アンディーウォーホルはチェコ移民で熱心なカトリックでホモ
アンディーウォーホルって男性経験も女性経験もないゲイらしい。でもそういう同性愛者も居ると思う。
ケネディの奥さんのジャクリーンの作品
分かった。ウォーホルはチェコ系移民の熱心なカトリックだったから同性との性交経験がなく、女性に興味無いから生涯独身だったのか。
有名な抽象画家って旧共産圏もしくはその影響を受けてただったロシアとか東欧、ドイツ出身が多いのが興味深い。神は死んだと言ったニーチェもドイツ人だし。ということは、抽象画自体が神との決別的なアートなのかな?と思うようになった。ルーブル美術館通い続けてると色々な気づきを得るな。
「いずれのウォーホル像も正しく、またいずれのイメージも彼の全体をカバーすることはできない。彼がこうしたすべての解釈を包含するほどの巨人であったというよりも、あらゆるイメージを許容してしまうキメラ、つまり鵺的存在であり、まさに鏡のような体質をもっていたためである。ウォーホル自身、自分のイメージをひとつに特定されるのを意図的に避けていたきらいがあり、一通りには総括できない玉虫色のウォーホルが真実のウォーホル像というほかないのである。」
—『ウォーホルの芸術~20世紀を映した鏡~ (光文社新書)』宮下 規久朗著
「1996年の展覧会のとき、私はかなり長いカタログ論文を書いた。そのときは、ウォーホルについてずっと考え、その真実に迫ろうと悪戦苦闘して、ウォーホル作品に見られる死、宗教、政治といった要素を抽出してそれなりの深刻なウォーホル像を探り当てたつもりになったのだが、すんなりと当てはまるのがかえって不気味であり、もしや計算ずくのウォーホルの術中にはまったのではと不安になったものである。今にして思えば、ウォーホルを分析するつもりが、ウォーホルという鏡に映し返された自分を分析していたにすぎなかったかもしれない。彼を深刻な美術史の俎上に載せることはたやすいが、ウォーホルには、つねにそうした真面目な言説をはぐらかす不真面目さや遊戯性が見え隠れするのだ。」
—『ウォーホルの芸術~20世紀を映した鏡~ (光文社新書)』宮下 規久朗著
「アンディ・ウォーホルは、 1928年、ピッツバーグで 3人兄弟の末子として生まれた。 本名はアンドリュー・ウォーホラ。アメリカ北東部ペンシルヴァニア州の都市・ピッツバーグは 19世紀末から 20世紀初頭にかけて鉄鋼生産の中心地として繁栄して人口が激増し、大量の東欧移民を受け入れた。ウォーホルの両親もスロヴァキアのメドジラボルツェ地方のミコヴァからのウクライナ系の移民であった。 ウォーホル一家は東欧の熱心な東方カトリック教徒の集まる地区に住み、日曜日ごとに一家で近くのセント・ジョン・クリソストム教会に通うことを欠かさなかった。 父アンドレイは建設労働者だったが、アンディが 14歳のとき病気で亡くなった。父はアンディに大学教育を受けさせるように遺言していたという。母ジュリアはパートで清掃人をするほか、ブリキや色紙で造花を作ったり、イースター・エッグを作ったりして家計を助け、 3人の息子を育てあげた。アンディは、ノイローゼ、舞踏病、猩紅熱と、いつも病気がちで家族の心配の種となっており、母親に溺愛されて育つ。 小学校では飛び級するほど知能に優れ、母親譲りで絵を好んだ彼は、土曜日にカーネギー美術館で開かれていた無料の絵画教室に通った。高校生の頃に自宅の居間を描いた水彩画が残っているが、暖炉の上に十字架が見える(図 2)。」
—『ウォーホルの芸術~20世紀を映した鏡~ (光文社新書)』宮下 規久朗著
「当初、ウォーホルは、貧窮に苦しみながらひたすら商業的アーティストとしての仕事に励んだ。自作のデッサンやイラストを雑誌社やアートディレクターのもとに持ち込んでは仕事を開拓していく。当時は新聞や雑誌の広告の主体はまだ写真ではなく、イラストであった。 やがて彼の描く素朴で繊細なイラストは徐々に好評を博し、『グラマー』誌のイラストを皮切りに、『ヴォーグ』『マドモアゼル』『ハーパーズ・バザー』といったファッション誌や新聞、商品の広告にまでおよんだ。 彼のイラストは、ペンで描いた絵を別の紙に押し当て、にじんだ線の効果を出したもので、素朴でありながら洗練された雰囲気をもっていた。この「ブロッテド・ライン(にじみ線)」の技法は、学生時代にベン・シャーンやクレーの絵から発想したものである。」
