すべての高評価レビュー
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Posted by ブクログ
下巻に入るとムフフ…。
たまらない展開にテンションが上がる。
ここはムフフとしか書けない。
クローズドサークルの疑心暗鬼。
いったい誰が犯人なのかと最後まで楽しめた。
子どもの頃から漫画より本が好きで、漫画は『藤子不二雄SF』と『美味しんぼ』くらいしか読んでこなかった。
だから最初は綾辻さんの本格ミステリのシリアスな世界観の中で、ギャグ的なツッコミが入る佐々木倫子さんの独特な雰囲気に戸惑った。
でも読んでいくうちに、佐々木さんの冷静なツッコミとユーモアもこの作品には欠かせないと思えてきた。
シリアスだけでは無理を感じそうな展開も、ユーモアのおかげで楽しめる。
本格ミステリとの相性がこんなにいいとは思わなかった。まさにプロ同士の融合。
久しぶりに綾辻さんの本格ミステリの世界に浸れて楽しかった! -
Posted by ブクログ
ほっこり系の連作短編小説。
とある神社に現れる猫が悩める人たちに届ける不思議な葉っぱのお告げ。失恋を引きずる女性美容師、中学生の娘と仲良くしたい父親、目標を持てない就活学生など、7つの悩みにそっと寄り添う物語。
★4.5です。
青山美智子という作家さん、どこにでもあるような題材にファンタジーを織り交ぜた独特の世界観を描くことに秀でていると感じる作品が多いですね。そこに教訓めいた味付けも少し入っていて、アンデルセンやイソップのような童話を読んでいるようか感覚もあります。
個人的には、夢を諦めきれない中年ママに一歩踏み出すキッカケを与える「スペース」というお話が、よく作り込まれていて好きでした。
また、この神社の小太り宮司さんが本作の裏の主人公なのですが、最後の最後にしっかりと面目躍如の扱いとなっているところも何気に良かったです。 -
Posted by ブクログ
P240
「植民地支配」とは、いかに本国が資本投下しようと、本来それは本国の繁栄のためであって、逆ではない。「憲法」という法は、国民国家の知恵の一つである。国民の権利と義務を規定し、人種や民族、思想や信条など人によって異なっていても、人間としての扱いに差異を認めない。植民地の存在はそうした憲法のあり方と矛盾する。
長い間その矛盾に苦しんだフランス共和国は、結局一九六二年三月、アルジェリアの独立を認めて、矛盾の解消へと向かう。その中でフランスの現代思想家たち、サルトルらが問題提起を続け、世界に衝撃を与えていった。帝国という歴史のもたらした結果としての植民地をなぜ放棄しなければならないのか、という大きな思想的課題を突き抜けることなく、一九四五年の敗戦という、いわば「外圧」によって台湾や朝鮮を手放すことになった近代日本は、安易に「植民地問題」を「解決」したのだ、という歴史的経緯を繰り返し思い出さねばならない。 -
Posted by ブクログ
待ちに待った文庫化
「探偵小石は恋しない」で
森バジルさんにハマって、
その時点で他の著書を探した時には
本書はまだ文庫化されていなかったので
今回、文庫化されて嬉しかったです。
即購入し、ドキドキワクワクしながら
読みました。
生放送中にこんな事が起こったら…
現場の緊張感が伝わってきました。
色々と(いい意味で)裏切られ、
最後の最後(解説)まで楽しめました。
解説が、本書と一緒に購入した
本の著者(阿津川辰海)という
偶然にもびっくり!
