あらすじ
「自分探し」なんてムダなこと。「本当の自分」を探すよりも、「本物の自信」を育てたほうがいい。脳、人生、医療、死、情報、仕事など、あらゆるテーマについて、頭の中にある「壁」を超えたときに、新たな思考の次元が見えてくる。「自分とは地図の中の矢印である」「自分以外の存在を意識せよ」「仕事とは厄介な状況ごと背負うこと」――『バカの壁』から十一年、最初から最後まで目からウロコの指摘が詰まった一冊。
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Posted by ブクログ
「自分」の壁
著:養老 孟司
紙版
新潮新書 576
最初の主題はいわゆる「自分」という問題です。
残りはなんとなくそれにも絡んだ、さまざま話題です
気になったのは、以下です
・戦後、日本人は、「自分」を重要視する傾向が強くなりました
これは欧米からの影響によることころが大きいでしょう
その結果、個々人の「個性」「独創性」が大切だとさんざん言われるようになったのです
教育現場ではもちろんのこと、職場などでも「個性の発揮」を求める風潮が強くあります
・そんなものがどれだけ大切なのかは疑わしい。これまでにもそのことを繰り返し書いて、話してきました。
・個性は放っておいても誰にでもあります。だから、この世の中で生きていううえで大切なのは、「人といかに違うか」でなくて、人と同じところを探すことです。
・世間に押しつぶされそうになってもつぶれないものが、「個性」です
結局、誰しも世間と折り合えない部分は出てきます。それで折り合えないところについては、ケンカすればいいのです。それで世間が勝つか、自分が勝つかわかりません。でも、それでも残った自分が、「本当の自分」のはずです
・弟子入りの最初の段階から、「個性を伸ばせ」などと言っても意味がない
・外国にも「顔色を読む」といった表現があるのかどうか、少なくとも私は知りません
日本語には他にも、「血の巡りが悪い」、「人の痛みを感じる」といった言葉があります
・20世紀の終わりに、多くの科学者を対象にした調査をまとめた「The End of Science」(科学の終焉)という本が出版されました。ここで科学者のほとんどが、「科学はすべてを解明しない」と答えています。
・すんなり馴染めないからこそ、私は世間を関心の対象としてきました。そして、わからないからこそ、何とかそのルールを明文化したいと考えた。
・日本には世間というものがあります。世間のメンバーではない人はメンバーとは別の扱いを受けます
しかし、これは差別意識の産物ではありません。あくまでも会員制クラブのメンバーかどうか、ということです
・日本にとって必要な思想は、全部、無意識のほうに入っているのです
「それはまずいでしょう」
それがなぜ、どういう理由で、どのへんがどう、まずいか。
その理屈は、いちいち言語化されない。誰も説明しない。でも、まずい、のは、当たり前、なのです
それは、無意識で共有されている
・江戸時代も同じで、合議制がベースとなっていました
将軍は決して独裁者にはなれなかった
・豊かさのなかの自殺
不況のせいで日本人の自殺が増えている、という考え方は少し違うのではないか、と思います
・世間といじめ
あんなものなくなるわけがない。それが結論です。
むしろ考えておくべきなのは、いじめられたときの対処法です
軍隊のいじめが過酷なのは、逃げ場がつくれないからです
・人を信用するとコストが低く済むのです
相手を信用していないと、何でもいちいちたしかめなくてはいけなくなります。これは手間暇、すなわちコストがかかることです
・だから本当は、契約書なんて交わさなくて、なにか問題が起きて、どうしても解決できないときにだけ弁護士が出てくる、くらいでいいのです
・絶対反対、と、絶対賛成、が二項対立という、構図になると、コストがかかるし、具体的な話ができなくなります
・しかし、もともと私は、選挙というものについて、あまり期待をしていません。
いつも次のように言ってきました。
紙に名前を書いて箱に入れるだけで、ないか変わると本気で皆さん思っているのですか、それはおまじないと同じではないですか、と。
・日本が国際化することは、日本人がもっとウソつきになるということです。
ああいうウソつきは、外国には昔から当たり前にいるからです
・国があなたに何をしてくれるかではなく、あなたが国に何ができるかだ ケネディ大統領
・かっては、そんなに簡単に変わらないことがわかっていたし、そのほうがいいことも常識でした。その変わらないものが、「世間」であり、「大和魂」だったのです。
