Posted by ブクログ
養老孟司、精神科医になりたいと思ったことあるらしい。
確かに言語化って言われすぎると、言語化されてない部分を読み取ろうとする努力を怠りそうな感じもするな。
ゲロ自体が嫌いなんじゃないよ。自然の中のゲロは臭くないけど、都市化された都会の中で嗅ぐゲロは臭いから嫌い。ゴキブリも森の中で見たら別に気持ち悪くないから。都会はこういう風にゲロとかゴキブリみたいないじめの対象を作り出すから嫌いなんだよ。
「名越 多いというか、いつもそうですよ。だって僕、理解なんていいとこ 2 ~ 3割で、最後はワンフレーズだけ相手に伝わればいいと思っていますから。逆に言えば、相手の話していることを理解できなくても、ワンフレーズが壁を越えて自分の心に残れば、それはもうある意味で成功だと。だってね、僕のマネージャーってもう 10年近く一緒にやっている人で、非常に優秀で、僕のことを大切におもんぱかってくれている人なんだけど、それでも仕事を一緒にしていると、けっこうな大きい齟齬が生じるわけですよ。こんな違いがあるんだと。でね、もうそうなったら、一般の会社員の方が、たまに仕事で会うくらいの人だったら、まあ、通じている部分なんて、奇跡的に多くて 3割、集中していて 2割弱、ぼおっと聞いていたら 5パーセントとかね。それでいいと思うんです。だから、ワンフレーズがもし本当に伝わるなら、それはすごいことなんですよ。それすら残らないことのほうが多いんだから。」
—『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著
「養老 学校教育でいえば、国語とか英語の読解もそうじゃないですか。典型的ですよ。その文章から何を読みとるか、人によって随分、違っちゃうんだから。それなのに「その理解は間違いです。正解はこれです」って、何が正解なんだって。名越 そうなんですよ。うちの子どもなんか見ていても、算数の問題の解き方も、なんでこんなややこしい解き方するんだろうって思うんだけど、それでいいと思うんです。本人が不自由に感じたら勝手に変えるから。文章もそうですよね。「その解釈は間違っている」って誰が言えるんだろうと。親としては、なんかそういう感覚を大事にしたいんですよ。」
—『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著
「僕はよく講演とかでも言うんだけど、「あれ、なんかおかしいな」「これってなんだろう」と感じたら、その問題をずっと抱えておくんですよ。納得せずに疑問を持ち続けることが大切なんです。そのときは解けないかもしれないけど、「おかしい」という気持ちだけ憶えておく。そうすると、 3年とか 5年とか、もしかしたら 10年、 20年くらいい経って、ふっと解けることがあるんです。でも、多くの人は忘れるんです。なんで忘れちゃうかというと、未解決のままの記憶が頭に残っていると不快なんですよ。その不愉快さを消すために「まあ、世の中そういうもんだ」として、仮の答えを出してそれで納めてしまう。そういう人のほうが多いですね。」
—『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著
「ただ、承認欲求が悪いというんじゃなくて、大事は大事なんですよ。それ自体を否定しているのではなく。たとえば、行きつけの飲み屋に行って、店主から「いらっしゃい」と明るく言ってもらえたらうれしいけど、あいさつしても無視されたりしたら、「あれ?」と不安になったりね。承認してほしいんです。あるいは、人が仕事や趣味を通して自己実現を果たしていくうえでは、大きなエネルギーとなることもあります。だから、この感覚を完全に否定したり、無視したら人間社会は最悪なんで。」
—『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著
「名越 養老先生は先ほど、お若い頃はご自身でも「他人を理解しようと考えていた」とおっしゃいましたけど、そういうときはどうされたのですか。たとえば、大学の中での人間関係を、ご自分なりに模索されたりとかしたわけですか。養老 いや、僕は飲み屋へ行きました。大学はたしかに生活する時間が一番長い場所ではありましたけど、接触する人間の数でいえば多くありませんから。特定の人に限られますからね。そういう人とはかなり親しくはなりますけど、数はどうしたって限られます。名越 同じ人と同じようなテーマの話を繰り返しているだけだと。飲み屋さんにいる人間は不特定多数ですからね。養老 そう。理論が通じない人がいたりね。大学の人間とはいろんな意味で違う。前提として共有する価値観がないから。だから、人との接し方を覚えたという意味では、僕の場合は、飲み屋が一番大きかったんじゃないですかね。学部も関係なしに集まるし、全然知らない人とも会いますから。そういう人とコミュニケーションをとる。しかも、当時の僕もまた、明るい酒を楽しく飲むというよりは、いろいろ悩んで、もう飲むしかないっていうような、どっちかというと重たい気分で飲んでいましたから。」
—『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著
「名越 まさにそうなんです。そういう意味では、その時間が一番勉強になったという気がしますね。実はカウンセリングを見に行くためというより、いや、もちろん大きな目的の1つではあるのですが、その後の飲み会が楽しいから行っていたというのはありますね。それがすごく大事なことで。極論すると、終わった後に飲み会がない勉強会って、無駄じゃないかとさえ思うんですよね。もちろん、厳密に言えば意味はありますけど、ほぼ無駄なんじゃないかと。養老 賛成です。そのことに意外とみんな気づかない。名越 当然、勉強会で得られる情報や知識はありますけど、結局のところ、それは功利的な知識しか身につかないといいますか。自己啓発セミナーとかにハマる人もそうなんだけど、あれやると余計に自意識過剰になってしまうこともありますしね。無理してやっているもんだから、今度は効果を確かめたくなる。そうすると、余計に「相手はどう思ったんだろう」って、相手のことが気になる。結局、そこで得た情報の先にある現実、つまり未来に対して、実際にどう当意即妙に対処するかというのは、その人の知識の量ではなくて、人としての厚みのようなものに表れますから。逆に言えば、飲み屋の席なんかで、人間力みたいなものを日頃から鍛えていないと、未来に起こる未曽有の出来事に対応できないと思うんですよ。ただ、最近の飲み屋さんは、女性客のほうが多いなんていう話もあって、男は飲み屋に寄らずに家に帰って寝ちゃうというもんなぁ。」
—『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著
