あらすじ
文化や伝統、社会制度はもちろん、言語、意識、そして心…あらゆるヒトの営みは脳に由来する。「情報」を縁とし、おびただしい「人工物」に囲まれた現代人は、いわば脳の中に住む。脳の法則性という観点からヒトの活動を捉え直し、現代社会を「脳化社会」と喝破。一連の脳ブームの端緒を拓いたスリリングな論考。
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Posted by ブクログ
『唯脳論』は、知識を得るための本というより、「考えるという行為そのもの」を体験する本だと思いました。
読みながら何度も立ち止まり、「なぜ筆者はこの章を置いたのか」「何が言いたいのか」と自問する機会が何度もありました。
養老孟司さんは、私たちが“常識”や“通説”として疑うことなく受け入れていることに気づかせようとしているように感じます。
ヒトが話す前提はヒト自身が作り出したものであり、それは人間の都合であるのではないかと、繰り返し伝えているように思いました。
特に印象的だったのは、“生物学的に考える”という視点です。
人間の構造は一万年前からほとんど変わっていないことや、脳が意識を持つに至った必然性についての考察は、私にとって新鮮でした。
私はこれまで、意識がスタート地点という前提で考えていたため、意識がなぜ必然的に生まれたのかを考える視点がありませんでした。
また、人間は高尚な存在ではなく、動物の一種であり、脳に剰余があることがヒトの特徴であると語っているのが感じられました。
ヒトがいかに“偉い”かを皮肉を込めて描き出しているのかもしれません。
自然保護を語りながら自然破壊を許容する矛盾や、数字に固執する社会の危うさにも、危機感を抱いているように思います。
後半の視覚と言語、構造と機能、物質界などの抽象的な話題は、前半で伝えきったメッセージを繰り返し形を変えて深めていく構成のように感じました。
難しい本ではあります。
ほかの感想でも「難しい」「また読みたい」という声が多いのも納得です。
しかし、思考を重ねることで確かな何かを受け取れる本であり、ただ理解するだけでなく、“体験”として読む価値のある読書体験だったと思います。
Posted by ブクログ
視覚と聴覚の連合、これが意味する内容の考察が興味深い。また、この感想を書く行為も脳による行為であることを自覚し、我々が脳社会の住人であることを想起する。
Posted by ブクログ
唯脳論とは何か。その定義に先ず惹きつけられる。ヒトの歴史は、「自然の世界」に対する、「脳の世界」の浸潤の歴史。ヒトが人である所以は、言語、芸術、科学、宗教等のシンボル機能により、物財の交換、創造が為されること。また、差異を説明しようと、言わば神学論争のような決着のつかぬ、相互の説得を為すこと。ユヴァルノアハラリを彷彿させる論であり、寧ろ、これがオリジナルではとも感じさせられた。
都会が脳の産物であり、それを別著ではデジタル化とも表現していたが、確かに、最早、都市には自然は略残されいないのだろう。制度や建築物、あらゆる人間の営為は、確かに全て人工物だ。数少ない自然は、天候や災害、それと著者の愛する虫位だろうか。だから唯脳論なのかと、分かりやすい。
また、脳と心の関係性についての解説も秀逸。これは、構造と機能で表される。つまり、心臓と循環、肺と呼吸のような事だ。解剖学ならではの視点かと思うが、確かに循環や呼吸を心同様に切り出す事は出来ない。実物は構造の方なのだから。
数多ある養老孟司の著作、主張の原点とも言える代表作。これは、古典としても読むべきだろう。
Posted by ブクログ
