた仕事をいわれた通りにこなす力だったといえるのです。 とすれば、決められた学習内容を決められた通りにこなし、その成果を受験で競うという教育のあり方にも、ある種の合理性があったといえるかもしれません。極端にいえば、企業は学校で「何を学んだか」よりも、むしろ忍耐強く勉強する姿勢の方を求めていたのです。
しかしポスト産業社会の今日、事情は大きく変わりました。すでにさまざまな商品が社会に行き渡っているポスト産業社会においては、企業はただ商品を大量生産するのではなく、さまざまなサービスや付加価値を見出し続けなければなりません。経済のグローバル化に伴って、さまざまな局面での国際競争も激化しています。さらには、株主、顧客、従業員、地域社会の人びとなど、多様な声を聞き入れるとともに、環境問題や慈善事業への貢献など、社会的役割も求められるようになっています。
それはつまり、 今日、企業に勤める多くの人たちは、いわれたことをいわれた通りに忠実に遂行するだけでなく、その場その場において、自ら考え、そして絶えず「学び続ける」ことを求められているということです。 しかしその一方で、今日、多くの企業は、長期にわたる人員削減におよんでおり、また比較的安定した正規雇用の割合を減少させ、パートタイム雇用者や期間雇用者の割合を増やし続けています。この問題はきわめて深刻で、特に若者の失業率の高さや不安定な雇用は、これからの社会基盤を揺るがす大きな問題です。解決に向けた、真剣な努力が必要です。
誤解のないよういっておかなければなりませんが、公教育は、企業が求める人材を育成するためにあるわけではありません。前章で述べたように、その本質は、子どもたちが〈 自由の相互承認〉 の感度を育むことを土台に、〈自由〉になるための〈教養=力能〉を育むことにあるのであって、単に優秀な企業人を輩出するためにあるわけではありません。
つまり現代社会においては、プロフェッショナルの専門知さえも、いやむしろ専門知こそが、時々刻々と変わっていかざるを得ないものになっているのです。それはつまり、プロフェッショナルさえも、いややはりプロフェッショナルこそが、自らがそれまでに得た知識や技能を絶対視し安住することなく、絶えず学び続けなければならなくなっているということです。 ちなみに今の小学生は、社会に出る頃、その六、七割が今はまだない職業に就くだろうといわれています。その意味でも、これからの子どもたちは、もはや決められたコースをただいわれるがままに進んでいけばいいというわけではなく、まさに「自ら学び続ける」力が求められるようになっているのです。
このように、今日ではだれもが多かれ少なかれ「自ら学び続ける」ことを求められているわけですが、とすれば、今、教育にその育成が求められている「学力」も、この観点からその本質を取り出す必要があるでしょう。「目的・状況相関的方法選択」の考えにのっとって、公教育の「目的」──〈自由〉および〈自由の相互承認〉の実質化──をできるだけ達成するために、現代という時代「状況」──知識基盤社会──においては、どのような「学力」が必要か、そう考える必要があるのです。
現代の公教育がその育成を保障すべき「学力」の本質、それはとどのつまり、「 学ぶ ─ 力」のことである、と。教育は、子どもたちに「学ぶ力」を育むことで、その後の長い人生において「自ら学び続ける」ことを可能にする、その土台を築く必要があるのです。先述したように、それは必要な時に必要な知識・情報を的確に〝学び取る〟…
このような「学力」観の転換は、知識基盤社会の進展に加えて、テクノロジーの進歩を背景に、もうずいぶん前からいい尽くされてきたことです。たとえば、今やわたしたちは、細かな知識を自分の中にため込んでいなくとも、インターネットで検索すれば瞬時にその知識・情報を得ることが可能です。とすれば、わたしたちに必要なのは、繰り返しますが、信頼できる知識・情報を、必要に応じて自ら見つけ出し学び取っていく〝力〟だということができるでしょう。知識の〝…
そもそも、どれだけたくさんの知識を子どもたちに外部から──つまり必要や興味・関心とは無関係に──つめ込んだところで、子どもたちの多くは、そのかなりの部分を結局は忘れてしまう傾向があります。このことについてはさまざまな研究で明らかにされていますが、だからこそ、学校では細かな知識を覚え込ませるよりも、むしろ「学ぶ力」を核にした学びを展開するべきだという考えが強まっているのです(ただしその一方で、実生活で必要な知識の大半もまた、実はわたしたちは学校で学んでいるのだということも…
その意味で、いわゆる「ゆとり教育」は、それが知識の単なる「ため込み」だけでなく、むしろ「学ぶ力」を育むことを重視しようとした教育方針だったのだとするならば、その限りにおいて、ある程度、…
