【感想・ネタバレ】言葉と歩く日記のレビュー

あらすじ

熊の前足と人の手,ドイツ語では単語が違う.では人の言葉で語る熊は,自分の手を何と表すだろう──.日独二カ国語で書くエクソフォニー作家が,「自分の観察日記」をつけた.各地を旅する日常はまさに言葉と歩く日々.言葉と出逢い遊び,言葉を考え生みだす,そこにふと見える世界とは? 作家の思考を「体感」させる必読の一冊.

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Posted by ブクログ

面白かった〜。言葉の不思議さに触れられ、驚き、合わせて、ドイツなどを旅している気にさせてくれる、多和田さんらしいエッセイ。現実逃避に最適かもしれない。

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2025年03月21日

Posted by ブクログ

彼女は言語学者ではない。
小説家であり詩人だ。
それも日本語とドイツ語で小説を書く小説家だ。
だからなのか言語への深い理解と探究心と遊び心にあふれている。
言葉と歩く多和田さんの日記の言葉を
もらすことなく読みたくて時間をかける。

折しも今日は3月11日
私のすぐ横に職場のブラウン管テレビが
落下してきた日だ。
彼女は「ベルリンにいて地震を経験していないという穴があまりに大きいので、人の話がその穴にどんどん吸い込まれていく。共有ではなく、むさぼり喰うような感じ」と語る。そして次の日のアサヒ・コムの「炉心溶融」は危機感が薄く、「メルトダウン」の方が危うく感じられると述べている。そして、多和田さんなら「『ピカドン溶解』という言葉を創ったかもしれない」と書いている。
言葉一つ選ぶにもその人のスタンス、価値観が表れる。パニック回避のための言葉選びが、事実を隠すことにつながることもある。

今日は祈りの日。あの日、日本は変わると実感していたが。

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2025年03月11日

Posted by ブクログ

こんなにドッグイヤーを作った本は他にないかもしれない。
わたしが考えていることは既に誰かが考えていたことなのだなと、多和田さんの文章を読んで実感した。
3年間ほど積読していたのだが、ようやく読めた。なぜもっと早く読まなかったのかとも後悔した。

本書で紹介されている文献も面白そうなものばかりで今度読んでみようと思う。

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2024年04月30日

Posted by ブクログ

多和田さんが好きなのは、独特の感性と鋭い批評眼があって、なおかつ明るさがあるから。小説でもエッセイでも。
この本は書店で平積みになってて、新しい本かと思って買ったら10年前の再版だった。けど読んでなかったのでノープロブレム。
2013年1月から4月15日までの日記で、1日分は短いので隙間時間にちょっとずつ読もうと思ったのに、面白くて一気に読んでしまった。

こむらがえりを起こすとドイツ人に言ったら、皆口々にそれはマグネシウムが足りないせいだと答えた、という話のあとに、

「「こむらがえり」はとても古い単語なので「マグネシウム」という単語と出逢って、かなり驚いたみたいだった。」(P69)

(「こむら」はふくらはぎの古語。)

トルコ語と日本語は同じウラル・アルタイ語族だと言われていた時期があった。しかしそれはインド・ヨーロッパ語族を中心とした見方である、といった内容のあとに、

「これは、鍋が自分中心に世界を見て、「ミシンとコウモリ傘は似ている」と主張するようなものではないか。鍋から見れば、ミシンとコウモリ傘にはいろいろ共通点がある。まず蓋がないこと、そして仕事中熱くならないこと、更には調理の役に立たないこと」(P159)

(「ミシンとコウモリ傘」のワードの選択もいい。)

「リアリティ」「クリエイティヴ」といった言葉について、伊藤比呂美の詩について、ワーグナーの文体についてなど面白いだけでなく刺激的で、読んでいる間、本当に幸せな時間を過ごすことができた。
立て続けに二回読んだ。

