ウニの男女が体を触れ合わずに生殖する感じ、コミュ障みたいで可愛い好き
今西 錦司
(いまにし きんじ、1902年(明治35年)1月6日[1] - 1992年(平成4年)6月15日[1])は、日本の生態学者、文化人類学者、登山家。京都大学名誉教授、岐阜大学名誉教授。位階は従三位。日本の霊長類研究の創始者として知られる。理学博士(京都帝国大学・1939年)。京都府出身[1]。今西の活動は登山家、探検隊としてのものと、生態学者としてのものがあり、彼の中では両者が不可分に結びついている[2]。探検家としては国内で多くの初登頂をなし、京都大学白頭山遠征隊の隊長などを務めた。生態学者としては初期のものと...続きを読む しては日本アルプスにおける森林帯の垂直分布、渓流の水生昆虫の生態の研究が有名である。後者は住み分け理論の直接の基礎となった。第二次大戦後は、京都大学理学部と人文科学研究所でニホンザル、チンパンジーなどの研究を進め、日本の霊長類学の礎を築いた。墓所は上品蓮台寺。生家は京都市内の西陣織の老舗織元。
「 このように相異ということばかりを見て行けば、世界中のものはついにみな、異なったものばかりということになるが、それにもかかわらずこの世界には、それに似たものがどこにも見当らない、すなわちそれ一つだけが全然他とは切り離された、特異な存在であるというようなものが、けっして存在していないということは、たいへん愉快なことでなかろうか。もしも世界を成り立たせているものが、どれもこれも似ても似つかぬ特異なものばかりであったならば、世界は構造を持たなかったかも知れぬ。あるいは構造はあってもわれわれの理解し得ないものであったかも知れない。それよりもそんなにすべてのものが異なっていたら、もはや異なるという意味さえなくなってしまっただろう。異なるということは似ているということがあってはじめてその意味を持つものと考えられるからである。似ているものがあってこそ異なるものが区別されるのであり、似ている処があってこそ異なる処が明らかにされるのである。」
—『生物の世界 (講談社文庫)』今西錦司著
「私は哲学者でもないくせに、認識論に立ち入るつもりはないのだから、われわれがものを認めるというこの子供にでも可能なことに対して、ここで私が認識という言葉を使ったからといって、深く咎めないでほしいのである。何故それなら知覚というような言葉を用いずにあえて認識という言葉を用いるのかといえば、それは私の気持の問題である。世界観はいかに素朴であっても、それは認識という言葉をもって一貫されるべきものと考えるからである。そして私のここで意味するような素朴な認識というのがかくのごとく、ものとものとを比較し、その上で判断するというような過程を踏まなくても、いわば直観的にものをその関係において把握するということであるとすれば、ものが互いに似ているとか異なっているとかいうことのわかるのは、われわれの認識そのものに本来備わった一種の先験的な性質である、といいたいのである。そして、それというのもこの世界を成り立たせているいろいろなものが、もとは一つのものから分化発展したものであるというところに、深い根底があるのであって、それはすなわちこのわれわれさえが、けっして今日のわれわれとして突発したものでもなく、また他の世界からやって来た、その意味でこの世界とは異質な存在でもなくて、われわれ自身もまた身をもってこの世界の分化発展を経験してきたものであればこそ、こうした性質がいつの間にかわれわれにまで備わるようになった。世界を成り立たせているいろいろなものが、われわれにとって異質なものでないというばかりでなくて、それらのものの生成とともに、われわれもまた生成していった。そう考えればそれらのものの間に備わったもともとからの関係を、われわれが何の造作もなく認識し得るということは、むしろわれわれ自身に備わった遺伝的な素質であり、難しいことをいいたくなければ、われわれに備わった一つの本能であるといっても、間違ってはいないであろうと思う。」
—『生物の世界 (講談社文庫)』今西錦司著