—『ウォーホルの芸術~20世紀を映した鏡~ (光文社新書)』宮下 規久朗著
「母との共同生活は母の死の前年の 1971年まで続く。ウォーホルは生涯独身であったが、それはホモ・セクシュアルであったということのほかに、一種のマザコンであったせいであろう。母親の影響は彼の一生に及ぶのである。また彼は、つねに他人に囲まれている生活を好んだが、なぜか特定の男女と精神的にも肉体的にも深い関係になることは決してなかった。」
—『ウォーホルの芸術~20世紀を映した鏡~ (光文社新書)』宮下 規久朗著
「こうした仕事によって、ウォーホルはイラストレーターとして有名になった。住居も、友人やダンサーたちとの共同生活から広いアパート暮らしに移る。さらに、容姿のコンプレックスを克服すべく鼻を整形手術し、鬘を着用するようになる。移民の子アンドリュー・ウォーホラではなく、ニューヨーカーのアンディ・ウォーホルとなり、それまでの弱い自分と決別して、自信をつけたのだった。」
—『ウォーホルの芸術~20世紀を映した鏡~ (光文社新書)』宮下 規久朗著
「もともとネオ・ダダに影響を与えたのは、 20世紀の前衛芸術の創始者のひとりであるフランスの芸術家マルセル・デュシャンである。彼は 1917年、男性用便器にサインをし、《泉》というタイトルをつけて展覧会に出品しようとした。これは、既成の日用品(レディメイド)でも芸術家が選んで展示すればそれだけで美術作品になるという思想によって芸術と非芸術の境界を問い、美術に対する概念を揺さぶるものだった。こうした状況のうちに絵画はその特権性を失い、ひとつの物体になってしまったのである。」
—『ウォーホルの芸術~20世紀を映した鏡~ (光文社新書)』宮下 規久朗著
「ウォーホルの基本理念は、 1963年にジーン・スウェンソンが行った彼へのインタビューでの有名な発言によく表れている。 ぼくは誰もが機械になるべきだと思う。誰もが誰もを好きになるべきだと思う。 ……誰もがいつもクリエイティヴなんだ。…実際のところみんなもう上手すぎるんだ。 ……どうしてあるスタイルが他のスタイルよりよいなんて言えるのかな。……誰かが、ぼくのかわりにぼくの絵を全部できるようになるべきだと思う。今までぼくは、一枚目と同じようにきれいで単純なものを作れたためしがないんだ。 ……もしアーティストがもうできないと思ったらやめちゃえばいいだけなんだ。アーティストは後ろめたい思いなんかしなくてもスタイルを変えられるべきなんだ。……リキテンスタインは、あと 1、 2年もしたら漫画の絵はやっていないかもしれないって言ってたそうだけど、スタイルを変えられるっていうのはとってもすばらしいことだと思う。今起こりつつあるのはそういうことで、まったく新しい世界になるんだ。それがぼくがシルクスクリーンを使う理由のひとつだろうな。もっと多くの人がシルクスクリーンをやるようになって、ぼくの絵が自分のものなのか誰かのものなのかわからなくなったら、とってもすてきだと思う。……ぼくがこんなやり方で描いているのは、機械になりたいからで、何でも機械みたいにやることが、ぼくがやりたいことだって感じてるんだ。(商業美術はもっと機械的でしたかという質問に対して)いや、そんなことはなかった。それでお金をもらってたんだし、何でも言われる通りにやったよ。靴を描けと言われれば描いたし、直せと言われれば直した。何でも言われたとおりにして、修正して注文どおりにしたよ。創らなきゃ( invent)いけなかったのだけど、今は違う。さんざん修正した後でも商業的なイラストにはフィーリングがあったし、スタイルがあった。……(注文主たちは)自分のほしいものを正確に理解していて、主張があった。とても感情的になることもあったしね。商業美術は、作る過程は機械的だったけど、その姿勢にはフィーリングがあったんだ。」
—『ウォーホルの芸術~20世紀を映した鏡~ (光文社新書)』宮下 規久朗著
「ウォーホルは同性愛者だが、女優のことも好きだった。しかし、女優の肉体には興味がなかったのではなかろうか。プレスリーの場合は全身像を作品にしているし、 1977年には男性の下半身の写真を用いた《トルソ》というシリーズを作っており、男性の肉体には惹かれていたようだ。」
