窪美澄のレビュー一覧
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「魔が差す」ようなかたちであふれだす欲望や衝動。それらは性欲や嫉妬などに絡んでいた。人間だからこそのどうしようもない部分だろう。「魔が差す」とは言っても、誰かや何かに追いつめられたりしたことで見つけた逃げ道としての行為であったりはする。そしてその行為の前後、主要人物たちは苦しみに見舞われていたりする。そういった人物ばかりではないけれど、それぞれすべての主要人物が、それぞれに割り切れない事情を抱え苦しんでいた。そういった連作長編だった。
人は、苦しんでいるのは自分だけで、他人は深い悩みもなく楽しい日々を送っていると思いがちではないか。たとえば「隣の芝生は青い」という言葉のように。でも、少なくない人々が、それぞれ苦しんでいて、それぞれの苦しみの源となる個別の事情を抱えている。失敗をしない人生はないし、誰かの失敗を背負う人生も珍しくない。人生にとって深い打撃となる失敗は避けたいものだけれど、えてしてやってしまう過失というものはある。そういった過失が関係する連作長編だった。完璧になんて生きられない。だからこそ、深い落とし穴に落ちることもないわけではない。巻き添えをともなって深い穴に落ちることも、なんら珍しいことではない。そういった連鎖関係も、この作品で意図して構成されているところ。この世界で暮らす人々は過失それだけを切り取ってみてしまいがちだからこそ、見落としている背景が書き込まれているところに読み手は惹きつけられる。日々の死角や盲点をそれとなく気づかせてくれてもいるからだ。
読み手はそんな人間関係のしがらみや抑えきれない欲望や衝動のその後を見せられて、はたしてどう受け止めるだろうか。紙一重で選んでしまった過失や、過失への巻き込みがなければ、いたって平穏にくらせていたに違いない人たちなのだから、彼等に対してそう簡単に割り切れる気持ちは湧きおこらないのではないかと思う。そして、過失を経たあとを描くからこその「ふがいない僕は」であり、すなわち過失の後を切り捨てないがゆえにできあがった物語なのだと思う。
これは、実世界では多くの人たちが興味を失うか、直視を恐れる部分ではないか。そこを描くことで、「生きること」が見えてくる。最後の章は主人公の家である助産院を営む母親が主人公だったが、そこで描かれる産みの苦しみは再生の苦しみともリンクして感じられた。この世に誕生するときに、赤ちゃんも母親もとても大変な想いをする。再生の過程とて同じことなのかもしれない。もう一度生き直すとき、もう一度立ちあがるとき、陣痛や出産の痛みや苦しみに通じるなにかを甘んじること。それは生きるか死ぬかの瀬戸際でしか成し遂げられないと覚悟を決めることだろうと思った。
しめくくりに最後の章で少しだけ登場する漢方医・リウ先生のセリフの場面を。
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リウ先生が白い歯を見せて笑い、すっと息を吸うと、まるで呪文を唱えるように言った。悪い出来事もなかなか手放せないのならずっと抱えていればいいんですそうすれば、
「オセロの駒がひっくり返るように反転するときがきますよ。いつかね。あなたの息子さんが抱えているものも」リウ先生が指をぱちんと鳴らした。(p296)
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長い苦しみの後に赤ちゃんが生まれるように、悪い出来事による苦しみも、いつか反転するときがくる。それはきっと、産まれること。再生なのでしょう。
というところですが、おまけとしてちょっとだけ記しておきたいことがあるので、それを。
自分の子どもがそんな大層なことをしたわけでもないのに褒めて喜んで、それがほんとうに心からそうしている様子なのがわかって、「この人たち、やっぱりどこかおかしいのかもしれない」と親を思うようなのって僕もあったなぁ、とちょっとさみしく思い出したのでした。「2035年のオーガズム」の章の最後からでした。中心人物である男子高校生と恋人同士になるかならないかの関係から発展を期待している高校生の女の子が主人公の印象深かった章です。でもそこで事件というか事故というかに見舞われる男子高校生の運命に振り回されていく。家庭問題も抱えていたり。 -
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強烈に目を引くタイトル。
目を引くということはどこか共感している自分がいるということで(それを恥ずかしいこととは思わないものの)自分の中にある普段見ないようにしている気持ちを覗くように読んだ。
恋愛に年齢は関係ないとか、結婚はお金じゃないとか、綺麗事はいくらでも言えるけど、