「世間はそう簡単にかわらないよ」これが世間の常識だったのです
・ある程度年を取ってからでいい。大器晩成でいいのです
・一生役に立たないこともあるかもしれません。それを中国では、「英雄時を得ず」と言ったのです
・パソコンやケータイに限らず、人は便利なもの、面白いと思うものに慣れていく。
こういう流れは、逆に戻すことはできないものです
「ただ、考えておいたほうがいいのは、ではそれによって人がどう変わるのか、という点です」
・情報過多というのは、別の言い方をすれば、身はつかない情報ばかりが増えていくことです。
知っていても、役に立たない
・情報過多になり、知らず知らずのうちにメタメッセージを受け取り続けていくと、本当に何が大事なのか、そのバランスが崩れてしまうように思えます
・情報をたくさん仕入れたからといって、役に立つとは限らない
・先生によれば、「よくない教科書というのは、よくできすぎている教科書、説明が至れり尽くせりの教科書だ」
そういう教科書で学ぶ疑問が生じない
・なにかにぶつかり、迷い、挑戦し、失敗し、ということを繰り返すことになります。
しかし、そうやって自分で育ててきた感覚のことを、「自信」をいうのです
目次
第1章 「自分」は矢印に過ごない
第2章 本当の自分は最後に残る
第3章 私の体は私だけのものではない
第4章 エネルギー問題は自分自身の問題
第5章 日本のシステムは生きている
第6章 絆には良し悪しがある
第7章 政治は現実を動かさない
第8章 「自分」以外の存在を意識する
第9章 あふれる情報に左右されないために
第10章 自信は「自分」で育てるもの
ISBN:9784106105760
出版社:新潮社
判型:新書
ページ数:224ページ
定価:800円(本体)
発行年月日:2014年06月
2014年06月20日発行
2014年08月20日7刷
Posted by ブクログ
470
結論、自分というものなんて無いんだって話なんだけど、脳の一部を損傷した人が自分が外界との境が無くなって、液体のような感覚になったって話凄いと思った。いかに自分探しの旅みたいなのが不毛か分かる。
Posted by ブクログ
解剖学者として培ってきた養老孟司さんなりの意見なので、評価自体は読む人の生き方や信念、思想に左右されてしまうんだろうけど、一つ一つの単元に対する考えを知ることができるというのは、一つの価値だし、そういう点で素晴らしい本だと思った。
特に、自殺者が増えている日本、自分は自分だけのものではないという共有思想の人格教育における重要性、師を徹底的に真似る本当の真意、人生の負荷をどこまで自分の胃袋は消化できるのか?
また、現在の日本の姿、効率や成果主義、個人主義など1990年からIT業界を握ることのできた欧米の勝ち筋を真似るやり方に疑問を抱いていたのが言語化されていた。
日本には日本独自の強さや良さがあり、勝ちに行くにはそのルートを改めてルールから掘り起こし、考える必要がある。
Posted by ブクログ
自分のことがよくわかっている人が書いた本であった
自分に自信がない
いろいろ挑戦してきたものが自信
人は自分が作り出すエネルギーの40倍を使っている。40人を雇ってるのと一緒
GDPが高くなると人と比較して不幸が出てくる。
Posted by ブクログ
久々の養老先生。私の体は私だけのものではない、と純粋さの危うさが、今の私に響いた。以前、読んでいた時と私の着眼点が異なっていて、その変化を発見出来たのも良かった。
Posted by ブクログ
私は自分に自信を持てずにまごついてしまうことが多い。そんな中、『バカの壁』を読み、次にどの本を読もうか検討していた時に、同著者の本で自信を養うことに関して記されている点に気づいたことがこの本を読むに至った経緯である。
この本を読んで学んだことは、「周りに流されたり楽をしようとしたりせずに、多くの人との出会いや挑戦が真の自信に繋がる」ということである。
今まで行ったことがない環境に足を一歩踏み入れて新しい人と出会い人脈や自分の視野を広げて、どんどん挑戦し続けていくことが自分の成長に結びつくと解釈した。
私は、「新しい経験に一歩踏み出す勇気が欲しい時」にこの本を再度読むだろうと思った。
Posted by ブクログ
6冊目
「自分」を主軸にいろんな話(ミトコンドリア、原発、デモ、昔の日本の登用制度)が展開されていく
途中で見失う、、、
けどひとつひとつの話がおもしろい
じぶんの考えはどこにあるのかとインプットしてるだけだと思うけど、