加地さんや佐久間さんなど現実のPの名前や
水ダウなどの番組名も出てくるので、
いま読んだ方が楽しめると思います。 -
Posted by ブクログ
1760円
★再読
2026/10/11
エッセイ
齋藤亜矢
1978年茨城県生まれ。京都大学理学部、京都大学大学院医学研究科修士課程を経て、東京藝術大学大学院美術研究科博士後期課程修了(博士(美術))。京都大学野生動物研究センター特定助教、中部学院大学准教授などを経て、現在、京都造形芸術大学文明哲学研究所准教授。専門は芸術認知科学。絵を描くこころの起源について研究している
「 夢の解釈が学問的に正しいかよりも、自分でその夢の意味を「わかる」ことがだいじなのだと思った。それ以来、とくに悩んでいるときほど、おもしろい夢を見る。夢に気づかされたり、救われたりすることもある。 夢には記憶を整理する役割があるという。眠っている間、脳が断片的に再生している記憶を目覚める直前にまとめてストーリーに仕立てる。ある意味、わたしたちが寝ながら、知らず知らずのうちにしている「表現」なのかもしれない。それは、だれのためでもない、自分のための「表現」だ。そして、そこでつむがれる物語では、枠をこわすことが簡単にできている気がする。夢にも、創造性のヒントがありそうだ。」
—『ルビンのツボ 芸術する体と心』齋藤 亜矢著
「 京都大学(京大)の理学部を卒業し、医学研究科の修士課程に進んだ。しかし、博士後期課程では東京藝術大学(芸大)の門を叩き、博士(美術)の学位を取得する。その後、野生動物研究センター、教育学部と経て、ふたたび芸術系の大学に戻ってきた(京都造形芸術大学)。 こうして書くと、異分野を軽やかに渡り歩いてきたように思われることがある。でも、そんなに器用な人間ではない。立ち止まって悩みながら進むうちに、いつのまにか蛇行した道になっていただけだ。さいわいなことに、さまざまな分野を経験したことが、いまの研究につながっているように思う。」
—『ルビンのツボ 芸術する体と心』齋藤 亜矢著
「だから文系・理系にはあまり思い入れはないのだが、サイエンスとアートという切り口からなら、少しは話せることがあるかもしれない。それに、これからそれぞれの道に歩み出そうとする高校生たちに、途中でちょっとぐらい人と違う道にそれたり、寄り道をしたりしてもだいじょうぶ、というメッセージにはなるかもしれない。」
—『ルビンのツボ 芸術する体と心』齋藤 亜矢著
「サイエンスとアート。相反する点は、いくらでもあげられる。 たとえば、普遍性と偶然性。サイエンスの実験では、条件をそろえれば毎回同じ結果になることが求められる。データは平均化され、一回きりの出来事は「外れ値」として扱われる。しかしアートでは、偶然性がだいじにされ、平均値よりも「外れ値」にこそ光があてられるようなことが多い。 たとえば、「わたし」の存在。サイエンスの論文では、「思う」より「考えられる」という表現が好まれる。だれが考えてもそう解釈できる無理のない論理だという意味だ。つまりサイエンスは、できる限り「わたし」を排除する。いっぽうでアートは、むしろ「わたし」がなければはじまらない。「わたし」がこう思う、「わたし」はこう感じる。ほかのだれもが気づかなかった「わたし」の「思う」や「感じる」を切り出して表現する。解釈も鑑賞者によって異なり、そこに一つの正解があるわけではない。」
—『ルビンのツボ 芸術する体と心』齋藤 亜矢著
「もはや一八〇度違う部分も多いのだけれど、サイエンスとアートは対極に位置するわけではない。むしろ、その根っこにこそ共通するものがある。 その思いを強くしたきっかけが、芸大に入ったばかりのころ、特別講義でこられた内藤礼さん(現代美術)のお話だ。 「たとえばいま、木漏れ日からさす光がカーテンにきらきら映し出される感じ。そんなふだんの生活のなかの一場面や自然の美しさを、いいなあ、と感じている。ほんとうはそうして自分で感じているだけでいいのだけれど、その「感じ」をアートのなかに表現したい。別にだれがしなくてもいいのだけれど、やらずにはいられない。わたしは、究極に美しいものをつくりたい」 この言葉が、研究者として自分が目指す姿勢と重なり、サイエンスからアートの分野に足を踏み入れたときの迷いを吹き飛ばしてくれた。」
