【感想・ネタバレ】「自分」の壁のレビュー

あらすじ

「自分探し」なんてムダなこと。「本当の自分」を探すよりも、「本物の自信」を育てたほうがいい。脳、人生、医療、死、情報、仕事など、あらゆるテーマについて、頭の中にある「壁」を超えたときに、新たな思考の次元が見えてくる。「自分とは地図の中の矢印である」「自分以外の存在を意識せよ」「仕事とは厄介な状況ごと背負うこと」――『バカの壁』から十一年、最初から最後まで目からウロコの指摘が詰まった一冊。

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Posted by ブクログ

ネタバレ

養老孟司氏の本はサラッと読める。
そして、「死」の壁等、他の本と内容が重複しているところもあり、私にとっては復習がてら丁度良い。

日本では戦後「個性」「自己主張」という考え方が増幅した、というところはなるほどなと思った。
細胞や細菌の話はすごく興味深く、自分という存在や意識というのはどこからくるのだろうと考えさせられる。

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2023年09月30日

Posted by ブクログ

ネタバレ

世界一受けたい授業に出演させているのを見て、読みたくなった。

テレビでは、インターネットはすぐに答えが分かり自分で考えなくなる、自分の壁を越えられない人は、毎日掃除をしないと気がすまない人・他人を妬む人、という話をしていた。さてさて、どんな内容だろうか。

・・・今日のなるほど
好きじゃないことで上手になろうとしたら、大変な努力がいる。しかも最終的にはうまくいかない。
われは我がとがを知る。我が罪は常に我が前にあり。

自分とは、地図の中の現在位置の矢印。矢印を消していけば、自分と地図が一体化する

言葉が動かすことがでかるのは人の考えだけ。その結果、その人が具体的に動いたときに、初めて現実が動く。→「そんなにいうならやってみな」

親孝行は、子供に「お前はお前だけのものじゃないよ」ということを教えていた。

漱石 則天去私 天について私を去る=私なんかない= 仏教そのもの
西洋は我を立てるほうに、東洋は我を消すほうに進んでいった。
しかし、一億玉砕にならないように。
そのためには、「意識を疑うこと」
自分の考え、意識は絶対的なものではない。

人と生で接することと、ネット経由で交流することを同時にはできない。

情報過多では、メタメッセージに注意。
そのメッセージ自体が直接示していないけど、結果的に受け手に伝わってしまうメッセージのこと。
例)新聞の一面には政治関係記事が多いのは、政治が重要なテーマで、知っておくべきと言うメタメッセージ。
人間の脳は勝手にメタメッセージを作ってしまう強い癖を持っている。一般化してしまう。
洗脳されるってことか。

自信を育てるのは自分
何かにぶつかり、迷い、挑戦し、失敗し、を繰り返す。そうやって自分で育ててきた感覚のことを「自信」という。→ 正にそう思う。

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2023年02月12日

Posted by ブクログ

ネタバレ

 日本人は、具体的な生活に関係ないことは何でも言えると思っています。そんなことは生活に関係がない。だから、どういう解釈をして議論をしても構わない。これがふつうの考え方なのです。
 日本にとって必要な思想は、全部、無意識のほうに入っているのです。
 会社の中で、なにか新しい提案があったとします。それをつぶされる場合には、おく、こんな台詞が出てくるはずです。
「それはまずいでしょう」
  それがなぜ、どういう理由で、どのへんがまずいか。その理屈は、いちいち言語化されない。誰も説明しない。でも、「まずい」のは「当たり前」なのです。それは無意識で共有されている。
 思想というのは一種の理想であり、現実に関与してはいけない。これが、日本における思想の位置です。現実を動かしているのは無意識のほうにある世間のルールです。世間のふつうの人は、「思想家」と称する人たちの思想について、どこか現実離れしたものだと受け止めていることでしょう。それは性質上、当然のことです。
 もちろん、思想の中には現実に生かしたほうがいいようなものもあります。戦後、それを上手に吸い取って現実化してきたのが、自民党です。別に自民党をほめているのではありません。自民党は世間の代表だ、という意味です。
 この構造は、日本から無くすことはできない。そのことを私はかつて『無思想の発見』(ちくま新書)の結論として書きました。
 日本では、へんに思想が突出するとかえって危ないことになります。それが太平洋戦争につながったわけです。日本で思想が先に立って成功した稀有な例は、明治維新くらいでしょう。