読んでいるときっと他の人種に比べると日本人は
自分の考えを様々な場面でしっかりとアウトプットしているんだなと感じた。その場所を弁えているだけで
自分ってなにものかと考えたことがないという養老孟司さん。
最初の脳科学者が脳卒中を起こしたとき
壁との境が認識が出来ずに流動的になったようと表現したこと、
地図の中で矢印がないと自分を認識できなくなってしまうこと、
意外にもかんたんに「自分」がなくなるんだろうなと
ネガティブだけど、どこか諦観したように感じた。
何者かになりたい、自分は何者なのかと、
なんでもいいから答えやその一部になるものを現在進行形で探しているけど、なにかヒントにはなりそう。
あ、あと
✳️細胞の核とは別にミトコンドリアんの核が入っていること
(青酸カリを吸っちゃうとミトコンドリアが停止することで人間がエネルギーを生み出せなくなる)(後から書き出してみてシロアリ-アメーバと同じような関係じゃないか、!と気付いた)
✳️蝶は幼虫かチョウになるサナギの段階の時にすべてを作り替えていること
✳️シロアリだけじゃセルロースを分解できないけどお腹の中にアメーバがいるから分解でき木を沢山食べられること
共生している、運命共同体のキーワードがすんなり入ってきた
なにかに生かされていると微生物的な観点から教えてくれる
じぶんってむずかしい
まだ読み途中(今日2025/04/21の今08:52)
だいじなことを忘れていた
✳️経済成長とエネルギー消費は相関しているということ
おもしろいし、たしかにとなった話
エネルギーって有限
過去にオイルショックが起きたことは知っていたけど
エネルギーが枯渇するから急いで買い占めな~!って背景だったことは知らなかった
これらを踏まえて考えると今みんなでなんとなく向かっている方向はどこかおかしな方向、行き止まりになるのかもしれない
(今日の今09:11)
Posted by ブクログ
確固たる「自分」というものはいるのか。
そんなのはいないのではないか。
というのが筆者の主張です。(養老氏は他の書籍でも同様のことを述べています)
「自分」なんてない。自分は他者と社会と他の生物と地球と繋がっているし、変化しているんだ。
大事なのは「人といかに違うか」ではなく、人と同じところを探すこと。世間と折り合いをつけて生きること。
しかし、戦後、「私」「個性」「独創性」ということを求められてきてからおかしくなってきた。
そのことを、世間との関わり、生物学としての面、江戸時代の日本などから説明しています。
その他、
政治に関わらない、世の中を変えようとしない話
意識は信用できない、言葉と現実は別ものの話
あふれる情報、情報過多に左右されないための話
人生は、ゴツゴツしたものである話
など、全体を通して、筆者の「人間はあくまでも自然の中の1つ」という考えが書かれています。
養老氏の切り口は「ゆったり」とした考え方、姿勢を与えてくれます。
よろしければ。
Posted by ブクログ
体調が上向く布石となった価値ある本。自分なんて分からなくて当たり前との記述が目から鱗でした。
『自分探しなんてムダなこと』
『自分とは地図の中の矢印である』
『自分以外の存在を意識せよ』
本文中のこれらの意見に浸るうちに、脳みそが柔軟体操をしてるかのごとく、グニャっとして楽になります。
養老孟司さんの本は大好きでたくさん読んでます。文章力が確かで柔らかくて癒されます。
ただ、この本は興味のない箇所も多いので減点1。
Posted by ブクログ
養老孟司氏の本はサラッと読める。
そして、「死」の壁等、他の本と内容が重複しているところもあり、私にとっては復習がてら丁度良い。
日本では戦後「個性」「自己主張」という考え方が増幅した、というところはなるほどなと思った。
細胞や細菌の話はすごく興味深く、自分という存在や意識というのはどこからくるのだろうと考えさせられる。
Posted by ブクログ
「自己」についての意識について考えさせられた。
西欧の「個性」「自己主張」が善とされ、それを日本にも取り入れようと教育や社会で「自分らしさ」が叫ばれているけれど、日本には自己をなくし共同体で生きる文化が根付いているという文化的背景を無視したまま他の文化から来た価値観を取り入れるのは、一旦ちょっと待ったをかけてもいいのかもしれない。
自然との触れ合いについて何が分かるのかは「やってみればわかる」としか記述されていなかったので気になってしまった。
Posted by ブクログ