今考えていること、哲学や社会学を通っていたが、なにか、あっけなくまとめてもらえた感覚だ。一連の終わりみたいな位置だった。少しの間、読書がライトになりそうだ。脳ね。いや体ね。社会も世論も本音と建前ではもううまく出来上がるわけがない。性も死も伏せててなにを語れるんだと。無理に決まってる。食を語って埋葬を語らず。死も体もなし。死んだら画面から消えるゲームの世界。読後にちょっと思った。言わなかったことが言いたかったことだったり、ヒトに信念があるから自然は復讐するんだと、それを理解しない風潮はより悪化していると感じさせた。
Posted by ブクログ
昔、ヒトは洞窟に住んだり、森で獣を捕まえたり、自然の中で生きていたが、文明が進むにつれ、建築物や道路、街路樹に囲まれた社会を作っていった。この社会は脳の大脳皮質が生み出した幻想。都会に住んでると、周囲のあらゆるモノゴトは単なる記号や情報にしか見えなくなってくる。自然から切り離されたデジタル世界に生きてる錯覚になる。でも、ネットとかで生々しい死体の写真や「九相詩絵巻」を見ると、「あぁ、ヒトも自然の一部なんだ」「あらゆる意識を生み出すのは脳という身体の器官なんだ」と気づいて背筋がゾッとする。心地よい幻想から目が覚めて、生々しい自然の中にいることに愕然とする。隠されるものは、一皮剥いだ死体、すなわち異形のものである。しかし、それがヒトの真の姿である。なぜなら、われわれがいかに進歩の中へ逃走しようと、それが自然なるものの真の姿だからである。ヒトを生み出したのは、その自然である。『唯脳論』1989
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サヴァンのカレンダー計算能力、眼前の景色を完全に記憶するカメラ・アイ、演奏された曲をその場で覚える、桁の大きい素数を順次追う能力。これら能力はヒト社会では役に立たない。要求されるのは言語を使って他人と共有する力。p.165『人間科学』2002
機能は場所が決まっていない。肺の場所は決まっているが、呼吸の場所は決まっていない。心臓の場所は決まっているが、循環の場所は決まっていない。筋肉の場所は決まっているが、運動の場所は決まっていない。脳の場所は決まっているが、意識の場所は決まっていない。▼人間は自分の内臓に発生するがん細胞を感知できない。人間が感知できるのは外界。『からだを読む』2002
一元論。壁の内側だけが世界で向こう側が見えない。自分は変わらないという根拠のない思い込み。自分が違う人になるかもしれないと思えば、絶対的な原理主義は主張できない。p.194。人間は悩むのが当たり前、生きている限り悩むものなのに、悩みがあること、全てがハッキリしないことを悪いことと思い、無理やり悩みを無くそうとして、確かなものが欲しくなり、科学・宗教を絶対視してしまう。p.121▼己の日常とは別の世界を見て自分で何かを考える。p.169。安易に「わかる」「話せばわかる」「絶対の真実がある」と思うな。思考停止して強固な壁の中に住むこと(一元論)は楽だが、向こう側・自分と違う立場のことは見えなくなる。話が通じなくなる。p.204『バカの壁』2003
『まともな人』2003
人間が自然であり、高度なシステムだと捉えれば、畏怖の念が湧いてくる。それは結局自分を尊重していることになる。p.23▼自分の死体は「ない死体」。親しい人の死体は「死体ではない死体」。他人の死体は「死体である死体」。p.82▼中国には「墓を暴いて死者に鞭打つ」という考えがあり、中国人は死んだ後も人は別人になるわけではないと考えている。p.109▼ハプスブルク家は死ぬと心臓だけ取り出して銀のケースに入れて教会におさめていた。p.149▼「どうせ死ぬから今死んでもいい」は「どうせ腹が減るから喰うのを止める」と同じ。p.174『死の壁』2004
元気な自分と死にそうな自分は別の人。死ぬのは私ではなく別の人。死体は私にとって想像ではなく、平たい現実。▼フツーの顔を何枚も重ねていくと美人(特別)になっていく。当たり前の極限がノーベル賞。▼与えられた自然状態に対して、人間社会がやり遂げたことを考えれば、日本は世界でも模範的な国家のひとつ。p.242『人生論』2004