「養老 それ、駄目なんだよ。やっぱり、「わかる」とか「気づく」の処方箋は、感覚を磨けってことだからさ、答えを言ってしまうと。それにはできるだけ、多様な状況に身を置くことがいいんで、1つには飲み屋もそうだし、もっと感覚を鍛えられる場に、身を置いてみる機会が必要なんです。一番いいのは田舎へ行って、森とか川とか、自然に触れることなんだけど。」
—『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著
「名越 それと、誤解がないと正解もないというか、本当の正解って誤解から届くのかもしれないですからね。こないだ、たまたま『日本海大海戦』(東宝)という、三船敏郎とか加山雄三が出ていた昔の映画を観たんですけど、バルチック艦隊がどういうコースをたどってウラジオストックへ向かうのか、日本海軍が模索するわけです。どんなに諜報網を駆使してもわからない。海軍は焦るんですけど、霧が濃くて航路を誤った日本の駆逐艦が、迷って、迷って、ようやく仲間に追いついたと思ったら、それがバルチック艦隊だった。何が言いたいかというと、ひょうたんから駒のような、誤解から生まれる正解ってあるわけです。養老 誤解があるからもっと深い正解に至るとかね。あるいは正解の幅が広がるとか。」
—『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著
「養老 意味がないものはいらねえっていう世の中だから。不正解だから意味はないと。僕が虫の標本を見ていると「それ、なんか意味あるんですか」って聞いてくる。逆に聞きたいけどね、おまえに意味があるのかって。おまえが無意味に生きていることを俺はちゃんと許容しているじゃないかと。名越 それは言いたくなりますわな(笑)。養老 真面目に言えばさ、虫は論理的に意味がわからないことがたくさんあるから、だからしておもしろいんだ、ということなんだけど、それも答えるのがめんどうになる。楽しいからやっているんであって、別に意味なんて求めてやってない。」
—『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著
「名越 でも、わかります。それは仏教を勉強していても感じますよね。仏教って宗教の側面以上に、哲学とか心理学の側面のほうが大きいんですが、一番驚いたのが、「分別は妄想である」と。「無分別智が仏の智慧である」って書いてあるんですよ。無分別っていうのは、一般の言葉でいえば「バカ」ということですからね。ところが、総体的な主観とか客観とかの分別を離れた、いうならば真実の智慧が「無分別智」だと。そこへ到達しなければならないと。とても世俗化して言うと、「盗っ人にも三分の理」みたいに、悪とか善も、もっと広い見地で見て、その2つの力が世界をつくっているというふうに見なければ、本当の真実は出てこないんだよという。たとえばそういう極めて印象に残る深い言葉が出てくると、そんな凄い悟りに到達するには、思考を止めないとダメだと、無分別智の域には行けないぞとなる。この思考を止めるということがすごく肝心で。ところが、実際にはどういうことになるかというと、「そうか、無分別智を理解しなければいけないんだ」と、ますます思考しようとするんですよ。」
—『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著
「養老 だからもう、そんなことまで心配をしはじめると、自分は医者なんかとてもじゃないけど無理だということになる。解剖だったら遺体はもう亡くなっているから、これ以上亡くなるということはない。やってみるとわかりますけど、あんなに気持ちの落ち着く作業はないですよ。今でもそう思います。だって、解剖するでしょう、そのいじった結果は全部、自分に戻ってくる。責任問われるのはこちら側だけなんです。解剖が進んでいくと、手が切れたり、足が取れたりするわけだけど、それを誰がしたかといえば自分ですからね。そういう意味では、自分がやった結果だけがきれいにそこに出る。遺体に責任は一切ありません。一方で、生きている人間との対人関係というのは、相手が勝手に動きますよね、当たり前だけど。それによって、こちらも対応する。責任の所在があいまいです。何か問題が生じたときに、誰のせいだかよくわからない。」
—『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著
「養老 そういえば、関係ないんだけど、僕が解剖した人って肺がみんな真っ黒だったんですよ、それこそ煙草を吸わないお婆さんも。肺が黒くなる理由って知っていますか。これ、他のところでも言っているんだけど、消化できないゴミが中に入って、それを細胞が食べて貯めていくからなんです。だから吸っても吸わなくても、肺がんになる確率は大差ない。何が言いたいかというと、そういうことも観察するとわかる。名越 先生は本当にスパスパ吸いますからね(笑)。でもそういえば、喫煙者の数は急速に減っているのに、肺がんの患者数が比例して減ったという話は聞きませんね。養老 いや、むしろ上がっていますよ。こんどデータを見てみてください。だから僕は、肺がんの原因は禁煙だと冗談で言っているんです。」
—『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著
「養老 もちろん、目もそうだけど、あと手ね。目と手の解剖は一番嫌だった。相手の手を握らなきゃいけないでしょう。特に僕らの時代は素手でやっていましたからね、手袋をはめないで。そうすると、一番、嫌なのは手ですよね。腹なんていいんですよ、表情がないから。名越 ああ、それはもう絶対にそうでしょう。手は一番生きているように見えますし、絵描きでも漫画家でも、手が違和感のないように描けたら一人前どころかそれ以上って言いますもんね。ほんの微妙なニュアンスが違っているだけで違和感が生じる。そして死んだ人の手でも、生きているように見えますもんね。ぞくっとする。死んだ人は怖くなくても、死んだ人の手をまじまじと見るとそりゃあ怖い。」
—『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著