本当に失礼なのだけど、私は養老さんのことを胡散臭いおじいさんだと思っていたので、この本をなかなか開けなかったんだけど、いざ読んでみたら自分の考えたこともなかった領域の話をしてもらえて面白かった。
自死の軽視化と「親孝行」についてはすごく共感する部分もあったし、全体を通して、この先の人生を生きる上でのヒントが多くあった。
Posted by ブクログ
本書は、養老孟司さんの「壁シリーズ」の一冊です。
「自分」というモノサシから、社会、政治、情報、自信について、などなど幅広く考察をされています。
色々な物の見方があり、参考になりました。
Posted by ブクログ
世界一受けたい授業に出演させているのを見て、読みたくなった。
テレビでは、インターネットはすぐに答えが分かり自分で考えなくなる、自分の壁を越えられない人は、毎日掃除をしないと気がすまない人・他人を妬む人、という話をしていた。さてさて、どんな内容だろうか。
・・・今日のなるほど
好きじゃないことで上手になろうとしたら、大変な努力がいる。しかも最終的にはうまくいかない。
われは我がとがを知る。我が罪は常に我が前にあり。
自分とは、地図の中の現在位置の矢印。矢印を消していけば、自分と地図が一体化する
言葉が動かすことがでかるのは人の考えだけ。その結果、その人が具体的に動いたときに、初めて現実が動く。→「そんなにいうならやってみな」
親孝行は、子供に「お前はお前だけのものじゃないよ」ということを教えていた。
漱石 則天去私 天について私を去る=私なんかない= 仏教そのもの
西洋は我を立てるほうに、東洋は我を消すほうに進んでいった。
しかし、一億玉砕にならないように。
そのためには、「意識を疑うこと」
自分の考え、意識は絶対的なものではない。
人と生で接することと、ネット経由で交流することを同時にはできない。
情報過多では、メタメッセージに注意。
そのメッセージ自体が直接示していないけど、結果的に受け手に伝わってしまうメッセージのこと。
例)新聞の一面には政治関係記事が多いのは、政治が重要なテーマで、知っておくべきと言うメタメッセージ。
人間の脳は勝手にメタメッセージを作ってしまう強い癖を持っている。一般化してしまう。
洗脳されるってことか。
自信を育てるのは自分
何かにぶつかり、迷い、挑戦し、失敗し、を繰り返す。そうやって自分で育ててきた感覚のことを「自信」という。→ 正にそう思う。
Posted by ブクログ
人はしばしば「自分探し」に出かける。旅をし資格を取り答えを外に求める。しかし養老孟司は言う――自分は探すものではなくすでにここにあると。
日々の暮らしや人との関わりの中で嫌なことも嬉しいこともすべてが自分を形づくる。
壁にぶつかれば回り道もできるし壁の高さを知ることもできる。壁こそが自分の輪郭をはっきりさせる。
探すより今の自分を引き受け磨く。その積み重ねが唯一無二の「自分」を描く。
Posted by ブクログ
「自分」というテーマについて、著者の養老孟司さんが語った本です。
「自分」は矢印に過ぎない。この第一章で語られる、「自分の意識とは、社会の中で自分の現在地を確認するための矢印である」という考えは、その後展開される思考の根本となるものであり、多くの転勤で各地を転々としてきた私には、とてもしっくりくる考えでした。
社会と自分の関係性について、少しも悩まないという社会人はいないのではないでしょうか?本書は、そんな悩みにひと匙のアイデアをくれたような気がします。
最後に、本書はこれまでに出版された「バカの壁」「死の壁」「超バカの壁」の3冊で語られてきた、自分と他人、自分自身、そして自分と社会についてのまとめのような内容でした。
Posted by ブクログ
意識は根本的に他人の行動や思考を理解するためにある。自分の体の把握のためではないのです。(本文より)
様々な話題がのぼりあっちこっちに話がいくけれど、自分のことだけ考えずに自分の頭で人類、地球のことを考えようという話。
Posted by ブクログ
バカの壁を読んだ後、自分の理解力、読解力不足に凹んだ。こちらの本は自己嫌悪に陥いることなく?読み、納得する部分が多かった。個人的に社会性の中で生きていくことに充足感を感じていた理由が自身の中で腑に落ち、自己理解に繋がった。
Posted by ブクログ
彼によれば、個性や、自己の確立というものは、西洋世界から来たものであって、根本的に日本人の性質になじむものではないと、彼は、主張している。さらに、もともと日本人は、「自己」とか「個性」をさほど大切なものだとは考えていなかったと推測もしている。