「それゆえ本書で私が、生物の社会だとか生物の恋愛だとかいう表現を用いるのはもとより、ときにはこれこそ人間の専売特許と思われてきた芸術というような言葉をさえ、平気で借用してきたからといって、人間はそのために何もうろたえたり落胆したりすることはないのである。またそういう解釈が成立するということによって、何も生物を人間の立場にまで高めることにもならなければ、人間を生物の立場にまで引き下げることにもならないと思う。社会といってみたところで、人間と動物と植物とが異なるように、人間の社会と動物の社会と植物の社会とでは、それぞれに異なるところがあるべきなのは当然である。しかし人間も動物も植物も生物であるという点では、お互いに類縁関係のつづいた相似たものなのであるから、かれらが根本的には相似た性質をいくら持っていたからとて、それは少しも不当でないばかりでなく、むしろこうした相似た性質の存在を認め、それをわれわれの言葉によって、われわれに理解されるように適切に表現する、ということがすなわちわれわれのそれらの生物に対する認識の表現であり、このように生物を生物の立場において正しく認めるということがまた、われわれをわれわれの立場において正しく認めることにもなるのである。生物学の任務はかならずしもわれわれの生活資源という問題にばかり結びついているのではない。われわれ人間もまたこの世界構成の一環として、生物的類縁をもち、われわれの現わすさまざまな行動習性も、われわれの生物的地盤の中に深く根ざしたものであることを明らかにすることによって、われわれがわれわれの本質について深く反省する資料を与えるものでなければならない。私が本書のイントロダクションに相似と相異という論題を持ち出してきた意図も、これで大体おわかりくださったであろうと思う。」
—『生物の世界 (講談社文庫)』今西錦司著
「生物学者にきかなくても、実際われわれの常識は生物と無生物とを取り違えたりするようなことはほとんどない。それは生物の形を持ったもののみが、この世界における生物であるからだということになる。しかしこの世界に形を有するということは生物に限った特徴ではない。無生物だってやはり形を有するからである。しからば無生物の形に対して生物の形にはなんらかそれ自体としての特徴があるであろうか。個々の生物を見れば、なるほど犬は犬の形をし、蜂は蜂の形をしている。しかし犬の形からも蜂の形からもわれわれは一般的生物の形を予想することができない。第一動物といわれるものの中だけでもその形は千差万別であるのに、一般生物といえばその中に動植物のすべてを含むこととなるのである。犬と松の木とアミーバを並べてみよ、誰かよくそれらから一般生物の形を帰納し得るであろうか。しからば一体われわれが生物と無生物とはその形を見ればただちに区別できるといったことに誤りがあるであろうか。いや確かにわれわれは生物と無生物とがその形で区別できると思う。生物と無生物とがそのようにして区別されるというのは、実はわれわれに生来備わったわれわれの認識のしからしめるところであり、それがすなわちわれわれの認識の性格であることを私は前節において説いておいたのである。だからわれわれが個々の生物をその形において無生物と見誤ることがないにもかかわらず、一般生物をその形において無生物から区別し得る準拠が求め得られないとするならば、それは結局われわれの認識というものが、犬とはかくかくの形態的特徴を具えたものであり、松の木とはまたかくかくの形態的特徴を具えたものであるといった、生物学的特徴に一々照らし合せた上で、それらを犬なり松の木なりとして認めてきたのではなかったからであり、それゆえいま開き直って生物と無生物との形の上における区別如何などと問われたら、われわれはまごついてしまうけれども、それだからといってわれわれに生物と無生物との形の上における見境いがついていないということにはならないと思う。しかし確かに生物は生物で無生物に見られぬ形を持っているのだから、見かけの形がまちまちで、一と口にその区別をいい現わすことができぬというのなら、それはそれで少しも差支えのない、正直なところである。ただわれわれが学問する立場からいえば、この生物と無生物との相異という問題も、これを見かけの形の相異ということにばかり捉われてしまう必要はないのであって、それでうまく行かなければさらにその相異のよって起る本質にまで立入って考えてみなければならないのである。」
—『生物の世界 (講談社文庫)』今西錦司著