「養老 もちろん、目もそうだけど、あと手ね。目と手の解剖は一番嫌だった。相手の手を握らなきゃいけないでしょう。特に僕らの時代は素手でやっていましたからね、手袋をはめないで。そうすると、一番、嫌なのは手ですよね。腹なんていいんですよ、表情がないから。名越 ああ、それはもう絶対にそうでしょう。手は一番生きているように見えますし、絵描きでも漫画家でも、手が違和感のないように描けたら一人前どころかそれ以上って言いますもんね。ほんの微妙なニュアンスが違っているだけで違和感が生じる。そして死んだ人の手でも、生きているように見えますもんね。ぞくっとする。死んだ人は怖くなくても、死んだ人の手をまじまじと見るとそりゃあ怖い。養老 手は非常に表情がありますから。だから、いじらなくても、なんか嫌でしょう。それは解剖をはじめて 10年ぐらいのときに思った。なんで俺、手が嫌なんだろうなと。ああ、そういえば、動いてねえな、動かない手って見たことねえなって。手は怖いですよ。日常生活だと動かない手はない。そういえば、イタリアのホラー映画で、手をうまく使ったすごく怖いのがあったんだけど、あれは手の意味をわかっているんだ。だから握手という行為はすごく象徴的でね。儀式としておもしろい。だから、飲み屋のカウンターで、隣のおじさんの手を握るんですよ、そうすると「わっ」と逃げるんだ。ああ、やっぱり手を握るって特別な意味があるんだってわかる。名越 表情が読めない不気味さという点では、生き物ではないですけど、能面ってあるじゃないですか。あれもそうですよね。僕の母方の本家が町医者やっていまして、子どもの頃はよく、そこへお風呂を借りに行ったんですけど、その応接間に能面が飾ってあったんですよ。そうすると、その部屋へお菓子を取りに行ったりすると、どうしても目に入ってきちゃうんですよ。見てしまう。ものすごく恐ろしかったですね。もう、走って出たことを覚えている。あれも表情が変わらないという面ではね。」
—『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著
「養老 臨床心理の河合隼雄さんが、カウンセリングの秘訣は何ですかと人から聞かれるたびに、「相槌の打ち方ですな」といつも言っていました。相手の話に対して、どこでどう相槌を打つか、極論すればそれだけなんだと。話を聞いていないと相手は怒りますから、さっき言ったように暖簾で受け流すように聞きながら、それを相手に理解させるために相槌をタイミングよく打つ。名越 うなずくことによって、相手を承認しているという面がありますよね。逆に言うと相手は承認されたい。日本人はよくうなずく民族かもしれないですね。昔、野口晴哉先生の講演録を読んでいたときに、「あれ、俺のやってきたことって何だったんだ」と強烈に感じたことがありましたよ。ある日、野口先生のところに年頃の娘さんがやって来て、自分が長い間交際してきた男の人を激しく罵ったんだそうです。「先生、聞いてください! こんなひどい男なんです!」というような調子でね。で、先生はそれを 1時間ばかりずっと聞いていて、散々悪口を言い続けた女性が「はぁ」と息をついだ。その瞬間に野口先生が、「で、式はいつにするんですか」と言ったというんです。」
—『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著
「養老 昔から言うじゃないですか、夫婦げんかは犬も食わないって(笑)。あれは本当のことです。他人の夫婦げんかに立ち入って、どっちの味方をしても絶対にダメなんですよ。カウンセラーでもない限り、触れないに越したことはない。そこまで文句言うということはもう、くっついちゃって離れられないんだからね。もちろん実際にはそんな単純じゃなくて、もっと複雑な事情もあるだろうけど、未練がなかったら文句も言いませんからね。特に女の人はそうで、はっきりしていますからね。本当に嫌ならさっさと縁切っていなくなりますよ。文句を言う前に目の前から消えちゃう。」
—『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著
「人間を構成している成分は、 7年で 100パーセント入れ替わるんですよ。だから僕は、人間は川のように流れ移り変わるんだと、本当の自分など存在しないと言っている。「同じ俺」なんていない。だから、聞いたふりをする。そこらへんのコツみたいなところが、ありがたいことに年を取ると多少できてきてね。逆に人の言うことは気にならなくなってくる。僕の評価は僕が決めることじゃなくて、他人ですからね。他人が勝手に決めることを、いちいち気にしてみても大きな意味はないわけで。」
—『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著
「人間を構成している成分は、 7年で 100パーセント入れ替わるんですよ。だから僕は、人間は川のように流れ移り変わるんだと、本当の自分など存在しないと言っている。「同じ俺」なんていない。だから、聞いたふりをする。そこらへんのコツみたいなところが、ありがたいことに年を取ると多少できてきてね。逆に人の言うことは気にならなくなってくる。僕の評価は僕が決めることじゃなくて、他人ですからね。他人が勝手に決めることを、いちいち気にしてみても大きな意味はないわけで。」
—『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著
「たしか、横浜市の統計だと、独身世帯が 4割に迫ってるんですよ。名越 僕もその記事、なにかで見たことあります。かなり前から結婚して縛られるのが嫌という流れはあると思います。とりあえず自由でいたいというか……。養老 たしかに結婚というのは制度ですから、いうならばある種の縛りですからね。形式的に縛られてしまう。いろんな形でね。もう 20年くらい前の話なんだけど、銀座のクラブへある人に連れていかれたときに、お店の女の子たちとママと、僕とで「結婚と同棲はどちらがいいか」という、まあちょっとアホみたいな議論をしたわけなんですが、僕とママが同意見で、絶対に結婚したほうがいい、しないとダメだという考え。一方で、若い子たちはほとんどが「同棲のほうがいい」と言うわけです。」
—『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著
「少子化と都市化は一体の問題なんですよ。まあ、保育園が足りていないとか、教育費にお金がかかるとかいう事情もありますけど、根はもっと深いところにある。ただ、僕に言わせると、子どもを育てることと、田んぼで稲を育てることは、根本的には同じことだと思っているんです。自然をコントロールなんてできないけど、手入れして育てることはできる。自然に対して手を入れて維持していく。僕は『手入れという思想』(新潮文庫)という本を何年か前に書いたんだけど、子どもというのは自然なものであって、放置しておくと野生児になってしまうけど、かといって親が完全に管理して思うようになるかというと、そうじゃないんですよ。心を込めて毎日「手入れ」をしてあげて、そして見守ってあげる。それを全部思うようにしようとするから、いろんな問題が吹き出てきているわけでしょう。」
—『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著
「だから、親は遠目から見守るしかないんです。それしかできないし、それでいい。見守る覚悟さえ持っていれば。勝手に走り回って、小一時間で勝手に生き生きするんですよ。ところが、現実はどうかというと、今の子どもというのは、夜遅くまで塾へ行っているでしょう。学校で 6時間も我慢したのに、終わってまた塾へ行く。夜の 10時頃に地下鉄に乗ったりすると、子どもが車内を走っているんだよ。あぁ、この子らは昼間、走らせてもらえていないんだなと思うわけ。夜の 10時にようやく自分の時間になっている。森とか林とか、さっき言った神社の境内とかを走れないから、しょうがないから地下鉄の中を走っている。これね、何かと言ったら、ただの虐待ですよ。日本中の子どもが塾しか行ってないということは、子ども全体が虐待されている。なんで夜中に子どもが、こんなところを走り回らなきゃいけないんだと思うよね。しみじみ感じる。だから、こんな社会で子どもが増えるはずがないんでさ。」