自己、自分という境界線は実に曖昧で、明確にとらえられないものでる。人間の意識は自分をえこひいきしていて、例えば、自分の口の中にある唾液を汚いとは思わないのに、それが自分の外に出たとたんに汚いものとみなされる。つまり、人間はの脳は、ここまでが自分でここまでは、自分のものではないと境界をつけていて、人間の脳、意識は「ここからここまでが自分だ」と自己の範囲を決めている。
彼曰く、生物学的な「自分」とは、地図の中の矢印に過ぎない。そして、社会的に見ても、日本において「自分」を立てることが、そう重要だとも思わない。それよりも世間と折り合うことの大切さを教えたほうがはるかにましだと言っている。
また、彼は、本当の自分というものは、最後に残ったものだと言っている。人間はだれしも世間と折り合いをつけられない部分が出てくる。そして、世間と自分は争うことになってくるが、その結果残った自分というものが「本当の自分」のはずだと言っている。「本当の自分」というのは徹底的に争ったあとに残り、またそれはそういう過程を踏まないと見えてこないという面がある、と彼は主張している。
本当の自分というのは、せいぜい現在位置の矢印だと考えてみる。べつにふらふらと動いても構わない、なぜなら現在位置は動くものだからだそう。
また、自然環境や人間が生きている地球の生態系を見れば、個性というものは、あまり現実味がないことともいえる。人間を含めすべての生き物は地球上で相互作用的に生きていて、また、人間の身体も様々な生物、生命の集合体でもある。生物は、体内に菌などの別の生物を持っていることは珍しくない。なので、すべての生き物は運命共同体であり、共生している。そういう在り方が自然的である。よって、確固とした個性をもって、確固とした自分をもって独立して生きるということは、不自然なことであり、生物としての本質から離れてしまっている。
田んぼは私とたとえられるように、私は環境の一部である。
*アイヌの熊送り
Posted by ブクログ
『バカの壁』『超バカの壁』『死の壁』と、養老さんの壁シリーズは都度読んで参りました。毎度毎度あ〜分かるぅ〜、納得ぅ〜っと言う記憶だけあって内容は全く覚えておりませんので、偶に読み返すのも必要だと思いますね。あ、『人の壁』は未読か。
特に年齢を重ねる毎に壁シリーズの面白さと言うか、筆者の捉え所の良さを実感します。
脳、人生、医療、死、情報、仕事について筆者の考えが方が相変わらず面白い、いや、そうなって欲しいと思いますが、経営者の立場としては仕事については些か賛成出来ない事もありました。
ま、昆虫好きの学者さんですから浮世離れしている所も散見できすし、それがまたいいんでしょうか。
この猛暑の中、クーラーの効いた部屋で昼寝を狙って読むには最高の本ですね。
次の壁は何でしょうか。私としては『信用取引の壁』と言うのを一筆お願いしたい、そうです、今年信用取引で大損した私です。株は現物に限ります、そこテストに出ますからね。Twitterの煽りに乗せられてんじゃねーよ、このバカ、バカは私か。やはりバカの壁を越えられない私です。
Posted by ブクログ
日本人は、具体的な生活に関係ないことは何でも言えると思っています。そんなことは生活に関係がない。だから、どういう解釈をして議論をしても構わない。これがふつうの考え方なのです。
日本にとって必要な思想は、全部、無意識のほうに入っているのです。
会社の中で、なにか新しい提案があったとします。それをつぶされる場合には、おく、こんな台詞が出てくるはずです。
「それはまずいでしょう」
それがなぜ、どういう理由で、どのへんがまずいか。その理屈は、いちいち言語化されない。誰も説明しない。でも、「まずい」のは「当たり前」なのです。それは無意識で共有されている。
思想というのは一種の理想であり、現実に関与してはいけない。これが、日本における思想の位置です。現実を動かしているのは無意識のほうにある世間のルールです。世間のふつうの人は、「思想家」と称する人たちの思想について、どこか現実離れしたものだと受け止めていることでしょう。それは性質上、当然のことです。
もちろん、思想の中には現実に生かしたほうがいいようなものもあります。戦後、それを上手に吸い取って現実化してきたのが、自民党です。別に自民党をほめているのではありません。自民党は世間の代表だ、という意味です。
この構造は、日本から無くすことはできない。そのことを私はかつて『無思想の発見』(ちくま新書)の結論として書きました。
日本では、へんに思想が突出するとかえって危ないことになります。それが太平洋戦争につながったわけです。日本で思想が先に立って成功した稀有な例は、明治維新くらいでしょう。