この本の中で起きることや葛藤は全く綺麗事ではなくて、うまくいかない痛みや、生活を守るために向き合う必要がある現実から目を逸らさせてくれない。
それでいて愛することが人に与える輝きのとんでもなさも描いていて、少し都合のいいように感じるラストがわたしはとても好きでした。
主人公は、同じ女性だから贔屓目にみてしまうのかもしれないけれど、必要以上に自分を責めているように感じたし、物凄く頑張っている人だと分かるからこそ報われて欲しいなという気持ちもあった。
プロローグにある、
‘’時間というのは残酷だ。魂がちぎれる、とまで思った痛みすら、研磨して滑らかにしてしまう。‘’
というこの表現がとても好き。窪さんの本は初めて読んだけれど、全体を通して文章がすっと流れ込んでくるようで読んでいて気持ちが良かった。
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先月からパートナーと一緒に暮らし始めた。
一ヶ月が経ち、お互いに体調を崩した。気候の変化や仕事の忙しさ、慣れない新生活。考えられる要因はいくつもある。
けれど、ここ数年を一人で生きてきた者同士が一緒になるということは、それだけではないはずだ。相手の人生や、これまで抱えてきた背景を共に背負うこと。その「重み」が、疲れとなって身体に現れたのかもしれない。
この本を読みながら、ふとそんなことを思った。
主人公のように身体に異変が出るほど辛い過去の出来事はないけれど、誰かと生きていくことは、大なり小なり、今まで持っていなかった荷物を背負うことでもある。
「この人の分なら、背負ってもいい」と思える相手に出会えることは、きっと幸せなことなのだろう。
正直、そこまで深く考えてはいなかったけれど。この本が、そんな大切なことを教えてくれたような気がする。 -
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何故かたまに窪先生の本が読みたくなる。買って積読していた本を見つけて呼ばれた様な気がする。植物の名前は余り知らないのですがポーチュラカはよく目にしていたので知ってたしゲンノショウコは(現の証拠)直ぐ効果が出るからゲンノショウコだったなんて目からウロコです。サンカヨウは雨に濡れて透明になるなんてなんて素敵な花なんでしょうか。
「かそけきサンカヨウ」と「ノーチェ.ブエナのポインセチア」は登場人物が同じだったのでとても読み応えがあって私が一番好きな物語りでした。窪美澄と言えば女の為の女の文学だと思って居たけど男性側から描くと「サボテンの咆哮」になるんですね。男性のおれが主人公で何をやってもダメで我慢して我慢してみたいな男。結局結婚をゴールと考えるかスタートと考えるかで向き合う姿勢が違って来ると思う。あるべき家庭の姿を押し付けようとするのも無理だと思う。現実は仕事も子育ても大変。でも言えないんですよね。本音を自分の言葉で伝えて話し合える夫婦又は家族は強くなれると思う。
そして最後に対談加藤シゲアキ×窪美澄
加藤さん曰く窪さんのこの小説には人が生きていくことの生々しさが描かれていて考えさせられましたとありました。私も同感です。
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綿矢りささんの「深夜のスパチュラ」は、現代っぽくて入ってきやすい。でも文章が続いていて読みにくい。主人公がかわいい。
一穂ミチさんの「カーマンライン」は、表現できないけれど良さがあって好きだと思った。双子って素敵だなあ。
遠田潤子さんの「道具屋筋の旅立ち」は、いかにも昭和的な男と、女の話で最初は嫌だなあって読んでた。でも、八角魔盤空裏走(はっかくのまばん、くうりにはしる)という言葉を聞いてからの優美の自分自身と向き合っていく姿が清々しかった。最後の誠とのシーンがなんかいいなあって。
窪美澄さんの「海鳴り遠くに」は、紡がれている物語の雰囲気がなんだか好きだなあ。最後ちゃんと結ばれてよかった。 -
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みんな、「好き」という感情が絶対的上等感情だと崇めがちだ。だが「ほしい」という感情がさらに純粋なものではないかと感じたことはないですか?比べたらことがなかった「好き」と「ほしい」の相対論。この2つは似ている感情だと勘違いしていました。小説の中では「好き」と「ほしい」のかけ違いや勘違いで恋愛に物語が発生し、「好き」と「ほしい」の合致で恋愛が成就していた。更にこの2つを掛け算で考えてみると複雑で面白い。「好き」だから「ほしい」と「ほしい」から「好き」は全然違う。例えば、メルカリをして世の中の欲に触れた時。「ほしい」から「好き」という感覚の存在に気づかされる。別に好きではないのにほしくなる!ほしくないから好きではない...?「ほしい」は「好き」を上回る純粋な感情になりえる。「好き」は変幻自在な都合の良い感情になり下がる。