養老孟司のレビュー一覧
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養老孟司先生の語りは明瞭で
好きだ。
聡明な方はブレない。
坦々と、私はこう感じて、考えて、こうやって生きてきたよ、と、さらりと語る。
決して押し付けることがない。
養老先生といえば、
愛猫まるとの暮らしぶりも
人気があった。(過去形なのは
まるちゃんが虹の
橋を渡ってしまったから)
虫や動物に対する向き合い方が、
潔いのだ。ベタベタした愛情ではなく、
当たり前にあるがままを愛でる。
迷ったり、ぐずぐず悩んだりしている自分がバカらしくなってくる。
サバサバと
え?悩むことに意味あるわけ?
って先生に言われそうで。
タイトルが
人ではなく
ヒトの幸福、となっているところ。
養老先生の考え方が
うまく表現されているな、と思う。 -
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この対談を一語で表すなら、「豪放磊落」に尽きる。最近はコンプラなんとかのせいで配慮という名の忖度を強いられて、言いたいことも碌に言えやしない。そこへ行くとこのお二方はもはや恐いものなしなのか、何の気兼ねもない語らいというのは読んでいてじつに気分がいい。
下重暁子さんといえば、『家族という病』(2015年)が話題になった。「家族」とくれば普通は「絆」だが、彼女にとってはそれが「病」になる。ところが、ほかの人にとっても案外そうだったのか、本が売れた。要は、みんな言いたくても言えなかったのだろう。養老さんの『バカの壁』が同じような側面を持っていたことは言うまでもない。
下重さんはNHK、養老さんは東京大学に奉職しておられたが、こんな勤め先は懲り懲りといってお辞めになった。それ以来、媚びない、あるがまま、自然体、そんな生き方を貫いている。要するにネコだ。まさに『老いてはネコに従え』なのである。 -
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C・W・ニコルさんと養老孟子さんの対談の本だった。自然、森、第一次産業の重要性。自然の中で体を動かすことで、自分の体の動かし方を知ること。自然の中で過ごすによって、本当の生きる知恵をつけること。体を動かして、実際に経験すること。実体験の方が大切。
建築を立てるのも、木そのものの特質に沿って切断したり、その木の特質に沿って、家を建てる。
それにしても、C・W・ニコルさんは、とても興味深い人だ。ケルト系神道のクリスチャン?アラスカや北極やエチオピアでのフィールドワーク、面白い経験をしている人だ。
養老さんによると、若い人は、田舎の田舎に行くと、年長者や年上がいないから、自分たちの好きなことができる。
・感覚は違いを識別するもの。
・ウェールズ語。
・日本語は感覚的。感情に近い。
・人間は状況の産物。
・いざという時に命をかける。養老さん曰く、戦後の日本の教育で一番抜けてしまったこと。
・同じ自分にこだわらない。 -
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人間は『人工身体』と『自然身体』の2つのからだを持っている。
『ああすれば、こうなる』だけになった現代社会。
上記2つの講演録を読み、我が身を考えると、なるほど!と感じる点がある。
産まれて間もない子供は自然に近い存在で、ああすれば、こうなるの法則は成り立たない。
現代の子育ては、核家族でワンオペである場合もある。本の中で、都市化された世の中では、(自然は排除される。)という話がある。子育ての煩わしさの根底にはその現実があるのではないかと感じた。勿論、全ての人が煩わしく思っているとは思わないが、人工(脳)であればあるほど、それが如実に現れているように思う。
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ネタバレ意識の世界、言葉の世界、頭の世界は本質でもなんでもないことについて。
この世界に偏重している今日を冷静に指摘していて、
今の主流とは一線を画していてやっぱとても参考になります。
そして、簡単で短い言葉で、伝えられている。