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2024年02月04日

Posted by ブクログ

2013年、日本語で書いた自著『雪の練習生』を自らドイツ語に訳している最中、多和田葉子が言語について考えたさまざまな疑問や気づきを書き留めた日記。


めちゃくちゃに面白い。日独だけでなく、多和田さんが講演などで旅した先で出会う言葉がどんどん思索を豊かにしていく。逆に翻訳作業の話は「手」の訳語にまつわるエピソードくらいだけど、多和田葉子という作家が日常的に言葉や文字とどう触れ合っているか知れるのが面白い。
レガステニーという学習障がいをめぐって「言語を文字で記すことが根本的に人間には困難」だと笑って見せたり、移民由来の乱れた言葉とされてきたキーツ・ドイツ語に惹かれてラップを書いてみたいと言ったり、これまでの西洋基準な言語学に物足りなさを感じたり、多和田さんは常に勉強熱心だ。「言語はべったりもたれるための壁ではなく、壁だと思ったものが霧であることを発見するためにある」。学べば学ぶほど深くなるのかもしれないその霧のなかを、悩みすら楽しみながら歩いていくように見える。
そして楽しむと同時に、常に言葉と自分との距離を冷静に測る目を大切にしているのだと思う。嬉しい言葉も悲しい言葉も鵜呑みにしないで、付き合い方を自分の頭で考えること。多和田さんの歩みを見せてもらうことで、私も歩き方を一度じっくり考えてみようと思った。

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2024年01月22日

Posted by ブクログ

私は中国語と日本語の間で著者のように行ったり来たりしている。
共感し、驚き、感激し、とにかく読み終わるのが嫌だった。

もっともっと続きが読みたい。
外国語の語感を通して日本語を深め、それを日本語で思考した後外国語でもう一度表現してみる。
そういう作業を楽しんだ。

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2022年08月22日

Posted by ブクログ

著者が原稿用紙にやわかな鉛筆で書き上げた3ヶ月半の日記。言葉というのはこうして身に纏って生きていくものなのだと実感できる日々のことをのぞけてしまう。わからない言葉や用語に出会ってもインターネットで安易に調べず一つ一つ辞書にあたって、触れた感触を確かめていくというのはとても楽しいだろうなと思えた。

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2020年08月24日

Posted by ブクログ

単なる「ドイツに住んでいる小説家の日記」ではない。
言葉と歩いている多和田葉子さんの日記、なのである。

多和田さんは小説を
日本語で書き、ドイツ語で書く。
日本語作品をドイツ語に翻訳もする。

自作品を日本語、ドイツ語、英語で朗読し
さまざまな言語に翻訳された自作品を聞くために
世界各地を旅している。

そんな人生があるとは。。。
まさに理想的な人生である。
それができる才能が実に羨ましい。

あまりに面白いので
私が勤める日本語学校の先生たちに
熱烈推薦してしまった。

何が面白いか、その面白さを説明すると
多分すごくつまらなくなるので書かないが
言葉に興味ある人はとにかく読んでみてほしい。

この本の中で多和田さんが読んでいた本も
読んでみようと思う。
「日本人の脳に主語はいらない」
「英語で日本語を考える」などなど。

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2019年04月01日

Posted by ブクログ

『雪の練習生』と合わせて読んでいたのだけど本当にすばらしい羨ましいとしか言いようがない日々で、こんな美しい日々のことを本にまとめて発表してくれてありがとうという気持ちしかなかった。
言語も国も水のように揺蕩い、ここは泳げる世界なのだ、少なくとも葉子氏には。
伝え伝えられることの喜び、息をする喜び、書くことへの無常のよろこび。

朗読イベントとか、参加したくもなってしまうね。

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2019年02月07日

Posted by ブクログ

「小学生の夏休みに『アサガオの観察日記』を書いた記憶があるが、それを参考に、日本語とドイツ語を話す哺乳動物としての自分観察しながら一種の観察日記をつけてみることにした。」(著者後書きより)

社会人になってから、数年に一度くらいの頻度で多和田葉子さんの文に引き寄せられる縁みたいなものがある。
今回は小説でなくエッセイというか日記というか、丁寧な思考をほいっと手渡されて後は任せた、みたいな短文が続くので、相変わらず素敵だなあと思ってゆっくり読んでいる。
今のこの日本ではない、別のもうひとつの静謐で豊かな世界がどこかにある気がしてくる。