『無思想の発見』2005
感覚の世界ではすべてが違うが、言葉の世界ではすべてが同じ。言葉の「リンゴ」は赤くても青くても、大きくても小さくてもリンゴ。マンガはその「違う」と「同じ」をつなぐところに位置している。感覚の世界が地面で「同じ」の世界が天井で、そこに唯一絶体の神がある。p.34。人間は12兆個の細胞からできたものすごく複雑なもの。人間の複雑さに比べたら、原爆なんておもちゃみたいに簡単。そういう簡単なものに、ややこしいものをこわす権利はない。p.143『マンガをもっと読みなさい』2005
人は眠るとき意識が切れている。起きていると意識がある状態が続き、眠っている間は意識は切れている。死ぬということは最後に意識が切れてもう戻ってこない状態をいう。人生は点線。▼人が抱く死への恐怖は生前のものであって、死後は意識はなく死への恐怖もない。『養老訓』2007
現代人の悩みは人間関係の比重が大きすぎる。人間関係が肥大しすぎている。家族がどうだとか、友達がどうだとか。▼自然がない。花鳥風月。気ままな猫。方丈記。人間はあくまで自然の一部であり、自然の世界が縮小しすぎるのは良くない。▼日本人は7割が自分は無宗教と思っている。無宗教の「無」は仏教の無。『未来を変える選択』2012
個性は放っておいても誰にでもある。この世で生きていく上で大切なのは人といかに違うかではなく、人と同じところを探すこと。p.12。伝統芸能では徹底的に師匠の真似をさせられる。しかし、どこかがどうしても違ってくる。その違いが個性。弟子入りの段階から個性を伸ばせと言っても意味がない。p.34▼自分と世界との区別がつくのは、脳がそう線引きしているから。地図の中で自分の場所「矢印」はここと決めてくれているから。脳の空間定位の領野が壊れれば、自分と世界との区別はつかない。境目がない。p.19『「自分」の壁』2014
理系と文系の違いよりも、野外か実験室かの違いが大きい。『文系の壁』2015
同じの世界:見えているものが同じ,意識,数学,一神教,グローバル,イコール。違うの世界:見えているものが違う,感覚,芸術,多神教,ローカル,ノットイコール。現代社会は「同じの世界」に偏り,バランスを欠いている.たとえば,「白」という文字.これは意識でとらえると白色,感覚でとらえると黒色(文字は黒色だから).鴨川はつねに鴨川だと思っているが,流れている水は常に違う水.私はつねに私だと思っているが,人の身体は物質的には7年で入れ替わって違うものになる.人間はイコールを理解できるが,動物はできない.猿の話.朝三暮四(ちょうさんぼし)目先の違いに囚われて,実際は同じであることに気付かない.都市社会はエアコンで「同じ」気温,照明で「同じ」明るさ,石の床は「同じ」堅さ.「違う」「変化」は排除される。人間関係は「同じ」が好まれ,「違う」「変化」は嫌われる.生身の人間は常に変化する.その「違い」や「変化」が面倒臭い.いらない.となる。*ペットは「死ぬ」から飼うのを嫌がる人がいるが,これも「死ぬ」という自然の「変化」を嫌う現代人の特徴なのかも.『遺言』2017
Posted by ブクログ
たぶん4年ぶりくらいの再読。
ようやく少しずつ分かるようになってきたような気がする。
でも、養老さんの知識の量や考えの深さが半端無いから言われていることがなかなか理解できない。
わたしの脳の中に養老さんの脳の中にあるのと同じ構造がなく、その機能が働かなければわかるということはない。
ただ、学習によって脳は変化するから、もし今回すこしはわかったような気になれたとしたらこの4年間でわたしの脳も少しは変化したのかもしれない。
それにしても養老さんは素敵だ!
