多和田葉子のレビュー一覧
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ネタバレ2編収録。
・ペルソナ
ドイツに姉弟で同居する道子。二人はそれぞれ留学中の身である。ドイツ中世文学をやる弟、道子はドイツ現代文学を研究中だが、成果なく、奨学金を得られなくなり細々したバイトに明け暮れている。
自分に向けられる差別、自分以外の外国人に向けられる差別、日本人の奥さんたちと弟が持つ差別感情。道子は常にそれらを感じながら生きている。
作者の体験から出てきた作品なのだろう。肌感覚の嫌な感じがうまく文章から伝わりゾクゾクする。
・犬婿入り
面白すぎる。だが笑って済まされるものではない不穏な物語だ。民話にありがちなエロさ、不潔さ、理不尽さをきちんと備えた、しかしちゃんと現代の話である。なんのメタファーか寓意かわかりそうでわからない。作者の只者ではない力量に感服するほかない。 -
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小説だと思って読みはじめたからか最初は読みにくかった。
小説ということだけど、小説というより多和田さんが散歩をしていて、考えていることをつらつら垂れ流しにしているエッセイという感じで、一緒にベルリンの街を、時空を、思考の中をふらふら歩いている気分になる。
特に最初の方は、言葉遊びが樋口一葉と雰囲気が似ていて川上未映子が好きそうな感じだなと思った。
「別宮、別宮浮かん、別空間」、「おつまず、つままず、つつましく、きつねにつままれ、つまらなくなるまで」
★「シーン」があるのは映画の中だけのことで、現実にはシーンなんてない。切り取ることのできない連続性の中を突っ走っていくだけだ。
★出逢ったかもしれない人たち、親友になったかもしれない人たちで町はいっぱいだ。そのせいか、どんなに気の合う昔からの親友でも、同じくらい気の合う人間は町にたくさんいるのだけれど偶然知り合う機会がなかっただけではないかという疑いが払いきれない。
★家に帰って待っていれば確実に会えるのだが、家ではなく、わたしが辿り着いた遠い場所まで、あの人の方から歩み寄ってほしいのだ。
★「四時に行くわ、とマリアは言った。八時、九時、十時」 -
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日本語とドイツ語で創作する作家の母語をはなれることと、そこから何かを生み出すことに関するエッセイ集。
エクソフォニーとは、母語を離れた状態を表す言葉のようだが、フォニーというところに、音楽的なニュアンスがあって、シンフォニーとか、ポリフォニーといった調和感ではないのだけど、一種の緊張感と解放性のある言葉なのかな〜。
私たちの概念やストーリーがまさに言葉でできていることを日常的なレベル、そして文学作品を作る現場から、すらっと教えてくれる。
そして、言語の音とか、綴りなどがもつ、呪術性というか、身体性も改めて、伝えてくる。自分の知らない意味の分からない外国語から、何らかの作品を作ってみるワークショップの様子とか、ほんと面白い。
水村美苗さんの「日本語が滅びるとき」を思い出させてくれて、自分は、こういう話しが好きなんだなとつくづく思った感じ。
あと、なんかそれだけでないなんか共感できるフィーリングもあるのだけど、もしかするとほぼ同年代だからかな〜。著者は、82年にドイツに移住しているので、そこまで同じ時代の感性を共有しているというわけでもないのだろうけど、なんともいえない同時代感を持った。 -
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世界各地の地名をタイトルに、その土地にちなんだエッセイをまとめた第一部と、ドイツ語という言語にフォーカスしたエッセイをまとめた第二部からなりますが、個人的には多和田さんご自身の着眼点の面白さがより詰まった第二部が面白かったです。
冒頭からずっと読んでいて、色々な単語に対する好き嫌いの記述が本書中に何度も出てくるので「やっぱり言葉に対する感性が鋭いんだな」ぐらいに思っていましたが、第二部の以下の部分を読んではっとさせられました。
ちょっと長いですが、多和田さんの文章に対する哲学が垣間見えるとても印象的な一節なので引用させていただきます。
『(前略)ところで、わたしは単語の好き嫌いばかり言っているようだが、好き嫌いをするのは言葉を習う上で大切なことだと思う。嫌いな言葉は使わない方がいい。学校給食ではないのだから、「好き嫌いしないで全部食べましょう」をモットーにしていては言語感覚が鈍ってしまう。一つの単語が嫌いな場合は、自分でもすぐには説明できなくても必ず何らかの理由があり、その理由は、個人の記憶や美学と結びついている。だから、思い切りわがままな好き嫌いをしながら、なぜ嫌いなのかを人に言葉で伝える努力をしたい。』 -