さいしょからさいごまで良い一冊だった。

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2018年08月16日

Posted by ブクログ

なかなかの良書である。外国で外国語を使って生活していなければわからない、日本語に対する意識や、気づき。海外生活がなければ、そんなことに気づくこともないだろう。楽しめた。

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2014年06月08日

Posted by ブクログ

「雪の練習生」という日本語で書いた自著をドイツ語に翻訳するまでの間に、言葉について起こったことや考えたことを中心として綴られている日記。
多和田さんの小説はいくつか読んだけれど、なんてすごい言葉を持っている人なんだと、どの作品を読んでも思う。鋭いけれど、刃物の鋭さではなく紙の鋭さのような、温かみのある鋭さ。
いろいろな国に行って朗読イベントや自著の解説をする講習会や討論を行っている(よばれている)んだけど、そのなかでメガポリスを描く文体を模索しなければならないという話題が出てきたというくだり。とある海外の作家がメガポリスの例として東京を上げたことに多和田さんは驚く。あの「トーキョー村」かと。ヨーロッパにお住いの多和田さんにとって、特殊な場所以外では聞こえてくる言葉のほとんどが日本語である東京という都市は「村」であるという感覚だそう。
東京をメガポリスの例として出したこの方は日本語はあまりできず、東京に行ったときは意味の分からないことだらけで驚いたらしい。
「あんなに大きな看板を点滅させてどんな商品を売ろうとしているのか」「自動販売機の点滅の意味もわからない」とか。ただその中で世界的な企業のロゴマークだけははっきりとわかる。
日本語をわからないまま歩いたら、見えてくる東京という街は随分違うものなのではないかというこのエピソードが印象に残った。

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2014年02月25日

Posted by ブクログ

いゃーこれは面白かった。枕草子には「神経にさわるもの」がなく、「にくし」で表現されていることなど、興味深い考察がいっぱい。推敲について「深い眠りが良い推敲の条件」と記しだところも共感できる。
ドイツにいて日本を、日本語を考える。文章を物質として見る。単語一つ一つを物として観察すること、などなど、言葉について考え、言葉が好きな人なら、きっと面白く読めると思う。
ドイツの暮らしや空気感も、文章から感じられるのもまた楽しけり。

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2014年01月27日

Posted by ブクログ

こーれは、面白かった。考えること=言葉。生活すること=言葉。
映画「ハンナ・アーレント」を観た日に読んでいたら、「〜ゆうべは友達と近所の映画館で『ハンナ・アーレント』を観た。〜」という文章が出てきてビックリ。なんたる共時性!

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2014年01月20日

Posted by ブクログ

読むのに何故か時間がかかったが、非常に面白かった。特に言葉遊びのような、屁理屈?のような記述に何度も笑った。ドイツ、その他の訪問地での言葉の考察も興味深かった。日独語を読める人が、「雪の練習生」の日独版を読まれたら、感想を聞きたいものだ。

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2025年01月13日

Posted by ブクログ

ネタバレ

311の後、コロナ前。言葉との向き合い方がとても丁寧で相対的で面白かった。3つ言葉ができるといいなあ。ベトナム語またやろうかな。

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2024年08月08日

Posted by ブクログ

vollmondのkomachiさんがインスタで投稿していたことがきっかけで読んでみた。英語、ドイツ語を学ぶにあたりぶつかった疑問を解いてくれるような本も紹介されていて参考になる。ふと思っていることを言語化してくれていて、これが言いたかったんだ!と思う箇所も。言語学習者、特にドイツ語学習者にはおすすめ。

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2024年07月15日

Posted by ブクログ

日本語とドイツ語で小説を書き、英語やロシア語も出来る多和田葉子さんが、
日本語で書いた小説をドイツ語に翻訳する期間、言葉について考え書かれた日記。
世界中を旅して朗読活動をされているので、
様々な国の色々な言語を使う作家や詩人や学者の方々との交流も興味深く、
知的だと思うけど難解な感じはなく読みやすかったです。
ヨーロッパでは多言語を話される方も多いけど、
上海の喫茶店で周りの人たちがそれぞれ
中国語、日本語、韓国語、英語で話していて、
ある若い学生の集団は次々と言語を変えて話していたことを思うと、
アジアもアジアで多言語が交錯する場所ですよね。

