多和田葉子のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
ネタバレ◆『犬婿入り』から多和田作品2冊目。
◆今回もディスコミュニケーション・意思疎通の欠如を強く感じる。主人公はいつも、「私」を含まない共同体や共通言語を妬み・軽蔑し、地団駄踏んで苦しみの声をあげる。ソフィストケートされることを拒み、言葉を解体し、言葉以前のものに戻ろうとし、あるいは過剰に連ね、駄々をこねる。◆それはまるで赤ん坊の泣き声(言葉への・世界へのラブコール)のよう。かつての子であり女であり母である私は、それを不快と思うこともできず、愛し子たる彼女を、目で耳で鼻で皮膚で子宮で全身で抱きしめたくなってしまう。
◆「翻訳」をテーマにした「文字移植」は、いつになく具体的で作者の核を見たようで興味 -
Posted by ブクログ
「雪の練習生」という日本語で書いた自著をドイツ語に翻訳するまでの間に、言葉について起こったことや考えたことを中心として綴られている日記。
多和田さんの小説はいくつか読んだけれど、なんてすごい言葉を持っている人なんだと、どの作品を読んでも思う。鋭いけれど、刃物の鋭さではなく紙の鋭さのような、温かみのある鋭さ。
いろいろな国に行って朗読イベントや自著の解説をする講習会や討論を行っている(よばれている)んだけど、そのなかでメガポリスを描く文体を模索しなければならないという話題が出てきたというくだり。とある海外の作家がメガポリスの例として東京を上げたことに多和田さんは驚く。あの「トーキョー村」かと。ヨ -
Posted by ブクログ
この作品は修道院を舞台としており、個性的な尼僧たちが共同生活を営んでいる。主人公は取材にやってきた日本人作家である。しかし小説には一つ見落とせない空白がある。キューピッドの矢にハートを射られ駆け落ちしてしまったと噂される元尼僧院長である。
第一部は主人公が小説を書けるようになる小説である。最後の方で主人公は、まだ自身が想像もしていない、後に書かれるであろう未来の作品(虚構)を先取りしているかのような(?)老女のおかげで、目の前の壁が幕に変わり舞台(虚構)が現れる体験をする。作品を書けるようになったということだ。
第二部は、第一部で不在の中心としてあった尼僧院長が、主人公が書いた第一部の英訳を読 -
Posted by ブクログ
「90年代を代表する文学はどんな文学かと聞かれたら、わたしは、作者が母国語以外の言語で書いた作品、と答えるのではないかと思う」
と言い切る多和田葉子氏の著作で、解説は英語を母語としながら日本語で捜索活動を続けるリービ英雄氏。
『エクソフォニー』という表題は耳慣れないが、副題は「母語の外へ出る旅」。
そうなれば本書のテーマは明らかだろう。
要するに「母語を相対的にとらえる」ということになるのではないか。
我々は当たり前のことだけれど母語に依拠して生きている。
それはつまり、母語の世界観を前提にした考え方やものの見方しかしていないということだ。
筆者の多和田氏はそうした我々の「思い込み」を突き -
Posted by ブクログ
文字の羅列が意味を成し、眺めるともなくそれを見ていると、不意に情景が立ち上がる。すると集中力が増してくる。集中力は、集中力を呼び、やがて文字の羅列は、文章であるのだと理解する。読み耽るといった表現がそのまま当てはまるのは、こういうことだな、と確信を持つ。客観的に僕自身を眺める感覚。それがつまり、僕の読書だ。思う存分愉しめた。
言葉の意味を転がるような視線で追いかける。とても興味深い物語だった。ときに世の「哲理」を示唆するかの描写、物語の中とはいえ、はっとした。
核心に触れたかどうかは、わからない。絶えずザクザクとした手触りを感じていて、どこか不穏な気配をも感じつつ。それは言葉か。状況か。物語の -
Posted by ブクログ
ネタバレ言語も国籍も性別も混ぜこぜで海をゆく一行の旅の終わり。
…かと思いきや、次(?)は西から行く!ということで旅は続く。完結しなかったけれど好きな終わりです。
シベリア鉄道だと端まで行き着いてしまう、でも船なら先延ばしできる…という感覚に切なくなりました。
日本がどうなったかは仮説が語られてました。これも強烈。
死者と生者も入り乱れてくるのが面白かったです。
不勉強で誰だかわかりませんでしたが、文学史的に重要な方々なのか…
海進んでるときはいいけど、確かにどこかへ上陸しようとしたらビザ要る、と思いました。
難民って、渡航ビザどうやって取るんだろう…ググったら「難民旅行申請書」というのが日本に