多和田葉子のレビュー一覧
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短い作品ではあるが注釈を読まないとパウルツェランのエッセンスは到底わからない(個人差はありますが)と思う。私は詩を人生で堪能してきた人間ではないから、彼に触れるのはお薦めしないとご提言をいただいた反駁で手に取ったわけであるが、間テクスト性満ち溢れた本作はより彼について知りたいと思わせ、同時に多和田葉子という作家が積み上げてきたエクソフォニーを体感できるようなそんな作品だった。彼女の作品を関口さんが翻訳する。日本人のかいたドイツ語文学を日本人が翻訳する?不思議な試みだなと当初考えてはいたものの、同じ人間でも異なる言語に身をおいてみれば織り成す内容も形式も変わってくる。まさに「世界は言語によって構成される」を体現した作品だと私は思う。はじめは仕様もない動機で手に取った本作であるが、「言葉に身を置く」これぞ読書といえるような体験が出来る作品だった。
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ホッキョクグマの3代にわたる物語。3つの中編からなる。
サーカスの花形クマが自伝を書き、オットセイの出版社の雑誌に連載。
その娘のトスカはバレエ学校を出るが舞台に出してもらえない。そこへサーカスから声がかかり、女性調教師のウルズラと出会う。トスカとウルズラは伝説の舞台を作り上げる。
さらにその息子のクヌートは育児放棄により、人間に育てられる。育ててくれたのはマティアスという男性。クヌートは地球温暖化による北極の環境破壊を止めるための広告塔としての役割を求められていた。クヌートがミルクを飲んで満腹になると眠くて寝てしまうシーンは本当に可愛い♡
ソビエト連邦がまだある時代から現代までをカバーする背景、ちょいちょい出てくるソ連や東ドイツネタが笑える。
いろいろな要素で構成されている物語。普通に喋って新聞を読めるクマについ笑みがこぼれてしまう。全然違和感がないのも不思議なんだけど。
北極海の氷、なくならないで!と思います。
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祖母、母トスカ、そして息子クヌートの三代にわたるホッキョクグマの物語。
実はクヌートについては、名前を聞いたことがあるくらい。
映画か何かのキャラクターだと思っていたくらい。
それが、多和田さんの手にかかると、こんなめくるめくような言葉の構造物になる。
ただ、読み終わったあと、どうにも悲しい。
自伝を書くホッキョクグマの「わたし」の物語から始まる。
サーカスの花形ウルズラとトスカの、濃密な関係。
しかし、それもサーカスが動物虐待にあたるという世論により、二人は引き裂かれる。
トスカの「死の接吻」の芸により、ウルズラの魂がトスカの中に入っていく。
ウルズラの死後、トスカがウルズラの自伝を書き継ぐ。
この作品にあっては、動物と人間の間の絆は、よくある感動もののそれとは趣が違う。
魂が交錯してしまうのだ。
「書く」という行為は、その証となる。
クヌートの物語は、さらにやるせない。
母に育児放棄され、飼育員に育てられて動物園のアイドル、自然保護活動のシンボルに祭り上げられる。
動物園の予算獲得のためでもある。
彼が物心つくのは、そんな騒動が起きてしまってから。
クヌートは読むクマに育っていく。
さらに過熱する世論の中で、訴訟騒動が起きたり、人工保育されたクマは自然に反するから安楽死させよという議論まででてくる(これは実話らしい)。
それを彼は知ることになる。
動物園でのショーで、育ててくれたマティアスをうっかり傷つけ、マティアスとも引き裂かれる。
そのマティアスの死を、彼は新聞を読んで知る。
ホッキョクグマが書いたり読んだりする。
小説的な設定ではある。
でも、そのことで、人間と動物の関係の難しさ、人間の身勝手さが浮かび上がる。
すさまじい構想力だと思う。 -
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ネタバレ12編のアンソロジー。
どの作品も変愛の名に相応しかった。この一冊に密度濃く詰め込まれたそれぞれの変愛。愛と一口に言っても当たり前ながら1つも同じものはない。
その中でも特に好みだった2つについて書きたい。
『藁の夫』
2人の間に嫌な空気が流れる、その始まりはいつも些細なことなのだと思い出させる自然な流れだった。あんなに幸福そうだったのに、藁に火をつけることを想像させる経緯、鮮やかな紅葉にその火を連想させるところがたまらなく良かった。
『逆毛のトメ』
シニカルでリズムのいい言葉選びが癖になる。小説ってこんなに自由でいいんだと解放して楽しませてくれた。躊躇なく脳天にぶっ刺す様が爽快だし、愚かな人間の頭に邪鬼の形相のトメがいることを想像してそのコミカルさに取り憑かれる。気づけばトメのことが好きになっていた。 -
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日本語とドイツ語で著作するというか、文学作品を書く著者の言葉をめぐる日常を描いた本。
著者の「エクソフォニー」という本をたまたま読んで、自国語以外の言語環境で生きること、さらには文学作品を書くということについての話しが面白かったので、こちらも読んでみた。