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2023年11月11日

Posted by ブクログ

日本語とドイツ語で著作するというか、文学作品を書く著者の言葉をめぐる日常を描いた本。

著者の「エクソフォニー」という本をたまたま読んで、自国語以外の言語環境で生きること、さらには文学作品を書くということについての話しが面白かったので、こちらも読んでみた。

日記という形で、その日その日におきたことを言葉、言語の違いという観点で書いてあって、すっと入ってくる。

でも、これって、社会構成主義とかでいう「言葉が世界をつくる」ということだな。

ある名詞が指示するものごとの対象範囲は言語によってことなるし、たまたまある言葉がほぼ程度同じことに対応していても、その言葉がもっている他の意味とか、語源によって、意味というか、イメージのづれは生じる。

さらには、意味はわからなくても、その言葉が発する音が生み出すイメージもある。

文学は、まさにそうした言語の微妙さのなかでの実験であるわけで、そういうフィールドで2ヶ国語で創作をするということはちょっと想像できない。

著者はまさにこの言葉の違いこそが、自国語を違う可能性からみたり、つかったりするということに通じて、そこからなにかが生み出されるという言う。なるほど。。。。でも、すごいな。

社会構成主義とか議論されていることの生活レベルでの実践がここにあると思った。

また、途中で、金谷さんの「日本語に主語はいらない」を読んで共感したと言う話しがあって、わたしもそのことに共感した。

それにしても、この日記が書かれた4ヶ月くらいの時期は、著者は、世界のさまざまなところに呼ばれて、朗読をしたり、シンポジウムに出演したり、かなり忙しそう。

そのなかで、この新著(日記)を書き、本を読み、日本語の「自作」を自分で初めてドイツ語に翻訳するということにもチャレンジしていて、すごい活動量だなと感心した。

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2021年12月07日

Posted by ブクログ

ネタバレ

作者は早稲田大学で文学を学び、ハンブルグ大学で学び、チューリッヒ大学で修士を撮った人が、言語の壁を日本語からドイツ語を観察したり、ドイツ語から日本語を観察する際に、感じたことを日記の形で、自作翻訳している期間にまとめられたもの。それは、日本語の「雪の練習生」を和独する作業をされていた時期だと後書きで述べられている。
作者の琴線に触れた事としてあげられている物の中の一つとして。117項にこんな記述がある。
「ハンナ・アーレントによれば、ナチスの一員として多くのユダヤ人を死に至らせたアイヒマンは、悪魔的で残酷な人間ではなく、ただの凡人である。上からの命令従わなければいけないと信じている真面目で融通のきかないよくいるドイツ人である。個人的にはユダヤ人を憎んでさえいなかったが、上の命令に従い、自分の義務を果たさなければいけないと信じ、ユダヤ人を殺せと命令されれば殺してしまう。凡人が自分の頭でものを考えるのをやめた時、その人は人間であることをやめる。どんな凡人でも、ものを考える能力はある。考えることさえをやめなければ、レジスタンスばどとても不可能そうに見える状態に追い詰められても、殺人機械と化した権力に加担しないですむ道が必ず見えてくるはずだ。言語を使ってものを考えると言うこと、それが絶望の淵にあっても私たちを救う。」僕はクリスチャンだが、どうも教理にしたがって人に福音を述べ伝えよと言うことが最善の命題ならば、それを疑わずにしてしまう機械の歯車になっていることが楽なのである。自分の信仰を問われる一文であった。
 やはり、文法的なことで、138項に「人称代名詞と一口に言っても、一人称三人称の間には、根本的な違いがある。「ich」という人称代名詞の正体は何なのか。べろんべろんに酔った不良少年も祝日信者たちの前で演説するローマ法王も自分の事を「ich」と呼ぶ。」とある。日本語で「あたし」とか「俺」とかなどの社会のしがらみのなかで体臭をはなつ日本語と比べて、ドイツ語の「ich」無色透明なので、初めのころは本当に三人称で自分の事をしゃべっているような感じがした。」と言う。
著者は朗読の為に、世界各地を旅行しているのも凄い。昨日、日本からベルリンに帰ったのに明日はアメリカだと言う。驚いてしまう。彼女は僕とどう年配の作家さんなのである。
あともう一読しなければならないなあと思わせられてしまう。