「たしかに生物とは一面で死物に対するものであり、生きているということは死んでいるということに対するものであるに相違ない。しかし生きているというのはどんなことであるのか。魚が生きているといえば一般には魚が泳いだり、餌をとったりすることを考えるであろう。死んだ魚はもはや泳いだり、餌をとったりすることがないからである。けれども死んだ魚でも魚であり、そこに魚の身体が認められるところから、生きているということは元来はこうした死物としての身体に、何ものかが宿り、何ものかが働いて、はじめてこれを生かしているのだとする考えが、実に久しい間われわれを支配していたのであって、その何ものかが生命と呼ばれようと、あるいは精霊と呼ばれようと、それは要するに大した問題ではなかったのである。私はここでこんな愚かしい二元論に今さら深く立ち入る必要を認めないが、こうした考え方においても、生きているということと生命があるということとが同意義に解されているという点だけをとって考えるならば、それはかならずしも二元論ということにはならないと思う。ただ生命をさえ、これを一種のものとしてでなくてはその存在を考えることができなかったというところに、二元論の幼稚さもまたその誤謬もあったのであって、これからひいては肉体は仮りの物、あるいは肉体は滅びるが霊魂は不滅であるなどといったような考えも、導き出されるようになったものであろう。」
—『生物の世界 (講談社文庫)』今西錦司著
「 それゆえ生物的に構造的機能的な生物とは、いつでもかかる有機的統合体としての身体を持ち、その有機的統合作用としての生命を持ったものであるとするならば、生物の身体をはなれた処に生物の生命があるのでもなければ、生物の生命をはなれた処に生物の身体があるわけでもない、身体即生命、生命即身体というのがすなわち具体的な生きた生物なのである。細胞だって生きているという意味で細胞に細胞的生命を考えて悪いわけではなく、また生物も生体の一種であるという点で、生体的生命という中に生物的生命も細胞的生命も包含させてしまうということに理論的な誤りがあるわけでもないが、ただ生物的生命といえばそれが生物的身体をはなれては考えられないところに、どこまでも構造機能の相即という生体存立の根本原則が反映しているのである。」
—『生物の世界 (講談社文庫)』今西錦司著
「生物的生命とはこのようにして生物の属性であるというのが私の生命観である。だから生きた生物、生命のある生物以外に生物などというものはもともと存在しようはずがないのである。しかるに生物とか生体とかいう字が現わしているごとく、生物とはまずものとしての存在であり、まず身体的な形態的な存在であると考えられやすいために、生命というものがつい置き忘れられてしまって、あとからそれをくっつけるのに苦労しなければならなくなるのであるが、それというのもこの世界がわれわれにまずものの世界として認識されるというのが、われわれの認識に本来備わった一つの性格的特徴であると解するならば、別段怪しむにも足らないことであったのである。生物という言葉がいつ頃つくられたものであるかは私などがよく知るところではないが、かならずしも翻訳でないと思われる理由は、これにぴったりと適合するような外国語のないことであって、クリエーチュアという言葉はあるが、それは造物主としての神様と結びつけてでなくては考えられない。科学的用語としてはむしろ一般に膾炙されているオーガニズムという言葉が考えられるかも知れない。しかしオーガニズムという言葉はもちろん生物をも意味するものではあっても、それは先にものべたようにもっと広く生体とか有機体とかいう総括的な意味を有し、無機化学に対する有機化学がオーガニック・ケミストリーなのであるから、私の考えるところでは、動物とか植物とかいう言葉が翻訳としてではなくして、仮りに以前からこの国に存在していたとするならば、これらに対してこれらの両者を包含したものとしての生物という言葉は、たとえこれに匹敵する言葉が外国にあってもなくても、当然生れるべくして生れたものであったのだろうと思われる。そしてそういう意味を持ってつくられた生物という言葉であるならば、それがアミーバには適用されても、生物体を構成する個々の細胞には適用されないというわけは、おのずから明らかなのでなかろうか。」
