養老孟司のレビュー一覧
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80代とは思えない、未来を考えている内容でした。羽生善治さん、井上智洋さん、岡本裕一郎さん、そして新井紀子さんの対談ですが、高度成長時期からたくさんのテクノロジーに囲まれて生活していると、人間は知らない間にAIのように無駄のない整理された人間を望みはじめているのが、最も危険な社会ではないかと感じているようでした。若者のスマホに対する人間の在り方だけでなく、60〜80代の高齢者だって他人事ではなく、まだ20年くらい生きてしまう今日では、特に高齢者に読んでほしいと思いました。わたしも五感をフルに活用しながら生きたいと思います。ありがとうございました。
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ネタバレ
働きすぎと暇つぶしの狭間で
一部ご紹介します。
・科学技術の発展は様々なことを可能にした。可能だから、人間はそれをするので、環境を考えたらどうなるか。
やりすぎなければそれでいい。無限の知識追求という前提は、その「やりすぎ」を手伝ってしまう。
推理小説もファンタジーも、漫画もアニメも、やりすぎ防止の一環である。働かなければ生活できない時代では、暇つぶしは罪悪であった。
でも環境を考えるなら、働きすぎは罪悪である。
・車に慣れると、歩くという運動をしなくなる。親切な文章を読むと、不親切な文章は読めなくなる。
頭の訓練とは何か?自分の頭で考えることである。自分で考えた文章というのは、ひとりでに必要にして十分な分かりやすさを持っている。
・問題を丸めてしまえば(疑問に感じたことを、どうでもいいこととして忘れる事)、人生は楽だが、楽をすればその分自分に跳ね返る。
・遺伝子組み換え技術に限らず、一般に応用可能な新技術は、反対してもあまり意味はない。誰かが実行してしまうと、取り返しがつかなくなる可能性が常に残るからだ。核兵器がそうで、先にナチスドイツが作るかもしれないということが、アメリカの核開発の根拠となった。
だから、こういう技術については、「良く知る」しかないのである。
禁止したところで、それこそ使われてしまえば、もはや元に戻せないことが多いからだ。
それなら、反対原理主義になる前に、利害をしっかり見定めておく必要がある。
・「言葉で言えないことはない」という世界は、何事も言葉と交換可能だという世界である。
そこから「金で買えないものはない」まではすぐだ。そこで「落ちてしまう」ものは感覚の世界。
感覚の世界では、すべては独自で、すべては異なる。動物はその感覚世界に住むから、言葉は使えない。お金も使えない。
・同じ言葉を使っているつもりでも、「音程が違っていれば」感覚世界の住人は、「違うことを言った」と看做す。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ養老先生が解剖学者として考えてきた生物を対象とした形態学。生物の形を研究する過程でその後の著作につながるアイデアがいろいろ出て来たとのこと。それらは、例えば「唯脳論」「バカの壁」「遺言」などにつながる。
以下気になったところを記す。
形は客体のように見えて客体ではない。脳科学的には、情動ですら客観的な基準がない。まして、人の考えや思想に客観的基準があるわけがない。したがい、諸科学に普遍性はない。自分の考えを記すのは個人的作業。
「多様性は剰余から生まれる」・・・なるほど、すごく新鮮。
形は、意味を考えなければ、意味がない。
形の意味は、生物の場合、①数学的・機械的、②機能的、③発生的、④進化的な諸観点から考えられる。
①数学的には:幾何、機械的には:構造と力学
②機能的には:機能解剖学:「構造」は「機能」を考えるとわかりやすい。
③発生的には:発生自体が形の変化そのもの
④進化的には:進化の実際がどうであったか
問いと答え
・形に意味を与えるのは形を読みとる人間だとして、どのように意味を与えればよいと養老先生は考えるのか
→基本は4つの仕切り。主観の数を数え上げたのが上記の4つ。主観の内容は異なれど、主観の「形式」は、しばしば繰りかえす
・意味を与える側の人間が異なる見方をするのだとすると見方の違い(バカの壁)はどう乗り越えたらよいのか
→乗り越えられない
・養老先生としては、形にまつわる認識論的見方を生物以外にどう拡張してきたか
→考え方としては、画像と言葉などを同様に含む -
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人間とAIの関係を考えている人におすすめ。
【概要】
●人間とAIの関係について対談(コロナ禍以前)
・AIから見えてきた「人間の可能性」/羽生善治氏
・経済はAI化でどう変わるか/井上智洋氏
・AIから人間を哲学する/岡本裕一朗氏
・分からないことを面白がれるのが人間の脳/新井紀子氏
【感想】
●書物やメディアを通じて客観的に見てみると、AIによる将来の発展について、恐いほど評価する人もいれば、懐疑的に考える人もいる。
本書の各対談では、現実的な視点による考え方が表れており、興味深く読むことができる。
●AIをどうやって導入していけばよいかとても悩む。何をすることが日本にとって最適なのか、もっと独創性をもった考え方が必要だ、と自分自身の反省も含めて感じた。
●著者の「自分自身の必然性から出ていないことをする癖が日本社会にあることを心配する」には共感する。国民性なのかもしれない。