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2022年10月08日

Posted by ブクログ

ネタバレ

ベルリン在住で、日本語とドイツ語のニヶ国語の小説を発表している多和田さんの、"言葉"に関する日記形式のエッセイ。
小説の中で多和田さんはよく言葉遊びを取り入れておられる。生まれてからずっと日本在住で日本語しか話さ(せ?)ない私にとって、それは新鮮で斬新で、いつもクスッと笑ってしまう。
ドイツから見た日本、ドイツ語と比較した日本語、というように俯瞰して日本並びに日本語を観察しておられるからできる技なのだろう。特に印象深かったことをピックアップ。

●時代と共に日本人が遣う日本語も変化し、遣われなくなり消えていく日本語も少なからずある。実際遣っている我々は、そんなものかと時代に流されている感があるけれど、多和田さんはそのことを大変危惧されていた。
●日本語の発音の響きと字の形。日本人にとっての当たり前を掘り出して注目し、時に心配もする多和田さんの日本愛はかなりなもの。日本在住の日本人以上の愛情を感じた。
●文章が縦書きなのは日本だけとは驚いた。韓国はともかく中国も横書きとは。日本は東アジアの中でも特に古いものを残す国、と世界の中で言われていることにも驚いた。やはり島国だからかな?
●日本の敬語について。敬語を遣った質問の場合、単刀直入に訊くのでなく間接的な言葉を遣うことが多い。例えば「砂糖をお使いになりますか?」という表現。砂糖は道具でも召使いでもないのに何故"使う"なのか?一方ドイツでは「砂糖が欲しいですか?」と単刀直入に訊くそうだ。何故日本人はわざわざ回りくどい言い方をするのだろうか。つくづく不思議である。敬語の言い回しは日本人にとっても難しい問題。
●日本語や英語等の言語に主語はいらない説には感心した。確かに話し言葉にわざわざ主語なんて付けない。付けるのは教科書くらいかな。あと、詩は助詞を抜かした方が勢いも出てきて好き。好みの問題かもしれないけれど。
●多和田さんの場合ニヶ国語だけでなく、そのニヶ国から張り巡らされている別の無数の言語との関係性を見ておられる点が面白い。
●花から花へ飛び移るミツバチのように、様々な国の言語や文化を吸収し、また別の国へと運び、多和田さんなりに混ぜ込み、多和田文学が創られるのだろう。今年はコロナの影響で飛び回れず、ウズウズしておられるかな。

多和田さんの頭の中で、ニヶ国の言語が其々の主張をして対話を重ねることにより生まれた"言葉"は、我々日本人を刺激する。
多和田さんが日頃感じる、異国の中の日本語に対する疑問や解釈の発想がとても面白かった。

時折内容の高度な箇所もあったけれど、大学時代の教授の講義を聴いているみたいに思えて、とても懐かしくもあった。
また続編が出ないかな。
次回があれば、出来の悪い教え子なりに多和田教授の講義に付いて行きたい。

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2020年09月27日

Posted by ブクログ

ノーベル文学賞候補ベルリン在住多和田葉子さん。ドイツ語圏、日本、英語圏などを言葉とともに旅するエッセイ。ドイツ語で表す日本語とのニュアンスの違い。日本語で考える日本人にグローバルな思考とは何かを問う。