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ベルリンに住む「わたし」は「あの人」に会うため町を歩く。勝手に名付けた人びとが語らう黒い喫茶店、ガラス越しにミシンを踏む人の姿が見える帽子屋、子どもの幽霊がお菓子をねだる自然食料品店。待ち合わせを永遠に引き延ばすかのようにさまよう「わたし」の歩みはベルリンの町に折り重なる何層もの歴史の記憶に分け入り、だんだんと浸食されてゆく。
ざっくり言ってしまえば、散歩中の意識の流れを追っただけ、とも言える小説。だが、散歩の合間に目に入ってくる景色と、それにまつわる知識や個人的な思い出、あるいは全然関係ない心配事などが同時多発的に頭のなかをかけめぐる、あの感覚そのものを言語化したような語り口が本当に素晴らしい。
とにかく一文一文のコストが高くて、ふんだんに盛り込まれたマルチリンガルな言葉遊びや、町の通りに名前を付けられた偉人たちとベルリンにまつわるトリビア、移民として暮らす「わたし」の実感などを読むだけで満足感がある。たとえば「果物の話は必ず政治の話につながっていく」という一文を私は心に刻んだ。散歩や普段の会話のなかに、見て見ぬふりをして考えないようにしている事柄が多いことに気付かされる。
実はグーグルマップと対照して読むことができるくらい本当のベルリンに即して書かれてもいるらしい(2017年当時)。大きな観光地はオペラ座くらいしかでてこないけれど、読んでいると「わたし」がたびたび入ってしまう味もサービスもよくない個人経営のカフェや、インスタレーションのようなガラス張りの帽子屋をのぞいてみたくなる。なにより〈歩く〉という行為をこんなに豊かに感じられるようになるまで、いろんな町に行ってあらゆることを学びたくなる。
町の記憶に語りかけ、幽霊たちと共に「わたし」が歩んでいった先に「あの人」が待つことは遂にない。どこに行けば会えるのかはっきりわかっている人と思わぬ場所で再会したい、という願いは叶わぬまま、「わたし」はベルリンという大きな「家」をでて語りから解き放たれてゆく。取り返しのつかない寂寥感と同時に、「春のような」解放感が体を包むラストの一文。物語の行く末を知るためではなく、ただただ〈読む〉ことの快楽をひさしぶりに思い出させてくれた小説だった。 -
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多和田葉子(1960年~)氏は、早大文学部ロシア語学科卒業後、ドイツ・ハンブルクの書籍取次会社に入社し、ハンブルク大学大学院修士課程を修了。1982~2006年ハンブルク、2006年~ベルリン在住。1987年にドイツで2ヶ国語の詩集を出版してデビュー。チューリッヒ大学大学院博士課程(ドイツ文学)修了。ドイツ語でも20冊以上の著作を出版し、それらはフランス語、英語、イタリア語、スペイン語、ロシア語、スウェーデン語、中国語、韓国語などにも翻訳されている、本格的なバイリンガル作家。1993年に芥川賞、2016年にはドイツの有力な文学賞クライスト賞を受賞。今や日本人で最もノーベル文学賞に近い作家との声もある。
本書は、著者が2005年春から2006年暮れまでに訪れた、主に欧州・北米の48の街について、日経新聞の土曜版に2006年1~12月に連載したエッセイをまとめ、2007年に出版(現在は絶版)、2021年に文庫化されたものである。
登場する街は、大半が、著者が作品の朗読会などの仕事で訪れた街であり、フランクフルト、ベルリン、チューリッヒ、パリ、ニューヨークなどの一部の主要都市は含まれるものの、(少なくとも日本人にとって)観光地として認識されている街は少ない。私は、1990年代にチューリッヒとフランクフルトに駐在し、本書に取り上げられた街の20ほどを訪れたことがあるが、初めて名前を聞いた街もいくつかある。
また、内容的にも、旅好きの作家らが書く旅行エッセイとは少々趣を異にし、「わたしの旅は言葉の旅でもある」と語り、言葉と文学に類稀な感性を持ち、『エクソフォニー~母語の外へ出る旅』のような硬質なエッセイ集も書く著者ならではのフレーバーを持ちつつも、(一般紙である日経新聞の読者を意識してか)硬くなり過ぎず、読み易いものになっている。
因みに著者は、文庫版のあとがきで、次のように書いている。「旅人としてのわたしの体験はマッチを擦った瞬間にその光でまわりが見えるようなもので、炎は数秒で消えて、あたりはまた暗闇に戻ってしまう。世界はなかなか見えにくい。旅をすることで見える範囲など限られている。・・・記憶の断片が光り、これまで見えなかったものが一瞬見え、それがステレオタイプになって凝固する前に消えていく。旅のエッセイはそれでいいのではないかと思う。」
多和田氏ならではの記憶の断片を読みながら、「旅」というか、知らない街、知らない文化、知らない人々との出会いはやはりいいなと思わせられるエッセイ集である。
(2021年8月了) -
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140ページに、「速く読み過ぎてはいけない」とあります。
ケータイでスクロールしながらヤフーニュースを流し読みしているうちに、本を読むときも加速しすぎて、意味を捉えることができないことが多くなりました。目が先に行っちゃう、って感じ。
は?