「ゆとり教育」は、広義には、「ゆとり」という文言が学習指導要領にはじめて登場した一九八〇年前後からの、またごく狭義には、二〇〇二年に完全実施された、学校週五日制や教育内容の三割削減等を 謳った教育方針を指します。
たとえば、いわゆる左派の人たちの多くは、「ゆとり」を子どもの主体性を尊重した教育として、また学校週五日制なども、労働者としての教師という観点から、当初これを歓迎しました。他方、左派とはかなり対立的な、いわゆる新自由主義の立場の人たちもまた、これを教育の民営化の契機として歓迎しました。学校の役割を縮小した分、民間の役割が大きくなり教育市場が拡大するというわけです。
そうした中、一方の左派の中から、学校の役割を縮小すれば格差が広がるという観点から「ゆとり」批判が寄せられるようになり、また立場を問わず、「学力低下」を招くとの批判も寄せられることになりました。教育内容の三割削減が、教科の系統性に配慮しない機械的な削減になってしまったために、子どもたちの学びをかえって妨げてしまっているという批判もなされました。
しかし今やわたしたちは、ゆとり是か非かといった 時代遅れ の議論を続けるのではなく、教育はどのような「学力」を責任を持って育むべきなのか、そしてそれはどうすれば可能なのかと問うべき時期にあります。そしてこれまで述べてきたように、今日求められる「学力」は、いい悪いは別として、やはり「自ら学び続ける力」にあるのです。
ところが「自ら学ぶ力」は、なかなか簡単に測定できないし、どう伸ばせばいいのかもまた難しい(もっともこの点については、後述するように、わたしは一概にそうとはいえないと考えています)。そんな現代にあっては、学校の教育力よりも、各家庭における教育力の方が、その影響力をどんどん強めているのだと苅谷氏は指摘しています。
同じく教育社会学者の 本田 由 紀 氏は、こうした現代社会を「ハイパー・メリトクラシー」の社会と呼び、その問題点を指摘しています(本田二〇〇五)。それはまさに、ハイパー(超) なメリトクラシー(能力主義) の時代。そこにおいては、従来のようにある意味〝分かりやすい〟学力等の指標は通じず、意欲、創造性、柔軟な対人関係能力など、あらゆる〝能力〟が全面的に求められることになります。こうした〝能力〟を、本田氏は「ポスト近代型能力」と呼んでいます。
それはつまり、個々人がそのあらゆる側面を丸裸にされて、全面的な評価にさらされるということです。かつてのように「とりあえず勉強はよくできる」というだけではダメで、「個々人の一挙手一投足、微細な表情や気持ちの揺らぎまでが、不断に注目の対象となる。ちょっとした気遣いや、当意即妙のアドリブ的な言動が、個々人の『ポスト近代型能力』の指標とされる。その中で生き続けるためにはきわめて大きな精神的エネルギーを必要とする。ハイパー・メリトクラシーのもとでは、個々人の全存在が洗いざらい評価の対象とされる」(前掲書、二四八頁) というわけです。
ここでいう家庭環境には、経済的な豊かさや親の社会的地位だけでなく、親がどれだけ子どもの教育を意識しているかとか、その会話内容はどうかとかいった、家族間における日々の何気ない交流の仕方も含まれています。そして実際、こうした家庭間・階層間格差は、今日はっきりと、子どもたちの学力格差として表れているのです。
これは教育学者の間では周知のことですが、「学力低下」問題が吹き荒れた中、多くの人が見落としていたのは、実をいうと、日本の子ども 全体 の学力が低下したのではなく、むしろ学力 格差 が広がったということでした。学力下位グループが増えたから、全体として(つまり平均として) 学力が下がったように見えたのが実態なのです。
これはいわれてみれば当然の、しかしこれまで十分には自覚されてこなかったかもしれない重要な指摘です。たとえば、どれだけ学ぶことが好きで、また「学力」の高い子どもがいたとしても、親が学校や勉強に全く関心がないとか、付き合う仲間が勉強させてくれないとか、そうした環境に長い間置かれたら、せっかくの学びの動機や機会を失うことになってしまうかもしれないのです。
以上のように、ただでさえ、家庭の教育力が子どもたちの「学力」にかつてよりも大きな影響を及ぼすようになっている現代にあって、その影響力がかなり強いとされる「自ら学ぶ力」を現代における学力の核とすることには、たしかに大きな危惧を抱かざるを得ません。
さらにまた、好むと好まざるとにかかわらず、だれもが一生学び続けなければならない、苅谷氏のいう「学習資本主義」もまた、大きな問題を抱えているといえるでしょう。現代社会はわたしたちに「学び続ける」ことを 強要する 社会であり、そこから「降りる」ことを許容しない、ある意味ではきわめて息苦しい社会なのです。