 戦後、「何よりも自己が大事だ」というように前提が変わってしまった背景には、もちろん戦争への反省という面があります。
 問題は、かつて親孝行を教えていた側も、もともとの意味を深く考えていたわけではない、という点です。
 そのせいで、いつの間にかその教えが単なるルールやタテマエになってしまって、それをタテに無理をいう人が出てきました。「当たり前でしょ」と言って本当の意味を考えぬまま、絶対的なルールのように押し付けてくる。「お前はお前だけのものじゃないよ」という真の意味を教えるのではなくて、「とにかく親を大事にしろ。問答無用だ」という押し付けになってしまう。これが、このての古い考え方の問題点です。

 人間の脳は、勝手にメタメッセージを作ってしまう強い癖を持っています。一般化してしまう、とも言えます。
 柳の下にドジョウがいたのを見た人は、「柳の下にはドジョウはいるものだ」と勝手に思ってしまう。本来は「自分が見たときに、この柳の下に、このドジョウがいた」という一つの視覚情報を得ただけなのに、勝手に一般化して法則にしてしまうのです。メタメッセージを受け取るということは、自分の頭の中で、下(具体的な事象)から上(一般的な法則)を勝手に作ることです。
 風邪を引いたときに、秘書が「先生、このクスリを飲んだらどうですか。私、これを飲んだら翌日には治りましたよ」と言ってきたことがありました。
 彼女は、「クスリを飲んだら治った」と勝手に一般化しているわけです。
「クスリが効いたのか、その前に食べた焼き肉が効いたのかはわからないでしょ」
 これが私の考えです。
 一つの例を見て、一般化を進める思考法はたいてい間違えます。このことを、まともな科学者はよく知っています。こういう思考法では九九パーセントが間違える、といってもいいくらいです。
 新聞の社会面やテレビのニュースばかりを見ていると、日本では凶悪な少年犯罪がどんどん増えているようにしか思えません。そういう恐怖を口にする人もいます。しかし、実は凶悪犯罪は減っていることをデータが示しています。個々の事件のニュースでは、少年犯罪の増加を伝えているわけではありません。○月○日に、少年が犯罪を起こした、ということを伝えているだけです。それなのに「増加している」と受けて側は勝手に受け止める。
 新聞を読んでいたら、大きな事件が連続して起きているように思いますが、そんなことはありません。たいていの人にとっては、大きな事件のない、いつもと同じような平穏無事な日なのです。ほとんどの人が平穏無事な日を過ごすために努力をしています。だから、世の中何とかなっています。自動車を運転する人は事故を起こさないように努力をしていて、その努力はほとんどの人にとって実を結んでいます。でも、新聞に出るのは事故だけです。「今日も三○○○万人がハンドルを握りましたが、さいわいほとんど皆無事でした」ということは伝えられません。
 社会が暗くなった、閉塞感で覆われている、と感じている人の中には、ニュースを見すぎ、読みすぎというケースもあるのではないでしょうか。
 だから私は前々から、テレビのニュースで「今日はニュースがありませんでした」という放送をやってみればいい、と言っているのです。それが無理ならせめて、全てのニュースを伝えた後に、「……とはいえ全部済んでしまったことです」と締めくくってみてはどうでしょうか。

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2023年07月30日

Posted by ブクログ

ネタバレ

あらゆるテーマについて養老さんの考え方が述べられています。養老さんの考え方、感じ方を知りたい人におすすめです。賛同できる考え方もありますし、でいないものもありまし、おもしろい考え方もあります。
自分探しの考え方は、養老さんの意見に私も賛成です。

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2022年06月18日

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