—『ウォーホルの芸術~20世紀を映した鏡~ (光文社新書)』宮下 規久朗著
「モンロー・スマイルという用語があるそうだ。これは、モンローの蠱惑的でセクシーな笑顔を指すのではなく、複雑な家庭環境に育った子供がもつ印象的な笑顔のことで、こういう子供は周囲の大人に気に入られようとして可愛らしい笑顔を身につけることが多いという。幼少時に無視されたり虐待を受けたりした子供で、適応能力の高い子供は、自分の身を守るために周囲の顔色をうかがうことが身につき、愛嬌や気遣いにあふれた人間になるという。そしてそういう人の多くは空想上のアイデンティティを作り上げるため、芝居や映画の世界にひきつけられるという。 20回以上も施設や養家をたらい回しにされたモンローはまさにそうであった。つねに記者やファンを気遣い、過剰にサービスし、魅力的な笑顔を振りまいて人気者になっただけでなく、演技の勉強に精進し、演技派女優となる努力を惜しまなかった。ただ、こうした人たちは悲観的で自分自身を好きになれず、心の中をまともに直視できないと感じているという。彼女の笑顔は表面的なもので、少女時代の悲惨な体験から努力して身につけたものだったのである。 ウォーホルの選んだモンローの写真は、ほかのどのモンローの写真よりもそのことを感じさせる。笑顔でありながら視線はうつろで寂し気にも見え、空虚さを感じさせる。ウォーホルはモンローの抱えていた孤独や不幸を本能的に感じ取って、この写真を選んだのではなかろうか。まさにモンロー・スマイルの肖像であった。」
—『ウォーホルの芸術~20世紀を映した鏡~ (光文社新書)』宮下 規久朗著
「ステーブル画廊での個展ではいくつかのマリリン作品が出品されたが、もっとも観客の目を引いたのが《黄金のマリリン》であった(図 28)。 建築家フィリップ・ジョンソンが購入し、現在ニューヨーク近代美術館に展示されているこの作品は、大きな金地の中央にひとつだけマリリンの顔がある作品で、金地に浮かぶ顔ということでビザンチンの聖母のイコン(聖画)を想起させる(図 29)。ウォーホルが最初に認識した美術は、日曜ごとに家族とともに行った教会で目にするイコンであったろう。」
—『ウォーホルの芸術~20世紀を映した鏡~ (光文社新書)』宮下 規久朗著
「ウォーホルは新聞や雑誌に掲載される写真だけではなく、写真配給会社や警察署で交通事故の写真を入手して、それを使った。それだけでなく、周囲の誰にでも、自然災害や交通事故や自殺の、なるべく恐ろしくて残虐な写真を譲ってほしいと頼んでいたという。 当時『ライフ』誌の仕事をしていたデイヴィッド・ブルドンは、友人のウォーホルに自動車事故の写真を提供したと言っている。そういった写真は死体や血が写っており、生々しいためにふつうは滅多に人目にふれないものもあった。」
—『ウォーホルの芸術~20世紀を映した鏡~ (光文社新書)』宮下 規久朗著
「やはりマスメディアの写真を用いて描いたドイツの画家ゲルハルト・リヒターは、「写真は恐怖を呼び起こすが、絵画は哀悼を喚起する」と述べている。写真を直接目にすると、その凄惨さに目が奪われるばかりだが、カンヴァスに転写されたものは、その生々しさがやや緩和され、悲しみを感じさせるといえよう。」
—『ウォーホルの芸術~20世紀を映した鏡~ (光文社新書)』宮下 規久朗著
「また、これらの作品はそれぞれ、ユダヤ人、黒人、イタリア移民といった人種問題に関わるものであった。貧しい東欧移民の子であり、英語も満足に話せない母と同居していたウォーホルは、こうした人種差別の問題には敏感であったのではなかろうか。《エルヴィス》の元になった写真は、インディアンとの混血児の悲劇的物語である『燃える平原児』のものであったし、晩年の 1980年代にはインディアンの首長の肖像の連作を作っている。 ウォーホル自身はしかし、ジャーナリストに、《電気椅子》や《人種暴動》が社会批判的かと尋ねられると、「意味はない、意味はない」と否定するのがつねであった。 しかし、ウォーホルの友人エミール・デ・アントニオはこう言っている。「アンディの政治性は画面に表れてるよ。やつは政治的でないように装ってるってことさ……本人は否定するけどね。でも彼は政治性を持ってる。チェコ移民の子で、父親が肉体労働者で、ピッツバーグに住んでいて、そんな環境で政治的な思考を持たないで育つなんてとても考えられないと思うよ」。」