—『ルビンのツボ 芸術する体と心』齋藤 亜矢著
「アーティストは、新しい切り口で世界のおもしろさを切り取って見せてくれる。そうやって、既存の枠組みをこわして新たな物の見え方を示してくれるのが、アートの力だと感じている。 それは、石を拾うことに似ているのかもしれない。正月に実家に帰ったら、机のひきだしに子どものころに拾った石ころが眠っていた。ぴかぴか光った宝石のような石ころ、石器のようにとがった石ころ、顔のように穴があいた石ころ。どれも道端に落ちていれば、ただの石だけれど、自分ならではの価値を見出すことで、かけがえのない「石ころ」になる。 価値のないものに価値を与える。子どもがもっとも得意とすることだ。 ふだん見慣れた物でも、別の物に見立てることで、新しい意味や価値が生まれる。価値を与えるという行為にも想像力が一役買っていそうだ。 いっぽう、おとなの目には、石は石のままでしかない。そもそも、石の一つひとつに目を向けることさえ少なくなっているのではないだろうか。 ふと気づいてしまった。チンパンジーの絵を研究しているというこの状況も、はたから見たら荒唐無稽な、ばかばかしいことかもしれない。むしろ気づくのが遅いといわれるかもしれないけれど、自己紹介でいったん怪訝な顔をされるのは、たぶんそのせいなのだと。 アーティストと研究者は、やっぱり似た者同士のような気がする。ばかばかしいこと、無駄なことを真剣にできるおとなでありたい。」
—『ルビンのツボ 芸術する体と心』齋藤 亜矢著
「アーティストは、新しい切り口で世界のおもしろさを切り取って見せてくれる。そうやって、既存の枠組みをこわして新たな物の見え方を示してくれるのが、アートの力だと感じている。 それは、石を拾うことに似ているのかもしれない。正月に実家に帰ったら、机のひきだしに子どものころに拾った石ころが眠っていた。ぴかぴか光った宝石のような石ころ、石器のようにとがった石ころ、顔のように穴があいた石ころ。どれも道端に落ちていれば、ただの石だけれど、自分ならではの価値を見出すことで、かけがえのない「石ころ」になる。 価値のないものに価値を与える。子どもがもっとも得意とすることだ。 ふだん見慣れた物でも、別の物に見立てることで、新しい意味や価値が生まれる。価値を与えるという行為にも想像力が一役買っていそうだ。 いっぽう、おとなの目には、石は石のままでしかない。そもそも、石の一つひとつに目を向けることさえ少なくなっているのではないだろうか。 ふと気づいてしまった。チンパンジーの絵を研究しているというこの状況も、はたから見たら荒唐無稽な、ばかばかしいことかもしれない。むしろ気づくのが遅いといわれるかもしれないけれど、自己紹介でいったん怪訝な顔をされるのは、たぶんそのせいなのだと。 アーティストと研究者は、やっぱり似た者同士のような気がする。ばかばかしいこと、無駄なことを真剣にできるおとなでありたい。」
—『ルビンのツボ 芸術する体と心』齋藤 亜矢著
「 さて、この旅の最終目的地は、スイスのローザンヌにあるアール・ブリュット・コレクションだ。前述のように、アール・ブリュットとは、正規の美術教育を受けずに自発的な表現活動をおこなう人たちのアートのこと。その概念を提唱したフランスの画家、ジャン・デュビュッフェのコレクションにはじまる美術館だ。 洞窟壁画からアール・ブリュットへ、その道すがら、各地の美術館や博物館を訪れた。ネアンデルタール人の石器、クロマニョン人の壁画、ケルトの遺跡、エジプト文明の出土品、中世の絵画、ホドラー、クレー、ピカソにバスキア、各地の民族アート、そしてアール・ブリュット。さまざまな時代、さまざまな場所でおこなわれた人間の創作活動と向きあう旅となった。 