こうした現代社会・教育批判を、わたしたちは真剣に受け止めるべきでしょう。しかしまた同時に、だからといって、学校は「自ら学ぶ力」ではなく、かつてのような「知識つめ込み」にこそ力を注ぐべきだ、などというのもまた、非現実的な話だと思います。現代社会が、ポスト産業社会、知識基盤社会に移行しているのは事実です。そうである以上、わたしたちは、そうした社会において子どもたちが〈自由〉に生きられる、つまりできるだけ「生きたいように生きられる」力を育む必要があるはずなのです。
それは、「学び続ける」ことを自らが楽しむことのできる力、などという、かなりハイレベルなものだけでなく、その強要をうまくかわしたりちょっと休んだりすることもできるような、ある種の余裕を持てるようにすることかもしれません。そしてその余裕は、学校だけでなく、社会全体の何らかの制度によって下支えされる必要があるでしょう。ひたすら学び続けスキルアップし続けることだけを強要されるのではなく、ちょっと休憩して余暇の時間を楽しめたり、今までとは別のことに目を向けたりできる、そうした余裕を下支えできるような社会制度が求められるでしょう。
前章で明らかにしたように、公教育の本質は、すべての子どもが〈自由〉に生きられるようになるための〈教養=力能〉を育むことです。そしてその〈教養=力能〉の本質は、繰り返しますが、現代社会においては自ら「学ぶ力」にあるのです。
でもだからといって、そうした学校制度の硬直性を、批判してばかりいるのも非生産的だとわたしは思います。制度というのは多かれ少なかれそういうものだし、また先述したように、頑健な制度であるからこそ保たれている教育の質というのも、見逃してはならない重要な点であるからです。 ということは、わたしたちは教育の構想を考える時、学校制度それ自体を大きく変革することを、過度には目指しすぎない方がいいということです。大きな制度変革は、学校が「相互依存的アーキテクチャ」であるがゆえに、全体の混乱もまた招いてしまうことになるからです。そしてその混乱の割を食うのは、変革のただ中にいる子どもたちです。
だから、学校を「学ぶ力」としての学力育成の場にするために、何か制度上の大変革をやるべきだ、というわけにはいきません。むしろ、ゆるやかな継続的変革こそが求められているのです。 わたし自身は、学校を「学ぶ力」育成の場にゆるやかに変革していくことは、十分可能なことだと考えています。というのも、実は教育学や先進的な教育は、これまで一〇〇年以上もの長きにわたって、まさにそのような〈教養=力能〉を育むための方法論や学校のあり方を、熱心に研究・実践し続けてきたからです。そしてそれらは、これまで着実に成果を上げてきました。そのすぐれた成果を活用すれば、わたしたちは、「学ぶ力」としての学力を、できるだけすべての子どもたちに保障することができる。わたしはそう信じていますし、そのような教育をこそ、これからしっかりつくっていく必要があると考えています。
しかしその一方で、いつ何を学ぶかがかなり決められてしまっている学びのあり方は、考えてみればひどく非効率なことです。子どもたちの興味・関心はそれぞれ異なっているし、学ぶスピードも、また自分に合った学び方も、本当は人それぞれ違っているはずだからです。にもかかわらず、いつ何をどのように学ぶのかが一律的に決められてしまうのは、少なくとも子どもたち一人ひとりの学びの観点からすれば、やはり非効率的なことといわなければなりません。一律に〝やらされる〟勉強は、子どもたちの学習意欲を 削いでしまう大きな要因にもなっているでしょう。
心理学者ハワード・ガードナーは、人間の「知能」は単一のものではなく、大きく八つくらいに分けて考えることができるといっています。詳しい説明は割愛しますが、 ① 言語的知能、 ② 論理・数学的知能、 ③ 空間的知能、 ④ 身体運動的知能、 ⑤ 音楽的知能、 ⑥ 対人的知能、 ⑦ 内省的知能、 ⑧ 博物的知能、の八つです(ガードナー二〇〇一)。 ガードナーによれば、ほとんどの人がこれら八つの能力をすべて持っていますが、そのうち優れているのは、たいてい二つか三つだということです。そして、それぞれの能力の特性に応じて、学び方にもまた向き不向きがあるといいます。