—『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著
「つまりそれは管理なんですよ。子どもが完全に管理されている。でも、本当は一番管理しちゃいけないのが子どもなんです。なぜなら子どもは自然だからです。遠くから見守るだけでいい。手入れというのは、バランスをとっていくという、日本人が自然に対して昔からずっとやってきた典型的なことですよね。いわば日本文化の自然に対する典型的な態度なんです。それをコントロールしようとする。「手入れ」と「コントロール」は違うんです。「手入れ」は相手を認め、相手のルールをこちらが理解しようとすることからはじまるけど、「コントロール」は、相手をこちらの脳の中に取り込んでしまうことですから。対象を自分の脳で理解できる範囲内のものとしてとらえてしまい、脳のルールで相手を動かせると考えてしまう。ところが、自然を相手にするときというのは、そんなことができるはずがないんです。」
—『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著
「山へ行くでしょう。そうしたら、虫というものを僕の脳を超えたものとしてまず認めるんです。そのうえで虫のルールを知ろうと試みること。これが自然と向き合うときの基本的なやり方です。それで何を申し上げたいかというと、今回のテーマは「知る」とか「気づき」とかいうことなんですが、そのためには、最終的には感性を磨いていくしかないわけです。そこには根本的なこととして、自分の人生に対する考え方というものに、必ずつながってくると思うんですよ。自分の人生にしっかりと向き合う必要がある。つまり、その人の人生というのを1つの「作品」ととらえる考え方が、古くからあった。それがすごく大事なことだと僕は思っているんです。」
—『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著
「言っちゃ悪いけど、あんまりできがよくない学生がぶつぶつ愚痴をこぼすわけです。そういうときに僕は言うんだけど、君の人生という絵は君にしか描けないんだよと。たとえキャンバスがボロボロの安物で、絵の具もそんな高価なものではないかもしれないとしても、それで完成した絵は君だけの絵であって、それが人生という作品なんだと。そういう発想が昔は今よりあったと思うんですよ。」
—『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著
「比叡山の千日回峰行というのは、修行という1つの象徴的な例としてあげられたと思うのですが、もちろんそこまで例外的にハードなものでなくても、聖徳太子も解説を書いたとされ、日本仏教にかなり影響を与えたとされる「維摩経」が、修行というものの意味を考えるうえで、1つの参考になるかもしれませんね。日本仏教の原点は大乗仏教ですが、その教えは、理論である「法」と、心を落ち着かせその機能を引き出すための「行」と、日常生活の中で行う「方便」に大別されるんですが、出家して修行ができる人というのは昔も限られていて、多くの庶民は社会の中で生活していかなければなりませんから、そうした中で浮上してきたテーマが「方便」。つまり、「法」や「行」だけでなく、一般社会に溶け込んで人に親切にしたり、世の中に貢献したりする「方便」を合わせて実践することで、より完成度の高い悟りを開くという考え方です。」
—『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著
「真言密教では「方便こそ究竟なり」と言っているんですね。苦しんでいる人の助けになりなさいということで、もっと言ったら、自分よりも幼き者とか、弱い者の助けになりなさいということ、それが一番の修行になると書いてあるんですよね。いいことをしなさいと。それが最大の修行だと書いてある。実際、密教では、「法」も「行」も、最終的には「方便」の実践を経て鍛えられ、そこで完成されると考えられています。つまり、「方便」というのは非常に大事で、今でいえば会社や学校、地域のコミュニティなどにおけるあらゆる関わりが「方便」には含まれています。積極的に世の中に関わり、行動し、周りの人を幸せにしていくことが、悟りへの道につながるという教えです。」
—『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著
「そういう形で人生をつくっていくという気持ちが、今は非常に希薄になっているという気がします。だから、他人をわかろうとか、わかりたいとかいう話をする前に、ここらで考え方を一度大きく変えてみて、いうならば「人生作品」とでもいう考え方に、向き合ってみる必要があると思っています。まずは自分が今、この時代に生きていて、その自分の人生を作品として完成するにはどうしたらいいか、どんな絵を描き上げればいいのか、それを模索できるようになれば、生きていく意味が大きく変わりますし、何より何倍も人生がおもしろくなる。下手な絵でもいいんで、下手なら下手なりの完成度というものがあるわけですから。とにかく描きはじめてみる。宗教が教えるべきことって、そういうことじゃないかと思うんですよね。」
—『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著
「仏教というのは、 2500年以上もの間、受け継がれてきた生き方の指針ですから、非常に現実的であり、ときに合理的でもあります。さっきも「方便」の話をしましたけど、大乗仏教では、行や方便は多くの人がイメージしているような浮世離れしたものでもなく、極度にストイックなものでもなく、一般社会の人々の生活と密接に関わっているものです。もちろん、それは現代社会にあってもです。たとえば、先ほどの「維摩経」でも、あるいは密教のお経ではもっと端的に、「欲から自由になることは、欲を持たないということではない」ということが強調されています。つまり、重要なのは「お金や物を持たない」ということではなく、「お金や物をどんなに持っても、それに縛られてはいけない」と教えているわけです。無理して名誉を遠ざけるのではなく、名誉を得てもいいから、決してそこにとらわれてはいけないということですね。「欲しい」という気持ちを無理に抑える必要はないし、抑えても意味はないということなんです。」
—『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著