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2020年09月09日

Posted by ブクログ

ネタバレ

 『地球にちりばめられて』で知った著者。2冊目。こちらはエッセイ。

 その昔、野沢直子が一時帰国をして『笑っていいとも!』に出演したことがある(御存知と思うが、野沢直子は日本で売れた後、武者修行とばかりにアメリカに渡り、現地で伴侶を得て当時はアメリカのショービジネス界で頑張ってた。今も?なのかな?)。

 その時、「今、日本って、なんでも2文字で言っちゃうんですねー」と驚いていた。何のことかと思ったら、「早い」「遅い」「長い」などが、「はやっ!」「おそっ!」「ながっ!」っとなっていると。
 全然気づかずにそうした表現を使ってたけど、そうかー、久しぶりに海外から日本に戻ってくると、そういう違いに気づくんだーと、言葉を駆使する芸人の鋭い感性に感心したもの。
「じゃあ、タモリさんのことも、”タモっ”って言っていい?」とボケまでかます達者ぶり(笑)

 前置きが長くなったが、本書の著者もドイツで暮し、日本語とドイツ語他、他言語を操る御仁。日本に居るだけの日本語だけの話者には気づかない多くの発見があって実に楽しい。

 日記風に、1月1日から4月の中旬まで毎日なにかしらの記述がある。
 三日坊主でもない、この中途半端な期間は、著者が自著『雪の練習生』のドイツ語翻訳に取り組んでいる期間だそうだ。日本語をドイツ語に訳すに際し、改めて両言語間の暗くて深くて溝に思いを馳せることになる。
 翻訳作業の苦労も滲み出ているが、むしろ新たな言語的な気づきに一喜一憂している日々が楽しく綴られている(「喜」のほうが8割、9割と多いのが良い)。

「ほぐすことのできない単語に矛盾する形容詞を付けて」遊んでみたり、広辞苑や岩波古語辞典、果ては『アレ何?大辞典』なる面白そうな辞書まで引いて、日々、言葉と格闘する様がおかしい。

 著者が日本語もドイツ語も堪能で、ドイツ在住ということもあり、現地で朗読会なるものも開催しているのも興味深い。著者本人が自作を読み聞かせるなんて、あまり聞いたことがなかった。朗読に際しての著者の気付き、驚きも面白い。

「初めて他人に向かって自作を声に出して読む時は、少し動揺し、読み方までよろめく。自分が書いたものがそういう形で外界にさらされることに対する驚きが毎回ある。」

 印刷物になった言葉だけでなく、こうしたヴァーバルな体験もしながらの考察ゆえに深みがあり、日本語のみならず、多くの言語に対する尊敬あるいは思慕の念が随所に感じられる。

「文章を物質として見る。単語一つ一つを物として観察する。単語は自分の心が外に溢れ出したものだと考えるのは思い込みで、単語はわたしの生まれる前から存在し、独自の歴史を持ち、わたしが死んでも全く悲しまずに、存在し続けるだろう。」

 自分の生み出した文章、作品ですら、古くから伝わる単語、言葉自身が紡ぎ出しているかのような物言いが謙虚でいい。

 そうして過ごした凡そ4か月間。毎日が気付きの連続で、読みながらどんどん付箋紙を貼りつけていって、こりゃえらいことになる!?とちょっと焦った(いつもブックカバーに貼り付けてある付箋紙が足りなくなる!?)。後半、各地に旅に出たりして紀行文的な内容になると前半ほど、言葉や表現を考察したりすることが少なくなり、気楽に読み流せる度が増してちょっとホッとする(その旅程自体は、翻訳作業に関わるものだったり、朗読会関連だったりして、言葉関わる日常であるが)。

 こんなにして、日々言葉とがっぷり四つに組んで出来上がる『雪の練習生』のドイツ語訳。そちらを愉しむ機会が無いのは残念だが、せめて原書(日本語)のほうは、いずれ読んでおこうと思った。

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2018年10月30日

Posted by ブクログ

ベルリン在住の小説家ということだけかと思っていたら、ドイツ語のことが詳しく書いてあるので、ドイツ語の参考書としても使える。

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2017年04月22日

Posted by ブクログ

多和田さんのことは、これまでにも聞いたことがあった。
日本で生まれ育ち、二十代で渡独し、日本語とドイツ語で捜索活動をする作家だと。
ただ、何かすごく前衛的な、オソロシゲな作品なのではないかと、勝手に思い込み、いまだ小説や詩を読んだことがない。
今回は、日記ということで、手にしてみた。