戦後、「何よりも自己が大事だ」というように前提が変わってしまった背景には、もちろん戦争への反省という面があります。
問題は、かつて親孝行を教えていた側も、もともとの意味を深く考えていたわけではない、という点です。
そのせいで、いつの間にかその教えが単なるルールやタテマエになってしまって、それをタテに無理をいう人が出てきました。「当たり前でしょ」と言って本当の意味を考えぬまま、絶対的なルールのように押し付けてくる。「お前はお前だけのものじゃないよ」という真の意味を教えるのではなくて、「とにかく親を大事にしろ。問答無用だ」という押し付けになってしまう。これが、このての古い考え方の問題点です。
人間の脳は、勝手にメタメッセージを作ってしまう強い癖を持っています。一般化してしまう、とも言えます。
柳の下にドジョウがいたのを見た人は、「柳の下にはドジョウはいるものだ」と勝手に思ってしまう。本来は「自分が見たときに、この柳の下に、このドジョウがいた」という一つの視覚情報を得ただけなのに、勝手に一般化して法則にしてしまうのです。メタメッセージを受け取るということは、自分の頭の中で、下(具体的な事象)から上(一般的な法則)を勝手に作ることです。
風邪を引いたときに、秘書が「先生、このクスリを飲んだらどうですか。私、これを飲んだら翌日には治りましたよ」と言ってきたことがありました。
彼女は、「クスリを飲んだら治った」と勝手に一般化しているわけです。
「クスリが効いたのか、その前に食べた焼き肉が効いたのかはわからないでしょ」
これが私の考えです。
一つの例を見て、一般化を進める思考法はたいてい間違えます。このことを、まともな科学者はよく知っています。こういう思考法では九九パーセントが間違える、といってもいいくらいです。
新聞の社会面やテレビのニュースばかりを見ていると、日本では凶悪な少年犯罪がどんどん増えているようにしか思えません。そういう恐怖を口にする人もいます。しかし、実は凶悪犯罪は減っていることをデータが示しています。個々の事件のニュースでは、少年犯罪の増加を伝えているわけではありません。○月○日に、少年が犯罪を起こした、ということを伝えているだけです。それなのに「増加している」と受けて側は勝手に受け止める。
新聞を読んでいたら、大きな事件が連続して起きているように思いますが、そんなことはありません。たいていの人にとっては、大きな事件のない、いつもと同じような平穏無事な日なのです。ほとんどの人が平穏無事な日を過ごすために努力をしています。だから、世の中何とかなっています。自動車を運転する人は事故を起こさないように努力をしていて、その努力はほとんどの人にとって実を結んでいます。でも、新聞に出るのは事故だけです。「今日も三○○○万人がハンドルを握りましたが、さいわいほとんど皆無事でした」ということは伝えられません。
社会が暗くなった、閉塞感で覆われている、と感じている人の中には、ニュースを見すぎ、読みすぎというケースもあるのではないでしょうか。
だから私は前々から、テレビのニュースで「今日はニュースがありませんでした」という放送をやってみればいい、と言っているのです。それが無理ならせめて、全てのニュースを伝えた後に、「……とはいえ全部済んでしまったことです」と締めくくってみてはどうでしょうか。
Posted by ブクログ
自分と自分以外を分ける境界線。
自分の口の中にある唾液は汚いと思わないのに、自分から離れた瞬間、少し汚いと感じてしまう。
その理由が少しわかった気がした
Posted by ブクログ
ネット等に溢れる情報にのめり込み、それが自分の考えだと思ってしまう。
無意識にすり変わる。
そして情報過多で矛盾が生じ混乱する、分からない、ということになる。
情報過多や強迫観念、SNSについて、論理的に考えられた。
Posted by ブクログ
あらゆるテーマについて養老さんの考え方が述べられています。養老さんの考え方、感じ方を知りたい人におすすめです。賛同できる考え方もありますし、でいないものもありまし、おもしろい考え方もあります。
自分探しの考え方は、養老さんの意見に私も賛成です。
Posted by ブクログ
「バカの壁」の目から鱗のインパクトはないが、はっと気付かされる点は多数有り。
人間脳がメタメッセージを作ってしまうっていう癖と近年のSNS拡大は、自分の頭の中でろくに考えもせず一般的な法則を勝手に作ってしまうという意味で筋の悪い組み合わせだという。