「人生が1つの修行ということであればそう言えるかもしれませんね。仏教の修行にも階梯がありますから、それを放棄しているわけですからね。あと、江戸時代でも、士農工商の中から一番身分の低かったはずの商人がどんどん経済力をつけていって、おそらく周囲からは「なんだこいつら」みたいな、いうならば今でいうベンチャーみたいなもんだし、やってることはいわゆる生産活動ではないものだから、「こいつら楽して稼ぎやがって」みたいな、やっかみも一部にはあったと思うんです。そういうときに、石田梅岩(江戸中期の思想家)あたりが「商道」というのをつくって、商売は一生かかって自分の人格を完成させる修行の場だという考えを確立したでしょう。あの人なんか、滋賀の小さい商いの番頭さんだったのに、その商道の考えが全国へ広がるんですよね。なぜかというと、そういった一生を通じた自己錬磨という考え方が必要とされたということです。」
—『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著
「若いうちは簡単なことになかなか気がつかないんですよ。僕の年になったらよくわかるんだけど、いつも言うのは、俺が死んでも俺は困らねえもんって(笑)。そうでしょう。今日、名越さんと 2時に会うって約束してさ、行く途中で坂の上で車にひかれてりゃ、困るのは出版社と名越さんでしょう。わたしは全然困らないんですよ。自分の死に一番関係ないのが自分だからね。そう考えたら、自分の生死って、自分のものじゃないんですよ。釈迦の側から見れば単なる迷惑でね。それと、死のもう1つ手前にあるのが病でしょう。自分が病気になったらどうしようって、違うんだよね。僕だったら女房に病気になられると一番困るんだ。女房は苦しいとか言っていれば済むけど、こっちは自分でメシ作ったり、いろんなことしなきゃならなくなるからさ。もちろん半分は冗談の世界だけどね(笑)。」
—『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著
「自分の死なんて関係ないというと、「かっこつけやがって」とか言うわけです。強がっているとかね。僕だって死にたいと思っているわけじゃない。不安がないわけではないです。でも、どうせ死にたくないと思っても、そんなの無駄でしょう。わかりやすく言うと、僕たちは毎日、必ず寝ますよね。そのまま死んでしまったらどうなるか。どうもならないでしょう。慌てるのは残された家族であって、死んだ本人にとっては、何も気づかない。だから関係ないと言っているんです。中には、死というものから遠ざかりたくて、家族のつながりも面倒くさくなり、子どもは産まないという人もいるかもしれない。そういう面はあるかもしれない。だから、もっと簡単に考えて、遠くから見守っていればいいんだって、子どもなんていて当たり前なんだって言うんだけどさ。」
—『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著
「話が「少子化」から「子ども」や「自然」との乖離にいって、最終的には「人生作品」とか「修行」という話に移ってきているわけですが、話を少子化に戻しますと、結局は 1人でいたほうが楽だということなんです。「俺はこのままでいいよ」と。たしかに、結婚して奥さんと大げんかしたりね、子どもの学校のことでちょっと悩んだりするのは、一見すると面倒なことでストレスなのかもしれないけど、さっきの「方便」じゃないけど、やっぱりそういうことの日々の繰り返しで、自分が変わってくるわけですよ。その変わるチャンスを、しっかりと自分に与えてやらないといけない。僕はそう思います。」
—『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著
「意識がつくっている社会という意味で、「意識化」と言い換えてもいいのかもしれません。子どもを産むなんていうのは、本来なら自然の行為ですからね、得だとか損だとか、合理的だとか非合理だとかを、脳の中であれこれ理屈を並べて考えてやることではないはずです。もっと本能的なものですよ。ところが、頭で考えてやろうとすると、子どもは一気にいなくなるんです。育てるのが不安で大変だから。その一歩手前が、さっきも言った結婚をしないという選択でね。これはつまり、社会があまりに「意識化」されすぎている1つの現れじゃないかと思いますね。」
—『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著
「意識がつくっている社会という意味で、「意識化」と言い換えてもいいのかもしれません。子どもを産むなんていうのは、本来なら自然の行為ですからね、得だとか損だとか、合理的だとか非合理だとかを、脳の中であれこれ理屈を並べて考えてやることではないはずです。もっと本能的なものですよ。ところが、頭で考えてやろうとすると、子どもは一気にいなくなるんです。育てるのが不安で大変だから。その一歩手前が、さっきも言った結婚をしないという選択でね。これはつまり、社会があまりに「意識化」されすぎている1つの現れじゃないかと思いますね。」
—『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著
「そのとおりですね。だから、世の中が「意識化」すると、人の相手を見る目が喪失するんですよ。目が濁る。感覚で感じられなくなるから。学校でも、先生が生徒一人ひとりの特徴を、感性で識別することができなくなっている。極端にいうと、みんな同じに見えてしまうんですね。そうするとどうなるかというと、生徒は「僕には個性がないんだ」と感じるようになる。だから、「脳化」や「意識化」は、社会から個性をも喪失する危険性をはらんでいるんですよ。こんなこと言うと怒られるかもしれないけど、国会で「妾論争」なんかやっていた時代のほうが、ある意味ではよっぽど健全だし、健康的だったし、正常だったんじゃないかと、僕なんかは思いますよね。法的な話とは別に。」
—『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著
「 「意識化」とか「脳化」の弊害って何かというと、頭でわかろうとすることでしょうね。何でも脳の中で言葉に置き換えて、説明がつくと考えている。それでわかった気になっている。「よし、俺は気づいたぞ」なんて思っている。」
—『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著
「動機をわかってしまった瞬間に、まるで乗り移られたようになったりしてね。いや、本当にそうならないとも限りませんよ。ですから、やはり繰り返しになりますけど、「わかる」ということが、言葉にできない感覚的なものなんだということが、社会の考え方の中からすっぽりと落ちてしまっているんでしょう。」
—『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著