これは常識的に考えても明らかでしょう。黙々と本に向かって学ぶことが向いている人もいれば、人とコミュニケーションしながら学ぶのが向いている人もいる。数学的な論理の世界に 惹かれる人もいれば、とにかくたくさん知識をため込むのが好きな人もいる。理詰めで知識を獲得するのが得意な人もいれば、視覚や嗅覚など、体感覚を使って物を記憶するのが得意な人もいる。 またこうした向き不向きは、個人の成長や学ぶ対象に応じても変わってくるものです。博物的知能に秀でていた人が、いつしか論理・数学的知能の方に能力を発揮し始める、ということもあるし、一人で学ぶのが好きだった人が、やがてコミュニケーションを通して学ぶこともまた得意になる、というようなこともあるのです。 要するに、効果的な学びの方法は、人によっても、またその成長段階においても…
避けられない、というのは、今や多くの人が画一的な一斉授業に疑問を抱いているから、というのに加えて、オンライン学習の衝撃が、学校現場に少しずつ影響を与え始めているからです。学校とはまた少し別のところから、いつの間にか学びのイノベーションが起こっていたのです。
質の高いオンライン学習のコンテンツは、近年爆発的に増え続けています。たとえば、「質の高い教育を、無料で、世界中のすべての人に提供する」ことをミッションとした、アメリカのNPO「カーンアカデミー」には、初等・中等・高等教育のさまざまなレッスンビデオ、それもかなり質の高いビデオ教材が、何千本も無料で公開されています。日本にも、学習指導要領に沿ったNHKのテレビ番組など、オンラインで無料視聴することのできる良質のコンテンツはたくさんあります。
また、テクノロジーによって「こんなことができる」となると、本当にそれが「よい」のかどうか十分吟味されることなく、すぐ教育に導入すべきだという意見もしばしば聞かれます。たとえば、極端な話ではありますが、もはや教育はすべてインターネット上で可能になったのだから、学校なんてなくして構わない、といった意見も時折聞かれます。 しかしこういった時こそ、わたしたちは、序章で述べた教育の「原理」を思い起こす必要があります。いかなる教育のあり方も、わたしたちは、それがすべての子どもたちの〈自由〉を実質化し、そのことで社会における〈自由の相互承認〉を実質化しうるものとなっているかという観点から吟味する必要があるのです。そして、教育のICT(Information and Communication Technology) 化にせよ何にせよ、教育政策は、それが〈一般福祉〉に適う、あるいはこれを促進するものたりうるかという観点から、吟味・実行される必要があるのです。
ともあれ、わたしたちは今、子どもたちを皆同じ場所に集め、決められた進度にしたがって一斉に授業を行うという、その動機も意義も失い始めています。一人ひとりのより質の高い学びを保障するためには、その「個別化」の道がまずは不可欠なのです。
実は、「学びの個別化」は近年になってにわかに注目を浴びるようになったものではありません。コンピュータなどなかった頃から、教育学や先進的な教育実践において、すでに一〇〇年以上の歴史と蓄積があるものなのです。 代表的なものとしては、二〇世紀アメリカを代表する教育哲学者、ジョン・デューイの影響を受けて開発された、パーカーストの「ドルトン・プラン」やウォッシュバーンの「ウィネトカ・プラン」などが挙げられます。それぞれに思想上、方法上の違いは若干ありますが、いずれも、生徒たちが教師のサポートのもとに自ら学習計画を立て、それぞれのペースで学び、教師はその支援やコーディネートをするというものです。二〇世紀における、いわゆる「新教育」と呼ばれる教育実践の数々です(ただし「新教育」は、学びの「個別化」だけでなく、むしろより重要なものとして、次章以降で述べる学びの「協同化」「プロジェクト化」をその特徴としています)。
その代表的な教育学者・実践家だった 木下 竹 次 は、奈良女子高等師範学校附属小学校において、デューイやパーカーストらと同じく、教師が「教える」ことを中心とする教育から、彼の言葉でいう「自律的学習」を中心にした教育への転換を訴え実践しました。 この実践において、木下は学び方の「自由」を奨励しました。一九二三年に刊行され、当時の「学習」ブームに火をつけたといわれる『学習原論』において、彼は次のようにいっています。
教権主義の人は外部の規範に服従させるのが目的の自由人格に到達させる唯一の方法だと考えるようだが、私どもの経験にするとそれは修学修養のいずれにおいてももっとも有効な方法だと考えることはできない。方法の自由を認める方がはるかに学習者の創作性自律性を発揮し優秀な効果を挙げることができる(木下一九七二、六四頁)。 だからといって、教師は子どもたちを放任し、何もかも好き放題にさせるわけではありません。木下はいいます。 自由に学習させるのは規範を無視することではない。学習の目的を遂げるために適切な規範を自ら発見し自ら追及し自己の規範をもって自己を規正するようにしようというのである。かくして始めて熱心に学習の目的を追求し独創的に方法を探究し実行する(前掲書、六五頁)。
