多和田葉子のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
多和田葉子!三冊目
難解なんだけど何度も何度も読み返して自分の物になった時の達成感は学生時代にも感じた事の無かった感情だったのを覚えている。だから読もうと決めたら並行読みなどは一切しないでこれだけに集中するしか無いのである。「献灯使」「犬婿入り」「100年の散歩」どれも個性的で言葉選びが優れている。言語、人種、文化、政治を上手く文章に置き換えて私達に推理させるなんて素敵な事でしょうか。
第一話の冒頭での書き出しがすこぶる良い。こんな書き出しどうすれば考えつくのだろう。わたしで語られる作者は「毛の生えた赤ん坊」以外の何者でも無かったという事は わたし=クマなのだろう。
私はオットセイの友達に勧められるまま自伝を書くようになる。自伝が出版されれば印税で暮らせるとヴォルフガングに言われ筆が萎えてしまう。
『微笑みは人間が顔にのせる表情のうちで最も信用出来ないものの一つだと言う事がわかってきた。人は自分の寛大さを売りつけ相手を安心させて操縦する為に微笑む。』ヴォルフガングの満面の微笑みをこんな風に例える所が凄い。
自由自在という言葉が浮かんで、そうだ、わたしも自由自在に自分の運命を動かしたいその為に自伝を書こうと思った。わたしの自転車は言語だ。過去の事を書くのではない、未来の事を書くのだ。わたしの人生はあらかじめ書いた自伝通りになるだろう。
そして第二話が始まる。
わたし=ウルズラはホッキョクグマのトスカとコンビを組んでサーカスで働いている。人気演目は死の接吻である。わたし=トスカに入れ替わり自伝を書いていた。
人間には狩猟本能という本能がある。昔は生き残るのに必要だったある行動が意味を失ってからも動きだけが残っている。生きる為に本当に必要な動きはもうわからなくなっていて、記憶の残骸みたいな身振りばかりが残った。人間ってそういう集まりに過ぎないのかもしれない。それって戦争が無くならないって事とイコールなんじゃ無い?怖い(・・?)
第三話ベルリン生まれのクヌートの自伝。
マティアスに育てられ彼を母親だと思って大きくなたもののナマケグマやツキノワグマやヒグマや狼の群れと会話をする中でマレーグマに言われた言葉だ。
「君だって北極について少しは考えてもいいんじゃないか。」クヌートは「私の祖先は北極でなく東ドイツの出身です」と言うと「へぇ、千年前にも生きていた祖先も東ドイツに住んでいたのかい。君には全く呆れるよ」
あれほど何度もわたしがベルリンで生まれたことが新聞に書いてあったのにわたしの毛皮が白いと言うだけの理由で北極生まれにされてしまう。
動物も人間もアイデンティティは同じなのかもしれない。
不思議なものです。この物語は多和田葉子のものとも受け取れるし三代に渡るホッキョクグマの自伝ともとれるクマを通したわたしの小説なのかもしれないです。
なんか思った事を徒然に書いた気がする。
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Posted by ブクログ
ネタバレ衝撃の一冊だった。今までに読んだことがない本だった。プロットどうこうではなく、書き方やリズム感が今までに味わったことのない異質なもので面白く、難解だった。一度学校の授業で多和田葉子さんについては触れたことがあり、その時も日本語の「ふと」と「思わず」を使わずに、ドイツ文学はそれに値する表現をするというものだった。そして「ペルソナ」を読んで意味がわかった。付随する動作を書き出して「ふと」を表現している。また「ペルソナ」を読んだ時、翻訳された文庫本のカフカの「変身」を思い出した。日本人が日本語で書いたはずなのに翻訳後の日本語のようだった。内容も国際色が強いというか、差別意識についての内容だった。正直最後の解説が的確すぎてあんまりここに書くことは思いつかない。
「犬婿入り」も不思議な文章だった。文章がなかなか区切れない。「。」で終わりそうなところも「、」で繋げられて今までの経験からだとリズムを崩される。それなのに何故か少し心地良い気もする。内容もガッツリと寓意に富んでいて、考えながら読むのが面白い作品だった。個人的に感じたのは童話がテーマになっていることから、言葉の脆さを感じた。子どもたちは情報を曖昧に伝え、大人たちは都合の良いように解釈しようとする。物語としての言葉を繋ぐ際、言葉は次の話し手に自らを委ねることしかできない。言葉は社会を形づくり、価値を生み出す大変強力なものであるが、本質的には脆い。他の言語体系と触れれば尚更脆い。そんな風に感じた。そして兎に角、解説がかなり良い。すっきりとするからぜひ読んでほしい。