日記という形で、その日その日におきたことを言葉、言語の違いという観点で書いてあって、すっと入ってくる。
でも、これって、社会構成主義とかでいう「言葉が世界をつくる」ということだな。
ある名詞が指示するものごとの対象範囲は言語によってことなるし、たまたまある言葉がほぼ程度同じことに対応していても、その言葉がもっている他の意味とか、語源によって、意味というか、イメージのづれは生じる。
さらには、意味はわからなくても、その言葉が発する音が生み出すイメージもある。
文学は、まさにそうした言語の微妙さのなかでの実験であるわけで、そういうフィールドで2ヶ国語で創作をするということはちょっと想像できない。
著者はまさにこの言葉の違いこそが、自国語を違う可能性からみたり、つかったりするということに通じて、そこからなにかが生み出されるという言う。なるほど。。。。でも、すごいな。
社会構成主義とか議論されていることの生活レベルでの実践がここにあると思った。
また、途中で、金谷さんの「日本語に主語はいらない」を読んで共感したと言う話しがあって、わたしもそのことに共感した。
それにしても、この日記が書かれた4ヶ月くらいの時期は、著者は、世界のさまざまなところに呼ばれて、朗読をしたり、シンポジウムに出演したり、かなり忙しそう。
そのなかで、この新著(日記)を書き、本を読み、日本語の「自作」を自分で初めてドイツ語に翻訳するということにもチャレンジしていて、すごい活動量だなと感心した。 -
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ネタバレ作者は早稲田大学で文学を学び、ハンブルグ大学で学び、チューリッヒ大学で修士を撮った人が、言語の壁を日本語からドイツ語を観察したり、ドイツ語から日本語を観察する際に、感じたことを日記の形で、自作翻訳している期間にまとめられたもの。それは、日本語の「雪の練習生」を和独する作業をされていた時期だと後書きで述べられている。
作者の琴線に触れた事としてあげられている物の中の一つとして。117項にこんな記述がある。
「ハンナ・アーレントによれば、ナチスの一員として多くのユダヤ人を死に至らせたアイヒマンは、悪魔的で残酷な人間ではなく、ただの凡人である。上からの命令従わなければいけないと信じている真面目で融通のきかないよくいるドイツ人である。個人的にはユダヤ人を憎んでさえいなかったが、上の命令に従い、自分の義務を果たさなければいけないと信じ、ユダヤ人を殺せと命令されれば殺してしまう。凡人が自分の頭でものを考えるのをやめた時、その人は人間であることをやめる。どんな凡人でも、ものを考える能力はある。考えることさえをやめなければ、レジスタンスばどとても不可能そうに見える状態に追い詰められても、殺人機械と化した権力に加担しないですむ道が必ず見えてくるはずだ。言語を使ってものを考えると言うこと、それが絶望の淵にあっても私たちを救う。」僕はクリスチャンだが、どうも教理にしたがって人に福音を述べ伝えよと言うことが最善の命題ならば、それを疑わずにしてしまう機械の歯車になっていることが楽なのである。自分の信仰を問われる一文であった。
やはり、文法的なことで、138項に「人称代名詞と一口に言っても、一人称三人称の間には、根本的な違いがある。「ich」という人称代名詞の正体は何なのか。べろんべろんに酔った不良少年も祝日信者たちの前で演説するローマ法王も自分の事を「ich」と呼ぶ。」とある。日本語で「あたし」とか「俺」とかなどの社会のしがらみのなかで体臭をはなつ日本語と比べて、ドイツ語の「ich」無色透明なので、初めのころは本当に三人称で自分の事をしゃべっているような感じがした。」と言う。
著者は朗読の為に、世界各地を旅行しているのも凄い。昨日、日本からベルリンに帰ったのに明日はアメリカだと言う。驚いてしまう。彼女は僕とどう年配の作家さんなのである。
あともう一読しなければならないなあと思わせられてしまう。 -
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表題作のつもりで読み進めていってたら全然違う作品で焦った。
さて、解説にもあるとおり、二作品を収めたこの『犬婿入り』は「溝」がキーワードになっている。つまり境界線のことだ。
「ペルソナ」では信頼の置ける弟の和男でさえ、主人公・道子とは合同な意見を持っているわけではない。
特に序盤は、意識的にさまざまな国の名前が登場する。母語である日本語が、だんだんと自分の体から解離していく。日本人らしさや、外国人らしさ、といったステレオタイプには軽微な齟齬がある。同じくらい執拗に、肉の厚みについて述べられる。それもその一点が明白に羞悪な瑕瑾であるかのように。また、「ニガイ」は一貫してカタカナで表記されていた。途中わずかに登場する黒人の話と何か関係があるのだろうか。
表題作の「犬婿入り」。安部公房の作品群に似た雰囲気が離れない。水平線が分かつ二つの世界がぐるぐると混ざり合っていく感覚。忘れた頃にやってくる「電報」の言葉。何が普通で何がそうでないのかが判らなくなってくる。三人称的な視点で読者は自分を凝視する。伝染していく獣の体臭。みつこもだんだんと臭いに敏感になっていく。特に序盤は、文章が息継ぎすることなく進んでいく。非日常にいざなう導入催眠のようにも思える。