●羽生氏の「技術的にできる、ということと、その技術を『選択』して使っていくということは、必ずしも一致しない」という考えに同意する。何でもAIにさせれば良いというものではないのだろう。
●新井氏が言う「AIには定常状態しか予測できない」「想定外のことは予測できない」を超えるAIが出現するのか気になる。現状ではそのとおりとしか思えない。 -
Posted by ブクログ
養老孟司さんと4人の叡知のAIについて語らう。
羽生善治さんとの語らいでは、AIと将棋の相性をあげてひとのもつ先入観を排除して、古い手でくることもあり勉強になるという。
養老孟司さんのAIを高級な文房具という考え方が、たかがAIぽくて良かったです。
井上智洋さんは、ベーシックインカムとAIの親和性をあげて、例えベーシックインカムで収入を得ても、10万円もないと思えば、働く事を選択するひとの方が多いのではと楽観的に捉える。但し、本来ひとが自然とあるべき一次産業にシフトしていくのではと考える。
岡本裕一郎さんのAIによる効率化が必ずしも、ひとを幸せにしないと言う考え方が納得できました。ひとは歴史の中で、妥協点を見いだすことで上手くやって来た一方で、効率化は0か1まで物事を判定しようとする。正論が正しくても、根底では感情でひとは生きるものなんだよと思う。
新井紀子さんのAIを学ぶ上でのひとのリテラシーの問題に触れる。物事を深く考えなくなることは、AIの決めたことに対して、何も考えずに受け入れてしまう危険性がある。
結果まで示さないと何も出来ないひとは、考えることをしない人だという。世の中に最適解なんてないし、あるとしたら自分で下した結果が全てじゃないと思います。 -
Posted by ブクログ
コロナが流行する前の講演で、「『遺言2.0』はいつ出ますか?」という質問に対して、先生は「それはわからないが、AIについては書きたいと思っている」とおっしゃっていた。本書は対談の形式をとってはいるものの、ある意味ではこの問題に関する先生なりの総論だと言えなくもない。
いまから三十一年前、先生は『唯脳論』という本を書き、そのエピローグで「脳化社会」というキーワードを提示した。「脳化」とは、正確には進化の過程で生物の脳がしだいに大きくなっていくことを示すテクニカル・タームなのだが、先生はこの言葉を飛躍させて、ヒトにおいては脳が肥大化した結果、外部まで脳を拡張させ、社会そのものまで脳と化してしまったという、なんともユニークな理論を展開したのである。いまさら説明の必要はないかも知れないが、私自身のおさらいの意味も含めて、養老先生がいつも述べていることを書く。
脳とはどんな器官かといえば、「予測し、統御する器官」である。つまり、ものごとの予測を立てて、その予測にしたがってものごとが進むように取り計らう器官である。先生はそれをさらにわかりやすく端的に、「ああすれば、こうなる」と書いた。自然は人間が作ったものではないがゆえに予測不可能であり、脳は予測可能な人工物を次々と作り出すことで自然を置き換え排除していったのである。周囲を見廻してほしい。われわれのまわりに人間が作らなかったものがどれだけあるだろうか。机も椅子も、ペンもタバコも、建物も道路も、みんな人間が作ったものである。街路樹や公園はどうか。それすらも、人間が考えて配置したものである。要するに、われわれはもはや脳が作り出した世界=脳の中に住んでいるも同然なのである。
考えてみると、人類が「進歩」とか「発展」とか「文明」とか、その他いろいろな呼び方で呼んできたものは、すべて「ああすれば、こうなる」ようにすることである。そして、AIもじつはそのひとつの究極の在り方だと思えばよい。すなわち、人間は何を考えだすかわからないが、コンピュータなら予測でき統御できる。いや、むしろ統御されねばならない。だから、東証のシステムがダウンして一日止まっただけで「不祥事」になり、「サーバーの息吹を感じていれば防げた」などと言い出すのである。
だから、AIに仕事を奪われるとか、AIが人間を置き換えるとか、今更のように言っているが、われわれはとうの昔からそういう社会をせっせと作ってきたのである。あなたも私も、意識的にであれ無意識であれ、振り返ればずっとそうしてきたはずである。じゃあなんで今頃になってそんなに騒ぎ立てているのか。その答えを、養老先生はすでに『唯脳論』に書いていた。すなわち、脳がどんなに人工物を作り出して外部の自然を置換していったところで、最後にどうしても置換できない自然が残る。それは何かと言えば、われわれ人間自身である。人類はまだハエ一匹たりとも生命を作り出せてはいない。行き着く未来で残された唯一の自然が、われわれ人間の身体なのである。自然を排除していけば、いずれ身体という自然が反逆する、と。
私はもうほとんど落語だと思っているのだが、労働者はいつか働かなくてよい日が来るように仕事してきたのだし、人間の代わりになんでもやってもらうためにロボットを作ってきたのである。だから、AIが人間から仕事を奪うのは当然のなりゆきだし、そのうち「もう人間はいりません」という時代が訪れることは、最初から目に見えていたのである。ニーチェが生きていたら、「人間は死んだ」と言うのではないか。われわれは、尻に火がついてからやっと気づいて慌てている間抜けなサルである。
じゃあ、どうすればいいんですか。またお決まりの質問が聞こえてくる。そんなの、お得意のAIに訊いたらいいんじゃないですか? 賢い彼らなら、「ああすれば、こうなる」の結果こうなったんだから、もう頭で考えるのはやめたらどうですか?と教えてくれるかもしれない。ああ、本当に落語のオチみたいだ。そろそろ私はパソコンの電源を切って休むことにする。