「われわれはまたこの世界から空間を消去してしまったような世界、時間だけの世界というものを考えることができるであろうか。時間を消去した世界ならまだしも想像することはできても、この恐らく構造のない時間だけの世界が私には想像もつかないというのは、われわれが世界を、やはりものの世界、形のある世界として認識するように習慣づけられて来たためであろう。もちろんそのような世界もまたわれわれが現にすむところの世界ではない。われわれにとって唯一なわれわれの世界とは、そこに万物が存在しかつ万物の変化し流転しつつあるこの空間的即時間的な世界である。生物は死んだ瞬間からその身体が解体をはじめるであろう。生物がもし生きたものとしてこの世界に存在しようとするならば、この解体に抗してその身体を維持し、その身体を維持するためにはその身体を絶えず建設して行かねばならぬ。そこに生物とはみずから作るものであり、生長するものであるといわれるとともに、それがまた生きているということにもなるのである。たとえ個体的生長のとまった生物にあっても、その身体では古くなった細胞がつねに新しい細胞でおきかえられている。去年の身体昨日の身体はそれゆえ今年の身体今日の身体とは同じでない。これを新陳代謝というが、この作られたものがつねに新しいものを作って行くところに生物がみずからをこの世界に持続して行く途があり、またこの作られたものがつねに新しいものを作って行くというところに、生物が構造的即機能的であるといってもそのとくに生物的な特質を見るように思われる。」
—『生物の世界 (講談社文庫)』今西錦司著
今西錦司の『生物の世界』を読んでるけど、出だしからめちゃおもろい。人間とその他の生きものを、「似ていながらも異なる」という差異のグラデーションで捉えている。西田幾多郎の場所の論理ともつながるんじゃないかな。
「しかしながらこの世界を形づくっているものは何も生物だけではない。無生物だってやはり同じようにこの世界の構成要素である。しからばこの空間的即時間的な世界の構成原理を反映して構造的即機能的でなければならないという要請が、この世界の構成要素の中でとくに生物に限られねばならないという理由がはたして存するであろうか。無生物といえどもけっして不変の存在ではない。無生物といえどもこの世界においては万有流転の除外例とならないであろう。生物は死んだらもはや生物ではなくして無生物とも見られるが、その生物の身体が死ぬと同時に解体をはじめるということはいかに解釈されるべきであろうか。それは確かに生物としての構造の破壊であり、その機能の消滅を意味する。しかしそれによって生物が生物でなくなるということがただちに構造そのものの消失、機能そのものの消失ではない。解体が行なわれるというのはすなわち生物的構造が無生物的構造に変ることであり、生物的機能が無生物的機能に変ることである。生物として存在するときにはそれでよかったが、無生物ということになってしまうと無生物的存在として安定であるような構造なり機能なりが得られるところまで、解体が進み変化が生ずるものと考えられる。そして生物の生長という現象も、この構造自身が絶えず変化し更新して行くゆえに構造的即機能的であるといい得るものならば、解体の場合だってやはりその構造自身が絶えず変化して行くゆえに、それは構造的即機能的現象なのではなかろうか。」
—『生物の世界 (講談社文庫)』今西錦司著
「一般に無生物は動かない、変化しないと考えるのは、われわれのように絶えず動きまた変化するものの立場に立って、無生物を見ているからであり、つまり生物と無生物との相違に立脚したものの見方をしているからである。しかし無生物だって単なる構造的存在であり得ないということは、物理学の最近の進歩が、もっとも有力にこれを物語っているのではあるまいか。第一物質構造の単位である原子の構造などというものがけっして静的なものではないのである。われわれの太陽系だってけっして静止してはいない、太陽自身もぐるぐると自転しているのである。それらの運動を習慣上アクションとはいっても、生物の場合のようにファンクションとはいわないが、大は太陽系から小は原子にいたるまで、いやしくも構造の認められるものというものは、かならず単なる構造だけの存在ではなくて、そこにその構造に即した活動を伴っているということがそもそも何を意味しているだろうか。それはいうまでもなく、この世界が空間的即時間的な世界であるゆえに、単なる構造だけの存在といったような存在のあり方が成立し得ないからであろう。だから空間的即時間的であるということがこの世界の構成原理である以上、その存在が構造的即機能的でなければならないのは何も生物に限られたわけではなくて、構造に即した活動はこれすべて機能であるということにすれば、それはやはり無生物的存在だって要請されるべきであろう。そうすればこの構造機能の相即ということが、もはや単なる生物もしくは生体存立の原理にとどまることなくして、それがすなわちこの世界を形成するあらゆるものの存在原理であり、万物存立の原理であるということになって、この世界は空間的即時間的な世界であるとともにまた構造的即機能的な世界であるとさえいい得るのである。」