新しいかたちの日本語をこんなに浴びれるのは、多和田葉子に異国の経験があるからこそであるからなので、是非この本でドイツ語と日本語の間の溝にはまってみてほしい。 -
Posted by ブクログ
めちゃくちゃ面白かった。鋭い見解のオンパレード。全部面白くて感想をうまく書けそうにない。
「これまでも『移民文学』とか『クレオール文学』というような言葉はよく聞いたが、『エクソフォニー』はもっと広い意味で、母語の外に出た状態一般をさす。外国語で書くのは移民だけとは限らないし、彼らの言葉がクレオール語であるとは限らない。世界はもっと複雑になっている。」
そうなのだ。ここでわたしはグレゴリー・ケズナジャットのことを思った。あと今読んでいるルーマニア人が日本語で書いた本のことも。
確実にそういう書き手が増えている。多和田葉子さん自身もドイツ語で創作する人だし、この本のあとがきを書いているリービ英雄さんもそういう書き手の先駆者的存在なのだそうだけど、わたしは読んだことがない。
p10~11、のっけから引き込まれたなぁ。その通りだと思う。
外国語で創作するうえで難しいのは、言葉そのものよりも、偏見と戦うことだろう。外国語とのつきあいは、「上手」「下手」という基準で計るものだと思っている人がドイツにも日本にもたくさんいる。日本語で芸術表現している人間に対して、「日本語がとてもお上手ですね」などと言うのは、ゴッホに向かって「ひまわりの描き方がとてもお上手ですね」と言うようなものでとても変なのだが、まじめな顔をしてそういうことを言う人が結構いる。創作者が外国人だと、急に、「上手」「下手」という基準で見てしまうらしい。
日本人が外国語と接する時には特にその言語を自分にとってどういう意味を持つものにしていきたいのかを考えないで勉強していることが多いように思う。すると、上手い、下手だけが問題になってしまう。そうなってしまう歴史的背景もあるだろう。特に英語やフランス語など西洋の言語は、日本社会の内部での階級差別の道具として使われてきた。英語が下手だと入試に落ちて一流大学に行けないというだけのことではない。もっと漠然とした「階級意識」の演出に外国語が使われることが今でもある。
(略)
しかし、誰が上手で誰が下手かということが確実に言えるということは、それを決定する権威が自分たちではなく、どこか「外部の上の方」にあるということである。その権威は日本で抽象化された「西洋人」の偶像であり、その権威が、自分の言葉が「上手」かどうかを決めてくれる、という発想である。それは家元制度的な発想というよりは、むしろ植民地的な発想だと言えるだろう。なぜなら、家元制度では師匠は組織の内部の人間だし、抽象化された偶像ではなく一応血の通ったひとりの人間だからだ。抽象化された「西洋人」を権威機関として崇めるということは、具体的な西洋出身の個人を無視するということにもなる。実際に生きている生身の西洋人は、トルコ系ドイツ人、日系アメリカ人など色々な人たちから成り立っているが、そういう多様性があっては、「西洋」が差別の機械として機能しないので、生身の西洋人は無視し、自分の頭に思い描いている「西洋人」像を保持するというような状況が、ごく最近まで日本にあったような気がする。
以下はアパレル業界から転職してきた同僚のことが思い出された。景品orおみやげのことを「ノベルティ」とか言う彼女。
p72
カタカナで入ってくる言葉で一番多いのは、商品名と、それを飾り立てる形容詞で、中身の分からない外来物をありがたがる消費者の愚かさに付け込んで新製品を売るために外来語を入れているとしか思えない。「ズボン」など、せっかく長年疲れてきて、「ずぼら」や「すっぽん」と似た古風な響きが面白くなりかけてきた単語を、勝手に「パンツ」などと呼び変えてしまう。デパートの洋品売り場がそういう言葉を使うのは勝手だが、やがて小説の中でもそう書かないとおかしいということになってくる。デパートの方針になぜ小説家が従わなければならないのか。
p90
文字を書くということは、いつも耳から入ってきている言葉をなんとなく繋ぎ合わせて繰り返すことの逆で、言語の可能性とぎりぎりまで向かい合うということだ。(略)