「学校教育の影響というのも非常に大きいんですよ。学校で教わることって、言ってみれば建前ですから。意識化して建前だけを教えているわけですから。僕は勉強とは山に登ることだと比喩的に言っているんですけど、つまり高いところに登って視野を広げることなんです。見える範囲が広がるということは、人間として成長することですから。僕は子どもの頃から虫が好きで、親からは「くだらないことばかりしているな」と叱られましたけど、一方で虫のことを調べるわけだから知識が必要になります。標本を作るときに、どの薬使ったらいいとかね。英語で書いてあるのもあったり。そうすると、自分の好きなことを徹底的にやり続けるためには、「あ、この教科が役立つな」とか「これをもう少し勉強しよう」とかがわかってくる。「学校の勉強って役立つじゃん」と気づくんです。そういうときがやってくるんです。」
—『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著
「高いところに登って視野を広げると言われましたけど、たしかにそうで、僕は世の中の仕事の 8割くらいは、全体像が見えてくるとおもしろくなると思っていて、学校の勉強も同じことが言えるかもしれません。先生の場合は、山で虫を追っかけまわしているうちに、それこそ意識化ができない様々なことを、自然と学んでいった。でもね、そういうことを、子どもを持つ親御さんに言うと、今度は「山や森に行くとどんないいことがありますか」とか聞かれませんか。「具体的な効果は」とか。僕はよく聞かれますよ。そこへ触れることが大切なんであって、その結果として何が起こりますかなんていうことは、本当は聞いちゃいけないのに聞くんだよね、今の人は。森に行ったらこれだけ偏差値が上がるなんてことはないんでね。健康面でいえば、森へ行くとこれだけ内臓にいいという数値が出ましたとか、血圧がこれだけ下がりましたとか。そういう方向にもっていきたがる。」
—『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著
「たぶん今の養老先生の言葉が答えみたいなもので、「ただやる」ということが大切なんですよね。「行」というのは、どんな意味や効果があるかを考えないで、「ただやる」。ダイエット本とか、お金が貯まる本とか、いわゆるハウツー本の延長のような感覚なんでしょうね。「この本を読んだら 10キロ痩せられる。だから読もう」というような。プラスアルファの実利を求めてやってくる。でも、ハウツー本と「行」はまったく違う。「行をしたら、こういう具体的なプラス効果がありますよ」という実利は、仏教では明示はされていません。単純な効果は明らかにされないまま、「ただやりなさい」と要求される。滝行をやるなら、先入観を持たずに「ただ打たれなさい」と。坐禅をするなら「ただやりなさい」と。ところが、そう言うと「それじゃやる気にならない」とか、「具体的な効果や可能性が見えないとやれない」という答えが返ってくる。」
—『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著
「そうなんでしょうね。実際、テレビの解説なんかでもあるんですよ。禅を組むとこういう神経に働きかけてとか、滝に打たれると身体にこういう効果が、とかね。それ自体は噓ではないのですが、でも、理論的な説明ばかりを先に頭に入れてしまうと、「行」の意味がなくなってしまうわけです。せっかくトライするのに、まあ少なくとも大いに薄れてしまう。「行」というのは自分自身が変化する体験なんですが、どう変化するかは当人にはわかりません。わからないはずの「変化した後の自分」を勝手にイメージして、ありもしないゴールへ向かって「よし、あの悟りの世界へ行くぞ」なんて歩いていっても、それはただ、事前に自分でイメージした「悟り」の感覚を、脳内で再生産しているだけです。つまり妄想が成立してしまう。僕は毎晩、瞑想をしていますけど、それを人に言うと「自分もやってみます」となるんだけど、「リラックスをしよう」なんていう気持ちでやると、だいたい失敗します。あと、「行」の話と同じで、「瞑想はどんな効果がありますか」とか「瞑想をするとどんな感覚が起こりますか」とか。」
—『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著
「瞑想すると仏さまが現れて、まばゆいばかりの光に満たされて……と。たとえそうなったとしても、何千ルクスの光が見えたとしたって、何日か続いたら人間は飽きますよ。ただまぶしいだけで。そんなの悟りじゃないんでね。散歩とかもそうじゃないですか。「気分転換のためにいつもと違う道を歩いてみよう」というのは、別に悪いことじゃないんだけど、でもあんまり「気分転換だ、気分転換だ」って目的として考え続けていると、せっかくのノイズみたいなものが、入ってこなくなるんですね。ノイズは意味がない邪魔なもんだと思っているから。虫と一緒でしょう。いなくてもいいノイズだから。どうせ風が自分の頰をなでて爽やかな気持ちになるとか、木々の匂いがして、それが脳に効果的なのかとか、そういう方向の気分転換を、あらかじめ脳の中で、意味として想定してしまっているから。」
—『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著
「言葉にとらわれていることに気づかない。だから、先ほどから言っている意識化でいうと、「行」というのは、わからないままに「ただやる」ことで、言葉で説明ができる限界を超えることができるんです。言葉は便利な道具なんだけど、往々にして人の心にブレーキをかけます。その限界を破る1つのきっかけを「行」は与えてくれているわけですから。しかも、「行」といっても、何時間も坐禅して瞑想するとか、滝に打たれるとかじゃなくて、気持ちを切り替えられるならなんでもいいんです。これは他でも書いたんですけど、僕なんかは「眼鏡を丁寧に拭く」という行為を、いわば頓服薬的な「行」として日常生活に取り入れているんです。眼鏡をゆっくりと丁寧に拭くだけで、頭の中でごちゃごちゃしてたことが、すーっと整理されていくんですよね。眼鏡がきれいになることが目的ではなくて、丁寧に拭くというプロセスが大事だということ。だから、部屋の掃除とか、アイロンがけなんかでもいいと思いますよ。」
—『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著