—『生物の世界 (講談社文庫)』今西錦司著
「生きるということ自体が目的であり、生きるという方針に従って部分を統制支配して行く有機的統合体が生物であるとしても、大脳も精神作用も認められない植物や下等な動物で、どのようにしてこの統制や支配が行なわれているか、そこに統合性がなくてならないといってみても、その統合性とは具体的にどんな表現としてわれわれに認められるであろうか。生物が一定の形をもつということにわれわれはまず一つの統合性の具現を見る。統制といい支配ということは、一種の空間性を有している。統制の範囲とか支配の範囲とかいうものがあって、それがでたらめなようなところでは実際には統制も支配もあり得ないのである。生物が一定の形をもつということ、生物体が一つのそれ自身として完結した独立体系であるということは、それゆえ生物における統合性の現われであり、あるいは統合性というもののもつ空間性の現われであるといってもいいであろう。細胞もこの意味では細胞膜によって空間的に限定せられた一つの完結体系であり、細胞がそもそもこのような完結体系であるゆえに生物もまた完結体系をもつものであるかもしれない。しかし細胞のことはしばらくおき、生物がこのように一般的には完結した独立体系を現わすところの、いわゆる個体としての存在様式をとっているということは、ここではすこぶる重要な意味を持っているのであって、この独立性ということと、統合性ということとはもはや切りはなしては考えられないもののようにさえ思われるのである。だからわれわれが母体から生れ出て、独立体系としてのわれわれというものをはじめて主張したときをもって、われわれの誕生とすることにも、まんざら意味がないわけでもないであろう。」
—『生物の世界 (講談社文庫)』今西錦司著
「汗が出、われわれの体温は保たれて行くのである。すなわちわれわれが汗を出すということは環境に対するわれわれの働きかけであり、それは同時に汗を出すべき環境をわれわれが認めることではあっても、その場合かならずしもわれわれの意識作用がこれに伴っているというわけではない。認めるということと意識作用とを結びつけてでなければものごとの考えられないような狭いものの考え方をする人には、こんなことをいえば矛盾にしか思えないことではあっても、汗はこのようにして現に出てくるのだから仕方がない。汗が出なかったらわれわれは死んでしまうのである。 植物が葉の気孔から水分を蒸散させるのは、汗の出るのと同じ意味合いのものではないだろうが、外界の状態に応じて気孔を開いたり閉じたりするということはやはり外界の状態を植物が感知している、あるいは認めているからだと私はいいたいのである。そしてそれが大脳の発達とかそれに伴う意識作用とかに結びついていなくてもかまわないということをいいたいために、われわれだって体温の調節は意識作用じゃないということをここに持ち出してきたのである。だからそれはわれわれにおける植物的性質であるともいえるのである。胃の中に食物が入ったら消化液がひとりでに出るということもやはりこのような植物的性質の一つの現われであろう。植物でもムシトリスミレやモウセンゴケは昆虫をとらえれば消化液を出してこれを消化しているのである。」
—『生物の世界 (講談社文庫)』今西錦司著
「というのはたとえばウニのように精子なり卵なりを海水中に放出する動物であっても、卵が精子を誘引するのに適当な距離に、雌雄二匹の動物がいるのでなかったならば、精子を出すことにも卵を出すことにもおよそ意義がなくなってしまうからである。そしてこのことは植物だって有性生殖を営む以上、自花受精をせぬ限りはやはり同じことがいえるはずであろう。」
—『生物の世界 (講談社文庫)』今西錦司著
「このことは前に述べておいたように、この世界を形成しているいろいろなものが、異なるという点から見ればそれらはどこまでも異なったものであるにもかかわらず、また似ているという点から見ればこの世界にどこにも似たもののないような孤立的なものは存在しないといったことに関係してくる。」
—『生物の世界 (講談社文庫)』今西錦司著