Mahalo
Posted by ブクログ
「唯脳論」5
著者 養老孟司
出版 筑摩書房
p28より引用
“ところが、心はじつは脳の作用であり、つまり脳の機能を指し
ている。”
解剖学者である著者による、脳の働きと人間社会などについて
論じた一冊。
ヒトがヒトである所以についてから脳と身体についてまで、解
剖図などを交えながら書かれています。
上記の引用は、心と脳について書かれた項での一文。
子供の頃は、心は心臓の辺りにあると思っていましたが、ああい
う漫画的な表現はいつからされるようになったのでしょうか?
昔のSF等で描かれていた物などが、現実の世界に作られるよう
になっているのを見ると、文明社会は脳の産物という話について
納得することが出来るのではないでしょうか。
ーーーーー
Posted by ブクログ
なかなか理解できたと思えず、何度も読み直し。”唯脳論”を主張している○○学者がほかにいるのだろうか。”唯脳論”の考え方は、非の打ち所がなく、かつ、養老孟司が唯一唱えているように思える。”唯脳論”の考え方は、もっと評価されていいように思うのだが。
Posted by ブクログ
”現代とは、要するに脳の時代である。情報化社会とはすなわち、社会がほとんど脳そのものになったことを意味している。脳は、典型的な情報器官だからである”(本書p007より)
この一文で始まる本書は、脳科学がここまで人口に膾炙する前、1989年に発表され、これからは”脳の時代である”ということを喝破した一冊である。『現代思想』に月1で連載された論考がベースになっており、脳を巡り様々なテーマが綴られていくが、その人文社会学までも射程圏内にある著者の知性の幅広さと、解剖学者としての長年の経験に基づくその知性の深さという、2つの力が見事に結実した知的論考と言える。
私が本書を手に取ったのは、敬愛する菊池成孔が「自身が選ぶ100冊」的な文章の中で選んでいた1冊であったからである。その選出の理由がよく分かったのは本書において言語と音楽、リズムについて記されている章を読んでからであった。
人間が言語を獲得した1つの仮説として「自分の発語を自分で聴く」というフィードバックサイクルの存在を提示した上で、同様のメカニズムが音楽においても存在していること(いうまでもなく楽器の演奏においては、常に自らの音を聴き、他人の音と合わせた上で音量・ピッチ・トーン・テンポなどを調整するというフィードバックが常に働く)を示す。その仮説を裏付ける材料として、失語症と失”音楽”症(理由なく急に楽器の演奏ができなくなる)は、脳内の近接領域の機能不全から起こっている・・・、という議論の流れなど、音楽愛好者にとってはこの上なくスリリングな知的興奮を味わわせてくれる。
Posted by ブクログ
・意識とは、脳が脳のことを考えることだ
・下等生物には、意識がなくて、人間に意識があるのは、脳が進化してきた過程にある
・末梢神経と脳の神経細胞は地図関係にある
(だから足がない人も足が痛むことがある)
・言語でも知覚言語と音声言語で違う
Posted by ブクログ
現代社会は脳が社会に反映されている、いや脳そのものになったという当時としては斬新であったと思われる31年前にあたる平成元年出版の著作。
脳と社会に纏わることの証左を様々挙げながら、また特に著者の専門である解剖学の専門的な知識にも及んで、解説にもある通り、時々起こるような脳ブームのきっかけとなった本である。後に著書のヒット作「バカの壁」に繋がる代表作。
もちろん脳科学にも近接領域があって、心理学や哲学の文系よりの分野を巻き込んむが、その端緒になったようだ。
私たちは脳の中に住んでいる、という指摘をされると理解できる、というように人々が気付かないが本質的なことを著者の養老孟司は言ってくれるので結構長いこと著者のことが好きだ。本質や思い込みを指摘してくれることも大事だが、今東京では喫煙しにくい状態になっているのだが、養老孟司は喫煙者でありそこもいい。
Posted by ブクログ
たぶん養老さんの伝えていることの0.5%くらいしかわかってない。それでも面白いと思った。難しいけど、その着眼点にハッとさせられたりひやっとしたり。
もうぜんぶがぜんぶ、脳に支配されてるじゃんって思った。自分で考えたって思ってることも、嬉しいという感情も、行動も、そしてこの社会も、ぜーんぶ。脳にとって都合のいいことが快感になって、脳にとって都合のいい方向に人間が進んでいく。