「書くという作業は、作者とは別のからだである言語という他者との付き合いなのだ」
「いろいろな人がいるからいろいろな声があるのではなく、一人一人の中にいろいろな声があるのである」
204ページに、何とhard-fiのイメージがあって驚く。私のポケットにも穴が開いてるから。
最後の「感じる意味」は何度でも戻っていきたい。感じたことを無視しちゃいけない。感じてもいないことに時間を費やすな。 -
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多和田葉子さんは
1993年に芥川賞を受賞した著名な作家なのだが
私は恥ずかしいことに
多和田さんの存在を
「2018年の全米図書賞翻訳部門を受賞」
のニュースをネットで見て初めて知ったのだった。
多和田さんは早稲田大学でロシア語を学び
ロシア(当時ソ連)ではなく
ドイツ(当時西ドイツ)に留学。
以来30年以上ずっとドイツに住み
日本語とドイツ語で作品を創り続けている。
Exophonyとは
「母語以外の言語で文学を書く」という意味。
サブタイトルのように
多和田さんは朗読会や講演などを行うために
世界各地を旅しているわけだが
その度に母語と非母語について
考え
感じ
新たな捉え方に挑戦し続けている。
一文学者の紀行文として楽しみながら
目からウロコのような「多和田式」捉え方に
刺激を受けることができる一冊だ。
多和田さんを
ノーベル文学賞に最も近い日本文学者と
言う人もいるが
彼女の活動を辿れば納得がいく。 -
Posted by ブクログ
単なる「ドイツに住んでいる小説家の日記」ではない。
言葉と歩いている多和田葉子さんの日記、なのである。
多和田さんは小説を
日本語で書き、ドイツ語で書く。
日本語作品をドイツ語に翻訳もする。
自作品を日本語、ドイツ語、英語で朗読し
さまざまな言語に翻訳された自作品を聞くために
世界各地を旅している。
そんな人生があるとは。。。
まさに理想的な人生である。
それができる才能が実に羨ましい。
あまりに面白いので
私が勤める日本語学校の先生たちに
熱烈推薦してしまった。
何が面白いか、その面白さを説明すると
多分すごくつまらなくなるので書かないが
言葉に興味ある人はとにかく読んでみてほしい。
この本の中で多和田さんが読んでいた本も
読んでみようと思う。
「日本人の脳に主語はいらない」
「英語で日本語を考える」などなど。 -
Posted by ブクログ
遅読の私なのだが実にすいすい読み進めた。
二冊目にして「多和田葉子流」に慣れたのは
思考の形がどこか似ているのかしら?なんて
多和田女史の研ぎ澄まされた言語感覚と
深い洞察力を前にして とても言えない。
1993年芥川賞受賞の「犬婿入り」。
エロチックな有機物のにおいに満ちているが
妙に乾いた空気感。
「異質な存在」も人々の「言葉」次第では
そうでないものになり
何者なのか 何物なのか
わからないまま時は過ぎていく。
「ペルソナ」には「ドイツで生きる私」が
ちょっと痛々しく描かれている。
ある韓国人に対するドイツ人の反応をきっかけに
「東アジア人」の自分がよくわからなくなっていく。
能面をかぶったまま街を歩き
日本人を体現しようとしたものの
誰も日本人だと思ってくれない。
ペルソナ=外的側面のせいで
何者でもなくなってしまうという恐怖。
私は海外に住んだことがないくせに
何度も行っているから知った気になっている
情けない人間だが
異国において自分が誰かよくわからなくなる感じは
なんとなくわかる。
以前 ミュンヘンで
商店街のウィンドウを眺めながら歩いていた時
妙にくすんだ女性の像が突然目に飛び込み
ぎょっとした。
平たく表情のない顔。凹凸の少ない身体つき。
それは鏡に映った私の姿だった。
一瞬 時間が止まるというか 血流が止まるというか
身体が地面から浮いてしまったような
気がしたことを覚えている。
20世紀末 多和田女史は異国にあって
アイデンティティを喪失した共同体は
やがて断片の集まりでしかなくなる
という不安を感じたのではないだろうか。
21世紀に入って20年。
その不安が現実となった世界に私たちは暮らしている。