「それがわかってもらえない。僕は精神科医ですけど、医師の経験からいっても、プラスアルファの実利だけを示しても、人の行動は変わりません。カウンセリングしていても、一番大事なことだけを「これを覚えておいてな」ってしつこく言うんだけど、実行する人は 1割くらいかな。こちらは理解してもらおうと、しつこく言うんだけど、相手は相手なりに理解をするわけでしょう。生活習慣病の人に「こうしたほうが体にいいですよ」「こうしないとだめですよ」とデータを示し、医師の立場で説明したとしますよね。これはまさに「実利」なんですが、だいたいの人は行動を変えることができない。できても一時的ですよ。プラスアルファの実利なんて、人を動かす力なんかない。本気で変える気があるなら、人生のどこかで、頭の中のステージを全部ガランと音を立てて変えてしまわないとダメですね。人生の方向性そのものを大きく転換させるという。そういう人もまれにいます。多くはないですが。」
—『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著
「森林セラピーってそういうことなんですよ。会社の上司のこととか、恋人とのトラブルとかね、のっぴきならない悩みで落ち込んだり、怒りが止まらなかったり、食欲がなくなったりね。そうやって精神が追い詰められているような人は、森へ行ったほうがいいんですよ。今すぐにね。」
—『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著
「あと、森や山へ行けというと、みんな「仕事が一段落したら」とか「時間の余裕ができたら」って言うでしょう。でも、対人関係がギスギスして、人にも言えないような問題を山ほど抱えている人ほど、抱えたままでいいから今すぐ行ってこいと言うんです。医学的にもそちらのほうが、効果がはっきりわかるんですよ。」
—『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著
「僕は森も好きだけど、最初にはっきりと感じたのはお寺に通いはじめてからですかね。結界が張られている真言密教のお寺の中に入ったら、頭の中の大半を占めていた世俗的な悩みが、瞬間的にふっと小さなものに見えましてね。手を合わせたら心がすーっと落ち着いていく。「なんか癒やされているなぁ」くらいの感じだったんですけど、 2年、 3年と通ううちに、「これはちょっとすごい力だな」と。言ってみれば、社会という枠組みの外側に出たような感覚なんでしょうね。それによって自分の気持ちが相対化するという。ああ、そうか、自分は相対的なものに悩んでいたんだと。人の悩みというのはすべからく相対的なものです。だから、さっきも言ったように、死は悩みにならないでしょ。死は絶対的なものだからさ。死んだ後は、自分はこの世にいないんだから、悩む必要がない。それを「死と生」というふうに観念的に相対化するから悩むんです。」
—『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著
「たしかに、効率面でも合理性がありますしね。都会と田舎の2つの世界が、どちらかに偏らずにバランスがとれる。だから、そういうところも含めて、1つには森林セラピーということ。漠然ともやもやしている人よりも、進行形で心が極度に追い詰められているような人こそ、できたら森林セラピストと 2、 3時間歩いてね。ここで呼吸をしましょう、目を閉じてみましょうとかやってみる。そうするとね、舞台がガラっと全部変わるときがある。自然に入ると、今まで自分がもがいていたのが、1つの社会の中のさらに小さな事象にすぎなくて、社会の外側には世界や自然があるっていうことを、頭じゃなくて体が感じる。」
—『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著
「まさに、人がお寺に行って気持ちがすっと軽くなったとか、明るくなったとかいうのは、その人が無意識のうちに、境内や仏像や、それらを含むお寺の「場」と同調したということでしょうね。自然も宗教施設も、場の力というものがあります。場と同調すると、自分の立ち位置や役割ががらりと大きく変わりますから。それまでは、誰々の伴侶の私とか、誰々の恋人の私とか、会社の課長の私とか。でも、自然の中に入ったら関係ない。お寺へ行ったら関係ないんですよ。」
—『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著
「なんというか、歩いたら足からわかるというか。風を感じれば毛穴からわかるというか。それも限界がありますけどね、表現としては。だから結局、ここでわかっていると思っていても、本当はその状況の中に自分が巻き込まれたときに初めてまるっとわかるみたいなことでしょうね。そういうことを、それこそ丸っきりわかってくれないっていうか。知り合いの山へ行って、杉林の間伐でもやったら、それは気持ちがいいに決まっているんです。でもその理屈はいちいち言わない。「これこれ、こんな風に気持ちがいい」「だから心身にいい」なんてことはね。たとえば今ね、天気がよくて、これが会議室じゃなくて林の中でさ、葉っぱが風にそよいでいるのを見ていたら、気持ちがいいもん。黙っていてもいいんですよ。雲が見えて、青空が見えて、木が見えて。別にそれでいいんですよ。説明しようがない。どうしても知りたいなら、自分で行って感じるしかない。僕とはまた違う感じ方になるでしょう。あるいは、「ただ寒いだけだった」「疲れた」と後悔するかもしれない。それはそれで仕方ない。」
—『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著
「だから、医師の立場でいえば、「会議室から出て自然に触れる」ということに対する、心理療法的な効果だってあるんです。二日酔いが治ったりするんだからね。起きて森でも歩いていれば。だから森林セラピーというのがあるんで、そういう対処療法も立派な1つの医療なんです。僕だって年に何回かは頭痛がして、薬飲むことがありますからね。そういう意味では、どんな目的や動機であっても、「森に行ってくる」って発想して行ってみることはいいことですけどね。」
—『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著
「あの、これ僕よく若い人にも言うんだけど、日本には本当にたくさんの宗教資産がありますからね、恩恵にあずからないと、もったいないんですよ。一説には、寺は全国に 7万 7000、神社は 8万 8000あるというんです。京都や鎌倉ほどの有名な観光地じゃなくても、どんな街だって 10分とか 15分も歩けば、なにかのお寺や神社に行きあたりますからね。そういうところは拝観料なんてとりませんし。つまり、昔の人たちがせっかく残してくれた莫大な宗教資産を、我々は今、ほとんどタダで利用できるんです。そういう国に住んでいる。これは本当にもったいないことなんですよ。仏教というのはもともと、日常生活に取り入れられる哲学であり、教えなんですけど、それが全然活用できていない。仕事で出張に行ったとか、打ち合わせであまり来ない駅で降りたりしたときなんか、ちょっと歩いてお寺でも見かけたら、ふらっと入って、何も考えずに手を合わせてね。そういう時間が日常にあるだけでも、気持ちの持ち方というのは大きく変わってくると思いますよ。」