2013年の1月1日から4月15日まで、一日も休むことなく記事が続いている。
その中には、ドイツ語や他の言語と日本語との意味や言い回しの違いを楽しんでいるようなものが多い。
それはある意味、この人の文章に誰もが期待することなのだろう。
ただ、思索的すぎないタッチだったので、ほっとした。例えば、「産婦人科」「昭和の味」といった、手あかがつきすぎている言葉へのコメントは、「違和感を表明する」と言ってもいいけれど、「ツッコミを入れている」と表現してもいいような感じだった。

この本の中で取り上げられている本や映画も、存外自分が読んだり見たりしたことがあるものと重なっていたので、びっくりした。
知ってはいたけれど読もうとは思わなかった片岡義男の『英語で日本語を考える』も、一度読んでみたいと思うようになった。
きっと読み方は違うのだろうけれど、ちょっとこの作家に親近感を感じるきっかけにもなった。

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2014年11月24日

Posted by ブクログ

日本語とドイツ語の二か国語で書く作家の「言葉」についての日記。
意識していれば日々これほど「言葉」に発見があり、疑問が浮かぶものなのか。
母語以外の言語が理解できることによって、
違う角度で日本語が見られる多和田さんがうらやましい。
日本語に対してのフレッシュな気持ちと外国語習得したい欲が高まる。

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2014年06月29日

Posted by ブクログ

ドイツ語は大昔 大学の1年で習っただけなので完全に忘れているが、著者のように自由自在にドイツ語を駆使して小説を書けることが羨ましい.外国語を学ぶ利点の一つに母国語を再認識できる というのがあったと記憶しているが、まさに本書はそれを書き表したものと言えよう.ニヤリとできるエピソードが満載だが、寿司屋のメニューに関連して「本番」について述べている件が面白かった.

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2014年03月29日

Posted by ブクログ

22年前(執筆当時)からドイツに住み、日本語とドイツ語でそれぞれ小説を書き、その双方で(それ以外の国でも)評価の高い著者の「ことば」に関する随想。エッセイと呼ぶには(この語の本来の意味はそうではないのだろうが、日本語で言うエッセイには軽すぎるような響きがあるので)、ずっと思索的な内容を持っている。それには、あるいはドイツ語の持つ構造も関係があるのかもしれない。しかも、ここには日本とドイツだけではなく、言語をめぐる著者の様々な体験が注意深く、著者のことばに置き換えられて語られる。言葉の熟成を思わせる如くに。
 なお、未見の映画だが、本書に2回『ハンナ・アーレント』のことが出てくる。ナチスの高官だったルドルフ・ヘスは、けっしてカリスマ軍人だったのではなく、ごく普通の、しいて言えば任務に忠実な人に過ぎなかったらしい。自分の言葉で思考しないことの恐ろしさが語られる。

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2014年03月19日

Posted by ブクログ

多和田葉子による多和田葉子の<自分観察日記>。ストイックに、だけど遊び心のある言葉への実験的精神。真摯で、ときに柔く毒舌。日本とドイツ、文化と言葉の峡谷を両面ナイフの右の刃左の刃を順繰りに見せながら、ゆっくりと渡っていく。そんな姿が見えた気がした。付箋をぺたぺた貼りながらの読書。

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2013年12月31日

Posted by ブクログ

ついレビューを書きたくなるほど、多くの人に支持されるのでしょう。
言葉にこだわることは特別に非凡なことではないのですが、著者の魅力は性向だけではないのでしょう。
こだわるから、おもしろいのではなく、文才がおもしろくさせているのでしょうね。
いつも通いなれている道に、こんな花が咲いていた、こんな虫が生息していた・・・と、語りかけてくれてるようだ。
見逃していた、見過ごしていた情景をひとつひとつ開示してくれているのが楽しい。

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2014年01月29日

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