多和田葉子のレビュー一覧
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外国留学中に祖国が消滅してしまい、外国で独自の言語を作って生きている女性を巡るお話
以下、公式のあらすじ
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留学中に故郷の島国が消滅してしまった女性Hirukoは、大陸で生き抜くため、独自の言語〈パンスカ〉をつくり出した。Hirukoはテレビ番組に出演したことがきっかけで、言語学を研究する青年クヌートと出会う。彼女はクヌートと共に、この世界のどこかにいるはずの、自分と同じ母語を話す者を捜す旅に出る――。誰もが移民になり得る時代、言語を手がかりに人と出会い、言葉のきらめきを発見していく彼女たちの越境譚。
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Posted by ブクログ
酉島伝法さんの作品を読んでいて「山尾悠子っぽいなあ」と思い、[酉島伝法 山尾悠子]で検索したら酉島氏のインタビュー記事がヒットし、みるとやっぱり影響を受けているようで、そこで山尾氏と同時に挙げていた作家さんが多和田葉子さんでした。多和田氏の作品の中から本作を選んだ理由は、表紙にホッキョクグマが描かれていたから。読んでみたらマジでずっとホッキョクグマの話だったから、とてもよかった。高校2年生の秋に北大銀杏並木のライトアップを見に行ったとき、路上ライブしていた北大生水産学生がホッキョクグマについて熱く語っていて、その時のことを思い出しながら読んだ。本作に出てくるクマたちは皆どこか、あの水産学生の女
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Posted by ブクログ
夫についてドイツに来たのに、夫が帰国した後も1人で住み続けている主人公。
隣の住むMさんは、東プロセイン出身のおじいさんで、彼と戦争の話をするようになり、国や民族について考えるようになる。
一緒に行くようになった太極拳の一つの技が「白鶴亮翅」。
太極拳を通じて、様々な国の人達と交流するようになる。
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大きな事件が起きるわけでは無く、エッセイのように日々の生活が淡々と描かれていて、読んでいくうちに引き込まれてしまう本。
隣人のMさんとの戦争の話は、東ヨーロッパの人たち、特に出身がポーランドやロシアでドイツに住む人たちの苦労や、東プロセインについて知ることができた。
出 -
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日本語とドイツ語で小説を書き、英語やロシア語も出来る多和田葉子さんが、
日本語で書いた小説をドイツ語に翻訳する期間、言葉について考え書かれた日記。
世界中を旅して朗読活動をされているので、
様々な国の色々な言語を使う作家や詩人や学者の方々との交流も興味深く、
知的だと思うけど難解な感じはなく読みやすかったです。
ヨーロッパでは多言語を話される方も多いけど、
上海の喫茶店で周りの人たちがそれぞれ
中国語、日本語、韓国語、英語で話していて、
ある若い学生の集団は次々と言語を変えて話していたことを思うと、
アジアもアジアで多言語が交錯する場所ですよね。 -
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謎の男・鶯谷が頻繁に出入りする家で両親と共に暮らす少女の目を通して、猥雑で不可解な世界を生き延びていく少女小説。
既読の二作(『百年の散歩』と『献灯使』)に比べ、フェミニズム的なテーマがわかりやすく示された作品。「獣姦」とか「精液」とかいう単語がでてくるのに語り手の年齢が九歳と言われてびっくりするのだが、その精神性はほとんど変わらないままいつのまにか十八歳まで時が飛んでいる。幼児からとっとと少女になることを求められ、”成人”になることは求められないという社会的な性役割を表しているかのよう。女は聖人になれないのか、「聖人の母」にしかなれないのか、という問いはそこにもかかっていたりするのかな。 -
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多和田さんにはずいぶん昔に『犬婿入り』を読み異世界を覗かせてもらった。それから2、3回手にしてきたが途中で撃沈し続けている。でも何故かシンパシーを感じる作家さんなので、傷が癒えた頃に(笑)読みたくなる。努力の甲斐があって今回は見事に当たった!
夫の留学先に付いていった主人公・美砂が顔立ちまで変わり人気者になり引っ張りだことなるのに比し、旦那の精彩が日毎に欠けていくのが面白い。
夫は日本へ帰国し(離婚?)たが、ミサはベルリンで一人暮らしを始めた。隣人Mさんに誘われて太極拳学校へ通い、右腕を力強く上げる技「白鶴亮翅」を習う。「白鶴亮翅」とは、太極拳の技法の一つで、白鶴が翼をパッと広げる様子に似てい -
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最近ふとしたことからドイツ語に興味を持ち、特に「名詞に性がある」というドイツ語の特徴になんとなく気になるものを感じていました。とりわけ「ややこしそうな文法ルール」として。
そんな中、個人的に惹きつけられた本書の一場面が、ドイツ語文法に怒りを込めて文句を言うアメリカ人と思われる女性に対し、主人公の「わたし」が
『「性を失った英語の方がよっぽどステューピッドでしょ」と言い返してやりたくなった。』
と心の中で反発する場面でした。
真実がどうかはさておき、「言葉というものには元々性があって、英語はその性を失ってしまった言語なのだ」というものの見方は、自分の中に新しい視点を与えてくれたように思います