「ところで森林はかならずしも喬木のみからできているのではなくて、森林の中に入ってみると、その喬木層の下には灌木層があってみたり、草本層があってみたりする。さらにそれらの下にあって地面に接したところには蘚苔層や地衣層が認められる場合が多い。またここに別の森林があるとすれば、その森林にもまた喬木層は存在し、灌木層、草本層、あるいは蘚苔地衣層も存在していていいであろう。そしてこの場合に喬木層同士は同じような生活形をもち、同じような生活空間を占める個体の集まりとして、同じような社会的地位を占めるものであると考えられるのである。灌木層や草本層や蘚苔地衣層に対しても同じことがいえなければならない。だからこの世界において喬木層はそれ自身が一つの同位社会を形成し、灌木層はまた灌木層として、その上に喬木層があってもなくっても、やはりそれ自身が一つの同位社会を形成する。喬木層とか灌木層とかいえば成層的なお互いに対立した地位を占めるもののようにも考えられるが、森林の中に灌木層が認められるときには、それは実は喬木のつくる社会空間の一部に灌木のつくる社会空間が見出されているのであり、換言すれば灌木社会は喬木社会の中に内包されている。その意味において喬木社会は灌木社会よりも優位を占めるものといい得るのである。われわれは植物の集団生活を景観的に見るからして、森林とか草原とかいってしまうけれども、森林とは生態学的にいえば喬木社会が最優位を占めるような一つの植物社会集団であり、草原とは草本社会が最優位を占めるような一つの植物社会集団である。ところで喬木とか草本とかいうのは植物における一種の生活形を意味する。だから植物において喬木社会とか草本社会とかいうものが植物の同位社会を現わすものとするならば、かかる同位社会とはそれがただちにまた生活形社会であり、一つの生活形共同体なのであるということになるであろう。植物のような生活をしているものでも、その生活形を分類するとなると、やはり十数個かの生活形に別れる。その中にはもちろん分布の広い重要なものと、そうでないものとの区別はあるだろうが、植物における同位社会の数は一応この生活形の数によって判断することが許されるであろうと思う。」
—『生物の世界 (講談社文庫)』今西錦司著
「ところで類縁が遠く生活形のそれほどよく似ていないもの同士だと、お互いに割合に近接して棲んでいるため、一見したところでは、それらがお互いに混在し、棲み分けをしていないかのような観を呈する場合も多いのであるが、しかしその生活形の相違はたとえばその餌の相違であるとか、あるいはその餌のとり方、すなわちその活動のし方の相違であるとか、その他のいろいろな点を通して反映しているので、お互いにその生活内容したがってその棲んでいる世界はやはり違うのである。棲んでいる世界が違うからその社会はわれわれからみては重複していても実際は分離しているのである。それではお互いに全然交渉のない世界かといえば、恐らくそうではなくて、お互いに同じ場所に棲んでいるものの間にはやはりいろいろな点で折衝がある。その世界はお互いに干渉し、お互いはその世界の一部を共有しているものと考えられる。それにもかかわらずお互いに混在し得ているというのは、やはりそこに一種の場の制約ともいうべきものがあって、それによってお互いの間に平衡が保たれている。」
—『生物の世界 (講談社文庫)』今西錦司著
「やはり昆虫は昆虫同士、哺乳類は哺乳類同士といったような、類縁で結ばれたものであり、類縁で結ばれているということがすなわち生活形の似ているということにほかならないのであるから、同位社会というのはどこまでも生活形に基礎をおいた生活形共同体を考えねばならないのである。 だから渓流の底の一つの石に棲んでいる昆虫どもは、それぞれの種類が一つの同位社会の構成単位となるような社会に属し、したがってその意味でそれらの社会はそれぞれ別個な同位社会に属するといえるのであるけれども、一方では彼らはお互いに同一場所を棲み分けた、一つの生活形共同体をつくっているということができるのであり、そして少なくとも他の異なった生活形共同体、たとえば同じ渓流にすむ魚どもに対するよりも、彼ら同士の方がより同位社会的な存在であるというように考えられるのである。」
—『生物の世界 (講談社文庫)』今西錦司著
「だから鯨と魚とは見かけ上の相似にもかかわらず同位社会的な存在ではない、鯨のすむ世界は魚よりもかえって陸上の哺乳類のそれに近いであろう。」