—『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著
「ほとんどそうでしょうね。「あ、もういいや」って怒るのを止める心理の裏には何があるのかというと、よくわからない。そもそも内的な世界の悩みって、表に見えてこないから、なかなかわかってあげることができない。頭に棘が刺さっていたら「痛いだろうな」とわかるけど、頭痛だと表面的にはわからない。ましてや悩みはもっと複雑で、つまり隔離されている苦悩ですよね。でもそれって、往々にして状況が変わった瞬間に「あれ」って夢から覚めるようなことがあるんです。もちろん、必ずじゃないですよ。そういうことがすごく多いんです。それというのは、さっきから言っている「わかる」とか「気づく」ということもそうで、何がきっかけで「あ、そうか」となるかわからないんですけどね。」
—『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著
「同じですよね。篠栗町で弟子を連れて合宿するという話をしましたけど、本当に反応がわかりやすいですよ。終わると「先生、良かったです、素晴らしかったです!」って目をキラキラさせて言うんですよ。まるで僕がすごいカウンセリングをしたり、すごいことを教えたかのような顔して。だから、僕はすごく得をしているんですよ。でもそうじゃない、森のおかげなんです。森の中を適当に歩いてね、お寺を3つくらい巡ったらさ、誰だって生き生きしてくるんですよ。それで以前、福岡のテレビ番組で、その篠栗の森へ行ってみましょうというような企画があったのですが、その良さみたいなものを、テレビを通じて視聴者へ言葉で説明するのって、ものすごく難しいんですよ。はっきり言って無理なんです。そうでしょう。「とにかく行ってみろ」としか言えない。「先生、どういう効果がありますか」とか聞かれても、「いやぁ、そこへ放り込んでみるしかないですねえ」と僕は思っている。ただ、さすがにテレビなんでそうもいかない。なので、意識化した言葉を並べて説明するわけなんですが。まあ、伝わっていないですよね。」
—『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著
「現代人は生きそびれていますよ」と僕はよく言っているんだけどね。ネット見ると山ほど情報があるんだけど、ああいうものは全部、死んでいますから。死んでいるという意味は、固定しているでしょう。明日になっても変わらない。いつまで経っても同じなのが情報なんですよ。でも人間は情報じゃないし、自然も情報じゃない。諸行無常ですから。それを取り違えるからおかしなことになる。ネットの中のものは全部そうですからね。新しいものは次々出てくるけど、そのまま全部が固定しちゃう。そういう情報はたしかに便利かもしれないけど、生きてはいない。死んでいる情報とだけ対峙して、それではあなたは、生きていることとは違うんだよというところに、人生のどこかで気がついてほしいんです。
「会社員だって無機質な会議室にいるより、外へ出て空気を吸って考えたほうがいいんだから(笑)。デカルトも言っているじゃないですか。「世間という大きな書物を読むために、自分は書斎を出た」と、『方法序説』に書いていますよ。まぁ、あれは物理的に外へ出るということもあるけど、枠から飛び出ていろんな仕事をして、いろんな経験をしなさいという意味もありますけど。」
—『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著
「だから外へ出ろというんです。「逍遙学派」というのが昔からありますからね。「逍遙」というのは散歩の意味で、アリストテレスは散歩をしながら講義をしていたらしいし。ただまあ、思うんだけど、やっぱり男の生き方って、西行から芭蕉まで、けっこう旅をしたり、うろちょろ動いていますよ。剣豪も塚原卜伝が山中に 1人で暮らしたりね。」
—『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著
虫採りなんて典型的にそうです。虫が好きな人に「おい、行こう」と言ったら、みんな絶対行きますから(笑)。会社や家族の妨害がなければ、全員が絶対行くって言う。そういう連中を、僕も含めて無機質な会議室に閉じ込めておくと、きっと頭がおかしくなりますから。人ってそういうもんでしょう。生きているんだからさ。やっぱり、そういう子どものような気持ちを、70歳になっても80歳になってもなくさないんですよ。虫採りに行ったらバカに戻ってね。実は6月にも、4、5人で台湾へ行ってカミキリムシを採ってくるんですよ。案内してくれるのが周君という台湾の人で、北京でインセクトファームをやっている人なんだけど、台湾は地元だから当然詳しい。「案内してよ」と言ったら、「その頃は北京で仕事をしているから、夫婦の往復の旅費を出してくれたらガイドしてもいい」と言うから「いいよ、出すよ」と。北京から台湾への飛行機代なんて安いからさ。それで案内してもらってね。カミキリムシって、高いところを飛んでくるんですよ。知っていますか。それを長い竿で採るわけ。バカですよ、こんなもん(笑)。でも楽しいんだ。
「だから、トランプじゃなくても、変な人が出てくる理由があったんです。英国の EUからの離脱も根っこは似ていて。どの国も政党を見ると、ナショナリズムを標榜している政党が票を伸ばしていますよ。ドイツだろうが、フランスだろうが、オーストリアだろうがね。だから、トランプが台頭するのも当然といえば当然なんで。しかし多くのメディアはそう考えなかったですね。そう言わなかった。トランプは負けると。日本もアメリカも、マスメディアは軒並み、そういった方向の逆側の考え方に取り込まれた。」
—『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著
なぜメディアや多くの人がこれを「結果」という視点でとらえられないのかというのは、本当に強く感じます。そこへ踏み込んでいる評論家って少ないですよね。結果ととらえれば、もっと本質的なプロセス、つまり、なぜこういう結果になったかという、自分たちの根源にある欺瞞とか、過ちに気づくはずなんですよ。つまり、本質的なことにね。なのに、「トランプ現象が起きた、大変だ、じゃあどう対応したらいいんだ」という方向に行きがちですよね。良くも悪くも、今までの自分たちのやり方がこれを招いたという考え方に至らない。だから本質に気づくことができない。これまでの日常がトランプを生んだんだという、そこの部分へ行けないんです。「いよいよ政治の末路だ」って、いやいや、政治の末路なんて歴史上で今までも何度もあったじゃないかと。唐や漢や、周が倒れるときも、末路みたいなことはあったんだっていう。
名越康文
「新聞だって「大衆迎合のポピュリズム路線はダメだ」と社説で書くんだけど、大衆が多数決で決めているんだからさ。じゃあ民主主義って何なんだという話。そうじゃ