思いのほか印象に残ったのが、ジュネーヴのバルビエ゠ミュラー美術館という小さな美術館だ。街なかの通り沿い、見過ごしてしまいそうな狭い間口の建物にある。展示物の数は少ないが、コレクションのセンスがいい。アフリカやポリネシアの交易で手に入れたものを中心に、選りすぐりの装飾品や仮面などが展示されていた。 目をひいたのが、無数の白いビーズでつくられた仮面だ。よく見るとビーズは、三ミリほどの小さなタカラガイでできている。その小さな貝殻の一つひとつに、小さな穴を開けて糸を通し、仮面に編み上げたものだった。 ほかにも、木の棒の表面にミリ単位のレース模様のような彫りがほどこしてあるもの、油断したら破れてしまいそうな薄い金箔に繊細な模様が刻まれたものなどもあった。」
—『ルビンのツボ 芸術する体と心』齋藤 亜矢著
「やはり、アートとは石ころを拾うようなことではないか、それまでもっていた概念をこわして、価値のないものに価値を与えることなのではないかと思った。 拾った石ころに自分だけの価値を見出すときと違うのは、そこに「手」がくわわることだ。いかにすぐれた「手」をくわえるか、いかにたくさんの「手」をくわえるか。アートの語源は、元をたどると、ギリシア語のテクネ( techne)。すなわちテクニックの語源でもあることにつながってくる。」
—『ルビンのツボ 芸術する体と心』齋藤 亜矢著
「たとえば藤森さんは、もともと建築史が専門で、見て、調べて、考えるということをひたすらやってきたそうだ。設計をするようになっても、まずは、ほかのどんな建築にも似ないようにと頭で考える。そこに偶発的ななにかがくわわったとき「ちょっと越える」のだという。 最近の講演でも「発酵させているものを出すようなものだと思っている。そこに光をあてると、菌が死んでしまうような気がする。だから考えないようにしている」とおっしゃっていた。 いろいろなものに目を向け、いろいろなことを感じ、いろいろなことを考える。そうして蓄えられたたくさんの材料が、その人のなかでまじりあい、じっくり醸される。そこに外からちょっとした刺激があると、さらに発酵が進んで、ぽっと出てくるようなものなのかもしれない。 それは科学者の発見とも通じそうだ。アルキメデスの「ユリイカ」や、ケクレのベンゼン環など、発見は、しばしばお風呂や夢のなかでおこる。とにかく考えて、考えて、考え尽くしたすえの一瞬の「考えない」無の瞬間なのだろう。」
—『ルビンのツボ 芸術する体と心』齋藤 亜矢著
「 「リンゴ一つでパリを驚かせてみせる」はポール・セザンヌの言葉だが、まさにリンゴに驚かされることになった。絵による表現の可能性とおもしろさ。それはアーティストだけのものではないと思った。」
—『ルビンのツボ 芸術する体と心』齋藤 亜矢著
「能の稽古では、とにかく型を覚えなくてはならない。他人の轍を踏むことを強いられるのは、とても苦しい。しかし、世阿弥に「稽古は強かれ、情識はなかれ」という言葉がある(『風姿花伝』)。いかに自分をゼロにして吸収できるか。そして、自分のイメージを排することではじめて得られるものがある。不自由のなかの自由にこそ、喜びや創造性がある。 そんなお話だった。つまり、自分独自の表現などと考えるよりも、まずはきっちり枠を身につけることが肝心だ。そのうえで身についた枠を破るとき、はじめて創造がある、ということ。日本の武道や芸能の修業には「守破離」という言葉がある。守る、破る、そして離れる、だから、さらにその先に、枠を意識しないぐらいの究める境地があるのかもしれない。 考えてみると、わたしたちは知らず知らずのうちに、たくさんの枠に囲まれて暮らしている。所属する社会の常識、学校で教えられた知識、生まれた時代の価値観、既成概念、自分の癖や思考パターン。もちろん、そうした枠があるおかげで、効率よく、しかも安心して社会生活がいとなめる。 でも、枠のなかだけで過ごしていたら息苦しくなる。そして枠がつねに正しいとも限らない。 そんなときこそアートだ、と思う。アートには、枠をこわして、新たな価値や新たな物の見え方に気づかせてくれる力がある。それは枠の外にいるだれかに暴力を向けるようなものではない。自分自身がとらわれている枠に気づき、それを内側からこわす力をひきだしてくれるもののような気がしている。」