子どもたちが自発的に学び、また努力それ自体に意義を見出しながら学んでいける環境をつくることができれば、子どもたちはその学びをより充実させようと、むしろ自分を律することを学んでいく。そう木下はいうのです。 先述したように、勉強を〝やらされ〟、規律規範を〝押しつけられ〟た時、子どもたちは多くの場合、何とかその強制や規範から逃れたいと思うものです。だからこそ木下は、子…
もっとも、勉強を「やらされる」ことが向いているという人もいれば、そのような〝時期〟がしばしばあることも事実です。ですから、わたしは強制的な勉強一般を否定するつもりはありません。しかし、むしろだからこそ、子どもたち一人ひとりに応じた「学びの個別化」は、やはり重要な教育のあり方だといえるのです。「やらされる」ことを求める、あるいはそれが必要と思われる生徒に対しても、…
アメリカのマサチューセッツ州にある、四歳から一九歳までの子どもたちが通う、サドベリー・バレー・スクールという学校です。すべての子どもが教員と同じ一票の権利を持ち、学校をどのように運営していくかを話し合いによって決めていくという、徹底して民主的な学校として知られています。
この学校では、決められた内容を決められた通りに教えるということを、一切しないのです。たとえば読み書きでさえ、教師の方から強制的に教えることはありません。その結果、九歳になるまで読み書きができない子どもも時にいます。しかしそれでも、この学校では強制的に勉強させることはありません。なぜならどんな子も、時が来れば必ず「読みたい」と思うようになるからです。そしてそう思いさえすれば、子どもたちは自ら学び始め、そしてあっという間にほかの子どもたちに追いつくというのです。
そのようなわけで、この学校の教師たちは、たとえば学校の敷地内にある小川で一日中釣りをしている子どもがいても、そんなことやめて勉強しなさいなどとはいいません。さすがに心配になってグリーンバーグ氏に相談してきたその子の親に、彼はいいます。「ダンはわたしの知るかぎり、ほかのだれよりも魚に詳しい。すくなくとも同年齢の子どもには絶対負けないだけの知識を持っています。それに、物事を投げ出さずに探究するにはどうすればいいかということや、その時自由に思考を働かせることを知っています」と(ちなみにこのダン、その後コンピュータに夢中になり、やがて在学中に起業したそうです)。
たとえば、「子どもたちに自分の好きな活動を自由に選ばせると、必ず一番楽な道を選びたがる」といわれます。しかしグリーンバーグ氏はいいます。子どもは、むしろ自らの探求に打ち込む時にこそ、「最も困難な道をすすんで選ぼうとする」のだと。楽をしようとするのは、実は勉強を強制されているからなのだ、と。
あるいはこんな批判もなされます。「子どもたちには、調和のとれた発達のために、興味・関心に関係なくさまざまなことをバランスよく学ばせるべきだ」と。それに対してグリーンバーグ氏はいいます。そもそも「調和のとれた発達」とは何なのか、「さまざまなこと」をまんべんなく〝知っている〟ことが、本当に「調和のとれた発達」といえるのだろうか、と。そこでいわれる程度の知識・情報なら、先述したようにインターネットですぐ手に入ります。そんな時代に、「さまざまなこと」を〝知っている〟ことにこそ価値を置くのは、はたして妥当なことといえるのだろうか、そうグリーンバーグ氏はいうのです。
こうした、どこか既存の学校を否定する響きもなくはない姿勢には、あまり好意を持たない人もいるかもしれません。しかしわたしは、サドベリー・バレーの教育はかなり 合理的 なものだと考えています。これまで述べてきたように、ポスト産業社会においては、いろいろと問題はあったとしても、「学力」の本質はやはり自ら「学ぶ力」です。そしてそれは、「やらされている」感の強い環境よりは、「やりたいからやっている」環境における方が、一般的にはより力強く育まれるものでしょう。
ちなみに、このサドベリー・バレー・スクールは、私立学校ではありますが、決して裕福な家庭の子どもたちの学校であるわけではありません。授業料は一般的な公立学校と同じかそれ以下です。ごくごく一般的な子どもたちを受け入れる学校で、公立学校から〝厄介払い〟された〝問題児〟たちさえも受け入れているとのことです。
「自ら学ぶ力」をいかに育むか、という研究と、教育が格差・不平等を再生産していることを明らかにする研究とは、ある意味において教育学研究の二大伝統です。しかし両者は、長らくあまり交流することがなく、あったとしても、どうも馬が合わなかった印象があります。そしてこの一〇年あまり、両者はますます、その対立やすれ違いを深刻化させてきたようにわたしには思われます。