唯一死ぬことだけは脳は制御できない。これが唯一の自然。どんなこともぜんぶ脳に戻されるから、なんだかもう何も信じれないというか、考え始めると学習も思考も人生もぜんぶが取るに足らないことに思えてくるんだけど、一方で、だから、自分の脳を満足させてやるように生きようと思ったり。
もっと「経験」をつんだら、もうちょと理解できることが増えそうだから、本棚の見えるところに大事にとっておいて、また数十年後読み返そう。
(メモ)
唯脳論
ヒトの活動を、脳と呼ばれる器官の法則性という観点から、全般的に眺めようとする立場を、唯脳論と呼ぶ。
この本でわたしが述べようとするのは、文科系ひおける言葉万能および理科系における物的証拠万能に頼るだけでなく、すべてを脳全体の機能へ改めて戻そうとする試みである。だから、「唯脳論」なのである。
脳は「物(構造)」
心は「機能」
機能は構造から出てこない
身体の他の臓器と脳の決定的な違いは、脳には自己言及性があるということ。
自己言及性とは、自分で自分のことを考えること。(つまり、意識)
それゆえに自己参入の矛盾を生じさせる。
→ラッセルの逆理、リシャール数
末梢を十分支配しない神経細胞は死ぬ
相手のない、あるいは相手に不足のある神経細胞は、間引かれてしまう。
→この前提から意識の発生を考える
受け取る側の脳だけが進化の過程で勝手に大きくなることはない。
では大きくなった理由は、
神経細胞が脳の中でできるだけお互い同士つながり合うことによって、お互いに「末梢」あるきは「支配域」を増やす。それによってお互いを維持する。(機能的に言うなら互いに入力を与え合う)
脳内の神経細胞が増加し、外部からの入力、あるいは直接の出力の「量」だけに依存するのではなく脳の自前の、あるいは自慰的な活動に、神経細胞の維持が依存するようにになったとき、意識が発生したと考えられる。
意識がそう言うものだとすれば、その単純な生物学的意味とは、神経細胞の維持である。
Posted by ブクログ
「心も社会も脳の機能である」。この本は脳の解説書ではないと著者は言う。しかし広く深く脳に関わりのあるさまざまな話題を取り上げている。心身二元論などのまやかしは胡散霧消し、脳が心を作りだした。この社会も世界もわれわれの脳が作り出したものである。構造と機能。視聴覚系と運動系。現在の脳科学はこの本が書かれたときよりもより一層脳が世界を作り出していることを解き明かしつつあるようだ。
Posted by ブクログ
残念ながら、自分が理解するにはまだ程遠い。
他の書物を読み耽ってから再挑戦。
以下項目抜粋。
・ヒトが人である所以
・心は脳から生じるか
・自己言及性の矛盾
・死体は存在するか
・神経系とはなにか
・脳の構成要素
・神経細胞のはたらき
・計算能力について
・脳に起こることだけが存在する
・「考える主体」は要らない
・眠りは生の一形式
・意識の生物学的意義
・言語の身体性
・失「音楽」症
・時間と自己同一性
Posted by ブクログ
脳は脳のことしか知らない、他の臓器もまたしかり、っていう発想は斬新す。言われてみればなるほどだけど、どうしても、人間は脳中心で動いてる、って観念にとらわれてしまうし、それが当たり前と思ってしまうから。でも、当たり前を疑うことに興味津々な今日この頃、唯脳論も魅力的な理論に思えました。
Posted by ブクログ
一連の脳ブームの端緒を拓いた…という紹介文の通りの内容です。
個人的に特に感銘を受けたのは、視覚と聴覚についての論考です。
視覚は時間を疎外あるいは客観化し、
聴覚は時間を前提あるいは内在化する。
外界の事物はただ何気なくそこに存在している。
脳はそれを聴覚や運動系に依存して、時を含めてとり込む。
あるいは視覚形に依存して、時を外してとり込む。
この二つが上手く連合するに至ったことが、
言語成立とほとんど同義である。
このへんが目から鱗でした。
他にももっとありますが、とりあえずこのへんで。
Posted by ブクログ
衝撃を受けた内容でした。
一つのテーマに、「都市は人間の脳が具現化している世界。」
というのがありました。
その理由は、今存在しているビル・車・高架などは自然界のものではない。もともと人間の脳でイメージして作ったものだから。
また、言葉・お金・社会がなぜ今存在しているのか。それも、これらの共通点である「交換」という機能が、もともとは脳の機能だから。ということ。
単純明快ですが、この気づきこそが養老孟司が注目される所以ではないか、と感嘆の思いで読みました!