—『ルビンのツボ 芸術する体と心』齋藤 亜矢著
「自然を美しいと感じるのはなぜか。自然の美に感動することと、人工の美、つまりアートに感動することは違うのか。 その問いをもつきっかけになったのが、アフリカの民族アートだった。 うす暗い展示室に、西アフリカのさまざまな年代の造形物が並ぶ。しばらく見ているうちに、ざわざわと鳥肌が立ってきた。仮面や装飾品、木彫などが多かったが、具体的にどれに感動したというのではなかった。そこに並んだたくさんのものに、ただ圧倒されてしまったのだ。なぜだかわからないまま、たしかに自然の美しさや大きさを感じたし、生と死ということが迫ってきたようにも感じた。 外見的な均整や洗練といった言葉とはほど遠い。その体験は、それまでに思っていた「美しい」とはまるで違うものだった。 アートは、あらかじめある美を追究するものではなく、自然のなかの「なにか」、人のこころに響く「なにか」を切り出してくるものなのではないか。だから実際に自然を見るという行為以上の強烈さをもたらすことがあるのではないかと考えるようになった。 その後、進学した芸大の大学院で、所属先の美術解剖学研究室の布施英利先生がレオナルド・ダ・ヴィンチの言葉をよく引用されていた。とくに「ダメな画家は画家に学ぶ、優れた画家は自然に学ぶ」という言葉だ。いろいろなアートに触れるようになって、それを裏づける事例によく出会う。 パウル・クレーもその一人だ。クレーの絵は抽象画が多く、いかにも自然を描いたという感じはしない。でも、スイスのベルンにある美術館を訪れると、再現されたアトリエに、鉱物や貝殻や植物の標本がいくつも飾られていた。クレーのバウハウスでの講義をまとめた『造形思考』に、こう書かれている。」
—『ルビンのツボ 芸術する体と心』齋藤 亜矢著
「抽象は、英語ではアブストラクト。つまり抽出だ。自然からエッセンスを抽出するのが、抽象表現であり、それこそが芸術の本質である、ということだろう。古典的な芸術論では、芸術は自然の模倣であるとされていたが、むしろ自然からの抽出というべきものかもしれない。 クレーは「芸術の本質は、見えるものをそのまま再現するのではなく、見えるようにすることにある」ともいっている。抽出することで、人に見えていないものを見えるようにすることができる。」
—『ルビンのツボ 芸術する体と心』齋藤 亜矢著
「子どものころの愛読書は、もっぱら絵本や童話だったが、たまには図鑑を手にすることもあった。ひそかなお気に入りは「爬虫類」の図鑑。失礼ながら、爬虫類そのものへの興味はあまりなかったが、いつもどきどきしながら本を開いた。ページをめくっていって、ヘビのページにくると、ぞわっと鳥肌が立つからだ。自分の意思とは無関係に鳥肌が立つのがおもしろくて、本棚の前で息をひそめてページを開いた。「怖いもの見たさ」の言葉どおり、怖いものには人を惹きつける魅力がある。 遊びにも「怖い」要素がある方がだんぜん盛り上がる。おにごっこにかくれんぼ、木登りにドッジボール。年上の子と遊ぶとスリルが多くて楽しいし、ブランコやシーソーなどの遊具も、ちょっと危険なぐらいの方がおもしろい。遊び慣れたすべり台でも、とびきり危険なのぼり方やすべり方を工夫するものだ。」
—『ルビンのツボ 芸術する体と心』齋藤 亜矢著