「自ら学ぶ力」の育成に、今日家庭間格差が一定見られるのだとするならば、むしろだからこそ、その格差をできるだけ縮小しうるよう、学校や社会がもっとこの「自ら学ぶ力」を支えていく必要がある、わたしはそう思います。別に「自ら学ぶ力」の育成それ自体を敵視する必要はないのです。むしろ、学力を「自ら学ぶ力」ではなくいわゆる旧来型の知識ため込み力と定め続けるとすると、そちらの方が、格差の問題をより深刻化させることになるのではないかと考えています。
は、個別化と協同化をセットにすることで、より十全に達成されていくものなのです。 「学び合い」を通した学力保障
経験的には男女混合の四人を基本とするのが好ましいといわれます。男女混合だと協同の思考が活性化されやすく、三人以下だと多様な意見の交流が見られず、五人以上だとだれかが「お客さん」になりがちだからです。
そのために、『学び合い』は以下の三つの考え方を基本とし、子どもたちと共有するよう努めます。 第一は、「学校は、多様な人とおりあいをつけて自らの課題を達成する経験を通して、その有効性を実感し、より多くの人が自分の同僚であることを学ぶ場」であるという学校観。第二は、「子どもたちは有能である」という子ども観。そして第三は、「教師の仕事は、目標の設定、評価、環境の整備で、教授(子どもから見れば学習) は子どもに任せるべきだ」という授業観です(前掲書、四二頁)。
一八九六年、当時シカゴ大学の教授を務めていたデューイは、シカゴ大学附属小学校を設立しました。その後シカゴ実験(室) 学校と命名され、しばしばデューイ・スクールと呼ばれるようになったこの学校では、その名の通り、伝統的な一斉授業や教え込みのカリキュラムではない、実験的な教育実践が行われました。
『学校と社会』という本の中で、デューイはこういっています。子どもたちには、本来四つの本能的欲求のようなものがある、と。一つは、物を発見したいという欲求、二つめは物をつくりたいという欲求、三つめは自らを表現したいという欲求、最後にコミュニケーションへの欲求です(デューイ一九九八、一〇七~一一一頁)。
「先生の授業を聴く」ための机と椅子! これこそまさに、伝統的な学校教育を象徴するものだ。デューイはそういいます。 彼が求めたのは、何人もの子どもたちが一緒に木工細工をしたり料理をしたりすることのできる、作業台のような机でした。しかし当時の学校用品店には、教科書を開きペンを何本か置けるだけの机しか売られていなかったのです。 子どもたちに必要なのは、受け身で授業を聴き、与えられたドリルを坦々とこなすような、そのような学びではないはずだ。デューイはそういいます。重要なのは、子どもたちが自分たち自身で学びを進めていけるように、たくさんの本を同時に開いたり、何十本ものペン、何十枚もの画用紙を散乱させたり、仲間と議論したりテーブルを取り囲んだりすることのできる、そのような学びのあり方であり空間なのだ、と。
しかしまだまだ十分ではありません。何度も述べてきたように、現代における「学力」とは、とどのつまり「学ぶ力」です。とするならば、自ら課題を設定し挑む「プロジェクト型の学び」を、今後もっと学びの中心に置いていくべきでしょう。
キルパトリックは、「目的ある活動」こそが、学びを導く根本原理であると主張しました(キルパトリック一九六七)。教師からただいわれるがままに勉強するのではない。自らの目的を持って学びを続ける過程でこそ、子どもたちはまさに「自ら学ぶ力」を育んでいくのだと。
その一つの背景には、オランダにおけるいわゆる「落ちこぼれ」問題の深刻化がありました。そしてオランダの教育界は、その主な理由を、画一的な一斉教育にあると分析したのです。 いわゆる「落ちこぼれ」は、〝システムによってつくられている〟部分がきわめて多いのです。これまで述べてきたように、子どもたちは、一人ひとり興味・関心も違えば向いている学びのあり方も違っています。にもかかわらず、すべての子どもに同じ内容を、同じ方法、そして同じ進度で勉強させれば、その方法や進め方に向いた子どもは〝成功〟しても、そうでない子どもは〝成功〟しにくくなってしまうのは当然のことです。要するに画一的な教育システムは、システムそれ自体が、それに合う子どもと合わない子どもを自動的につくり出してしまうものなのです。