—『生物の世界 (講談社文庫)』今西錦司著
「生物は怠け者で食って寝ているうちに、求めもせぬのに知らぬ間に美しくなったのであろうか。私はもちろん生物が美の何たるかをわれわれ同様に解しているとは考えはしない。しかし生物もしくは生物の生活というものの中には、ただ単に生きんがためということをもってしてはどうしても解釈できない一面があるということを、ここで率直に認めておきたいと思う。その一面とは生物が意図するとしないとを別として生物が次第に美しくなって行った、よく引き合いに出される例でいえば、中生代の海にすんだアンモン貝の貝殻に刻まれた彫刻が、時代を経て種が生長するに従い次第に緻密に繊細になって行ったというが、そこにいわば生物の世界における芸術といったようなものが考えられはしないであろうか。もちろんわれわれ人間の場合と同じではないが、そこにいわば生物の世界における文化といったものがあるのではなかろうか。」
—『生物の世界 (講談社文庫)』今西錦司著
「偶然というような言葉を使うために誤解を生ずる虞れがあるならば強いて使う必要もないが、たとえば何故科学がヨーロッパにおいて発展したにもかかわらず、アジアでは発展しなかったかという疑問に対して、多くの人はそれを風土の相違に帰因せしめようとするらしいが、ヨーロッパ的風土はアメリカにも南半球にも、その類似を求めればかならずしもないわけではない。それにヨーロッパに限って科学が発展したということは、やはり素質の分離に伴った偶然に由来していると考えられないであろうか。むしろこのような偶然が多くの個体間に共有され、種がこのような文化的変異に対してさえその集中化を通して、みずからの主体性を発揮して行くところに、なにか偶然にして偶然ならざるものが感ぜられる。種というものはいわば目的なき目的といったようなものによって方向づけられているようにも思われる。それは創造性を与えられたものの持つ運命のようにさえ思われる。文化という言葉はこの運命の上に咲いた花をいい現わしたものとして、あえて生物の身の上にも借用しているゆえんである。」
—『生物の世界 (講談社文庫)』今西錦司著
「それにしてもその発展によって示された自己完結性こそは、ここにいわゆる運命の正体であり、それがまた実はあらゆる進化の推進力なのではなかったか。自己完結性といえば個体の再生現象のごときもそうであろうし、また植物社会に認められる天然更新のごときものもその一つの現われといえよう。だが進化における自己完結性はつねに創造の自己完結性であった。それぞれの生物がそれぞれに、花も蝶も美しくなっていったということには、個体の進化における自己完結性が考えられないであろうか。それが個体の好き放題に任かせないで、つねに主体的に集中的に進められて行くというところに、種の自己完結性が考えられないであろうか。」
—『生物の世界 (講談社文庫)』今西錦司著
「だが、もしもオーストラリアがもう一度大陸と陸続きになったらどうなるであろうか。恐らく他の世界のより進んだ哺乳類がオーストラリアに侵入して来て、オーストラリアの有袋類の多くは避難所を得られずに滅亡するであろう。陸続きにならずともヨーロッパ人が彼らの侵入とともにいろいろな動物を輸入したため、もうこのような結果がぼつぼつと現われてきている。そしてこのような場合こそはダーウィン流の自然淘汰なり、あるいは適者生存なりが認められるほとんど唯一の場合であるだろうことを、私はこの最後の一節に書き記しておきたいのであるが、ただその結果として何か私の論旨に撞着が生ずるもののように思われる懸念がないでもない。けれどもこのオーストラリアにおける生物共同体の社会組織の再編成は、どこまでも世界に立脚した組織の再編成である。今まで別の世界をつくっていたオーストラリアが、一つの世界に包含されるために必要な平衡上の新体制が要求されているのである。適者生存の半面に不適者が滅亡して行くことは悲しいのであるけれども、これは世界の立場にたって考えなければならない。滅び行く者もまた世界に触れているのである。広義に解すればそれはやはり、世界の立場における一種の新陳代謝でもあるだろう。ただ私として最後にこんなことを持ち出してきたのに対しては、私が自然淘汰を認めんとするこの明らかな例においてさえ、自然淘汰はかならずしも種の起原という問題とは直接に結びついていないことを注意すればよかったのである。」
—『生物の世界 (講談社文庫)』今西錦司著