Posted by ブクログ
バカの壁は実に大衆にこびた面白くない本なのに売れ,この唯脳論はそれほど売れていない.こちらの方がおもしろいのに.理由がわからん.読み手の層の絶対人数の問題だろうが,それにしてもこの本が見過ごされているのはもったいない.学ぶべきことがたくさんある本だった.
Posted by ブクログ
「エネルギーを巡る旅」に人間は脳化社会を作っていると記述があった事から、20年ぶりに読んでみた。後半は理解できない部分が多かったが、環境問題を論じる人が理性的でないように感じるのは、そもそも自然と脳つまり理性は対立するのが本質だから当たり前とはさすが養老先生。
Posted by ブクログ
『バカの壁』(2003年、新潮新書)以前に書かれた著作では、著者の代表作といえる本です。
著者は、「ヒトの活動を、脳と呼ばれる器官の法則性という観点から、全般的に眺めようとする立場を、唯脳論と呼ぼう」と述べています。ただし唯脳論は、「世界を脳の産物だとするものではない」と注意が付されています。こうした誤解は多かったようで、「解説」を執筆している澤口俊之も、本書が「世界は脳の産物だ」という主張をしているものと誤解をしていたことを告白しています。なお、この点についての著者の主張を正確に理解していたのは池田晶子で、『メタフィジカル・パンチ―形而上より愛をこめて』(2005年、文春文庫)のなかで的確な批評が提示されています。
「唯脳論」の中心的な主張はむしろ、「ヒトの作り出すものは、ヒトの脳の投射である」という著者のことばに、明確に示されているといってよいと思います。いわゆる心脳問題については、心臓と血管系の機能が循環であるように、脳の機能が心であるという主張が語られており、そうした立場から視覚系の機能と聴覚系の機能を区別して、人間の言語についての独自の考えが展開されていますが、心の哲学などでかまびすしく論じられている問題についての唯脳論の立場からのくわしい議論が提出されているわけではありません。
たとえば著者は、「われわれは、背中がカユイ時に、背中のことについてなにかを知っているのではない。脳についてなにかを知っているのである」と断言しますが、「脳についてなにかを知っている」にもかかわらず、それを「背中についてなにかを知っている」のだという思い込みが生じている以上、われわれは「背中についてなにかを知っている」ということがどのようなことであるのかを理解しているはずです。心の哲学では、志向性をめぐる議論においてこのような問題がさかんに論じられているのですが、本書にこうした問題のこたえを見いだすことはむずかしく、「文系と理系の対立を脳に還元してみる」という著者の企図はかならずしも成功しているとはいいがたいように思います。
Posted by ブクログ
養老氏の著作の原点?
解剖学者という視点から明快に説明されており わかりやすい
脳 機能 回路⇒思考 意識と話が進む
現代の脳が優位な背景を 知ることができる