「こうして、チンパンジーもちょっとだけ「怖い」のを楽しんでいる節がある。しかし、どう見ても人間ほど「怖い」のが好きな動物はほかにいない。ジェットコースターにお化け屋敷、ミステリーに怪談話、ゲームにギャンブルにバンジージャンプ。おとなになっても、しかもお金を払ってまで「怖い」を求める。「怖い」は、なぜそんなに人間を魅了するのだろうか。 背骨の骨折から復帰してまもなく、古本市をぶらぶらしていたら「恐怖」という背表紙が目に飛び込んできた(ラッシュ・ドージア Jr.『恐怖──心の闇に棲む幽霊』桃井緑美子訳、角川春樹事務所、一九九九年)。ちょうど PTSD的な症状に悩まされていたので、なかば救いを求めるようにしてその本を手にした。 それは、恐怖という情動について、脳や身体の生理学的なメカニズムを中心に、進化的な背景から解説した本だった。現在進行形の自分の体験と重なって、これ以上ないリアリティを感じながら読んだ。おかげで、自分のからだとこころにおこっている出来事を客観的にとらえることができた。 恐怖は、身の危険を回避するための基本的な情動の一つであり、多くの動物に共通して備わっている。危険なものを察知すると、瞬時に身がすくんだり、飛びのいたりする。大脳辺縁系や、自律神経系を中心とした原始的なシステムだ。 危険に対する選択肢は二つ。逃げるか、戦うか。交感神経系を優位にして、心拍や血圧を上げ、筋肉や脳に優先して血液を送る。だからふだんは出せないような大きな力が発揮できることもある。「窮鼠猫を嚙む」や「火事場の馬鹿力」の科学的な根拠だ。」
—『ルビンのツボ 芸術する体と心』齋藤 亜矢著
「 「美しい」が「怖い」と親和的な要因も、一つはこの報酬系にありそうだ。神経美学の川畑秀明さんらの研究によると、絵を見て美しいと感じるときにも、やはり報酬系が関わっているという。 自分が恐怖を感じた体験をあらためて思い返してみると、「美しい」につうじる部分はほかにもありそうだ。 たとえば、恐怖は頭よりも先にからだで感じるということ。原始的なシステムの方が、危険を察知してからの反応時間が短いからだ。見た物が「なにか」を認識するより先に、身がすくんで、冷や汗をかき、心臓がどきどきする。ふだん自分の心臓の動きを自覚することはあまりないけれど、このときばかりは心臓がその存在を主張する。自分のからだに、自分の意思や意識を超えた「自然」を感じるときでもある。」
—『ルビンのツボ 芸術する体と心』齋藤 亜矢著
「観客の想像力をかきたてるシンボルではない表現といって、そのままあてはまりそうなのが俳句だ。たった一七音で映像を切り取ったり、感覚や心情を呼びおこしたりすることができる。これも多くの言葉が「ない」からこその「不在」の芸術だろう。」
—『ルビンのツボ 芸術する体と心』齋藤 亜矢著
そうすると、上手に描けないから絵が苦手、という子が出てきてしまう。おとなになると、上手な絵を描くには、特別な才能や絵心なるものが必要で、自分にはそれがないから描けないと思い込んでいる人も少なくない。 でも、写実的に描くのがむずかしいのはしかたがない。人間ならではの認知的な特性が、そしてじつは表象を描くために必要な認知的な特性が、写実的に描くときには邪魔になるのだと考えている。 小さな子どもが描くのは、丸だけで顔を描くような記号的な絵だ。「顔には、輪郭があって、目が二つあって、口がある」という、頭のなかにある表象スキーマ、つまり「認知」された「知っている物」を描いている。 いっぽうで見た物を描く写実的な絵では、網膜に写る光の配列、つまり物を「なにか」として「認知」する前の「知覚」を描こうとする。 ところが言葉をもった人間は、目に入る視覚情報を「知覚」すると、つねに「なにか」として言葉に置き換えて、概念的に「認知」してしまう癖がある。そこで、見えているつもりなのに描けないというジレンマが生まれるわけだ。 小学校の高学年のころ、写生で木を描くのに悩んだ記憶がある。木の枝一本一本が目ではちゃんと見えているのに、描こうとするとうまくいかない。見れば見るほど、たくさんの情報があふれていて、すべてを描き写すのはとうてい不可能に思えた。結局、左右に適当な枝分かれをつくってごまかしてしまった。記号的な表現に逃げたのだ。 学校ではいつも、上手に描こう、きれいに描こうという気持ちがどこかにあった。その結果、より複雑な描き方の記号を探し、こぢんまりとした絵になっていたように思う。 そのころ、家で新聞を読んでいる母の姿を、こっそりスケッチしたことがあった。このとき、なぜかいたずらごころのスイッチが入って、とことんおもしろく、変な絵にしちゃえ、と思った。無造作な髪に、ぎょろっとした目、鼻の穴や顔のしわもありのまま、むしろ誇張するぐらいに描いた。