だから自分がこれだと思うドイツ語のリズムを探して文章を作り、それを朗読するときには、いわゆる自然そうな日常ドイツ語からは離れる。(略)ドイツ語として聞いていて大変聞き取りやすいとはよく言われるが、それでもどこか「普通」ではない。それはまず何より、わたしという個体がこの多言語世界で吸収してきた音の集積である。ここでなまりや癖をなくそうとすることには意味がない。むしろ、現代では、複数の言語がお互いに変形を強いながら共存している場所であり、その共存と歪みそのものを無くそうとすることには意味がない。むしろ、なまりそのものの結果を追求していくことが文学創造にとって意味を持ちはじめるかもしれない。
p193
日本でドイツ語を勉強している人にも、ドイツ語で日記をつけることを勧めたい。文法、スペル、その他、いろいろ間違いを犯すかもしれないが、そういうことは取り敢えずあまり気にしないで、書きたいことをなるべく楽しんで書く。面白いのは、日本語では恥ずかしくて書かなかったかもしれないようなことを平気で書けることもあるということである。そうやって、毎日書いているうちに、綴られた文章の連なりが織物のようなもう一人の自分を生み出していくかもしれない、外国語を学ぶということは、新しい自分を作ること、未知の自分を発見することである。
読みたい本
野村進「脳を知りたい!」 -
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前作『地球にちりばめられて』では、Hiruko と同郷の人を見つけ出すというお話だったが、今回は、その見つかった人物 Susanoo の「治療」のために仲間たちが動きだす。
前作同様、登場人物たちがヨーロッパを移動しながら話が進んでいくので、Google Map や Wikipedia で、彼らが訪れる土地の説明を参照しながら読み進めるのも楽しい。
シリーズを通して、登場人物の視点が切り替わりながら語られる群像劇なので、ひとりひとりの内面や意外な関係性が徐々に見えてきて、深みに引き込まれる。一方で、ストーリーの方はご都合主義で安直に展開していく。そのギャップが面白い。そういう意味では、本作をそのまま映像化やマンガ化をしてもドタバタ劇で終わってしまいそう。小説ならではの面白さがある。
いよいよ船に乗って祖国を目指そうかというところで本巻は終わり。子供の頃に観た NHK の人形劇『プリンプリン物語』を思い出した。細部はよく覚えていないが、やはり主人公のプリンプリンのために、癖の強い仲間たちが祖国を探す旅をしてくれるのだった。続編『太陽諸島』も楽しみ。 -
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なにこれ、いいところで終わってる!? 最後まで読んでから『星に仄めかされて』、『太陽諸島』と続く三部作の1作目であることに気づいた。とりあえず最初に読んだのが1作目でよかった。このあと本屋に直行せねば!
日本の文化が世界に広まっていく。それ自体は良いことだが、裏を返せば日本の独自性が薄まっていくということでもある。その先には「日本の消失」があるのかもしれない。それがグローバル化ということなのだろうが、そこには動植物の絶滅を思うときのような妙な焦りや寂しさを感じることがある。本書は、そこのところの感情を突いてくる。
多和田氏の作品自体を初めて読んだのだが、ドイツ生活が長いそうで、読んでいて異文化にまつわる気づきも多かった。
例えば、ある文化が異国の文化を取り込む際に「どこから来たか」というのは案外どうでもいいのかもしれない、ということ。振り返れば、日本でも「どこか外国から来たやつだよね」程度のものは数知れず。我々が「日本がルーツ」として誇っているものも、他国ではそのぐらいの扱いなのかも。
あとは、同じ人でも話す言語によって思考パターン、行動パターンが変わってしまうらしいこと。本書では章ごとに語り手が入れ替わるのだが、主人公(?)の Hiruko 自身が語る章と、他者から「自作の言語を話す女性」として描かれる章とでは、印象が全く違う。現実にもありそうなことであり、興味深い。
