多和田葉子のレビュー一覧
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謎の男・鶯谷が頻繁に出入りする家で両親と共に暮らす少女の目を通して、猥雑で不可解な世界を生き延びていく少女小説。
既読の二作(『百年の散歩』と『献灯使』)に比べ、フェミニズム的なテーマがわかりやすく示された作品。「獣姦」とか「精液」とかいう単語がでてくるのに語り手の年齢が九歳と言われてびっくりするのだが、その精神性はほとんど変わらないままいつのまにか十八歳まで時が飛んでいる。幼児からとっとと少女になることを求められ、”成人”になることは求められないという社会的な性役割を表しているかのよう。女は聖人になれないのか、「聖人の母」にしかなれないのか、という問いはそこにもかかっていたりするのかな。 -
Posted by ブクログ
最近ふとしたことからドイツ語に興味を持ち、特に「名詞に性がある」というドイツ語の特徴になんとなく気になるものを感じていました。とりわけ「ややこしそうな文法ルール」として。
そんな中、個人的に惹きつけられた本書の一場面が、ドイツ語文法に怒りを込めて文句を言うアメリカ人と思われる女性に対し、主人公の「わたし」が
『「性を失った英語の方がよっぽどステューピッドでしょ」と言い返してやりたくなった。』
と心の中で反発する場面でした。
真実がどうかはさておき、「言葉というものには元々性があって、英語はその性を失ってしまった言語なのだ」というものの見方は、自分の中に新しい視点を与えてくれたように思います -
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短い作品ではあるが注釈を読まないとパウルツェランのエッセンスは到底わからない(個人差はありますが)と思う。私は詩を人生で堪能してきた人間ではないから、彼に触れるのはお薦めしないとご提言をいただいた反駁で手に取ったわけであるが、間テクスト性満ち溢れた本作はより彼について知りたいと思わせ、同時に多和田葉子という作家が積み上げてきたエクソフォニーを体感できるようなそんな作品だった。彼女の作品を関口さんが翻訳する。日本人のかいたドイツ語文学を日本人が翻訳する?不思議な試みだなと当初考えてはいたものの、同じ人間でも異なる言語に身をおいてみれば織り成す内容も形式も変わってくる。まさに「世界は言語によって構
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ホッキョクグマの3代にわたる物語。3つの中編からなる。
サーカスの花形クマが自伝を書き、オットセイの出版社の雑誌に連載。
その娘のトスカはバレエ学校を出るが舞台に出してもらえない。そこへサーカスから声がかかり、女性調教師のウルズラと出会う。トスカとウルズラは伝説の舞台を作り上げる。
さらにその息子のクヌートは育児放棄により、人間に育てられる。育ててくれたのはマティアスという男性。クヌートは地球温暖化による北極の環境破壊を止めるための広告塔としての役割を求められていた。クヌートがミルクを飲んで満腹になると眠くて寝てしまうシーンは本当に可愛い♡
ソビエト連邦がまだある時代から現代までをカバーする背 -
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ネタバレこれまでに読んだ多和田葉子の本は
『犬婿入り』
『ゴットハルト鉄道』
『ヒナギクのお茶の場合/ 海に落とした名前』
ファンタジー成分が多いけれど、わりと女性である作者に近い感覚の作品群だと思っていた。
本書『献灯使』は5つの作品を含む短編集。
視野が広がったためなのか、女の子っぽいところはなくなっている。
フクシマ以後の核汚染の怖れを濃厚に映し、現代社会への風刺に満ち満ちている。
『韋駄天どこまでも』が唯一ひとりの女性が主人公でその内面を書いているのだけれど、その視点はものすごく遠く高くにあるように感じられる。この作品は漢字をゴシック体で読者の目につくようにしかけ、漢字のダジャレのような遊 -
Posted by ブクログ
祖母、母トスカ、そして息子クヌートの三代にわたるホッキョクグマの物語。
実はクヌートについては、名前を聞いたことがあるくらい。
映画か何かのキャラクターだと思っていたくらい。
それが、多和田さんの手にかかると、こんなめくるめくような言葉の構造物になる。
ただ、読み終わったあと、どうにも悲しい。
自伝を書くホッキョクグマの「わたし」の物語から始まる。
サーカスの花形ウルズラとトスカの、濃密な関係。
しかし、それもサーカスが動物虐待にあたるという世論により、二人は引き裂かれる。
トスカの「死の接吻」の芸により、ウルズラの魂がトスカの中に入っていく。
ウルズラの死後、トスカがウルズラの自伝を書