日本でいうところの総合的な学習の時間に当たりますが、学校によっては時に「おまけ」のような扱いをされることもある日本の「総合」とは違って、イエナプランでは、この「ワールドオリエンテーション」が学習活動全体の中核として位置づけられています。 リヒテルズ氏は、実際に観察した事例として、年長グループ(九歳から一二歳まで) による「北極探検」をテーマにした総合学習を紹介しています。探検に当たって、準備をどうするか、北極ではどのように過ごすか、帰ってきて何を報告するかといったテーマが、二週間ほどかけて探究されたとのことです(前掲書、一〇九~一一二頁)。
ほとんどの学校では、四~五週間に一つずつ、毎年八つくらいのこうしたテーマを、学校全体のテーマとして決めているとのことです。つまり子どもたちは、八年間の小学校生活の間に、通算六四個ほどのテーマに取り組むことになるわけです。
たとえば近年、「パフォーマンス評価」と呼ばれるものが注目されています。これは、「学力」を単純にペーパーテストの数値で評価するのではなく、子どもたちの「パフォーマンス」(ふるまい) を観察し、それをさまざまな観点(ルーブリック) を通してできるだけ総合的に解釈しながら評価していく方法です。測りにくいいわゆる「見えない学力」を、できるだけ可視化するための方法とされています(松下二〇〇七参照)。 もちろん、こうした評価方法をどれだけ駆使しても、「能力」の測定・評価からあいまいさと恣意性を完全に取り除くことはできません。しかし先述したように、「子どもたちの学びと教師の授業の改善」という目的のためであれば、その手がかりとして一定の有効性を持ったものといえるでしょうし、そのための方法は、今後もより改善・開発されていくだろうと思います。
もちろん、世界標準を求められているのはいわゆる上位大学だけです。しかしそうした大学の入試制度が変われば、大学全体の入試のあり方も、今後大きく変わっていくでしょう。これまで主流だった知識ため込みゲームが、少しずつ崩れていくだろうからです。
となると、これからますます起こると考えられるのが、大学の多様化です。戦後、大学がマス化・ユニバーサル化(大衆化) していく過程において、日本の高等教育政策は、「種別化」「個性化」「機能別分化」といったキーワードによって、その多様化を提言・実施してきました。ただしそこには、「これまで『格差』として意識されてきた多様性を、客観的・具体的な数字で表面化させることを意味して」(天野二〇一三、九二頁) いるという批判、つまり、多様化という名の序列化がもたらされてきたという批判も寄せられています。
ここでいう「質」は、「学力」と同様、何をもって「質」というかかなり難しい問題です。しかし今はその中身は問わないにしても、大学がユニバーサル化すれば、何らかの「質」の低下が起こるのは避けられないことといっていいでしょう。
いうまでもないことですが、学校は時代と共に変わっていく(べき) ものです。しかしその際つねに忘れてはならないこと、それは何度もいうように、学校は、社会における〈自由の相互承認〉の原理の土台であり、また同時に、すべての子どもの〈自由〉を実質化するための機関だということです。学びのあり方を考える時も、学校のあり方を考える時も、わたしたちはつねにここに立ち戻りながら、教育を構想していく必要があるのです。
自分を承認することができなければ、人のこともなかなか認められないものです。また、他者からの一定の承認を得られなければ、やはり自分も他者を承認しようとはなかなか思えないものです。「相互承認の感度」は、自己承認、他者承認、そして他者からの承認という、三つの条件がそろってようやく十全に育まれるものなのです。
したがって、このような「群生秩序」においては、同質性を侵すこと、ノリの秩序を侵すことが最大の「悪」なのです。 「みんなから浮いて」いる者は「悪い」。「みんな」と同じ感情連鎖にまじわって表情や身振りを生きない者は、「悪い」。「みんなから浮いて」いるにもかかわらず自信を持っている者は、とても「悪い」。弱者(身分が下の者) が身の程知らずにも人並みの自尊感情を持つのは、ものすごく「悪い」(前掲書、四〇頁)。
廊下と教室の間の壁をなくしたいわゆる「オープンスクール」は、今では日本でも珍しいものではなくなりました。それはまさに、子どもたちを教室内に〝囲い込む〟のではなく、一人で学びたい時は静かなスペースで、「協同的な学び」や何らかのプロジェクトに取り組む時は作業台のある広いスペースで、といった具合に、学びの「個別化・協同化・プロジェクト化」を、より充実したものにしていくためにつくられた学校です。
それゆえわたしたちは、すべての教師に完璧を求めるのではなく、むしろ、多様な教師が互いに足りないところを補い合い、また得意なところを活かし合える、そのような学校を目指していく必要があります。第三章でも述べたように、みんながみんな、絶大な尊敬に値する先生であったり、学び合いの天才的なファシリテーターであったりする必要はありません。重要なのは、多様な教師の力の「協同」なのです。