「 だから、子どもの絵を評価する言葉も「上手」より「おもしろい」がいいと思っている。 「おもしろい」は絶対的な評価ではなく、あくまで個人の感想だ。人によって、そしてテーマや色合い、構図などの視点によって、多様な「おもしろい」がありうる。そのぶん見る方も主体的に向きあう努力が必要だ。いいかげんな言葉のようで「上手」よりずっと誠実で、アートに適した評価ではないか。 ただし「上手」に、というか写実的に描こうとすることを否定するわけではない。 芸大の美術解剖学研究室にいたころ、毎週水曜は人物デッサンの日だった。解剖学なので、モデルさんの隣には骨格標本と筋肉模型も並ぶ。同じ研究室の仲間たちは、難関の実技入試を突破してきただけあって、さすがに「上手い」。最初は少し気後れしてしまったが、鉛筆を動かすのは楽しかった。 朝から数枚のクロッキーとデッサンを終えて、お昼に外に出ると、いつも不思議と目がよくなったような気がした。ふだんよりも緑が鮮やかにきらめき、葉っぱの一枚一枚もはっきり見える。世界は光と影で構成されているんだなあ、などと感慨にふけったりもした。 写実的に描くことは、見る力を磨くことなのだ。 学部生のころに生物学の実習でスケッチをしたときも、似たことを感じた。記録をとるためだけなら、写真の方が手っ取りばやい。でも時間をかけてスケッチをすることで、はじめて構造が見えてきたりする。」
—『ルビンのツボ 芸術する体と心』齋藤 亜矢著
「 「わたし」をなるべく排除して書く論文は、読まれて恥ずかしいという気持ちにはあまりならない。でも、エッセイとして「わたし」を出して表現することは、とても恥ずかしくて、とても怖いことだった。最初のころはとくに、こんなに主観的なことを書いてしまっていいのかと恐る恐る筆を進めた。 でも周りから感想をいただくと、むしろわたしの「わたし」を出すことで、読む方も、それぞれの「わたし」と照らしあわせたり、ふりかえったりして、自分と向きあいながら読んでくれているのだと知った。 客観性が求められる論文と、主観的に「わたし」の視点から綴るエッセイで違うのは、その道のつくり方のように思う。」
—『ルビンのツボ 芸術する体と心』齋藤 亜矢著
「意味を伝えるための文字から意味が隠されている。だから抽象画に向きあうときのように書と向きあった。筆の動きを想像しながら追っていくと、リズミカルな音楽を聴いているような心地にもなる。言葉や文字の不思議さについてもまた考えさせられた。」
—『ルビンのツボ 芸術する体と心』齋藤 亜矢著
「先日、「又吉直樹のヘウレーカ!」( NHK Eテレ)という番組で又吉さんと対談する機会があった。芸人として、小説家として、表現に向きあう又吉さんならではの視点もあり、描くことと書くことの共通点が見えたのもおもしろかった。 番組のなかで、京都造形芸術大学の美術工芸学科の学生たちが又吉さんをスケッチした。きわだったのは、その表現の多様性。どんな言葉を並べるよりもわかりやすく、人によって見え方やとらえ方が違うということを示してくれた。 並べてみると、わたしの第一印象もこの絵の感じだったな、やさしい雰囲気が出ているな、この姿勢やしぐさがらしいな、家にこもって小説書いていそうだな、などと、逆に又吉さんのいろんな一面が見えるようでもあった。人こそ、一つの視点ではとらえきれない、たくさんの側面をもつ存在だということにも気づかされた。」
—『ルビンのツボ 芸術する体と心』齋藤 亜矢著
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