なお、本書には印象派の画家であるモネやその作品に関するエピソードが随所に出てくる。日本の浮世絵がモネに影響を与えたことは有名だが、彼の絵の中にも日本的なものが取り込まれ、必然的に薄められている。そんなメッセージを感じた。期せずして、今年(2026年)は、モネを含むオルセー美術館の絵画が数多く来日する。絵の中にちりばめられた日本を探してみるのもよいかもしれない。 -
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国はもういい。とひらりと言える情勢ではないけれど、なくなってしまったとして、たしかに独自の食文化などだけは残るのだろう。浮世に浮き足立つような、ふっとこの国から本の中で抜け出してひとりぼっちになったような、不思議な感覚で淡々と旅ができてよかった。ちょうどモネ展に足を運んだばかりでタイミングが良かったなと思う。なにしろ絵がちゃんと思い浮かんでくれたから。セットでおすすめです。
“ジャパンとかなり大きな滴が水たまりに落ちて、三秒くらい間隔をおいてまたジャパンと落ちる音だ。“
そんな意図かわからないけれど、上の一節で、ジャパンって水の落ちる音なのかと、ドキドキして珍しく薄く、線をひいてしまった。 -
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日本から海外に出て、新たな風をもたらすというストーリーが歴史上の遣唐使的である、だけでなく、歴史上の遣唐使が持ち帰った仏教文化のモチーフが所々現れているのが面白いと思った。
まず献灯とは、仏像や仏塔、仏典などに灯明を捧げる仏教の儀式のこと。(今でもお仏壇にロウソク挙げる習慣ありますよね)また、ロウソクに火を灯すというイメージは、東日本大震災の追悼を思わせる。
また、主人公「無名(むめい)」は、仏教用語「無明」(目が見えないこと、仏教の真理に開けていないこと)と言い換えられそう。後は、「私が海の向こうへ行くといったら着いてくる?」と無名を導く謎の少女の名前は「睡蓮」。睡蓮って、「蓮華」と呼ばれて、仏様の台座になってるお花ですよね。
あと決定的なのは、献灯使の本部が四国の88箇所に散らばっているということ。四国で88箇所と言えば、弘法大師(空海)の霊場を巡る四国遍路のことやん!!
このように、ストーリーとタイトルに遣唐使っぽさを含んでるだけではなくて、実際の遣唐使が持ち込んだ文化のモチーフを登場させている工夫がすごい。
あと私が考察したのは、変な感じの使われ方について。「刃の叔母」(ハノーバー)、「ぶれ麺」(ブレーメン)、「露天風呂区」(ローテンブルク)「亜阿片」(アーヘン)など、ドイツ在住の多和田さんはドイツの地名にヤンキーみたいな当て字をしている笑
それだけじゃなくて、オフラインを「御婦裸淫」、クリーニングを「栗人具」など、変な当て字がいっぱい。漢字って、1文字1文字にしっかりと意味が込められているのに、その意味をフル無視してただの当て字として使うのって、かなり贅沢な使い方というか、漢字に対する侮辱のようにも思われる笑
それに、無名の友達の名前もなんか変。賀露(かろ)ちゃん、窯(かま)ちゃんなど、「この漢字にはこういう意味があるから、こういう子に育ってほしいな」という今の名付けとは様子が違う。
なぜこんなことになるのか?可能性 3つ。
①私のように漢字は意味が込められて使われていると思いこみ、「刃のようなパン、ドイツ」「露天風呂で食べるパン」などと検索する読者をからかうため(漢字に対する固定観念を取り払い、漢字は自由に使えるんだよと示すため)
②外来語禁止、言語は輸出入される商品という世界線に即した理解。
そもそも、漢字って中国から来た外来語では?
外来語が禁止されて、言語が商品になった世界。「他言語を使わない」を徹底していくと、漢字って使えなくなるんじゃないか…?1文字1文字が意味を持っている漢字、その意味に即して言葉を理解するという漢字の使い方が中国から来たものだとしたら、それも外来語として否定される。その結果、ひらがなのひらがなというか、単にひらがなの音の当て字として漢字を使うようになったんじゃないだろうか?
実際に「診断」は「死んだ」と響きが似てるから使われなくなった、など、この世界の住人はどうも読み言葉よりも聞いた言葉の方を重視しているようである。
③ロシア文学をやり、現在はドイツに住んでいる作者が、他言語圏から日本語を俯瞰している。
海外の人の変な漢字Tシャツを思い出してほしい。彼らにとって漢字が持つ意味はあまり関係ない。海外の人が漢字を使うとこういう使い方になりますよ、ということかもしれない。