—『ウォーホルの芸術~20世紀を映した鏡~ (光文社新書)』宮下 規久朗著
「ウォーホルはかつて、ニューヨークの「ル・クラブ」という店でエレガントな黒いドレスをまとったジャッキーを見たと書いているが、ケネディの暗殺以前から注目していたようである。また、ウォーホルは、いつ購入したかさだかではないが、アメリカの人気大衆画家ノーマン・ロックウェルが 1963年に描いたジャッキーの肖像画も所持していた。 ジャクリーン・リー・ブーヴィエは、マリリン・モンローとは対照的に恵まれた環境で生まれ育った。裕福なフランス系の株式仲買人の父とアイルランド系の銀行頭取の娘を母として 1929年に生まれ、上流階級の子女として教育を受け、パリ留学を経て新聞社に就職。 53年に上院議員だったジョン・ F・ケネディと結婚し、 4人の子供をもうけた(うち 2人は死産し、娘と息子のみが育った)。 60年にケネディが大統領に当選し、翌年大統領となると、米国史上最年少のファースト・レディとなった。彼女はケネディとともに人気を集め、そのファッションが模倣され、流行した。」
—『ウォーホルの芸術~20世紀を映した鏡~ (光文社新書)』宮下 規久朗著
「ウォーホルもリヒターも、現代社会に潜む暴力や死をテーマにし、そのイメージの解釈を観者にゆだねているが、それによって暴力や死について考えさせ、さらに社会に氾濫するイメージが私たちの意識に大きな影響力を及ぼしている様をも示しているのである。」
—『ウォーホルの芸術~20世紀を映した鏡~ (光文社新書)』宮下 規久朗著
「生涯を通じて熱心なカトリックであったウォーホルはヴァチカンのパヴィリオンを訪れてこの像を見たにちがいない。」
—『ウォーホルの芸術~20世紀を映した鏡~ (光文社新書)』宮下 規久朗著
「レオ・キャステリ画廊の個展(図 92)では、大きな《花》からその半分の大きさの花、さらにひとつの壁面を埋め尽くした小さな《花》というように変化をつけて展示し、非常な好評を博した。批評家には、モネの睡蓮にたとえられたり、またマチスの切り紙絵と比べられたりした。個々の作品がほとんど隙間なく空間を埋め尽くす様子は、ニューヨーク近代美術館にあるマチスの切り紙絵のように装飾的であり、以前、マチスになりたいと言ったウォーホルの願望が達成されたものと見ることができよう。」
—『ウォーホルの芸術~20世紀を映した鏡~ (光文社新書)』宮下 規久朗著
「《花》はウォーホルにとってもっとも成功した作品であり、著名なコレクターたちも購入した。それはどこに飾っても見栄えがし、また現代的で装飾的であったため、都会の部屋のインテリアには最適であった。ウォーホルとその助手たちは、ファクトリーで確立していた大量生産の方式を十分に生かして、翌年にかけてせっせとこの絵を作り続けた。 一方、《自動車事故》や《指名手配犯》の絵はほとんど売れなかったという。そういう絵を個人の居間に飾りたいという人が少ないのは十分理解できよう。当時のファクトリーの様子を写した写真を見ると、《指名手配犯》の一枚が飾られているが、社会のはみ出し者の集うこの空間に、アンチ・ヒーローたる指名手配犯の肖像が似つかわしいと思われたためかもしれないが、実際は売れなかったためにそのままファクトリーに置かれたものだろう。」
—『ウォーホルの芸術~20世紀を映した鏡~ (光文社新書)』宮下 規久朗著
「ウォーホルは 74年に来日したとき、日本の生け花に興味があり、日本の菊の花が美しいと述べていることから、このひな菊はウォーホルが日本をイメージしたものであったのだろう。」
—『ウォーホルの芸術~20世紀を映した鏡~ (光文社新書)』宮下 規久朗著