ではこうした「省察的実践家」であるために、教師は何を心がけておくべきでしょうか? 子どもたちの学びを支え導く教師自身が、つねに「学び続ける」こと。これが「省察的実践家」としての教師に求められていることです。担当教科についてはもとより、他の教師のすぐれた実践から、また、自身の授業を公開し同僚教師たちの評価やアドバイスなどから学ぶこと。こうした「学び続ける」姿勢こそ、「省察的実践家」としての教師に求められているものといえるでしょう。
自分を信じられない、認められない子どもは、他者を信じ認めることもまた困難になってしまいやすいものです。心理学者の 山 竹 伸 二 氏が指摘しているように、原初的な信頼や承認がきわめて不十分にしか得られていない子どもたちは、残念ながら多くの場合、「自らの存在価値に自信が持てないまま大人になり、絶えず他者の視線に怯え、他者の評価に過剰反応するようになる」(山竹二〇一一、一二〇~一二一頁) 傾向があるのです。 こうした原初的な信頼を、子どもは基本的にはまず親から与えられます。心理学者のジョン・ボウルビィが明らかにしたように、子どもには「心の安全基地」が必要です(ボウルビィ一九九三)。絶大な信頼関係・承認関係が、子どもたちの自己肯定感を支え、見知らぬ世界へ飛び出る勇気を与え、そしてまた、他者を信頼し承認する文字通りベース(基地) となるのです。
しかしその一方で、親や教師の子どもたちに対する信頼は、きわめて多くの場合、裏切られるものです。やっぱり宿題をやってこない、また噓をつく、なかなか勉強が進まない……。どれだけ信頼しても、教師は子どもたちから裏切られるものです。 しかしそれは、正確にいうと子どもたちに裏切られたわけではありません。子どもたちに対する 自分の期待 が、裏切られたにすぎないのです。それはいわば、こちらが勝手に子どもたちに押しつけた〝期待〟です。
「はじめに」でも述べたように、社会的な問題を、人はしばしば教育のせいにして語ります。そして、教育をよくすれば社会もよくなるのだと考えます。 若者のモラルが低下したのは教育のせいだ、経済の停滞は覇気のない若者を生んでいる教育のせいだ、若者の凶悪犯罪が後を絶たないのは教育のせいだ、というわけです(いずれも根拠のない印象批判にすぎませんが)。
そもそもわたしは、この世は競争社会であると、過度に一般化することはできないのではないかと考えています。もちろんそのような部分も少なからずあるでしょう。しかし、わたしたちの社会のゲームはすでに十分多様です。ある競争に敗れても、また別のゲームにチャレンジすることは可能だし、そしてそれは、必ずしも〝競争〟ゲームばかりというわけでもありません。
競争や出世にはあまり関係のない、たとえばだれかを支えたり育んだりする仕事に喜びを感じる人もいるでしょう。仕事はそこそこに、趣味に生きることを楽しむ人もいるでしょう。たとえ、受験や就職、あるいは出世などの過酷な競争ゲームのただ中にあったとしても、そしてそれにある時、敗れてしまったとしても、わたしたちの人生の選択肢はそれだけではないし、〝それで終わり〟というわけでもありません。視点を変えれば、現代社会にはさまざまな生き方の世界が広がっているのです。より正確にいえば、わたしたちはそのような社会をこそ、これからさらに構想していく必要があるのです。
まず十分理解しておくべきは、わたしたちのどのような思想・考えにも、絶対に正しいものなどはないということです。たとえば繰り返し述べてきたように、絶対に正しい教育や社会のあり方などはありません。 しかしだからといって、わたしたちは、「正しいものなんて何もない」と過度の相対主義に陥る必要もありません。「絶対に正しい考えなんてない」などというのは、きわめて簡単かつ安易なことです。そんなことは、哲学的にはいわばすでに 織り込み済み のことです。 〝絶対〟なんてないということを前提にした上で、なおいかに「共通了解」を見出し合っていけるかと考えること、これが力強い思考のあり方です。絶対に正しいことではなく、 共通了解可能性 を見出そうと考えるのです。
たとえば、「いじめをした生徒は厳罰処分にすべきだ」という考えは、いうまでもなく絶対に正しいものではありません。しかしその底には、(自覚できるかどうかは別として) たとえばかつていじめにあったことがあり、それゆえいじめをしている生徒たちに復讐したいという「欲望・関心」があるのかもしれません。この「欲望・関心」から、「いじめ厳罰処分」という考えが形成されたのかもしれません。