__ときには言葉を止めて、世界に直面してみたらどうか。
言葉を決めれば、世界が決まる。そう思っているに違いない。そう思えるように、社会を作ってしまったのである。
言葉で世界は動かない。
__世界を意味で満たすことは、じつは恐ろしい社会を創り出すことなのである。
__頭の中すぐに煮詰まる。意識は煮詰まるものなのである。
__環境問題がおかしくなるのは、環境という「自分とは別」という文化を、自分なんてそもそもなかった社会にに持ち込んだのが根本だと思う。
__認識は内容ではない。行為である。もっというなら、生き方である。
__ソクラテスは本を書かなかった。書かれた言葉からは、それが発せられた具体的な状況が落ちてしまう。それを知っていたからであろう。
「*技術*が*成功する*ためには、体面*よりも現実*が*優先されなければならない*、*何故なら自然*は*騙しおおせないからだ*」物理学者リチャード・*ファインマンの言葉が引用されているところでは、私は完全にこの穴に落ちているな、と思いました。*
*現場でのプロジェクトが予定通りいかないとイラっとしてしまうところがあるのですが、物理的にできていないものはできていないわけで、概念として勝手に作った時間のほうに合わせたところでどうしようもないのに、これまでの時間などの人工的な概念への依存度合いが強すぎてか、言われてもそう簡単にはがれるものではないのかな。*
単純化、シンプルにしたい!この衝動と、現実の複雑さと、どうバランスをとっていったらいいのか、まずは探りながら日々を送ります。 -
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アインシュタインとフロイトという、海外に亡命したユダヤ人の二人がこうやって書簡をやりとりしていたことが驚き。
1932年の出来事を調べてみる。世界恐慌の余波が残る。日本は和暦で昭和7年。五・一五事件で犬養毅が殺害される。ドイツはナチスが第一党になる。
二人のやり取り、書いてある内容は、そこまで古さを感じさせない。
アインシュタインからの、「人間を戦争というくびきから解き放つことはできるのか?」という問いかけから始まる。国連のような中立的な組織が介入して解決しなければならないだろうという持論とともに投げかける。国際連盟ウケを狙った感じもある。
フロイトからの返信は、人間は歴史的に見ても利害の対立の解決には暴力が使われて来たことから話す。難しいところも多いが、以下要約。というか、私のメモ。
社会が発展するにつれ、暴力の支配から法の支配へと変わっていく。法は一人の暴力に対して連帯した人たちの力で勝ち取ったもの。しかし、これに歯向かうものにはやはり暴力に訴える。そのうち共同体の中に他の人より優れた人が出てきてまた独裁的な状況が作られ、それを共同体が打ち負かすと言うことが繰り返される。
過去の戦争には平和を目的としたものも多いことも事実。永遠の平和のために、戦争は不適切な方法とは言い切れない。しかし戦争しても永遠の平和は実現されていないのはなぜか?暴力で小さな集団を繋いでもその状態が長続きしないから。また大きな集団同士での戦争が始まるから。小さな戦争の頻度は下がっても、ひどい惨状を招く巨大な戦争が起きるようになった。
皆が一致団結して中央集権的な権力を作り、利害の対立が起きたときにはこの権力に裁定を委ねるべき。ただ、条件が揃わなければならない。
人間が自分の欲動をあますところなく理性コントロール下に置くことができれば人間の社会はいつまでも完全な一体化がされるかもしれないが、そんなことは無理。できたとしても時間がかかりすぎる。
平和主義者はなぜ戦争に強い憤りを覚えるのか?戦争は自然世界の掟に即しており、生物学的なレベルでは健全であり、現実には避けがたいものなのに。
文化の発展が、人間の心のあり方に変化を引き起こす事は明らか。ストレートな本能的な欲望に導かれることが少なくなる。文化が生み出す最も顕著な現象は2つ。1つは知性を強めること。力が増した知性は欲動をコントロールし始める。2つ目は攻撃本能を内に向けること。好都合な面も危険な面も含め、攻撃欲動が内に向かっていく。
本の後ろ半分は養老孟司と斎藤環の解説。数十年前の書簡に対する現代的な解釈が面白い。