「ウォーホルがピッツバーグの熱狂的なカトリック地区で生まれ、敬虔なカトリック家庭に育ち、母親の影響もあって生涯にわたって熱心な東方カトリック教徒であったこと、死の直前まで週に何回も自宅の近所にあるセント・ヴィンセント・フェラー教会に立ち寄り、必要以上の回数のミサを受けていたこと、さらに避難所に来るホームレスに食事を与える手伝いをしていたことを明かした。 こうした活動をウォーホルはプライヴェートなこととして内密にしていたが、最晩年に制作された《最後の晩餐》にいたってようやく制作上に表面化したと述べた。この弔辞は、名声と富に包まれた華やかな世界に生き、ドラッグやゲイなど反社会的な文化の中心にいると思われていたウォーホルの知られざる一面をはじめて明らかにしたものであった。」
—『ウォーホルの芸術~20世紀を映した鏡~ (光文社新書)』宮下 規久朗著
「こうした状況は、ウォーホルの理想とした「ビジネス・アート」のあり方であった。そのためには、作者は透明で無名の存在であり続けるわけにはいかず、デザイナーと同じように有名人になる必要があった。美術以外の活動に力を入れ、ファクトリーを開放して取り巻きを増やし、様々なパーティに出没し、積極的にマスメディアに露出することで結果的に彼はそれをなしとげた。作品の表面からは作者の痕跡や個性を消し去ろうとしたにもかかわらず、作者の名前や存在を世間にアピールして有名人となってしまったのだが、中性的でとらえどころのない彼の印象は、クールな作品のイメージと見事に一致したのだった。 ウォーホルはかたくなに作品制作における自我や精神性を拒否し、クールな外観の作品を機械的な手法で大量に制作し、自らの創造力の源泉や制作方法を他者や社会に求め、さらに作品の解釈や受容をそれらに全面的に委ねた。こうして作品を社会に拡散させ、自らも世俗にまみれるほど、作り手の個性は空洞化し、世間に流通する作品の存在感が増したといえるだろう。」
—『ウォーホルの芸術~20世紀を映した鏡~ (光文社新書)』宮下 規久朗著
「ウォーホルの個性否定や自己の無化は、ある意味、こうしたキリスト教の隠修士的態度に通じるようだ。彼が自らを無にして委ねようとしたものは、特定の他者というよりは、彼が愛してやまなかったアメリカ社会や時代、さらに、運命、あるいはまさに神と称してもよいものであったのではなかろうか。 大量生産の商品のような作品とブラックホールのような作者。それはまさにビジネス・アートであり、イコンに通じる作者否定の思想の表れでもあった。その結果、彼の芸術は徹底的に俗のうちにありながらも聖なるものに転じることになったのである。そして、近代という枠組を超え、時代を超えた普遍的な価値を持つにいたったといえよう。」
—『ウォーホルの芸術~20世紀を映した鏡~ (光文社新書)』宮下 規久朗著
「ウォーホルの個性否定や自己の無化は、ある意味、こうしたキリスト教の隠修士的態度に通じるようだ。彼が自らを無にして委ねようとしたものは、特定の他者というよりは、彼が愛してやまなかったアメリカ社会や時代、さらに、運命、あるいはまさに神と称してもよいものであったのではなかろうか。 大量生産の商品のような作品とブラックホールのような作者。それはまさにビジネス・アートであり、イコンに通じる作者否定の思想の表れでもあった。その結果、彼の芸術は徹底的に俗のうちにありながらも聖なるものに転じることになったのである。そして、近代という枠組を超え、時代を超えた普遍的な価値を持つにいたったといえよう。」
—『ウォーホルの芸術~20世紀を映した鏡~ (光文社新書)』宮下 規久朗著
「 冒頭で述べたように、ウォーホルは多面的でとらえどころがなく、一面的な解釈を拒む鵺的存在である。しかし、その不可思議な人間性はともかく、遺された作品が放つ魅力と力強さだけは美術史的に捉えられるはずだと思って執筆した。 しかし、書き終わってみると、やはりウォーホルという鏡に映し返された自分の美術史ばかりを語ってしまったのではないかという不安を感じる。美術史的には、アメリカの即物的な写実主義の伝統との関係やポストモダンのアートシーンに与えた影響など、まだ論ずべきことは多いが、長年ウォーホルの絵に向き合い、愛好してきた経験から、 60年代の重要な作品と好きなテーマに偏ってしまったようだ。ただ、こうした玉虫色の芸術だからこそ、ウォーホルは時代を超えて誰にでも受け入れられ、愛され続けるのだろう。」
—『ウォーホルの芸術~20世紀を映した鏡~ (光文社新書)』宮下 規久朗著